吉田司雄2003


2003年9月11日(木)

 いま松本のホテルの一室でこれを書いている。

 松本へは本務校の公務である高校訪問のために来た。ひらたく言えば、進路指導の先生を訪ね営業マンである。昨年在外研究に出るまで入試委員をしていたので、自分のフィールドだと思って、毎年長野県の高校を何校もまわっていた。今年はそこまでの義務や責任はなかったのだが、一番多い回数訪問を重ねてきた松本の高校だけでもと、後期の始まる前にやってきたのだ。

 松本県ケ丘高、松商学園高をまわり、明日は松本美須々ケ丘高、松本工業高、松本蟻ケ崎高を訪問する。今日は思ったより早く時間が空いたので、松本市立美術館の「有元利夫は音楽の変種です」展を見ることができた。小一時間、静謐なる一時をすごす。

 大学の校務としての出張には、他に出張講座というのを頼まれることがある。工学院大学はフレンドシップ制度というのをやっていて、もし高校から声がかかれば、本学の教員を模擬授業や講演のために派遣するのだ。費用はすべて大学持ち、つまり高校から見れば無料! 原則的には全国どこへでも派遣することになっている。

 理系の専門分野の依頼が多いが、自分も「大学で学ぶことの意味」といったテーマで高校2年生対象の講演を頼まれたりしたことがある。今年は今のところ、何の話も来ていない。一つには、高校側は前年度の実績を列挙した資料を参考にしているからだろう。もし『ディスクールの帝国』や『妊娠するロボット』を読んだという国語の先生から相談があったならば、日程の調整さえつけばそれこそどこにだって飛んでゆくつもりなのだが。

2003年9月5日(金)

 無事日本到着。朝9時40分着の予定が10時過ぎまでずれ込みはしたが。機内から一歩足を踏み出した瞬間、日本のむっとするような暑さにたじろぐ。ベルリンでは夜外出する時、ジャケットの下にセーターまで着込んでいたのに…。

 空港宅急便でスーツケースだけ自宅に運んでもらう前に、暑さに弱いチョコレートだけ中から取り出そうと思う。ところが、スーツケースの鍵が壊れていて開けられない。出発ロビーにある荷物預かり所が鍵のことも扱っていると教えてもらい、そこまで荷物を運んで何とか開けてもらう。ホテルを出る時までは鍵の調子は万全だったのに、不可解な出来事だ。よく見ると鍵穴のまわりにはかすかに傷跡がある。一体誰がどこで開けようとしたのか。後日、こんな風にスーツケースが壊れて届くこともない訳ではないという話を聞いた。しかし、にわかには信じがたいことでもあるし、何より中のものがなくなっていた訳ではないのだから、ここでは「謎」だけを提示しておくことにしよう。

2003年9月4日(木)

 朝食もそこそこにホテルを7時過ぎにチェックアウト。ベルリン・ツォー駅からS9番線に乗って、スコネフィールド空港へと向かう。ベルリンには3つの空港があるが、スコネフィールド空港は日本人観光客が利用することはまずないだろうからと、ガイドブックではほとんど触れられていない。しかし、アエロフロート機の発着はこの空港。免税店でドイツワインを買い込んだ後、9時45分発のモスクワ行きに乗り込む。実はベルリンからクロネコヤマトの国際宅配便でワインを日本に送るつもりでいたのだが、現在はまだ日本の宅配業者の支店はベルリンにはなく、フランクフルト支店からでないと送れなかったからだ。パリのように、ベルリンからワイン宅配便を日本に出せる日もそう遠くないとは思うのだが、どうだろうか。

 14時15分モスクワ・シェレメチボ空港着。時差が2時間あるので、2時間半のフライト。成田行きは19時10分発。5時間近く、空港内ですごさなければならない。また、搭乗手続きは2時間前からなので、その時間が来たら改めてトランジット・オフィスに行かなければならない。17時をまわったところで、トランジット・オフィスに出向いたら、中国からの旅客者の人だかりができていて結構大変だった。

 ようやく日本へ行く航空機に乗り込む。後は静かに寝るだけ。と思っても、機中ではなかなか寝られない質なので、黙々と文庫本を読み耽る。

2003年9月3日(水)

 ベルリンで楽しめるのも今日一日。島村さんは明日の夜はベルリン国立歌劇場で椿姫を観劇し、さらにライプツィヒにも行く予定だと言うのだが、こちらは明朝発の飛行機で日本へと戻らなければならない。9時半過ぎにホテルを出て、まず森鴎外記念館へ。開館時間が14時までで、昨年6月には建物までは来たものの入りそびれてしまった場所だ。ベルリン留学時の最初の下宿先だった部屋が保存再現され、フンボルト大学の資料や書籍などが収蔵されている。特別展示室には最近の新聞記事が貼ってあり、日本の漫画の台詞にも鴎外の生んだ表現が生かされているという内容の記事を島村さんに要約してもらった。

 記念館はマリエン通りとルイーゼン通りの角の建物の、日本でいう2階にあるが、建物自体は現在改装工事中。そこからルイーゼン通りを歩いてシュプレー川を渡り、ウンター・デン・リンデンの大通りへと出る。昨年来た時には化粧直しの最中でカバーを掛けられていたブランデンブルク門も、今は堂々たる姿を現している。代わりに門のすぐ手前に、2006年のワールドカップ開催をアピールする大きなサッカーボールが建造中だった。昨年は壁の石のかけらをお土産に買った門の下のインフォメーションに入ってみる。壁の石のかけらは理屈上いつかは品切になるはずなのだが、もしかして永遠に土産物として販売されてゆくのだろうか(だとしたら、一体どこの石のかけらなんだろう?)。他の土産物屋を覗いて、壁があった時代の写真の絵葉書を購入したりしながら(今書いている文章の貴重な資料である)、ウンター・デン・リンデンの大通りを散策。クランツラー・エックと呼ばれるフリードリヒ通りとの交差点には戦前は三方に有名なカフェがあったが、今はもう一軒もない。少し先のカフェ・アインシュタインでビールを飲みながら昼食を取ることにした。

 昼食後は博物館の島のペルガモン博物館へ。ここのすごいのはペルガモンから発掘されたゼウスの大祭壇やバビロニアのイシュタール門などがそのままどかんと置かれていること。その他、古代遺跡からの出土品が多数展示されているが、正直どこからどう見ていいのかよく分からない。入口で日本語音声もあるオーディオガイド(代金は入場料に込み)を貸してくれるが、解説も沢山ありすぎてどれを聞いたらいいかよく分からない。近代美術ならなんとかなっても、古代遺跡となると少し予習でもしてこないことにはお手上げに近い状況だ。

 4時前に博物館を出る。ユダヤ人街を抜けるようにしてUバーンの駅へ。そこからポツダム広場に出る。もう一箇所だけ今回見ておきたい博物館があるからだ。島村さんはベルリンフィルハーモニーの建物に行ってくるからというので6時にまたソニーセンターの中庭広場で会うこととし、映画博物館へ。マレーネ・ディートリッヒの遺品が収蔵されていることで知られているが、さすがにソニー・センター内の博物館だけあって、展示は映像自体を前景化している。2階にわたる展示だが、上の階の最後から下の階の降りたところまでが『メトロポリス』コーナー。写真撮影禁止なので、残念ながら會津さんに様子をお見せできない。また、ウーファを中心にした戦前のドイツ映画に関してはなかなか詳しく充実しているが、こと戦後はほんの僅かの展示しかされてないのも特徴的に思えた。

 ついついグッズを買い込んだりしていたために、若干遅れて島村さんとの待ち合わせ場所へ。ソニーセンター中庭広場のリンデンブロイというビアホールに入る。自家醸造のまさに生ビールのドゥンケルス(黒生)を飲みながら、ヴァイスヴルスト(白ソーセージ)をつまむ。もう少しお腹に入れようというので、すぐ近くの回転寿司Q(キュウ)へ。日本に比べて値段はかなり高い。安くておいしいものが続いたから余計そうなのだろうけど、急に貧乏性が出ちゃうなど言いながら、島村さんは青いお皿ばかりを積み重ねる。自分は緑色のスパイシー・トビコの辛さを結構喜んでいた。日本に帰った日の晩は久しぶりにおいしい刺身を食べたいからと、実は家族に相応のお金を預けてきたのだが、それでもつい異国のお寿司をつまみたくなってしまうのは、なぜなんだろう。

2003年9月2日(火)

 朝起きると快晴。昨日は急に雨が降ってきたりして天候不順だったのだが、今日は一日大丈夫そうだ。このチャンスを逃してはと、島村さんとポツダムへ出掛けることにする。ポツダム会談のとりおこなわれたポツダムは、美しい宮殿が幾つもある古都で、できれば天気のいい日にと思っていたからだ。

 ベルリンの交通機関はまだ整理途中で路線もわかりにくいが、ツォー駅からSバーン(近郊列車)でフリードリヒシュトラーセ駅まで行き、Sバーンの1号線に乗換。終点がポツダム中央駅で1時間とかからない。最初は宮殿を歩いてまわるつもりだったのだが、立看板の地図を見るととても広い。幸い駅前から2時間ほどでぐるっと一周する観光バスが出ていたので、それに乗ることにする。新宮殿、次にサンスーシー宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿。この3つはバスから降りて、外からだけではあるけれどガイド付きで間近に見学できる。ただしガイドはドイツ語オンリー。とても一人では乗る気にならなかっただろうけど、今回は島村さんが要所をかいつまんで教えてくれる。フリードリヒ大王が暮らしたロココ様式のサンスーシー宮殿や大王と愛犬11匹が眠る墓や宮殿から見下ろす庭園の眺めも、現在はポツダム大学の校舎として使われていて裏手から見るとキャンパスに一変する新宮殿も忘れがたいが、なんと言っても印象深かったのはヴィルヘルム皇太子の居城だったツェツィーリエンホーフ宮殿だった。

 1945年7月17日から8月2日にかけて、アメリカ・イギリス・ソ連の連合国首脳がこの宮殿に集まり、ドイツの戦後処理と日本への降伏勧告が話し合われた。宮殿は町の北方、ユングフェルン湖のほとりにある。バスは長く「禁じられた道」と呼ばれていた道を通って宮殿へと向かう。のどかな別荘地を思わせる風景が続くが、夏だというのに人気を感じない。これらはいずれもソ連の軍人たちが住んでいた建物なのだそうだ、と島村さんがガイドの解説を耳打ちしてくれた。東ドイツ時代は、ちょうど池子の米軍住宅みたいな場所だったのだろうか。宮殿はイギリス風の豪華な東屋といった風で、大仰しさは感じられない。小さく美しい中庭が門を入ると広がっている。ちょうど出発前にジョゼフ・キャノン『さらば、ベルリン』(早川書房)を上巻だけ読んできたところだったので、余計感慨深い。湖の前の芝生に置かれたテラスでチャーチル、トルーマン、スターリンが記念写真を撮ろうとした時に、湖から連合国マルク紙幣を大量に抱えたアメリカ軍兵士の死体が流れ着くところから事件が始まる物語である。ああここで、とまるでおとぎの国のような美しい風景を前に溜息が出る。

 日本に即時降伏を求めたポツダム宣言は、1945年7月26日に発せられた。日本は最初これを黙殺しようとし、受諾がなされないがために広島と長崎への原爆投下が行われた。ポツダム会談の行われていた期間には、今日のようなさわやかな夏の日も多かっただろう。ここだけは多くの日本人にも訪れてみてほしいと思う。例えば広島の原爆ドームと見比べてみてほしいと思う。こんなにのどかで美しい自然に包まれた場所で、日本の運命が話し合われ決せられたのだと思うと、胸がつまってくるものもある。

 バスは2時間という話だったが、ツェツィーリエンホーフ宮殿見学を終わった頃にはすでに30分以上も時間超過していた。それだけガイドが丁寧に案内してくれたということなのだろう。宮殿を後にバスは再び町中へ戻るが、連合国軍の空襲をほとんど受けなかったポツダムには古い建物が多く残っている。古くからオランダ人を受け入れてきたところで、まるでハウステンボスのようにオランダ風の建物が並ぶ一画もある。ちょうど町の中心部でバスを下車。島村さんは一番繁華なブランデンブルク通りやオランダ街を歩いてみるとおっしゃっていたが、別に行きたい場所があり、ここでいったんお別れする。急ぎ足で駅の方へ。一番駅に近い町はずれの古い建物が現在ポツダム映画博物館となっているのだ。建物の日本でいう2階が展示フロア。マレーネ・ディートリッヒら4人の大女優の化粧室が再現されたところを抜けると、ドイツ映画の歴史に沿ってスチール写真や資料がところ狭しと展示されている。ゆっくり見てゆくと幾ら時間があっても足りない感じなので、ともかくざあっと一周。展示スペースは建物の外観から想像していたよりも狭かった。

 時計をみながら足早に館内を出て、今度は駅前でタクシーをつかまえる。フィルムパーク・バーベルスベルクへ。ここも今回ぜひ行きたかった場所。怪美堂主人・會津信吾さんの大好きな『メトロポリス』も作られたウーファ撮影所の跡地に作られたのが、この映画テーマパークだからである。閉館30分前の5時半までしか入れてくれないというので急いだのだが、なんとか4時過ぎに到着。入ってすぐのレストランで食事を取った後、ぐるりと場内を一周。何のアトラクションにも乗らず、ショーひとつ見なかったけれども、人がまばらなのは気になった。やはりディズニーランドには及ぶすべもないだろうけれど、全体に地味でお金もかかってない気がしてしまう。『カリガリ博士』の国らしく、怪奇屋敷の建ち並ぶ区域があって、エドガー・アラン・ポーの墓からはいきなり地中から手が出てきたりとか、細かい工夫はいろいろあるのだけれど。休日には行列ができるほどの人気だと聞いてはいたのだが、経営は大丈夫なのだろうか…。

 閉園6時までいて、バスとSバーンとUバーンとを乗り継ぎ、7時にホテルに戻る。1時間後、島村さんに連れられて今度は旧東ドイツ地区のジャズバーへと出掛けることにする。ローゼンザアルター通りのbフラットという店で、建物は古いけれども、店内はモダンで雰囲気がいい。ゼクトのボトルを注文。9時開演の予定だったが、30分ほど遅れてサックス、ピアノ、ベース、ドラムの4人の演奏が始まる。その頃にはほぼ満席状態となる。旧東欧圏とモダンジャズというのは少しも不思議な取り合わせではない。飛行機の中で読んできたレイ・デントン『ベルリンの葬送』(早川文庫)にもブイコフスキー少佐の息子が「革ジャンバーに、先端のとがった靴をはき、自分の部屋にすわって、アメリカの古いジャズ・レコードを原語そのままで唄っている青年」だとごく短く書き込まれ、さらに「ここにも一人、ブイコフスキーの倅みたいなジャズ・ファンが出現した」とKGB所属のシュトーク大佐を嘆息させるチェコ士官が登場する。共産主義社会だった時代、ジャズは一面では西洋の自由の象徴だったのだろうか。抵抗の音楽だったのだろうか。パワフルでかつ洗練された演奏を聴きながら、そんなことを思ってみたりした。

 終演は11時をまわる。バーでは食事はとれなかった。お腹が空いたが、開いているレストランもそうはない。トルコ料理のスタンドでケバブのサンドイッチをテイクアウトし、つまみながらホテルへと帰った。

2003年9月1日(月)

 ワルシャワ中央駅午前7時30分発の国際列車でベルリンへ出発。車内は指定席でもかなりの混みよう。しかも大きなバックを幾つも抱えた人たちもいる。金曜日に島村さんがモニカさんに付き添ってもらい、駅で2等車の指定席乗車券を購入してきてくれたおかげで、なんとか座って行ける。ほぼ中間にあるポズナンでかなりの人が下車。と思ったら、さらに多くの人が乗り込んできて荷物も棚に置ききれない状態となった。車内でパスポートチェック。ドイツへの入国印を押される。

 終点のベルリン・ツォー(動物園)駅で下車。午後1時9分着の予定が多少遅れた。駅から歩いて5分ほどのホテル・レムターにチェックイン。ここには昨年6月にベルリンに来た時にも泊まった。実は島村さんからベルリンのホテルを知らないかと尋ねられ、日本の感覚だと少し高いが便のいいところだからここでどうかと返事をした。どうやら気に入られたようなので、ほっとする。ハイシーズンの今はシングル1泊朝食付85ユーロ。ただ今回当たった部屋にはバスタブがついていた。ホテル・ヘラでは共同シャワーだったので、久しぶりに足をのばしてお湯につかれるのが嬉しい。

 ホテルを出てすぐの広場にあるのが、戦争の傷跡が今も生々しいカイザー・ヴィルヘルム記念教会。その向かいにあるのが、オイローパー・センター。ともかく何かお腹に入れようということで、センターの日本でいう2階のドイツ料理店へ。ドイツの名物料理と言っていいアイスバイン(骨付きの豚の足をじっくりと煮込んだもの)を頼んだら、予想以上に大きいのがドカンと出てきた。もちろんピルスナーの生ビールも頼む。英語メニューのない店だったが、英語だけでなくドイツ語も堪能な島村さんがテキパキと注文して下さった。

 食事の後は、ベルリン市内周遊の2階立ての観光バスに乗る。予定以上に食事に時間をかけてしまったため、乗ったのは16時発の最終バス。途中の停留所で乗り降り自由なのだが、これだとぐるっと一周するほかない。さすがに2時間乗り詰めで日本語の音声ガイドを聞いているだけだと少し辛いが、このベルリン市内周遊バスは他の都市以上に乗りごたえ十分だと思う。昨年6月にも乗っているのだが、今回は多少予習してきたこともあって、その時よりも地理感がついた感じだ。昨年は建築中だったビルがもう完成していることに気づかされたりする。

 クーダム(パリのシャンゼリゼを模したというベルリン最大のショッピングストリート)の最終停車地で下車。近くのトリッフェントラウムという高級チョコレート店で、家族や勤務先へのお土産を購入。パリから買って帰ったチョコレートがえらく評判がよかったので、今回も引くに引けなくなってしまったのだ。夕暮れが近づき、ひどく冷え込んできたので、いったんホテルに戻って着替えた後、また出掛けることにする。

 すっかり暗くなったベルリンの街を今度はジャケットの下にセーターまで着込んで歩く。9月初旬なのに、夜はもう初冬のような感じだ。今度はUバーン(地下鉄)に乗って、まずユダヤ博物館へ。さきほどバスの車中から見たダニエル・リベスキント設計のユニークな建物に入ってみる。細い通路を抜け、さらに階段を昇ってまず最上階へ。そこから迷路のような展示通路を順番に辿ってゆく。第2次大戦までが主ではあるが、ユダヤ民族の辿った歴史がわかりやすく展示されている。自分の名前をアルファベット入力するとヘブライ文字に変換してくれるコーナーがあったり、トルコのEC加盟に賛成か反対かといった世論を二分するアンケートにその場で参加できたりする。総じてユダヤ民族の悲惨な歴史だけを訴えようとする姿勢ではない。ただ、今も続くパレスチナ問題を思うと、本当にこれだけでいいのかという思いは禁じ得ない。

 そこからしばらく歩いて、次は壁博物館へ。かつてチェックポイント・チャーリーという検問所があったところだ。ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』は、この検問所を自転車に乗って通過し西側へと逃げようとした男が射殺される場面から始まっている。主人公のイギリス諜報部員リーマスは、彼がスパイとして送り込んだ男の死をこの検問所からなすすべもなく見つめなければならない。いまは簡単にかつての西ベルリン側から東ベルリン側へと歩いて渡れるというのに、そうした出来事が実際に幾度もあったかと思うと何とも言い難い気持ちに駆られてくる。壁博物館にはあまりに沢山の写真や資料が置かれていて、どこから見たらいいのか分からないほどに、無事西側へと脱出した人々と無念にも失敗した人々との記録が溢れるほどに集積されていた。

 壁博物館の少し先の通りには、壁がいまも保存されている。先程バスで通ったその通りを今度は歩いて抜けた後、再びUバーンに乗る。だいぶ遅い時間になったので、夕食はホテル・レムターのすぐ横の中華料理店・明園大酒楼にした。英語・ドイツ語だけでなく中国語まで堪能な島村さんが、今度は近年の度重なる訪中で鍛えた見事な発音で注文をして下さる。特製スープヌードルを頼み、久しぶりに好きな麺類を口にする。ゼクトを1本頼み、二人でぐいぐいと飲んでしまう。ゼクトとはドイツの発泡白ワイン。フランスのシャンペンよりも一般にすっきりした感じで、何より安い。中華料理とも思いのほかよく合う。贅沢なベルリン第1日めの夜であった。

2003年8月31日(日)

 ワルシャワの休日。昨日は少し天候が不安定だったが、今日はいい天気に恵まれた。のんびりとホテルを出て、いつもはバスで市の中心部へ向かうところを、ワジェンスキ公園の中を歩いてゆくことにする。ヨーロッパで最も美しい公園の一つだと言われているところだ。ワルシャワは二度目ですっかり場慣れた感じの小森さんの後を、島村さんと二人して追いかける。2キロ近くも公園森の小径は続く。しかもここだけが公園と言う訳ではない。ワルシャワは本当に公園の緑に恵まれた街だと思う。

 ようやく公園の北端にあるショパン博物館へ。28日には入れなかった博物館内部の展示を見学。ショパンが最後に使ったプレイエル製のピアノなどが遺っている。ピアノも弾く近代文学界きってのミュージシャンである島村さんは、特によく見ている。そういえば27日に行ったワルシャワ歴史博物館にも古いピアノが三台も展示されていて、島村さんはそのつど興味深げに見ておられた。続いてショパンの心臓が安置されている聖十字架教会へ。日曜のミサの最中だったのですぐに退出し、クラクフ郊外通りの路上に作られたカフェでのどを潤す。通りを北上、王宮広場を抜け、旧王宮へ。日曜だけの無料のダイジェストルートに沿って、内部を見学。その後は、お昼を一緒にという約束の安倍さんたちとの待ち合わせ場所である旧市街市場広場の人魚像へと向かう。

 昼食はこちらのわがままを聞いてもらって、ウ・ホプフェラというピエロギ(ポーランド餃子)の専門店に行くこととなった。かたちは日本の餃子と同じだが、具は肉や野菜だけでなく、チーズやチョコレートまであるというこのピエロギを食べてみたくてしょうがなかったのだ。遠因は昨年シベリア鉄道の停車駅で食べたロシアの餃子が忘れられなかったことにある。もちろん専門店のここはずっと味も洗練されているし、量的にも結構食べ応えある。一皿10個入りで、何種類か盛り合わせメニューがある。なかにはロシアン・ルーレット風に何が出てくるか分からないというものも。トラディショナルという盛り合わせを注文。マッシュルームやベジタブルの盛り合わせを注文した方もいて、そちらもとても魅力的で、10個で十分お腹いっぱいになってしまったのが少し悔しい。

 食後はゆっくり旧市街を歩きながら、さらに北にあるツィタデラ大監獄要塞へ。かつて帝政ロシアの支配下に置かれていた頃、1830年の11月蜂起に驚いたニコライ2世がワルシャワににらみをきかせるべく作ったという要塞である。その後長く政治犯を収監する監獄としても使われ、84の収監室があった10号棟という建物は現在博物館として公開されているのだが、さすがにここまで来る観光客は少なそうだ。しかし、監獄こそはプロレタリア文学研究者である島村さんの最近の一大テーマである。展示されている裁判や政党関係の資料はロシア語のものが多く、大事なものは小森さんが解説してくれる。収監室の幾つかも当時を再現するようにして残されている。死の門と呼ばれた正門のすぐ外は処刑された人たちの墓所で、十字架がずらっと並んでいる。ポーランドの過酷な歴史を思い起こさせる濃密な一時をすごす。

 バスで再び市の中心部へ。夜の航空機でオスロへ戻るという安倍さんたちとは途中で別れ、無名戦士の墓のあるサスキ公園へ。再びつくづくワルシャワは公園を優遇する街だと実感する。街の中に公園があるのではなく、まるで公園の中に街が造られたかのような。マルシャウコフスキ通りを越えてしばらくすると、古い駅が見えた。これがハラ・ミロフスカバザールで、中を覗いてみるとスーパーマーケットに改造されていた。横の広場でバザールが開かれるようだ。再びマルシャウコフスキ通りに戻って少し北上。旧銀行や旧ホテルの建物がドンと残っている。観光ガイドには何の説明もなかったが、このあたりが経済的な中心地区だったらしい。

 夕食には少し早めの時間だったが、通り沿いのデル・エレファントというテラス席のあるレストランに入る。エレファントと言っても別にゾウ料理を食べられる訳ではない。ゾウの頭部が壁からにょっこり出ていたりする、南国風の内装が楽しいと『地球の歩き方』に紹介されていた店である。フィレミニョン、ポークチョップ、チキン、ホワイトソーセージ、ハンバーグの盛り合わせ「戦士たちの祝宴」というのが名物だと載っていたが、ここまでの経験でたぶん一人では多すぎるから、これを一皿取って三人でシェアしようと提案。ほかにオードブルのニシンの酢漬けやエレファント・サラダなどを注文。日本でいう大皿料理みたいな感覚で楽しむ。パリのカフェみたいな雰囲気のお店で、かしこまって前菜→メイン→デザートとすすむ必要がない感じだったからだ。最初に出てきたニシンからとてもおいしかった。もちろんワインもずいぶんと飲んだが、会計も思ったより安かった。『地球の歩き方』は当てにならないなどという声もしばしば聞くが、ことワルシャワのレストラン情報に関しては正解だった。小森さんも島村さんもたいそう満足げで、チップまで奮発してきたのだから、これは独りよがりな情報ではないと思う。

 タクシーをつかまえ、早めにホテル・ヘラへ帰る。明日早朝にワルシャワを離れ、島村さんとベルリンへ向かうことになっているからだ。

2003年8月30日(土)

 大会最終日。いつものようにバスで会場へ。9時からまずオスロ大学の Anne Thelle Backer さんの中上健次『奇蹟』に関する発表を聴く。表題は「Memory, Telling and Retelling」。アンさんは同僚の安倍さんらと数年先にオスロで、「Memory and Identity」というテーマの国際シンポジウムをやろうと計画している。その趣旨文もみせていただいたのだが、今回の発表もそのモチーフと深く共振するもので興味深かった。で、さらに中上健次に関する発表、吉本ばなな「キッチン」に関する発表が後に組まれていたのだが、後ろ髪を引かれつつも、アンさんの発表が終わったところでセクション3Bの会場を抜け出し、今度は同じ建物の3階のセクション4(視覚芸術・芸能)の会場へ。ブライアン・パウエルさんの1920年代日本演劇に関する発表があるからだ。ここは階段教室ではなく、演壇の横にはスクリーンが立てられている。40人くらいは入れそうな部屋だが、ほぼ満席。一番後の空いていた席に入れてもらう。さらに次の方の歌舞伎と映画との関わりに関するお話も聴くが、やはりセクションによって雰囲気は違うところもあるみたいだ。

 休憩の後、今度は島村さんとセクション3Aの古典文学の会場へ。しばらくしたら、坂井アンヌバヤールさんも入ってきた。立教大学の小峯和明さんが企画された「Image of Women」というパネルがあるからだ。しかし、立教大学の渡辺憲司さんは手術のために渡欧されず、代わりに立教大学講師で教え子の安原さんが「深川芸者考」というペーパーを代読。金沢大学の木越治さんは上田秋成における女人モチーフの展開について説明。一番最初に話された小峯さんは『神道集』についてで、アマテラスを男神としていることなど、興味深い話をたくさんうかがった。日本では古典文学の学会に顔を出すことなどまずないから貴重な体験とも思えたが、ただ発表者が三人とも日本人、会場で使われた言語も全部日本語となると、一体ここはどこなんだろう?という思いに囚われたことも確かだ。

 さて、大会も後は午後2時半からの総会を残すのみとなったが、それはパスして、ヴィスワ川を渡ったところにあるワルシャワ動物園に行ってみることにした。さほど大きくはない動物園で、正門から入るとまっすぐな道がずっと裏門までのびている。一番端まで歩いてから右折、北東側に広がる園内をぐるっと一周する。それから喫茶店で時間をつぶしたりして、総会の終わる午後5時に再びワルシャワ大学へ。

 その後はワルシャワ大学の岡崎恒夫先生のお招きでお茶会。岡崎恒夫さん&クリスチーナさんのご夫妻は長くワルシャワ大学で日本語を教えてこられた方々で、娘さんが東大の小森さんのところに留学されていた。もちろんモニカさんの先生でもある。実は坂井セシルさんからも夕飯でもというお誘いがあったりしたのだが、それだったらこちらと一緒になどと皆で誘い合わせた結果、結構な人数となった。まだ夕食には少し早く、ケーキがおいしいお店だというので女性陣はみなデザートとコーヒーだったけれど、小森さん、島村さんとこちらとは肉のプレートを取ってワインを飲む。岡崎さんと小森さんとはとても親しげにいろいろお話をなさっていたが、お二人は今回が初対面だと聞いて驚いた。ご家族連れでいらっしゃった岡崎さんは早々にお帰りになられたが、全部会計を済ませていかれた。つまり、すっかりご馳走になってしまったのである。

 さらに、もう少し飲みましょう!ということで、小森さんの先導で近くの飲み屋に。そこからが大変。坂井アンヌバヤールさんが近代文学セクションの発表について、方向性の違いが今回はっきりしたと直言し、にわかに大議論に。漱石パネルのように現代の問題をダイレクトにテクストにぶつけてゆく方向と、むしろ現実をいったん遮断しテクストの日本語の連なり自体を読み込んでゆく方向と。このような対立を前にして、日本の研究者は変に物わかりよく身を処するべきではない。もはや欧米の日本研究などと一括りにできる段階ではないのだから、自らのこととして問題をダイレクトに受け止めるべきなのだと強く思う。パリの坂井姉妹とオスロの安倍さんたちとはお互い名前は知っていても、実際にこうして話をするのは今回が始めてなのだそうで、スリリングな遭遇の場をはからずも用意してしまったのだった。

 とはいえ、生ビールをチェイサー変わりにしてズヴロッカを何杯も口にしたものだから、こちらはもとより小森さんも島村さんも最後はへろへろ。実は昼動物園へ向かう途中、橋を渡ったところの階段で前のめりにこけた。唇の上下に擦り傷を作り、上の前歯も痛めてしまった。大学前の薬局で薬と絆創膏、さらに絆創膏を貼ったままではみっともないので、マスクを買った。マスクをつけていると、またSARSが流行ったのかと皆に笑われた。酔ったいきおいもあって、普段は極力避けている集合写真にもずいぶんと写ってしまった。マスクをつけた不気味なのも、まだ血のあとが生々しい素顔のものもある。遠くからだとわからないと皆言っていたし、集合写真の隅の男性の表情になど誰も気に止めないかも知れないけれど、今日撮られた写真だけは絶対人の目に触れてほしくない思いである。

2003年8月29日(金)

 昨日同様、小森さん、島村さん、安倍さん、モニカさんとバスでワルシャワ大学へ。先に出掛けたアンさんも含め、皆泊まりはホテル・ヘラ。なので、さながら合宿に参加している気分になってくる。こちらの方が近いのではないかと一つ前のバス亭で下車。見込み違いで若干遅刻。島村さんの到着を待ち受けるかたちで、9時からの回がスタート。というのは、今日二人めの発表者が島村さんなのだ。

 まずイリーナ・パウエルさん(シェフィールド大学)の五木寛之『ワルシャワの燕』に関する英語発表。イリーナさんのパートナーはオックスフォード大学で日本近代演劇が専門のブライアン・パウエルさん。ご夫妻とは昨年5月のパリ第7大学での国際シンポジウムでお会いし、今年の1月にはオックスフォードのケベル・カレッジにブライアンさんをお尋ねした折には、ゲストルームに泊まれるようはからって下さりカレッジ・ライフを疑似体験までさせてもらった方々である。次が島村さんの梁石日に関する発表。島村さんは2年前にオスロ大学の国際シンポジウムで梁石日について英語で発表しており(その時の発表原稿は近々出る出ると言っていまだに出ないでいる世織書房の『文学年報』創刊号に載るのだが)、今回はその後の近業を含めるかたちでの日本語発表。そして Irina Hayter さんの奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』に関する英語発表。ブルガリア出身で現在はロンドン大学の Stephen Dodd さんの許で勉強しているこちらのイリーナさんは、この秋から昭和文学を研究しに日本にやってくるという。才能を感じさせる若い方である。

 11時からの回は Urszula Styczek さん(広島大学)の原民喜に関する日本語発表、Sharalyn Orbaugh さん(UBC、バンクーバー)の金達寿に関する英語発表、そして中川成美さんのカズオ・イシグロに関する英語発表。ただし、日本語で書かれた日本人以外の手になる文学(例えば在日文学)ではなく、英語で書かれた日本人の文学を取り上げる意味を尋ねた英語の質問には、お断りになったうえで日本語で答えておられた。外国語教育をベースとした日本の文学業界ではカズオ・イシグロはイギリス文学に分類され、事実英文学者や英文科の大学院生による研究論文も少なくはない(日本文学の研究者で読んでいる人はどれくらいいるだろうか)。だが、英語を基調言語とするこの学会では別にカズオ・イシグロに関する研究発表を聴いても(少なくとも自分は)違和感は感じない。このことは「日本文学」というカテゴリーが議論的なレベルではなく、実際上の問題としてすでに揺らいでしまっていることを示している。

 お昼は一人散歩がてらに外へ出て、旧市街の方へと歩く。聖アンナ教会の下にある広場沿いにみつけた中華レストランのテラス席でビールを飲みながらカレーを食べる。のんびりしていい気分だ。だが、のんびりと昼寝でもしたい気分を押しのけ、再び会場に戻る。午後2時30分の回の一番手が坂井アンヌバヤールさんだからだ。今回の発表は近代小説の書き出しを巡ってのもの。その発表の頭に、昨日姉はフランス人も英語を喋るということを証明するために英語で発表すると言ったが、一人だけでは駄目だ、でも二人やれば複数=沢山のフランス人が英語を喋ることが証明されると言って、再び会場を爆笑の渦に包みこむ。『痴人の愛』の書き出しなどに触れた後で、現代小説から『キッチン』と『海辺のカフカ』を取り上げ、作品世界に参入する/させるための読者と作者との契約がどのようになされているかを具体的なテクストの表現に即して話されてゆく。その後は Diana Donath さんの高村薫と宮部みゆきについての紹介、Rebecca Copeland さん(ワシントン大学)の桐野夏生『天使に見捨てられた夜』を Sue Grafton の『K』と並べて考察したものが続いた。日本の学会ではまだほとんど取り上げられていない現代日本の女性ミステリー作家だが、西欧圏でもすでに大きな関心を呼びつつあるように思われた。

 そして休憩の後は、本来ならセクション3Bのタイムテーブルは空いていたのだが、プログラムにはなかった雑誌「少女之友」をオヴァーヘッド・プロジェクターを使って紹介する英語の発表と、徳永光展さん(宮崎国際大学)の『こころ』に関する発表を聴く。だが、質疑応答が始まる前にそっと退室して、セクション3Aの日本文学(古典)の部屋へ。兼築信行さんの、最後の職人歌合と言える『当世風俗五十番歌合』に関する発表を聴くためだ。刊行は1907年、つまり時代はもう近代だからだ。古典の会場は近代よりもさらに縦長のかたちで広い。ヨーロッパの研究者がとても滑らかな日本語で質問するのが印象的だった。

 さて、大会3日めの夜のプログラムは、参加者全員が日本大使公邸へ招待されるというもの。発表終了を待ちかまえるようにバスが何台も大学図書館前に横付けにされ、分乗して日本大使公邸へと向かうことになる。庭での立食式パーティで、焼き鳥やお寿司のブースが並ぶ。もちろんビールやワインも飲み放題。在ポーランド大使の挨拶と乾杯。しかし、この日の最大のサプライズは、『灰とダイヤモンド』等で知られる映画監督のアンジェイ・ワイダがゲストとして招かれていたことだった。

 大の親日家であり、クラコフの日本美術・技術センター設立にも尽力したワイダ監督だからとは思うものの、やはり高名な映画監督を間近にするとつい興奮してしまう。簡単な挨拶だけで帰られるのかと思いきや、しばらくパーティにお付き合いするらしい。すっかりミーハー気分で、なんとか握手だけでもしてもらおうと思うのだが、監督は横の男性とばかり話していて、なかなか近寄るきっかけが掴めない。他の参加者もなんとなく遠巻きにしている感じだ。が、待つことしばし、思い切って話かけられそうなタイミングが訪れた。へたくそな英語で二言三言。自分は大学で映画史を講義しており、監督の作品を学生にみせたこともあるとかないとか。そうしたら、すぐ横にいた男性は実は通訳の方だったようで、こちらの日本語をポーランド語に訳して伝えて下さった。握手をしてもらい、サインをいただく。すると、まわりで羨ましそうに見ていた人たちも順番に次々と話しかけ始め、さながらサイン会状態に。よくぞ先鞭をつけてくれたと、後で他の参加者からお礼を言われた。

 正直に言うと、アンジェイ・ワイダの映画はさほど好きではなく、必ずしも高く評価している訳ではない。ただ『砂とダイヤモンド』は、篠田正浩の『乾いた花』がまたそうであるように、どうしてこの監督がと思わず呟きたくなってしまうほどに見事な映画である。あえて言えば、ホークスや小津のような天才には絶対に撮りえない、まるで奇跡のようにして生まれた作品なのだ。そんなことをぶつくさ言いながら、いの一番にサインをもらってきたことを島村さんにからかわれる。兼築さんはワイダ監督との握手をデジカメにおさめて下さった。ネットに自らの写真を公開する趣味は持ち合わせていないのだが、これだけはそうしてしまおうかと思わず考えてしまった。

2003年8月28日(木)

 ワルシャワ大学での欧州日本学会大会弟2日め。8時半にホテルを出てバスに乗り、会場へと向かう。今日からの発表会場は大学図書館。昨日総会が行われた建物からさらに歩かなければならなかった。人の流れに乗るようにして、9時ぎりぎりに会場に到着。

 発表会場は都市環境、言語学・語学教育、日本文学(古典)、日本文学(近代)、視覚芸術・芸能、人類学・社会学、経済学・経済社会史、歴史学・国際関係論、宗教・思想史の9つのセクションに分かれている。前回と違い日本文学は古典と近代とでセクション3のAとBとに分かれるかたちとなった。プログラムによれば、セクション3Bで予定されている発表は19本。小森さんらの漱石パネルの4本を合わせると全部で23本。スケジュールは漱石パネル+『こころ』の発表1本が今日の11時から13時で組まれている他は、9時から10時30分に3本、コーヒーブレイクを挟んで11時から12時30分に3本、ランチタイム後は14時30分から16時に3本、16時30分から18時に3本。つまり、一人あたりの持ち時間は質疑応答も入れて30分で、30分の発表を3本続けて聞いたら休憩というのを一日4回繰り返す。日本の近代文学関係の学会に比べるとかなりハードなスケジュール。日本ではペーパーも用意せずにダラダラと時間超過して他を顧みないような発表が時としてあるが、こちらではきちんと用意した報告原稿を読み上げるスタイルなので、これで大丈夫なのだろう。セクション3Bに割り当てられたのは50人くらい入れそうな階段教室で、すでに30人ほどの人が席についていた。

 初日9時からの回は、Matthew Konigsberg さん(ワシントン大学)の尾崎紅葉による井原西鶴の受容を論じたもの、Thomas Hackner さん(トリア大学)の徳富蘆花『自然と人生』における「風景の発見」を論じたもの、そして日文研の鈴木貞美さんの日本における「文学」と「歴史」という概念の変容を、パワーポイント120枚を駆使して大急ぎで概説したもの。最初の2本は英語発表で、鈴木さんのは日本語だがパワーポイントによる資料は英語ベースになっていた。司会はロンドン大学の Stephen Dodd さんで、報告3本聴いた後でまとめて質問を受け付けるかたちの進行。予想通りかなり慌ただしく、あっという間に1時間半が過ぎてしまった。

 休憩を挟んで11時から「21世紀における夏目漱石の Actuality」というパネル。徳永光展さんの『こころ』に関する発表が別の時間に移ることになったので、2時間使えることになったそうだが、やはり相当慌ただしそうだ。ちなみに休憩時間は廊下にブースが出ていて自由にコーヒーを飲んだりできる。パリ第7大学で教えていらっしゃる大島さんに声を掛けられ、しばしおしゃべりしたりした。さて、漱石パネルは小森陽一さんが日本語でまず問題提起的な話をし、ワルシャワ大学のメラノヴィッチさんが日本語でポーランドでの漱石受容のことなどを話された後、安倍オーステッド玲子さんが英語で『こころ』を論じ、モニカさんが『三四郎』を論じる。予定していたコメンテーターが来られなくなったため、急遽オスロ大学の安倍さんの同僚であるアンさんが英語でコメントをつける。テーマ的に話が拡散しがちな面もあっただろうが、パネルではもう少し議論を聴きたかった。

 ランチタイム。参加申し込みと一緒に希望者は大学図書館食堂のランチチケットを頼んでおく。今日の分だけは頼んでおいたので、皆とその食堂へ。ところが、人が多すぎて座る席もない上に、バイキング式の食べ物もあまり残っていない。これは一日だけにしておいて正解だったかなと正直思った。せっかくヨーロッパにいるのだから、ランチでもビールかワインがほしい、などと不謹慎なことも考えてしまう。もちろん学食だから、コーヒーくらいしか飲めない。

 午後2時30分からは、午前中の漱石パネルとは一転して今度は森鴎外に関する発表が3本。長島要一さん(コペンハーゲン大学)がイプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳について、壇原みすずさん(大阪女子大学)が「うたかたの記」について、John Wixted さん(アリゾナ州立大学)が「イロニー、ユーモア、翻訳」という題で、それぞれ英語で発表。休憩後の午後4時30分からは Beata Kubiak さん(ワルシャワ大学)によるガダマーの解釈学などを援用しながら明治期の美学を問題にした発表、Massimiliano Tomasi さん(西ワシントン)による明治大正期の批評における「技巧」という概念を取り上げた発表、そして坂井セシルさんによる川端康成の短編小説における手紙の役割を分析した発表。これまた3本とも英語。学会での基調言語は英語か日本語なのだが、坂井さんはフランス人は英語を話せないと言われているのであえて日本語ではなく英語で発表することにしたと前置きし、会場の笑いを取っていた。

 実のところ学会の基調言語をどうするかは大きな問題でもある。島村さんによれば前回は95%以上が英語発表で、しかも明らかに英語よりも日本語の方が堪能な人までが質疑応答まで英語でやっているのを見ておかしいと思い、総会で日本語も学会の基調言語としてきちんと認めるよう発言したのだという。それゆえ今回島村さんは要旨こそ英語で出したけれども、発表自体は日本語で押し通すという。このことは研究における英語中心主義を相対化した点で重要な意味を持つが、それは今度は安易に日本での学会発表と等質のものを国際学会にも持ち込むことを可能にもする。だが、それで異言語圏の研究者と充分なコミュニケーションを取ることができるのだろうか。失礼ながら壇原さんの英語はすごく堪能とまでは言い難い感じだったが、それでもあえて英語で報告しようとする志には深く共感する。

 さらに島村さんによれば前回は近代文学関係の日本からの参加者はごく少数だったが、前々回は日高昭二さん、曽根博義さんを始め結構いたのだという。だが、休憩時間等でもつい日本人ばかりで固まりがちだったそうだ。自分も含め、日本文学の研究者には外国語が大の苦手という人間が結構多く、コンプレックスからついそうなる気持ちは理解できる。自分の場合は島村さんや小森さんにほっぽり出されても、フランスからの参加者が少なく(時期の問題だけでなく英語中心であることも関わっているのではないかと思う)少し手持ちぶさたそうな坂井アンヌバヤールさんと内緒の辛口のおしゃべりを楽しんだりなどいろいろできるからいいのだけれど、それも昨年一年間在外研究の機会を与えてもらったがゆえの特権(?)に相違ないだろう。今回自分以外に発表もしないのに日本から参加した方には早稲田大学の千葉俊二さんがいらっしゃったが、ベネチアでの谷崎国際シンポ以来の旧交を温めておられるように見受けられた。ではヨーロッパにコネクションのない人間には参加しても退屈で無意味な学会なのか。そうではないと強く言いたい気持ちと、しかしそう言うことで日本からの参加者が増えることで起こりうるあれこれを危惧する気持ちとで、思いは揺れている。

 とするならば、今回のワルシャワ大会ではどんないいことがあったのか、あまり書かない方がいいのかも知れないけれど、まあこの日記を読んで次回はぜひ参加してみたいと思うような人がそうもいるはずはないか。夜は大学図書館から10分ほど歩いたところにあるワルシャワ音楽アカデミーのホールで、ショパンのピアノ・コンサートが学会の全体プログラムの一つとしてあった。約1時間、日本ではとても味わえないような、音がくぐもることのない見事な見事な本場の演奏を堪能。さらにすぐ近くの、現在はショパン博物館となっているオストロフスキ宮殿の中庭でカクテルパーティ。いずれもタカシマ・ファンデーションの後援によるもの。もう少しお腹に何かいれようということで、その後は小森さん、島村さんにオスロ大学の安倍さん、アンさんと大学前のクラフク郊外通りまで出て、デザインというお店で食事をしながら歓談。昨日のウ・フキエラよりもさらにいいお値段だったが、おいしかった。

2003年8月27日(水)

 ホテルを10時に出て、市中心部へとバスで向かう。まず運転手から切符を購入し、バス内の改札機で乗車日時を印字する。料金3ズウォティ。町中のルフという雑誌などを売っているキオスクで買うと、2・4ズウォティで済むのだが、あいにくバス停のすぐ近くには見当たらなかった。定期を持っている人は改札機で印字をしない。つまり、その気になれば、ただ乗りもできそうに思える。実際ヨーロッパでは日本と違ってそういうバスやトラムがほとんどなのだが、一年間いても検札にぶつかったことはなかった。などと島村さんと話していたら、いきなり抜き打ち検札係の男性が、座っていた最後列の前の扉から乗り込んできた。近くの男性は無賃乗車だったらしく、今度はその男性を引き連れるようにして次の停留所で降りる。そして身分証明書を確認し、番号を控えている。やはり油断大敵だなあと思わず実感してしまう。

 ホテル・ヘラのすぐ近くの停留所から乗ったバスは右手にワジェンキ公園を見ながら中心部へと向かい、新世界通りへと入る。この通りの途中に欧州日本学会の会場となるワルシャワ大学があるのだが、そこでは下車せず、少し先の王宮広場から斜め前方に左折し、クラシンスキ宮殿の左手を抜けてトラムの走る大通りを越えたところのバス停で下車。すぐ先にワルシャワ・ゲットー記念碑のある公園があるので、まずそこを見た後、ワルシャワ大学の方へと市内見学しながら戻ってゆくことにしたのだ。欧州日本学会初日の今日は、午後4時からのオープニング・セレモニーまでに受付を済ませればいいので、時間はたっぷりある。

 バスの窓からもちらっと見えたワルシャワ蜂起記念碑へ。1944年、当時ワルシャワを占領していたナチス・ドイツ軍に対して市民が一斉に蜂起しながらも、援軍を当てにしていたソ連軍に見捨てられ、20万人もの死者を出したという事件を記念して45年目の1989年に作られたもので、見ているだけでも切なくなってくるような人物群像である。次はキュリー夫人博物館。キュリー夫人の生家の建物に作られたもので、ラジウムの科学的な説明をまとめた図入りパネルや実験器具、ポートレイトなどが陳列してある。が、説明プレートがポーランド語のものしかなく、いまいちよくわからない。せめて英語のプレートくらいあればと思う。記帳用に置かれたノートを見ると、日本人の来館者が多い。それなら日本語の説明パネルだけでも作ってくれればいいのにという気にもなる。

 そこからバルバカンというバロック様式の砦を見ながら城壁を通り抜け、旧市街市場広場へ。今度はカフェの屋外席が並ぶ広場の角のワルシャワ歴史博物館を見ることにする。入ってすぐのスペースに1944年の空襲で広場中央の人魚像以外、まわりの建物すべてが瓦礫と化した様子を撮った写真があって、まず驚かされる。奥の部屋では第二次世界大戦前後のワルシャワを撮した20分ほどの記録フィルムを観ることができる。展示自体は先史時代から始まって順番にワルシャワに住む人々の暮らしが追えるようになってゆく。一見とても小さな博物館に見えるが、どうして展示はそう簡単に終わらない。またかと思いながら、階段を昇りながら各階毎に見て行くと、ようやく1944年当時の資料を展示した最上階に辿り着く。

 午後1時を回ったので、昼食を取ることに。旅先では一度はその土地の一番いいレストランに入ることにしているという島村さんの要望もあって、旧広場市場広場にある高級レストランのウ・フキエラに入ることにした。もちろん値段はそう安くない(と言っても、日本よりはずっとお得な値段)。古いオーク材で支えられたなかなかシックな雰囲気を味合うだけでも行ってみる価値がある。それぞれ前菜とメインの肉料理を一皿ずつ取り、途中で皿を交換することに。ポーランドではワインは作っていないということなので、薦められたスペインの赤ワインを口に運びながら、贅沢なお昼を堪能する。

 ほろ酔い加減でホテルに戻って一眠りしたい気分を堪えながら、いよいよワルシャワ大学へ。途中でカントルによって両替。1万円札が303・8ズウォティ。ということは空港で同じ1万円を両替すると2千円もぼられる計算になる。空港の両替レートは悪いとは聞いていたが、いやこれほどとは。

 さて、大学の会場に3時30分過ぎには到着したのだが、すでに受付の前からとても長い列ができていた。どうやらホテル代の未納分をポーランド・ズウォティで支払わなければならないらしく(予約ではよかったカードも今回は不可)、スタッフの方も一人一人の対応に相当苦労しているようだ。このままでは4時までに全員終わらせるのが不可能なのは一目瞭然で、ほどなく受付は後でいいから会場に入るようにとのアナウンス。

 会場は古い木の長机と長椅子ではあるが、かなり広い。200人以上は集まっていたのではないか。オスロ大学の安倍オーステッド玲子さんを島村さんから紹介していただく。また、昨年パリでお世話になった坂井セシル&アンヌバヤール姉妹をお見かけし、とりあえずは頭だけ下げてご挨拶する。オープニング・セレモニーはポーランド国歌の斉唱とEAJS会長の開会の辞の後、ワルシャワ大学副学長、ポーランド駐在特命大使、国際交流基金代表、ワルシャワ大学のメラノヴィッチ教授による挨拶が続く。そして「日本の社会生活におけるITの最近の傾向」という講演があるのだが、その講演の前で受付を済ましておかなければと会場から外に出る。まだ混乱は続いている感じだったが、ホテル料金の残り分を払い、なんとか受付を完了。会場では講演の後にコンサートが行われていたが、また戻るのも何なので外で時間をつぶす。

 18時半頃にようやく終了。キャンパス内のカジミエーシュ宮殿に場所を移して、立食パーティ形式の懇親会。立命館大の中川成美さんや早大の兼築信行さん・坂本清恵さん夫妻とちらっと話した以外は、ほぼ壁の花ならぬ染み状態で時間をすごす。もともと人見知りする性格で懇親会は好きではないのだが、いる場所がないなどと感じる以前に、日本学者でこんなにいるんだなあと圧倒されてしまってので、別に苦痛だった訳ではない。

 初日から飛ばすのもと、島村さんと早々にホテルに戻る。この日記を書いていて、10時半をまわったところで、ベッドに入る。第一日めはこうして速やかに無事終了、となる寸前だったのだが…。
 いきなりドアがノックされ、出てみると東京大学の小森陽一さんと島村さんの姿が。小森さんは明日発表だというのにセレモニーにも懇親会場にも姿を見せなかったので、島村さんも安倍さんも心配していたのだ。夕方7時過ぎに到着し、ホテルのバーでビールを飲んだりしていたらしい。ビール1杯だけ飲みましょうということで、再びホテルのバーに。

 と今度はいきなりワルシャワ大学のモニカさんへの小森さんの指導に立ちあわされることに。モニカさんは『三四郎』のポーランド語訳を刊行したばかりのとても若い研究者で、東京工業大学・大学院に留学していた時期、東大の小森さんのゼミにも出席していた。明日は小森さん、メラノヴィッチさん、安倍さんと同じ漱石パネルで発表する。その愛弟子の発表原稿に機内で目を通してきた小森さんの第一声がすごい。これでは長い、半分に縮めろ! 確かにタイトなプログラムで時間延長はとても許されないだろうし、生まれて初めての学会での口頭発表だというモニカさんには原稿を読むのにかかる時間の見極めがうまくつかなかったのだろうけれど、発表前日の夜中の11時に言われてもねえ…。けなげに原稿を書き直すべくモニカさんが部屋に戻った後、三人でしばらく雑談。小森さんの近著『天皇の玉音放送』の話を始め、ここではおいそれと書きにくいような話もいろいろ聞いたのだけど、省略させていただくことにする。

2003年8月26日(火)

 成田空港から12時発のアエロフロート航空SU576便に乗ってワルシャワへと出発。のはずが、空港に着いてみると出発時間が50分遅れに変更になっていた。売店で日本の絵葉書を買い、昨年パリでアパルトマン暮らしをしていた時の家主への簡単な暑中見舞いを書いて、出発ロビー内の郵便局から投函する。搭乗するアエロフロート航空機はモスクワ経由のパリ行き。モスクワで乗り換えずにそのまま行ったらパリに戻れるんだなあと、つい思ってしまう。

 出国審査を済ませて、ようやく航空機内へ。席をみつけて立っていたら、女子美大の島村輝さんから声をかけられた。なんと偶然にも、通路を隔ててすぐ隣りの席。これから先の旅程は島村さんとずっと一緒なのだが、さすがに成田からでは向こうもうんざりだろうと思って、どの飛行機で行くのかまでは聞いていなかった。奇遇と言っていいのか、こちら的にはどっと安心してしまったのは確かである。

 モスクワ空港到着も当初の予定より1時間半ほど遅れて18時30分。時差が5時間あるので、日本時間で23時30分。離陸までにも時間がかかっていたので、正味10時間ほど空の上にいたことになる。機内サービスや食事がもっと運賃の高い航空会社に見劣りするのは否めないが、前の座席との間は思ったよりゆったりしていたし、10数年前初めてヨーロッパに行くにあたって乗った時の記憶を思い返して想像していたのに比べれば、思いのほか楽だった。離陸してまもなく、歯磨き歯ブラシ、スリッパ、耳栓や目隠しまで入った青い小さなポーチを渡される。旅行中これさえあれば、という感じの優れものである。

 一方、モスクワ空港の方は10数年前と比べて、建物がずいぶんと古くなった感じこそすれ、何にも変わってない様子だったのに驚いた。さすがによく覚えてはいないが、決して広くない免税店や階段を昇ったところの軽食コーナーなんかも昔のままなんじゃないかと思う。昨年シベリア鉄道で旅をし、ソビエト連邦崩壊後ロシアが大きく変わりつつあることを実感してきただけに、少しショックを受けた。モスクワ市内は人や車があふれ、高層ビルが建ち並びつつあるというのに、表玄関というべき空港の改装まではまだ手がまわらないのだろうか。

 現地時間21時、ワルシャワ行きの航空機に乗って再び出発。チケットはアエロフロートだが、乗ったのはポーランド航空の航空機。当然機内食やビールもポーランドのもの。ワインだけはフランス製だったけれども。到着予定時間は21時5分。もちろん5分でいけるはずはなく、時差の2時間分乗ってゆくことになる。夜のワルシャワ空港に到着。空港内の両替所のレートは悪いと聞いていたが、当面の分だけはと日本円をポーランド・ズウォティに両替。5000円が1250ズウォティ。つまり、1ズウォティが40円。これなら計算はやさしい。空港前からタクシーでホテル・ヘラへ。欧州日本学会の斡旋してくれるホテルの中で一番安かったのがここで、シングル一泊36ユーロ。さすがに多くは期待できなくて、ビル自体もかなり老朽化し、ホテルというよりは大学の合宿所か企業の合宿施設といった雰囲気。が、部屋は結構広くてゆったりできる。日本でいう3階の割り当てられた部屋にはシャワーがついてなくて、共同シャワーを使わなければならないのが難点(と思っていたら、シャワーなしだと36ユーロよりもさらにずっと安いことが後でわかった)。

 ホテル内のバーみたいなところで、軽くビールを飲みながら、島村さんと明日からのスケジュールの相談。お互い疲れていたので、早々に部屋に切り上げる。日本出発からずっと時刻表示を変えずにおいた腕時計をみたら、6時近い。つまり、一晩徹夜したのと同じだけ起きていたことになる。

2003年8月25日(金)

 旅行出発前日。海外に出る前はどうしても忙しなくなる。大学の研究室に出向いて、幾つか雑用を片づける。その前には池袋の大型書店で、旅行中に読む文庫本を数冊購入。ポーランドへはやはりモスクワ経由で行きたくて(本当は一番安かったので)アエロフロートの航空券を購入したのだが、モスクワ空港での乗り継ぎに際しての待ち時間が、行きは4時間弱、帰りは5時間弱もあるのだ。

 ここ数日の熱帯夜で明らかに睡眠不足。準備もおぼつかないままに出発時間が迫ってくる。旅行前に片づけねばと思いながらやり残したことばかりで、今夜もあまり寝られそうにない。明日機中で熟睡できればいいのだが…。

2003年8月21日(木)

「ヴィクトリアン・ヌード」展(東京藝術大学大学美術館)、「トルコ三大文明展」(東京都美術館)を見に上野に行く。東京は9日ぶりの夏日で、クーラーなし(!)の部屋で寝起きしている身には、美術館の冷気が何とも有り難い。

 今年はトルコ年だそうで、巷ではトルコ・ブームが進行中というのだが、「トルコ三大文明展」もなかなかの盛況。この秋にはフィルムセンターでもトルコ映画の特集上映が予定されているが、実は怪美堂オーナーの會津さんはトルコ映画の隠れマニアなのである。と言っても、フィルムセンターでかかるであろうヤワな(?)芸術的映画など見向きもしない。そのターゲットはハリウッド映画やカンフー映画を哀しくなるくらいにパクったB級、いやC級映画群だ。秘蔵のビデオの幾つかをさわりだけ観せてもらったことがあるのだが、いやもう、ついてゆくだけで大変。いつか内輪で上映会をやろうという話はどうなったのだろう。同好の士さえいれば(笑)、フィルムセンターの公的トルコ映画特集の向こうをはって、秘密ビデオ鑑賞会ができるはずなのだけれど…。

2003年8月18日(月)

 今月26日から日本を離れる。先週末漸く航空券を購入し、今日大学で海外出張届を提出してきた。ワルシャワ大学での欧州日本学会大会をのぞいた後、ベルリンに回る予定。帰国は9月5日。本当はもっと長い期間行きたかったのだが、ギリギリの日程となってしまった。まあ、今回はしょうがない。春にリベンジしたい(笑)と思っている。

 日本では夏とは思えない日が続いているが、ヨーロッパは大変な猛暑で、パリでは42度を越える日もあったとか。昨年のフランスは冷夏で、7月でもセーターを着ていたのがまるで嘘のようだ。夏の暑さは体質的にさほどこたえないのだが、もしかして暑さに避けられる星のもとに生まれてきたのだろうか。もしこれで8月最終週から急に暑さがぶり返してきたら、いよいよ自信を深めてしまうのだが、さてどうなることか…。

 9月は帰国後も慌ただしい日々が続く。13日の土曜日は日本近代文学会東海支部主催のシンポジウムを聴きに名古屋の愛知芸術文化センターに行く。昨年は横光利一文学会と共催の形でシンポジウムを開いた東海支部だが、今年のテーマはなんと「ロボットと文学」! 『妊娠するロボット』の共著者である中沢弥さんもパネリストをつとめるので、お時間のある方はぜひ。詳しくはこちらを。

2003年8月2日(土)

 帰国してから4ヶ月があっという間に過ぎた。怪美堂の會津さんが折角新コーナーを設けて下さったのに、何か書くゆとりがまったくなかった。物理的な忙しさ以上に、精神的に内に隠りがちで、日記を公開する気分にはとてもなれなかった。それでも、ようやく夏休みに入ったことだし、最近複数の人から尋ねられたこともあって、久しぶりに少し書いてみようと思う。


  都立大の安田孝さんからお誘いがあって、久しぶりに京橋のフィルムセンターに行く。と言っても、現在上映中の市川崑監督特集を観に行ったのではない。安田さんの同僚で文芸評論家の大杉重男さんのところで尾崎翠の卒論を書いている学生がいて、その研究のために『朝から夜中まで』という映画を試写室で上映してもらうことになったから観に来ないかと声を掛けて下さったのだ。原作のゲオルグ・カイザー『朝から夜中まで』は言うまでもなくドイツ表現主義演劇の代表作で、日本でも築地小劇場が1924年に上演している。しかし、映画が公開されたのはその2年前。とすれば、土方与志の演出も村山知義の舞台美術も、この映画を範に仰いだのだろうか。

 フィルムセンター1階の喫茶室でベトナムコーヒーを飲んだ後は、安田さんと東京駅駅ビルにある大丸ミュージアムの「石川賢治 月光写真展」に。窓口で料金を払うと、入場券と一緒に、ご入場感謝リラクゼーションクーポン券というのを手渡される。確かに今の日本では忙しない日常に疲れ切って、癒しや安らぎを求める人は多いだろう。自分もひどい疲労感に打ちのめされそうになることはある。だが、癒しを求めたとして、その先に何があるのか。クーラーがよくきいた暗い展示室を巡りながら、そんなことを考えた。

2003年4月7日(月)

 今日から本務校の授業が始まる。朝9時から「芸術学入門」の講義を2コマ。約1年ぶりの教壇。話のリズムも取り返せないまま、久しぶりに大声でしゃべたせいで、のどがすぐ痛くなる。今日は鉄腕アトムの誕生日。後期の「芸術学各論」では「ロボット(人造人間)」をテーマに講義するのでその前振りにと、『鉄腕アトム』のビデオをちょこっとだけ見せる。と言っても、1963年からテレビ放映されたアニメ版ではなく、その前1959年から60年に放映された実写版の方。このままアトム誕生の話に持ってゆきたいのをぐっとこらえる。

 JR山手線高田馬場駅のホームではアトムの主題歌のメロディーが流れていた。高田馬場はアトム生誕の地。ラッシュ時の山手線の混み具合は少しも変わらない。新宿駅で降り、急ぎ足で勤め先へと向かう人たちの姿に目をやりながら、今の自分が少しもこの流れに同調できていないことを否応なしに意識させられる。やはり日本での時間の流れは早い。帰国してから2週間が、長旅疲れと花粉症とでへたっている間に、矢のように過ぎていったが、日本に対するズレの感覚は強まるばかりだ。ヨーロッパにすぐにも戻りたいなどとは思わないが、なんとも生きがたいこの世界に自分は暮らしていかなければならないのかと暗澹たる気持ちに駆られることはある。

 けれども、このズレこそが、自分が文章を書く根拠ともなることだろう。今日から再び、日々更新とはいかないだろうが、違和感に満ちた日常の報告をここに掲載させていただくこととする。

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