
異形の 監督 ジェス・フランコ
木野雅之 編著
2005年5月21日 洋泉社刊 定価3800円
■ジェス・フランコ・マニアのための、ジェス・フランコ・マニアによる、ジェス・フランコ研究読本である。
そもそもジェス・フランコってだれよ?
「名前は 知ってるけど作品は見たことない」
「見たことあるけど内容はおぼえてない」
ジェス・フランコ、ならびに彼の作品に対する映画ファン一般の認識って、せいぜいこんなもんじゃなかろうか。だとしても私は驚かない。なぜならば私自身、そうだから。
見終わっておぼえているのは、リナ・ロメイさんが他の女優さんのケツぺたをえろえろ舐めてるシーンぐらいのものだ。あれ? 他の女優さんがロメイさんのケツぺたをえろえろ舐めるんだったかな? まあいいや、そんなこと。
── 程度の認識である。そして実際、どっちでもかまわない。だってストーリーには何の関係もないから。
んで肝心のストーリーはというと、これが存在しないも同然。おまけに どれ見ても同じ俳優が(しかも同じ役名で)出てくるから、ますます個々の作品の印象が希薄になってくる。なんだか終わりのない夢を見ているような気分だ。緊迫感のかけらもない。
こんな作品のどこがおもしろいのか。
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■だがジェス・フランコ・マニアにとっては、この独特のユルユル感が「たまらん!」らしいのである。
残念ながら私はまだ、その境地に達していない(てか努力して達することができるものでもない)ので、「らしい」としかいえないのだが、とにかく「感じることができる人」には、この感覚
── 何も考えず、ただ ユルユル感に身をゆだねる ── が心地よく感じられる「らしい」のだ。
夏の夕暮れ、ふと昼寝から目覚めたあとの倦怠感。あれが延々とつづくようなものだろうか。あるいは蘭郁二郎「蝕眠譜」に描かれた恒久的寝不足状態みたいなものか。
だが「感じない人」には、それは「退屈な体験」以外の何ものでもないわけで、こうなるとジェス・フランコを好きになれるかどうかは、脳内に「ジェス・フランコ受容体」があるかどうかの差
── ということになってしまう。
典型的 な「見る人を選ぶ映画」なんだろうな。「努力して達することができるものではない」というのはそういう意味で、それにムリして好きになる必要もない。
人はジェス・フランコ作品に対して自然体で臨むしかない。
考えるな。
感じるんだ。
・・・で、何を?
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■さて本書は、作品レビューやミニコラム、レギュラー出演者のプロフィール等を交えながら、
「ユーロ・トラッシュ映画界、最大の巨人」(帯の惹句による。実際の身長はかなり低そうである) ジェス・フランコの経歴をクロノロジカルかつ多角的に追った、日本初のジェス・フランコ研究読本である。
まず最初に本書が日本語で書かれていることに対 して、著者たちに深く感謝したい。何しろ今までジェス・フランコについて少し突っ込んだことを知ろうと思ったら、外国語辞典(それもドイツ語、フランス語、スペイン語など複数の言語の)と首っ引きで欧文資料にあたるしかなかったのだ。
それが日本語で読める幸せ。やっぱり母国語っていいな。声に出して読みたい日本語。でもできない。だって「性欲みなぎる女囚達」とか書いてあるから。
すごいのは作品レビュー。何がすごいって本数がすごい。104本ですよ104本。104本も見たってことですよ。1本あたり80分として8320分。人生の貴重な138時間40分をジェス・フランコ作品のために費やしたとい
う事実が、私をして感動せしめるのだ。
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■ジェス・フランコって幸せな人だな、とつくづく思う。こんな立派な本を出してもらって。彼の作品が「裸さえ見せときゃいいだろ」的な投げやりな態度で生み出されたものならば、ここまで人を惹きつける力はないのではないか。
なぜジェス・フランコは人を惹きつけるのか。
それはたぶん、ジェス・フランコが人に幸せな気分をあたえてくれるからなのだろう。
何も考えず、ただユルユル感に身をゆだねる心地よさ。
そして本書は、その「おかえし」なのだ。
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