著作権所有(C)怪美堂



平田晋策の生涯

(1)


会津信吾


「ある青年」の死

 昭和11年1月29日付の「国民新聞」は、「『選挙には死ぬまで』平田晋策氏が悲壮な死」と題して、次のような記事を載せている。ちょっと長いが、いくつかの誤伝をただすきっかけにもなるので、引用しておく。

【神戸発】兵庫県第四区より立候補する為、郷里赤穂に帰つた東京府北多摩郡砧村喜多見二二軍事評論家平田晋策(三八)氏は、去る廿五日午後阪神国道芦屋で自動車衝突のため前額部に重傷を負ひ、御影町東明病院に入院してゐたが、脳出血が眼に及び廿八日夜八時五分、母堂静子刀自、洋子夫人近親者に看護られながら「選挙には死ぬまで出る・・・・」と、うは言を繰返しつゝ政戦への雄図半ばに空しく死去した。
 将来戦の危機を説き非常時評論界に颯爽と躍り出してきた同氏もその青年時代早大退学当時は高津正道氏等の組織した「暁民会」に関係、左翼戦線に活動してゐた事もあつた。その後、バイオンター (ママ) の「太平洋海権論」を読み、国際時局の中心は太平洋を挟んで日米の角逐にあるとアメリカ海軍の研究に身を委ね軍国多事の時運に恵まれて非常時の舞台に登場、大衆の拍手をかつてゐた。

 

  当時、この記事を読んだ人々は、一瞬わが眼を疑ったのではなかろうか。平田が転向者だったなんて。まさに180度の方向転換。だが人間は、ときとして極端から極端へとうつりかわるものである。「情熱」というベクトルの方向が変わったのだ。平田は情熱の人だった。常に中庸を行く者に、大きな変化は起こらない。

 平田は明治37年3月6日、薬種商平田夫平・しずの(旧姓・小川)の次男として、兵庫県赤穂郡加里屋に生まれた。したがって享年は満31、数えで33になる。死亡時、平田の年齢は38歳とのニュースが流れたが、これは間違いである。大正10年に検挙された際、新聞に24歳(本当は満17歳)と書かれたのが、そのまま加算されている。あるいは平田がそう自称していたのかも知れない。

 6人兄弟の第五子で、上に姉三人と兄一人、下に妹一人がいた。兄・内蔵吉(明治34年〜昭和20年)は、京都帝大の医学部に学び、のち民間療法や吉凶判断の著作で有名になる。

 加里屋は四十七士で有名な赤穂藩の城下町で、東に千種川が流れ、北には播磨灘がひろがっている。平田の幼き日の記憶には、播磨灘の波濤が焼き附いていたにちがいない。のちに船と縁の深い仕事に就くのも、ここに遠因がありそうである。平田自身、こんな原体験を語っている。


 海戦数年後に、僕の故郷赤穂城の沖へ、「浅間」が来て、すぐその後へ「宗谷」が来たことがあるが、僕は「宗谷」の艦首にかゞやく菊の御紋章をあふぎ、昨日の敵艦が、今日は「浅間」と同じ聖章をつけてゐるのを見て深い感激に打れたのを、忘れることができない。


 赤穂小学校を経て龍野中学にすすんだものの、理数系の課目につまずき、大正8年に自主退学をする。以後、平田は正式な学歴を持たない。大正8年、「文章世界」誌上で知りあった寄稿家仲間の藤原啓(のち陶芸家、人間国宝)の誘いで神戸の賀川豊彦を訪ね、社会問題に開眼。ナロードニキよろしく大阪砲兵廠の職工となるが、重労働が身体にこたえたのか、三ヶ月ほどで辞めてしまった。

 その頃の平田を活写した、珍しい文章がある。菊池寛の随筆「ある青年」である。大正9年、菊池は一愛読者の来訪をうけて驚いた。一、二年前から手紙のやりとりをし、前年に一度大阪で会ったその若者は、わずかな間にすっかり雰囲気が変わっていた。


 会って見ると、去年見たやうな少年らしい面影は、スッカリ無くなって居た。もう大人に近い青年になり切ってしまつて居た。それよりももつと駭いたことは、此少年の思想や話し振が、半年の間に激変して居る事だつた。去年会つた時、少年は、たわいもない世間並な文学愛好者だつた。自分に寄越した手紙なども、甘つたるいセンチメンタルな子供々々した手紙だつた。それだのに、僅か半年の間に、もうスツカリ一個の立派な青年社会主義者と云つたやうな者に、なり切つて居るのだつた。

 

 その変貌ぶりで菊池を驚かせた平田は、間もなく「暁民共産党」事件で、今度は世間を驚かすことになる。これは平田にとって人生の転機となる出来事なので、やや細かく記してみる。




反軍活動と検挙


 暁民共産党は、共産党を名乗った日本最初の思想結社といわれる。もちろん当時は明治33年制定の治安警察法によって集会結社の自由が制限されていたから、非公式の秘密結社である。

 同党の母体は高津正道(せいどう)らの「暁民会」で、これはもともと早稲田大学の民人同盟会が大正8年末に分裂し、暁民会と北沢新次郎教授を中心にした建設者同盟とにそれぞれ独立発展した学生団体で、毎回戸塚源兵衛(現・高田馬場の戸塚2丁目)にある高津の自宅で集会が開かれていた。

 松谷与二郎『思想犯罪篇』(天人社)を参考に党結成の過程を述べると、思想的な統一を図るため、この暁民会の会員を核にして組織だった結社をつくることになった。当時、左翼思想家の活動がボルシェヴィキ、サンジカリスト、アナーキスト入り乱れ、渾然としていたので、主義の統一・純化を目的として高津正道・近藤栄蔵らがボルシェヴィキだけの組織を結成しようと呼びかけたのが、そもそもの動機であるという。

 もっとも今井清一氏の『大正デモクラシー』(中公文庫)よれば、その実情は、

大正十年の春にコミンテルンの極東ビューロー(委員会)から連絡をうけた堺・山川らは、アメリカ帰りの近藤栄蔵を上海に派遣した。ところが、近藤は運動資金五千円を受け取って帰国すると、下関で大尽気どりの遊興をして刑事にあやしまれ正体を暴露するという失態を演じた。警視庁では近藤を釈放したが、堺・山川らは警戒と不信の念をいだいて相手にしなかったので、近藤は高津正道らの暁民会にはたらきかけて暁民共産党を結成した。


  バイウォーターの著書があらわれた1920年代は、軍備縮小の時期にあたり、日本の出版界はおりから日米未来戦ものがブームになっていた。

 第一次大戦後、国力の発展にともない世界の5大国に仲間入りした日本は、アメリカに対抗して軍拡競争にやっきとなり、大正9年の議会では大幅な予算をあてて八八艦隊の建造計画が承認された。ところが大正10〜11年にアメリカの提唱で開催されたワシントン会議で、英・米・日・仏・伊の5ヵ国間に海軍軍縮条約が締結され、日本の軍拡案は頓挫した。

 政府は欧米との対立を避けて協調外交路線をとった。しかしワシントン会議につづく排日移民法制定や、ハワイ沖大演習などのアメリカの対日行為に、日本国内の反米感情は沸騰した。その世論の現われが、一連の日米未来戦ものというわけである。

 稲生典太郎氏「『戦争未来記』の流行とその消長」(「国学院大学紀要」第7巻)によれば、ワシントン会議前年の大正9年からロンドン会議前年の昭和4年までの10年間に、フィクション・ノンフィクションあわせて46点の戦争未来記が出ており、そのほとんどは日米開戦を論じたものだった。

 いったい日本側はバイウォーターをどう読み、どうとらえたのだろうか。その一例として、海軍少佐石丸藤太の論評をみてみよう。

 石丸少佐はまずバイウォーターの人物を「故意か、又は他に何等かの理由あつてか、常に排日的言説を弄し、米国の民衆に向て排日熱を煽動し、日米の離間を策しつゝ、英国をして漁夫の利を占めんとせしむるに非るやを疑はしむるに足る者がある」と述べ、そして結論的に『太平洋戦争』の真意をこう論じている。

(前略)氏は米国の富力、財力物力の無尽蔵なるを力説して、日本の到底米国の敵にあらざるを日本国民に知らしめ、依て以て日本人をして日米戦争の無益なるを知らしめんとして居る。もちろん氏は米国民に対しても、戦勝の必ずしも物質的利益を齎らすものに非るをのべて居るも、前後の関係よりすれば、氏の真意は日本人に日米戦争無益論を鼓吹するにあるものと思はれる。

(文明協会『バイウォーター太平洋戦争と其批判』より)


 おそらく平田のバイウォーター観も、石丸少佐のそれとさほどかけ離れたものではなかっただろう。

 もちろん平田には平田なりの考えがあったに違いないが、ともあれ石丸少佐の指摘する “日米戦争無益論” と同じものが平田にバイウォーターへの不信感と反撥心を覚えさせ、国防問題を意識させる原因となったのではあるまいか。



国防問題への開眼

  近藤栄蔵・高津正道の二人はこの失敗に挫けず、すでに裁判中から新たな活動を計画し、今度は片山潜・佐野学・堺利彦ら堂々たる大立者と図って、さらに緻密で大規模な日本共産党を結成した。

 しかし平田はこの新組織には参加しなかった。もはや主義から離脱してしまっていたからである。そして次に平田の名前がマスコミに現われるのは、軍事ジャーナリストとして脚光を浴びる昭和4、5年のことになる。

 反軍PRに従事した左翼活動家が、軍を肯定しなければ始まらない軍事評論家に転身するとは、只ごとではない。何か強力な外因が存在していたに違いない。検挙はそのきっかけにすぎまい。主義を捨て、日常生活に沈潜するのならまだ理解できる。だが、何が平田を正反対の道に駆り立てていったのか。

 どうやら平田は逮捕前から運動に幻滅していたらしい。『近藤栄蔵伝』 は「どういう経路で暁民共産党がバレたかについては、不審な点が多く、当時の特高課長にでも聴かなければ真実は分らぬが、同志が逮捕されてからの内容暴露は、平田晋策の口からであった」と言い、平田の性格の弱さを指摘している。だが、艦船研究家の石渡幸二氏は、むしろ「運動からの訣別を期して、進んで自白の道を歩んだ」と推測する。

 だとすると、平田を国防問題に開眼させた直接的な原因は何か。

 ます第一に考えられるのは、『太平洋海権論』 の影響である。冒頭に引用した「国民新聞」の記事を思い出していただきたい。そこには、平田は『太平洋海権論』と題する書物を読んで日米関係の研究に乗り出した、とあったはずだ。『太平洋海権論』とはどんな本なのか。そして、著者のバイウォーターとは何者なのか。

 ヘクター・C・バイウォーター(1884〜1940)はイギリスに帰化した米国人を両親に持つ国際問題研究家・海軍評論家で、第一次大戦中は情報機関に勤務したこともある。『太平洋海権論』 Sea Power in the Pacific はワシントン会議直前の1921(大正10)年に刊行された。平田がきわめてタイムリーな読み方をしたことがわかる。

 残念ながら『太平洋海権論』は未見だが、ここにその小説化版『太平洋戦争』 The Great Pacific War (1925)がある。小山内宏氏『予言太平洋戦争』(新人物往来社)によれば、同書は「日米両国の軍部、軍関係者の間では注目され、とくに海軍においては重視されていた」「米海軍部内では盛んに読まれたし、日本の海軍大学校においてはこれが翻訳され、首脳部および学生のテキストにさえもちいられていた」というから、専門家の間でも真面目に検討されていたようである。軍内部のみならず、原書刊行後間もない大正14〜15年に堀敏一、北上亮二、石丸藤太らによる三種類の訳本がたてつづむに出版され、広く一般にも読まれた。

 中国における利権の衝突から日米は交戦状態に陥り、日本は劈頭パナマ運河の封鎖、フィリピン・グァム占領、カリフォルニアへの潜水艦攻撃を敢行してアメリカに打撃を与えるが、ヤップ島沖海戦に敗れて、なしくずし的にグァム・フィリピンを奪還されてしまう。がぜん形勢有利となったアメリカは、空母を日本の太平洋沿岸に出動させ、艦載機で東京に降伏勧告の伝単を撒きちらす。戦意を失った日本は講和に同意し、物語は次のようにしめくくられる。

かくして平和は遂に克復せられたが、この戦争によつて日本が多大の国帑を費し、夥しき打撃を被つた如く、米国も亦損害軽微ならず、殊にその貿易上の打撃は一朝一夕に恢復する事到底不可能なる程に深刻なるものがあつた。要するに日米両国はいかに戦ひがその国力を疲弊せしむるの甚だしきかを教へられたのに過ぎなかつたのであつた。

(堀敏一訳による)



 というような、きわめて人間的(?)理由からであった。

 どのような経緯で加わったのか不明だが、平田は暁民会の一員だったらしい。その頃、東京の左翼青年は、堺利彦のもとに集まる「山の手派」と、山川均を中心とする「大森派」に分かれていた。平田も暁民会のメンバーも、ともに「山の手派」に属していたので、たぶん堺の家で知りあったのだろう。「国民新聞」には早大退学当時とあるけれど、平田は早稲田大学に在籍したことはない。早大系の暁民会に関係していたので、早大生と誤認されたのではなかろうか。

 大正10年8月20日ごろ、四谷南伊賀町の仲宗根源和宅で、暁民共産党の第1回会合が催された。当日参加した九名の会員たちは、高津が提唱する結社の趣旨にこぞって賛同し、さらに役員を次のように定めた。

 執行委員長・近藤栄蔵、宣伝部長・高津正道、出版部長・高瀬清、調査部長・平田晋策、会計部長・仲宗根源和、庶務部長・山上正義。

 はじめ結社の名称を東京共産党とする意見も出たが、暁民会にちなんで「暁民共産党」とし、GCDの暗号名を使った。またメンバーの勧誘やスパイへの制裁、組織の秘密保持などが決議された。資金は各自の収入に応じることにして、まず近藤が百円を出した。初期党員は総数18人だった。

 党の活動内容としては、兵士・教員・労働者に共産思想のPRを行なうこととし、まず手はじめに秋の大演習に向けて地方から上京してくる軍隊をターゲットにすることに決め、解散した。そして「軍人諸君」「軍人諸君兄弟ヨ」と題する二種類の宣伝ビラを極秘のうちに印刷し、11月の演習のため東京市内各所に兵士が分宿した民家に送りつけ、更に堺利彦令嬢真柄(まがら)や仲宗根夫人貞代、高津夫人タヨ子ら女性陣も手伝って、四谷見附・赤坂見附の電柱にポスターを貼って回った。このビラは、軍隊を無産者階級抑圧の具とみなして、兵士に帰郷を勧告するものだった。しかし企てはすぐに発覚し。12月にはことごとく検挙され、暁民共産党はわずか4ヶ月でもろくも瓦解してしまった。長期活動を続けるには、あまりに計画が粗雑すぎたようである。

 事件の取り調べを報じる「東京日日新聞」大正10年12月2日付の記事に、平田の名前が見える。見出しは「続々検挙された東京共産党 党員は番号の秘密結社」とあり、本文では平田新次と誤記されている。

 秘密結社東京共産党員に就き警視庁の取調は益々峻烈を極め、廿八 日記した同党宣言書に連名してあり、且自白した結果、同庁に拘禁中の左記十二名は一日東京地方裁判所古田検事に依り、秘密結社並に朝憲紊乱の廉を以て起訴されたが、一日裁判所に於て取調の後、他の関係者取調の都合上再び警視庁に留め、大久保課長山田係長等は、同夜深更まで取調べた。
 荒井邦之助、仲宗根源和、川崎憲治郎、山上正義、長谷川辰次、佐野一夫、松本愛啓、平田新次、重田某外二名。

 審理は翌年に持ちこされた。大正11年11月26日附「東京日日新聞」に、「弁護士も呆れる主義者の公判 寄席の積りで大賑ひ」の見出しで、控訴公判に関する記事が載っている。ここでもやはり平田晋と誤字がある。

 昨年十一月二日市内の要所に共産過激主義のポスターを貼附し、又同月十八、九の両日、大演習で上京中の軍隊に不穏文の宣伝ビラを撒布した、社会主義秘密結社党員近藤栄蔵、高津正道、小野兼七郎、荒井淳一郎、大島義晴、平田晋作、仲宗根源和、川崎悦行、山上正義、浦田武男、寺田鼎、武良二、藤岡淳吉、堺真柄、仲宗根さだよ、高津たよの十六名に係る出版法並に治安警察法違反の控訴公判が、廿五日午前十時から控訴院刑事三部の大法廷で立石裁判長、清水検事係、布施、山崎、今村、梅原等の弁護士立会で開廷。
 公判廷には孰れも札付きの主義者連が一杯に居列んで、揶揄的な眼を裁判官に放つてゐる。被告席にズラリと列んだ十六名、初めからガヤガヤ却々賑かである。
 傍聴席は丸で、寄席にでも入つた様な気で、外套を着た侭のもあれば、前の椅子に長々と足を投出してゐるのもある。
 日比谷署の警官は頻に判官に気がねして注意したが、てんで相手にしない。
 裁判長も眉を顰め乍ら愈々身分調べを始める。先づ川崎がよばれる「ハーイ、歳は二十と二」と震声の様な声を出す。寺田は生れた処を尋ねられ「生れた処など覚えてゐる筈がない・・・・・・」と、どちらが調べられてゐるのやら判らない。
 起立を命ぜられた藤岡は悠然と腰をかけ「この侭でよい・・・・・、遠慮なく遣り給へ・・・・・・」と判官も斯うなつては手がつけられぬ。後の傍聴席からは待つてゐましたとばかりに「ヒヤヒヤ」「痛快痛快」とこれに相槌を打つ。秩序も何もあつたものではない。

 結局、近藤・平田・仲宗根・山上らは治安警察法違反で禁固8ヶ月に処せられ、その他の党員は出版法で罰金刑、三女性は無罪になった。なお社会主義運動取締のため治安維持法が制定されたのは、この3年後、大正14年のことだった。




「祖国を出でゝ祖国へ」の執筆

 転向の原因を知る手がかりは、もう一つある。

 昭和2年、平田は政教社の「日本及日本人」に、思想小説と銘打った「祖国を出でゝ祖国へ」を連載する。これは判明する限りで平田の最初期の創作である。社会主義に疑念を抱いて上海に渡った主人公の春日宏吉が、「激烈な民族的軋轢の現実に触れ」て民族精神に目覚めるという筋立てである。アイデンティティーを失い、苦しむ宏吉の姿に、平田がダブる。またこの小説には、平田の実体験らしき場面がある。それは宏吉が新聞の漫画を見て憤慨するくだりで、原文ではこうなっている。


 宏吉が憤慨して蘇州河に投げ棄てた夕刊 Evening Star には Zey Cheng  といふ支那人の描いた漫画が載つて居た。
 富士山らしき噴火山を中心とする孤島に、軍艦と大砲を抱いて泣ける小兵士が日本である。北にはシベリア曠野、南には濠洲の大平原、西には支那大陸、東にはカリフォルニア沃地、いたるところ茫漠たる未開の処女地は雄々しき開拓者の渡来を待つて居るのであるが、ロシアの農奴と支那の苦力と、アメリカの百姓、濠洲の鉱夫は声を揃へて叫ぶのだ。 ”NO JAPS !” と!


 ところがこれと酷似した漫画を実際に中国で見たことを、平田は『軍縮の不安と太平洋戦争』の中で書いている。平田は大正10年10月ごろ、上海に滞在していたことがあった。党務、おそらくはコミンテルンとの連絡が目的と思われ、翌月長崎入港と同時に不穏ビラ事件で逮捕されてしまう。次の文章は、その際に体験した出来事だろう。


大正10年の秋、丁度ワシントン会議の前でありますが、私は支那に居つて、上海から出して居る米国の機関新聞イーヴニング・スターで、厭な漫画を見たことがあります。それは眼の釣り上がつた小さい日本人が、鉄砲を担いで島の上で立往生して居る絵であります。海の彼方でアンクルサムが  ”No Japs” と目を剥いて居ります。濠洲と加奈陀が声を揃へて、”No more Japanese wanted” と叫んで居る。こちらの方では支那人が歯をむいて『不要々々(プヨープヨー)』と笑って居ります。


 これが転向の決定的な原因だ、と断じるわけではない。だが平田の内なる「民族」が、平田をして社会主義を捨てさしめ、軍事研究へと走らせたのではないか。そう考えることで、正反対の道を選んだ理由の一端が理解できるのではないか。



軍事ジャーナリストとしての出発

「祖国を出でゝ祖国へ」で転向宣言(?)した平田は、ひきつづき「日本及日本人」に政治・国際評論を発表し、ジャーナリズムの中に根をおろしていく。タイトルを列記してみると、


中華民国革命運動の一瞥見
昭和3年3月15日号
偽装せる共産主義
〃 5月15日号
支那国民党の逆宣伝委員
   〃 6月15日号
赤化主義者の国軍侮辱
〃 10月1日号
田中外相挂冠せよ
 昭和4年4月15日号
蒋介石と馮玉祥
〃  5月 1日号
たなすゑのみち実修会拾遺
 〃  8月15日号
セネカの粗食論
 〃   9月 1日号
英国海軍の黄金時代
〃  9月15日号
世界海軍の現勢
〃  11月1日号
川島清治郎氏を悼む
 〃 12月15日号



 ご覧のように、昭和3、4年の平田はまだ日米関係を射程に入れていない。平田がアメリカを仮想敵とみなすのは、ロンドン会議以降のことである。昭和5年1月、英首相J・R・マクドナルドの提唱で英・米・日・仏・伊の五ヶ国が参加したこの会議では、英・米・日の補助艦保有数の比率が10 :10 :7と決定された。これを不満とする海軍軍令部が政府を攻撃し、いわゆる「統帥権干犯問題」にまで発展した。

 平田は駐日米国大使ウィリアム・キャッスル(映画「地獄へつづく部屋」のプロデューサー・監督とは別人)に会見を求め、2月12、17日の二日間にわたって大使とロンドン会議に関する意見を交換しあった。そのやりとりは「米国大使再会見記」となって、「日本及日本人」の誌上を飾った。アメリカの対日六割要求について「米国は愈々日本政略の腹であると云ふ印象を、我国民に与へるのみでありまずぞ」と切り込むあたり、若者らしい気概にあふれて、平田の態度は立派である。このインタビューによって、平田の名は一躍高まった。

 軽妙な筆致の海軍読物で知られる福永恭助は、さっそく「新青年」に平田晋策評を書いた。平田は同誌昭和5年9月号の「日本に大海軍党はない」でユーモアまじりに福永少佐へ返答するとともに、自らのいきごみを吐露している。



 福永恭助さんといふ少佐は酷い人だ。7月号の「海軍物語」で、「海軍通の面々」の中に僕を持して来て、『この人のやうな明確な国防観念を持つた人は軍令部や海軍省にもタントは居ないだらうと僕は思ふのである。』などとおだてゝ下さつたのは有難いが、『この人は鼻ッ柱の強いことは「米国怖るゝに足らず」の池崎忠孝君もハダシで逃げ出すといふ人物だから「新青年」の読者とは大分縁が遠い』といふ。一般に至つては全く怪しからぬ。

(中略)

「海軍物語」が餘り癪に触つたから「太平洋戦争」(会津註『軍縮の不安と太平洋戦争』)を一冊福永さんに進呈した。すると一世の名翻訳「三等水兵マルチン」を返しに下さつた。これで僕の心はとけた。日本評論社の中島君が『福永さんが「太平洋戦争」を読んで、どこからこんな材料を手に入れたのだらう、つて大変愕いて居られましたよ。』と知らせて呉れた時、僕は嬉しかった。大将や中将閣下のオホメも有難いが、福永さんのオホメは更に嬉しい。何となれば「太平洋戦争」はモダンの諸君に読んで貰はうと思つて書いたものだからである。その為に出版書店も新進の天人社にし、本の装幀にも新機軸を出したりした。文章も考へた。それだから、モダンの福永少佐が褒めて下さることが有難いのだ。古くさい連中には何も云はんでも、彼等元来戦争が好きだ。たゞ戦争を毛嫌ひする今時の若い連中、(怒り給ふな、僕もその一人だ。)に、太平洋戦争の啓蒙をやると云ふことが一番大事ではないか、と僕はかう考へたのである。そして古くさい連中からどう思はれようが、どんな悪口を云はれようがいゝ、僕は断然新軍国主義(モダン・ミリタリズム)を青年の間にプロパガンダしてやらうと決めた。



 福永恭助が感心したのは、ひとつには平田が軍外部の民間人だったということもあるだろう。当時の軍事ジャーナリスト・軍事小説家には、軍出身者が圧倒的に多かった。たとえば海軍に限ってみても匝瑳胤次(少将)、水野広徳(大佐)、広瀬彦太(同)、小沢覚輔(同)、中島武(少佐)、川田功(同)らがいる。

 現役海軍士官が文章を公にするには海軍大臣の許可が必要であり、また内部の人間という立場上、直言はむずかしい。その点民間人には、程度問題とはいえ多少の余裕がある。福永少佐の言う「鼻ッ柱」の強さとは、立場の違いから生じる間隙を平田が突く衝いたものではなかろうか。


 

Copyright © 怪美堂 All Rights Reserved.