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平田晋策の生涯

(2)


会津信吾

少年誌への登場

  平田の目論見は当たった。わかりやすく、説得力のある文章と、あえて日本の国防体制の弱点を指摘した上でのオープンな論理展開。そして具体的数値をあげて分析する真摯な態度が買われたのだろう。昭和7年、平田に少年誌からの引きがきた。“帝国海軍号”を謳う「少年倶楽部」5月号に対話形式で日米戦を論じた「日本もし戦はば」を発表した平田は、つづいて同誌に次のような軍事読物を寄稿している。

若し日本が敵の飛行機に襲はれたら
 6月号
風雲暗し十年後の満洲
7月号
我が陸軍の大威力
11月号

 この間、8月には「少年倶楽部」発行元の大日本雄辯会講談社から『われ等の陸海軍』を書き下ろし刊行している。


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  日本の軍隊を恐れない国は世界にない。軍艦でも大砲でも飛行機でも、今ではみんな日本の技師の手で作られるのだ。しかもそれが素晴しく強い武器だ。それをもつて戦ふ日本の兵隊は、また忠勇無比の兵隊である。併し今は決して油断できない時だ。米国やロシヤを始め世界各国も準備をしてゐるではないか。もしも戦争が始つたら、日本の軍隊はどんな組織(くみたて)で、どんな武器をもつて、どんな風に戦ふか。今の日本はどれくらゐ強いか。その外、日本の国民としてゼヒ知つてゐなければならない大切なことを、面白く痛快に分りやすく書いたのがこの本です。この本を読むと、日本の国がしみじみと有難くなり、愛国の熱血が湧いて来る。

(広告文より)



 同書出版のいきさつを、当時の講談社社員・川上千尋氏は次のように回想している。


 満蒙の風雲が急を告げ、軍事ものが大人の読物ではかなり読まれつつありました。そのころに一つ子供の本で、幅を拡げようじゃないか、ということになったわけです。その一つとして、軍事ものをやろう。それには平田晋策の「陸軍読本」が評判だから、平田先生にお願いしよう。たまたま「少年倶楽部」にも執筆されていたときですから、交渉しまして、向うでも乗り気になったわけです。それがいい工合に当たりました。
定価一円五十銭で、十二万四千出ました。あんな固い物が、と思ったが、よく売れました。

(『講談社の歩んだ五十年 昭和編』)

 講談社の思惑どおり、平田は完全に少年ものの世界で成功した。




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映画化された『われ等若し戦はば』

  当時、いかに平田の人気が高かったか。その傍証として、映像メディアでの活動を紹介しよう。

  昭和7年という年は、上海事件や血盟団事件、五・一五事件など、軍部の擡頭を物語る事件が集中し、国民に「非常時」を意識させる一年だった。京都太秦の新興キネマは、こうした時代の空気に便乗して『世界の戦慄国防篇 日本もし空襲を受くれば』と題する映画を製作、昭和8年2月に公開した。監督は田中重雄。出演は浅田健二、牧英勝、生方一平、桂珠子ら。原作・脚本は上島量という人が担当している。そのストーリーは、

 萩原克己と西尾順弥は幼友達で、ともに航空界に未来を嘱望されてゐた。克己は富豪桜井家の許に新機の研究に尽してゐたが、いつしか桜井家の令嬢淑子に恋した。しかし淑子は西尾を愛してゐることを知つた克己は、すべてを諦め、多年蘊蓄を傾注してものした著書『翼の国防」を西尾に与へた。そのために西尾は意外な成功を捷ち得、一躍航空界の鬼才として謳はれた。しかしこの真相を克己の助手柴谷は知つていた。柴谷の妹お里はひそかに克己を恋してゐたが、藤村子爵家に女中を勤めてゐるうち、好色漢藤村の毒牙にかゝつてしまつた。お里は一身を挺して、克己の研究のため尽力した。やがて克己辛惨は報ひられ戦闘機流星号は完成した。時恰も某国との交渉険悪となり風雲急を告げた。淑子が薄々真相を知りはじめた頃、西尾も呵責と焦燥に堪へかねその真相を打明けやうとした。時に、突如敵機は帝都を襲撃した。奮起した西尾は決死的猛襲と巧妙なる機体操縦術とをもつて、しばしば危機を防ぎ、柴谷は発電所の万全を期して共に仆れた。ここに於いて親友の弔合戦に克己は猛然と逆襲を企てた。黎明の空に流星号の雄姿は輝く。

(「キネマ旬報」第459号)

 といった調子の軍事メロドラマものだった。

 東京空襲という素材は、すでに日活映画『悪夢』(大正9年)で描かれており、必ずしも目新しいものではない。また、そのスペクタクル・シーンも、『地獄の天使』や『天国爆撃隊』に比べるとかなり見劣りががする、と映画評論家の友田純一郎は記している。露骨なキワモノ映画だが、それでもタイミングの良さとセンセーショナルな題名が功を奏したのか、かなりヒットしたようで、正月映画以上の興行成績をあげたという。上映館では、クライマックス・シーンで「日本万歳!」とさけぶ観客も多かったというから、それなりのアジテーション性はあったのだろう。『世界の戦慄』のヒットに気を良くした新興キネマは、架空戦争映画の第2弾を企画し、オリジナル・ストーリーの執筆を平田に依頼する。脚色は前作と同じく上島量。これが監督初体験の上野信二郎がメガホンをとった。キャストは河津清三郎・桂珠子・中野英治ほか。

 太平洋上波荒く日×両国風雲急を告ぐるの秋。一日の休暇をピクニックに楽しむ高木一等水兵は、要塞地を撮影する怪猶人バサロフの姿を認めて追跡するが遂に見失つてしまふ。間もなくそのバサロフはある夜宮崎軍需品工場に姿を現はし主要書類を盗んで逃走する。宮崎工場主徳平は重要機密書類に心を痛めながら、娘弥生と共に伊号六十五潜水艦に乗組む息子中尉の帰りを待つてゐた。弥生のよき友であり東都社交会の噂の人×国大使館附武官クラップ大尉は、あるホテル舞踏会の夜、バサロフから宮崎工場の機密書類と要塞地写真を買取つたが、弥生の父の工場の秘密と知つて書類を弥生に与へた。その時楽しい舞踏会の夢を破つて突如日×国交の危機を知らせる号外の鈴音が姦しい。ある嵐の夜、弥生はたしかにクラップが邸に忍び込んだが、闇の中に彼のピストルに傷いた。弥生が病床に苦しんでゐる時、×国全艦隊は遂に根拠地を出動し、自衛上吾が連合艦隊にも総出動の命が下つた。

(「キネマ旬報」第459号)

『われ等若し戦はば』と題されたこの映画は、8月1日に浅草・電気館ほか新興系配給館で封切られた。8月9日には第1回関東地方防空大演習が実施され、タイミング的にも申し分なかった。だが『太平洋爆撃隊』や『米国撃滅艦隊』など複数のハリウッド製戦争映画から海洋シーンを流用したため、敵艦・僚艦の区別がつかなくなってしまい、意味不明の凡作にとどまった。「キネマ旬報」の批評欄でも、「映画の何処にも平田晋作(ママ)氏を煩はしたものがあるのか判断し難い出来栄へ」で、「どうして、誰が誰とたたかってゐるのか、わからない」と手厳しい。二週間後にはMGMの未来戦映画『男子戦はざる可らず」 Men Must Fight  が公開されており、新興作品の興行価値に水を差したものと思われる。

 なお、平田は同月『われ等若し戦はば』という単行本を大日本雄辯会講談社から出しているが、これは陸・海・空の三方面の近未来戦を想定した少年向けのノン・フィクションで、映画とは何の関係もない。

「われ等若し戦はば」扉   「われ等若し戦はば」表紙



続々と小説を発表

 昭和8年になると、平田はフィクションにも筆を染める。前述のように、創作にはすでに昭和2年の「祖国を出でゝ祖国へ」があるが、今度は得意の専門知識を生かした軍事小説である。この年1月号から「少女倶楽部」に連載開始した「太平洋波高し」を皮切りに、続々と小説を発表する。

 判明する限りの作品を挙げると、

太平洋波高し 少女倶楽部 昭和8年1〜5月号
戦へぬ米国海軍の悶え 日の出 昭和8年2月号附録
日米は斯く戦ふ 日の出 昭和8年4月号附録
東の天紅なり 講談倶楽部 昭和8年7〜10月号
鉄血日本軍の強襲(翻訳) 冨士 昭和8年12月号
昭和遊撃隊 少年倶楽部 昭和9年1〜12月号
紅の軽騎兵 講談倶楽部 昭和9年1〜4月号
迫れる日露大戦記 日の出 昭和9年2月号附録
黒潮秘密境 講談倶楽部 昭和9年6〜8月号
最後の勝利
(山中峯太郎・福永恭助との合作)
日の出 昭和10年1月号附録
怪魔火星戦隊 冨士 昭和10年4〜10月号
南海の軽騎兵 新少年 昭和10年4〜12月号
海底百米 小学五年生 昭和10年4月〜11年3月号
深山の秘密 少女倶楽部 昭和10年6月号
新戦艦高千穂 少年倶楽部 昭和10年7月〜11年3月号
白百合の妻 講談倶楽部 昭和10年9月号
沙漠の騎兵隊 日本少年 昭和11年1〜4月号

 こうして見ると、意外なことに発表舞台は必ずしも児童雑誌とは限らず、むしろ作品数は「講談倶楽部」「冨士」「日の出」など大人向きの大衆総合誌の方が多いことに気がつく。ただ、これら大人向きの雑誌に載った作品は、内容的には少年ものの延長といった印象が強く、読者に少年をも含んでいたであろうことは、容易に想像がつく。現代風にいえば、ヤング・アダルトものというジャンルに包括することが出来るだろう。

 個々の作品に対する説明は省略するが、若干のコメントを加えておこう。

「鉄血日本軍の強襲」は翻訳もので、原作は米国陸軍予備仕官・軍事評論家のロウエル・M・リンパス「我が咽喉を扼する褐色の魔の手ーーアメリカの歴史にあり得る頁」 Brown Hands at our Throat ! : Potential Pages from American History なるもの。平田は語学が達者だった(あるいは有能なブレーンを擁していた)らしく、評論の中でさかんに欧文からの引用を行なっている。しかし全文まるごと翻訳というのは、これ一篇しか知らない。

 反対に外国語に訳された作品もある。吉林省発行「日本文学」1983年第1期の「五四運動以来日本文学研究与翻訳目録(続)」に、平田晋策『未来的日俄大戦記』(思進訳、北京・民友書局、1934年刊)の記載がある。題名から察すると、これに該当する作品は「迫れる日露大戦記」のようである。

 ついでに平田と中国の関わりについて、書いておこう。暁民共産党時代を別にすれば、平田の訪中がはっきり確認できるのは、昭和8年2月の上海・南京視察旅行である。

 上海では黄浦江上に浮かぶ軽巡洋艦「寧海(ニンハイ)」を参観し、中国海軍省で海軍次長・李世甲中将と面会し、さらに陸戦隊の酒井参謀少将、日本から平田が引率して来た大学の国防研究会のメンバー(これはいったいどういう組織なのか、実態がわからない。たぶん平田が顧問の学生グループだと思うのだが)とともに郊外の江湾鎮戦跡を尋ねている。南京では八十七師の演習や、揚子江に碇泊する日本の第三艦隊を訪れ、民国軍の幕府山砲臺も望見して、飛行艇「安慶」で上海龍華飛行場へトンボ返りをして帰国した。この旅行記は「私の見て来た支那の陸海軍」として、「少年倶楽部」昭和8年5月号に載っている。




二つの「昭和遊撃隊」


「昭和遊撃隊」は平田の処女長編で、しかも「新戦艦高千穂」と並ぶ彼の代表作である。いや、大人向きの子供向きを問わず、日本における未来戦記の最高傑作かもしれない。それほどこの作品はドラマチックで、迫真性があり、感動的である。最終的に、すべてが潜水艦富士の「肝腎のあの点」に絞りこまれていく物語構成や、それが明らかにされて今までの悲壮感がいっきに崩壊するカタルシスは、ストーリー・テラーとしての平田の非凡な才能を証明している。

昭和遊撃隊(箱)

アメリカの煽動で、中国空軍が揚子江上の日本の艦隊を無警告爆撃し、その報復に日本が米国艦を撃沈したことから、日米太平洋戦争の火蓋が切って落とされる。

 以下、物語は絶対的物量差で臨むアメリカに、少数精鋭技術で対抗する日本というテーマに沿って、平田の想定する太平洋戦争のプログラムが進行していく。日本側の地名は実名そのままだし、実在の艦船が登場した。人名は一部をのぞいて仮名だが、すでに交戦中の中国側はさしさわりなしと判断したのか、張学良・馬占山らは実名で出てくる。年代も近未来が設定され、現実と空想が交錯する、きわめてリアリティーの高い内容だった。少年小説で未来戦記をここまで徹底してリアルに描いたのは、画期的なことだった。

 一例をあげると、「昭和遊撃隊」で日本側の連合艦隊司令長官・末山大将は、あきらかに海軍大将・末次信正がモデルになっている。本文では「末山大将は吉田松陰や山県有朋は長州藩士で、長州・徳山両藩とも維新後は山口県に併合されている。また末次が連合艦隊司令長官の地位にあったのは昭和8年末から丸一年、ちょうど「昭和遊撃隊」の連載と同時期になる。こうした細かな演出が、読者を小説世界へひきこんでいくわけである。ちなみに平田と末次とは、個人的に親交があり、平田の葬儀で友人総代を勤めたのは、ほかならぬ末次であった。

 ところが、「昭和遊撃隊」には、内容の異なる改作版がある。昭和10年2月、大日本雄辯会講談社から出た単行本がそれである。

 オリジナル版では日本とアメリカの対戦だったのが、単行本では日本人と同祖の海洋民族国家 “八島王国” と、南米の白人国 “アキタニア” に変わった。艦船名も「金剛」が「猛虎」、「比叡」が「北斗」などと全面的に改められた。揚子江の「泥色の水」がカルタゴ港の「エメラルド色の水」になり、「わが海軍航空本部」といった一体感のある表現も、単行本では削られた。せっかくのリアリティが、大幅に殺がれている。なぜ改悪されたのか。考えられる理由は、当局の検閲をクリアするための措置、ということである。旧憲法下では、「出版法」「新聞紙法」にもとづく内務省の検閲が認められていた。検閲の対象は「安寧」と「風俗」に二分され、前者の基準には「戦争挑発の虞れある事項」が含まれている。未来戦記はこの項目に照らし合わせチェックされるわけである。たとえば、「昭和遊撃隊」の前後数年間に、次の未来戦記が発禁処分に遇っている。



アメリカ総攻撃 F・ギボンズ 昭和7年
打開か破滅か興亡の此一戦 水野広徳 昭和7年
日米開戦 米機遂に帝都襲撃? 綿貫六助 昭和8年
日米若し戦はば 作者不明 昭和9年
少年肉弾戦 村田義光 昭和10年
危し! 祖国日本太平洋の激戦 津乃田菊雄 昭和11年
太平洋行進曲 長野邦雄 昭和12年
太平洋非常艦隊 宮島惣造 昭和12年
日米大海戦 豊島次郎 昭和12年
予言日米戦争実記 佐久間日出男 昭和12年



 反戦思想ゆえに左傾人物としてマークされていた水野広徳はともかく、「昭和遊撃隊」と同年「少年少女譚海」に連載された長野邦雄の日米未来戦もの「太平洋行進曲」までひっかかっているのだから、楽観はできない。国内だけでなく、対外的に未来戦記が問題をひき起こしたケースもある。昭和8年暮、「日の出」新年号附録の福永恭助『小説 日米戦未来記』が、輸送先のホノルル税関で全冊没収されるという事件がおきた。フィクションの中の仮想敵国が、現実に国家間の緊張を招いたわけである。

 検閲に大人もの、少年もの、フィクション、ノン・フィクションの区別はない。むしろ描写が密な分だけ、フィクションのほうが挑発的と受け取られかねない。オリジナル版「昭和遊撃隊」をそっくり単行本化すれば、発禁の憂き目にあう危険性は充分にある。

昭和遊撃隊 発禁の予感は、すでに「少年倶楽部」連載中から、うすうす持っていたようである。アメリカの表記が途中から○国、A国と変わるのは、そのためだろう。実は平田はすでに一度、発禁処分を喰った苦い経験があった。昭和5年に、『売国的回訓案の暴露』という単行本が安寧秩序紊乱の烙印を押されたのである。その記憶が、平田に改稿を決意させたのだろう。同時に講談社編集部からの要請もあったに違いない。人気小説が発禁処分を受ければ、「少年倶楽部」のイメージ・ダウンにもつながりかねない。おそらく両者の危惧懸念が一致して、自主改稿に至ったものと思われる。

 もっとも問題なのは当事国をはっきり日本とアメリカにしてしまったことだったようで、オリジナル版と単行本とでは基本的なストーリーに大差はない。どうやら戦略的見地からよりも、表現に難のあることが問題だったらしい。それにしても舞台を架空国に置きかえただけで通用するとは、ずいぶんおかしな話である。いかにもタテマエにこだわる役人仕事、といった印象をうける。

 余談になるが、平田が『売国的回訓案の暴露』で筆禍事件を起こした翌昭和6年には、かつての同志である近藤栄蔵が、『失業反対闘争方針書』と『無産党出直すべし』の二冊を発禁にされている。同じ主義のもとに活動した二人が、まったく正反対の立場で行政処分を受けているのは、人生の巡り合わせを感じさせられる。



立候補・そして受難

 「昭和遊撃隊」の完結から約半年後、平田は「新戦艦高千穂」の連載をスタートする。北極秘密境の領有権をめぐって日・米・ソが火花を散らす海洋冒険譚で、明治19年に謎の失跡を遂げた巡洋艦「畝傍」が登場するなど、伝奇的要素もたっぷり含まれている。

 昭和11年1月末、「新戦艦高千穂」の最終回をあわただしく書き上げた平田は、2月の第19回総選挙に立候補するため、郷里の赤穂に向けて東京を発った。兵庫の選挙区は五つのブロックにわかれており、赤穂郡は姫路市や飾磨郡と同じく、第四区に区分されていた。定数は四。平田は昭和会の新人候補だった。昭和会は政友会を脱退した望月逓相、内田鉄相、山崎農相の三人が協議して、前年の12月に結成したばかりの新政党だった。

 昭和11年1月25日、午後3時10分。神戸で手続きを済ませた平田は、選挙区の赤穂郡めざして、阪神国道をタクシーで走っていた。その時、事故が起きた。

 平田氏が自動車で奇禍
【御影電話】 二十五日午後三時十分阪神国道でトラックとタクシーが丁字型に衝突双方とも車体を大破、タクシーの乗客東京市外砧村成城一二、軍事評論家平田晋策氏(三八)は前額部に治療三週間の負傷、其他三名負傷タクシー運転手も前額部に打撲傷を負った、なほ平田晋策氏は衆議院議員に立候補するため廿四日来神供託を済ませ郷里赤穂へ帰る途中奇禍を蒙ったもの。

(「東京朝日新聞」昭和11年1月26日附)


 全治三週間と報道された傷は予想外に重く、容体は好転することなく三日後の1月28日、ついに平田晋策は31年の短い生涯を閉じた。資金を入れた鞄の口金で額を強打したのが、負傷の直接の原因という。このため「日本少年」1月号から連載を始めたばかりの「沙漠の騎兵隊」は、4回で中絶した。平田にとって、少年向け作品では初めての “大陸もの” だっただけに、未完に終わったことが惜しまれる。

父平田晋策儀 去る一月二十五日不慮の奇禍に罹り手当ての効なく二十八日午後八時遂に死去
仕候生前の御厚情を拝謝し茲に御通知に代へ謹告仕候也
追而三十日午後三時より同五時迄の間赤穂町別院に於て仏式依り告別式相営み可申
尚御香儀御供花等固く御辞退申上候
昭和十一年一月廿九日 兵庫県赤穂郡赤穂町
長 女  和歌子
親戚総代 平田雄一
友人総代 末次信正

(「東京読売新聞」昭和11年1月30日附)


 第19回総選挙は22日の開票の結果、民政党25、政友会171、昭和会22、社会大衆党18、国民同盟15、中立その他35、という数字に終った。18名の当選者を出した社大党は、昭和7年に社会民衆党と社会労農大衆党が合同して結成された合法的な社会民主主義政党だが、しだいに右傾化し、やがて全体主義に協調するようになる。

 四日後の2月26日未明、陸軍皇道派青年将校を中心とする反乱部隊は雪中に蹶起し、斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監らを殺害して、帝国議事堂・警視庁一帯を占拠した。事件収拾直後に組閣された広田内閣は、軍の要求を大幅に取り入れて成立し、軍の内閣介入の端緒ほつくった。

 時代は、もはや引き返すことのできない道に踏み込んでいた。




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