2003年  3月
3月31日(月)
 會津信吾さん&松中正子さんと中野でお会いする。會津さんご推薦の台湾料理店、味王で会食。これからのあれこれを相談し、怪美堂の裏話などを伺う。會津さんはきちんと読んだものだけコメント付で商品としてアップされている訳だが、その姿勢といい値段設定といい、つくづく怪美堂は良心的なオンライン古書店だと思う。最近は常連客も増えてアップして1時間もたたないうちに注文が入ることさえあると言う。すぐ売れてしまうものが多くて、なかなかネット上の店頭在庫を増やせないのが、悩みだそうだ。が、他の書店のようにズラッと書名と値段だけ並べるようなやり方は毛頭考えておられないらしい。どうしてもほしい本があったら、謙虚に内緒に會津さんにお願いするしかない。といい訳で今日も探していただいている Apeものとスパイ小説研究書とを格安で譲っていただいた。

 さて、1年間連載してきた「J-Ape 欧州日記」も今日でおしまい。けれども、怪美堂では今後もこちらのコーナーを残して下さるそうなので、4月からは「滞日最新報告」を時折掲載させていただく共に、デジタル画像等を追加した「欧州日記」の改訂版を順次アップしていく予定です。新コーナーは4月第2週から。8月にはワルシャワでの欧州日本研究学会出席のため再渡欧するので、「新欧州日記」も載せたいと思っています。今後ともアクセスしていただければ何よりです。それでは、また。
3月29日(土)
 11ヶ月半ぶりに日本の競馬新聞を買う。ヨーロッパにいる間は意識的に日本の競馬に触れないようにしてきた。インターネットのおかげで、その気になれば日本にいるのと全然変わらないレベルで幾らでも情報が入るのだが、あえて一年間競馬と離れることで、どれだけ分からなくなるものか試してみたのだ。競馬の一年は早い。大きく素質を開花させたり新たな適正を発見したりして思いがけぬほどの活躍をしている馬もいれば、本当に同じ馬なのかと疑いたくなるような惨敗を重ねている馬もいる。引退した馬、故障で休んでいる馬も多い。クラシックを争ってゆくのは名前さえ聞いたことがない馬たちだ。

 明日は中京競馬場で、春のGIシーリズ開幕を告げる高松宮記念が行われる。圧倒的一番人気のショウナンカンプの前走阪急杯圧勝の映像もまだ見ていない。この馬が最初から最後まで逃げ切るのを黙って見るだけ、というのが大方の見解だろう。ただ、馬券の常識で言うならば人気の逃げ馬は危ない。人気ほどに固くはない。アメリカからの遠征馬やデムーロ鞍上のアグネスソニックあたりが執拗に絡んできても、本当にペースを乱さず逃げ切れるのか。前に行った馬は全部つぶれる。だが、超高速決着では後から行く馬は差し届かない。リスクを避けて馬券を買うのを見送るのがたぶん一番賢い。それでももし、勝負に出るとすれば…。

 と、ここまで頭を巡らしてきて、やっていることは一年前とまったく変わってないことに気づく。目の前の状況は大きく変わったとしても、関わる人間の性格や考えなど一年くらいで変わるものではない。いや、馬券は当たらないといった、大きな状況もまた何一つ変わってはいまい。それでも、一年前とはすっかり様変わりした眼前の状況を戸惑いながら見据えつつ、新たな関係をもう一度築いていくしかない。そうした機会を与えられたのだと解釈するしかない。そう覚悟を決めることだけが、大きく何かを変える可能性へもつながってゆくはずなのだから。
3月27日(木)
 都立大学安田孝研究室で16時から『妊娠するロボット』合評会。パリへ送ってもらった『任ロボ』は全冊むこうで人にあげてきてしまったので、書店で購入してからいこうと早めに家を出る。が、池袋の大型書店のどこを見渡しても『任ロボ』がない。文芸書にも現代思想にもロボットの棚にもない…。日本からのメールでは平積みになっている本屋も結構あると聞いていたのだけれど。失意のうちに、30分ほど遅刻。會津さん&松中さんは残念ながらいらっしゃらなかったが、他のメンバーたちとは約一年ぶりに再会。きびしく批評を闘わずというよりは、会としての今後の対策と展望の検討。まあ、皆の手許に届いた礼状も好意的なものが多かったというから、あまり気を病むことはないのかも知れない。

 久しぶりに訪れた南大沢の駅もずいぶんと様変わりした気がする。二日続きの好天で花粉の飛ぶ量も多いのだろう。長旅の疲れで体力が多少落ちていたせいか、すでに症状が出始めている。加えて、眠り方がパリにいた時とはがらっと変わった。まるで垂直に闇の中へと落下するように深く寝込んでしまう。夜中にいったん目が覚めるが、再び寝込むと起きるのは午後1時をまわっている。時差ぼけという感じは全然しないのだが、しばらくはあまり使いものになりそうもない感じだ。
3月24日(月)
 午前9時30分過ぎ、成田空港に到着した。フライト時間は予定通りだったが、滑走路の追い風が強すぎるということで、いったん高度を上げてからの再チャレンジで着陸。この微妙な遅れには、日本でのこれからのあれこれが早くも暗示されているような気がしてならない。

 パリの部屋を出たのは、フランス時間で前日の7時半頃。結局荷物がケースに全然入りきらず、衣類などかなりのものを捨てたが、それでも大きなバッグ二つにショルダーと手提げの紙袋まで抱えることに。空港に向かうだけでもうくたくたで、このときばかりは二度と海外はこりごりという気持ちにもなった。当然ながら荷物重量オーヴァーの追加料金も払う。その金額の方が格安航空券代よりも上という、何とも愚かしい帰国引越となってしまった。ちなみに航空便別送せずに持ち帰ることとしたものの大半は、帰国後直ちに必要となるスパイ小説関係の資料多数と、この日記の空白部分を埋めるためのパンフやガイドブック類。

  10時40分シャルル・ド・ゴール空港離陸、10時40分シャルル・ド・ゴール空港離陸、12時50分ウイーン空港到着。ちょうど1時間の乗換時間で、成田行きに搭乗。全日空と業務提携しているためであろうか、オーストリア航空機なの に離陸時の映像の次には、NHKニュースが前席背もたれ後のモニター画面に流れる。これが日本でのイラク報道のパターンなのかと不思議な気分でしばし眺める。日本到着が朝なので、機内ではまず夕食が出て、夜食にミニのカップラーメン、さらに到着約2時間前に朝食が出る。が、ヨーロッパ時間にすっかり順応している体は、夕食を食べワインを飲んでも少しも眠くならない。結局フライト中一睡もできず、かといって一人こうこうと明かりをつけて本を読んでいる訳にもいかず、『エンペラーのクラブ』『ハリーポッター2』と日本語吹替版の映画を2本観て時間をやり過ごした。前日もあまり寝ていなかったせいもあり、成田到着頃から今度はぐったりと眠くなってしまう。空港で大きな荷物の宅配を頼んだ後、京成線、JR山手線、西武池袋線と乗り継いで、実家のある大泉学園駅へと向かう。駅で降りて驚いた。わずか11ヶ月の間に駅構内も駅前もすっかり様変わりしていたからだ。日本での時間の流れ方はやはり早い。完全に浦島になった気分だ。この遅れを抱えながら、今日からどう日本で生きてゆけばいいのだろうか。
3月22日(土)
 これがパリから送る最後の日記となる。ここ数日はさすがに大変で、日記を書く余裕もなかった。抜けている日の分は帰国後にアップする予定だが、それでも滞欧日記と言えるのか、悩む気持ちもある。今日は坂井セシルさんのお宅に本をお返しに伺い、ケーブルテレビのチューナーを返しに行き、さらにエスパス・ジャポンにも本を返却して、ようやく少しだけ時間ができた。だが、結局お土産ひとつ買えなかった。もし買えたとしても、すでに持ちきれないほどの荷物量でどうしょうもなかった気がするが。

 日本から最近届いたメールには、決まりあわせたようにイラクの戦争のことが一言触れてある。何とのんきなとお叱り(?)のメールまであり、正直困惑した。おそらく日本では戦争報道がメディアを席巻しているのだろうし、それゆえそのことに触れるのはしかたがないことだとも思うのだが、違和感は残る。こんな時に帰国する気持ちはどうですか?とエスパス・ジャポンで問われ、思わずそのことを口にしたら、同感された。今日のレパブリック広場には若者たちが次々と集まり、反戦のビラが配られ、シュプレヒコールが響いていた。だがその一方、カフェで昼間からのんびりとビールを飲んでいる人たちや、公園のベンチで語り合い抱擁しているカップルもいる。そのいずれもがパリの風景なのだし、どちらか一方だけを肯定したくはない。

 だがいま、何かを書いたとしても、日本のコンテクストを共有していない自分の言葉は、せいぜい誤解か反発を呼ぶだけだろう。それなら帰国後ならば書けるのか。またたく間に日本語報道の言葉の渦に巻き込まれてしまうことによって、おそらくいま自分の胸にかたちになりきれないまま宿る言葉も全然変質してしまうのではないか。言葉にできない言葉を抱えながら、それでも明日は日本へと向かう飛行機に乗らなければならない。

 ともあれ、ここまでこの日記を読んで下さった方には心からお礼申し上げます。とはいえ、帰国と共にこのコーナーがなくなってしまう訳ではないので、またアクセスしていただければと。それでは、次は日本から。
3月18日(火)
 こちらに来てからは新聞も読まなかったし、テレビのニュースもそう頻繁に見てきたわけではない。CNNやBBCを見れば、「イラク危機」の情報は取れる。けれども、そこで展開される流れに同調できなくなってしまったためなのか、言葉がちゃんと耳に入ってこない。住んでいるフランスのテレビ局のものならまだ多少大丈夫だが、いかんせんこちらのフランス語力が低すぎる。それにこのとらえどころのなさは、語学力の問題ではないように思う。テレビをつけっぱなしにしておいても、言葉は通り過ぎてゆくばかりだ。日本に着けば否応なしに、日本語メディアの流す情報の渦に巻き込まれてゆくだろう。だが、それまでの数日間を、これほど稀薄な感覚で過ごすことになるとは思わなかった。

 帰国準備もそろそろ本腰を入れないとならない。先日宅配業者に日本へ送る荷物を4箱持っていってもらったのだが、それでは入りきらない本が出てしまった。予約しておいた箱数より減る分にはいいそうだが、増えた分は持っていってもらえない。残った本をリュックに詰め、地下鉄ピラミッド駅近くのクロネコヤマトへ持ってゆく。その場で箱を買い自分で詰める形ならば、予約なしでも受け付けてくれるからだ。11時半までだと2ユーロの割引。船便25キロまでで箱代を入れて93ユーロ。続いて、通りを隔てた向かいの日通へ。2箱からしか受け付けてくれないが、何箱も船便で送るなら日通のペリカン便の方が安い。先日持っていってもらった4箱分315ユーロを支払う。

 12時の開店を待ってアンドレ・マルロー広場のル・ドーファンというレストランに入ってランチメニューを食べた後、チュイルリー公園内のジュ・ド・ポーム国立ギャラリーで「マグリッド」展を見る。でもって、カタログ画集を買ってしまい、また再び送らなければならない荷物が増えてしまう。
3月17日(月)
 帰国まで一週間を切った。来週のこの時間には日本にいるのかと思うと、不思議な気分だ。すでにパリに名残惜しさを感じる段階は過ぎ、日本に帰ってからのあれこれをとりとめもなく考える。帰国後すぐ取りかからなければならない仕事のためのメール書きで一日が過ぎてしまう。買い溜めてあった食料を片づけようと、スパゲッティをゆで、クノールのソースをかけて食べる。残り少ないパリでの日々なのだから、日本に帰ってからでも食べられるものなどいいではないかと思いながらも、捨てるのがついもったいないと感じてしまうのだ。
3月16日(日)
 十重田裕一さんに、在外研究はやはり国文学者には敷居が高いから、どうすればいいか本を書いたらどうかとおだてられた。とても商品になるほどの読者がいるとは思えないけれど、心覚えをここに少しだけ書いてみることにする。

(1)語学力はさほど必要ではない。

 今回の自分の在外研究における最大の業績(?)は、なんらフランス語ができなくてもパリで楽しく暮らせるということを、身を持って実証してみせた点にあると思っている。ヨーロッパ主要都市ならば、中学生程度の英語力があれば何とかなる。もっと言えば、東京でなら仮に一言も口をきかなくても生活の用を足せるように、大都市では慣れれば言葉なしでも大丈夫なのだ。もちろん言葉ができるに越したことはない。また、フランス語しかできない相手と対応するのに難渋したこともあるにはあるが、そうした大変さも異国ならではの体験だと前向きに受け止めるタフさの方が大事だと思う。

(2)人脈と土地勘がむしろ重要。

 フランス語が全然できなくても在外研究先にパリを選んだのは、十数年前に一月ほど滞在したことがあったからである。短期間とはいえ、そこで楽しく時をすごせたという記憶が支えになってくれたのだ。また、数年前に坂井セシルさんが在外研究で日本にいらした折、早稲田大学教育学部の金井景子さんの研究室でお会いしていたことも大きかった。今回十重田さんにたとえ数日でもパリに来てみてはどうかと勧めたのは、そうした体験に拠るところが大きい。いくら人から話を聞いたり手紙でやりとりをしたりしても、やはり会ったこともない人を当てにして見知らぬ土地まで来るのでは不安も大きいと思う。また、実際に自分が住む都市を前もって歩いておけば、そこでの暮らしをある程度イメージでき、準備もしやすくなるからだ。

(3)在外研究にもいろいろある。

 坂井セシルさんに研究者ビザを発行してもらうのに必要なパリ第7大学からの招聘状をお願いした時、「お金もでないかわりに、何の拘束もありません」とメールでご返事をいただいた。アメリカの研究機関やアジアの大学などの招きで異国に行くのと、パリやロンドンで滞在研究者として暮らすのとでは、たぶん大きく異なる面がある。坂井さんはご厚意からいろいろなイベントに声をかけて下さったが、極端に言えば滞在許可証申請のため以外は、一切大学に伺わないというようなことだって可能だった。あえて言えば、ヨーロッパの日本研究は日本からの滞在研究者を必要としてはいない。お客さまとしてもてなしてもらうことなど期待できない。その代わりに「自由」はある。もちろん「自由」であるということは、大学が代行してくれた滞在許可証申請以外のあれこれをすべて自分でやらなければならなかったという意味でもある。だが、それは十分に克服可能な大変さだ。そして何より1年間という「自由」な時間を持てたことこそが、最大の贅沢であったと深く確信している。

 そしてもう一つ、「自由」なパリでは様々な在外研究生活が可能である。十人いれば十通りの、二十人いれば二十通りのパリがあるのだ。それゆえ、例えば中国の大学に日本語教師として招聘されるような場合と違って、前任者の話をそのまま参考にはできない。情報は多ければ多いほどいいだろうが、何をどうやって行くかは本当にその人次第であり、かえって混乱することも、来てみないとわからないことも少なくない。しかし、暮らしに慣れてきさえすれば、本当に自分がやりたいことが何なのかを考え、それを実行できるだけの文化的な豊かさをふんだんに含みもった街が、パリなのだ。


 さて、その十重田さんらも今晩の飛行機で日本へと向かった。こちらも一週間後には日本に向かって出発する訳だし、また最後まであれこれつきまとうのもかえって迷惑だろうと思い、ホテルでの見送りはパスさせてもらって、パリ最後の日曜日を楽しむことにする。今日も快晴。日本のテレビで見た予報は雨だったそうだが、結局十重田さんたちの滞在中はずっとほとんど雲一つない快晴だった。風こそまだ冷たいもののすっかり春めいてきて、リュクサンブール公園のマロニエのつぼみも大きくふくらんでいる。

 まず映画館ルフレ・メディチ・ロゴへ。『La Ville Louvre 』(Nicolas Philibert、1990)という映画がこのところ週に一度だけ、日曜の11時45分からかかっている。1989年に大きくルーヴル美術館が生まれ変わった時の舞台裏を撮したドキュメンタリーで、名画が次々と搬入される様などが映し出される。ピストル発射によるけが人救助の予行演習までやっていたのには驚いた。サン・ジェルマン大通りのモンドリアンというカフェで今日のプレートのステーキを食べた後、フォーロムデシマージュへ。ソビエトのGleb Panfilof 監督の『Nacala』 (1970)。フランス語題は『デビュー』で、ダンスパーティでもすぐには男性から声を掛けてはもらえないような少女がジャンヌ役で映画デビューするまでの物語が、彼女の演じるジャンヌ・ダルクの物語を挟みながら展開する。が、お腹がいっぱいなのとワインがきいてきたのとで、ついうとうとしてしまう。その後、リヴェットの『ジャンヌ・ダルクT戦闘』『ジャンヌ・ダルクU牢獄』もかかるのだが、そちらはパスすることにした。

 地下鉄に乗って部屋に帰ろうするが、本を読んでいたらつい乗り過ごしてしまった。シャルル・ミッシェルから4つ先のポルト・ドートゥイユで下車。考えてみれば、今日はオートゥイユ競馬場で競馬がある日ではないか。ブーローニュの森のもう一つの競馬場、ロンシャンの方はこの時期開催していない。今の時期パリでは競馬はオートゥイユで毎週日曜毎に行われているだけだ。地下鉄駅から通路を通って階段を上がると、そこが競馬場の入口。内馬場の方へと出る地下通路を歩いて内馬場に出てみると、ちょうど第6レースがゴールしたところだった。日本と違って、こちらでは平地と障害とで競馬場が分かれている。平地だけのロンシャンに対し、オートゥイユは障害レース専用。それだけ障害の人気が高いということだ。天気がいいこともあって、かなりの混みよう。床に散らばっているはずれ馬券や破れた競馬新聞など、競馬場の雰囲気もロンシャンよりこちらの方 が日本に近い気がする。最終第8レース、パドックで一頭だけいれこんでいた5番の馬の名前がバースディなんとかとあったので、12ー5の誕生日馬券を購入。もちろんそんなんで当たるほど、競馬は甘いものではない。


 競馬場の外には焼き鳥ならぬブロシェットやメルゲーズやサンドウィッチの屋台が出ていたり、地下鉄口から改札までの通路には怪しげな賭屋が出て人だかりができていたりと、そんなところも日本と似ている。横光利一『旅愁』の矢代はこのオートゥイユ競馬場で走る馬の姿を見たことがきっかけで、パリの風景の美しさへと目を開かれてゆくのだが、帰国直前に訪れた自分にとっては、唯一日本を懐かしく思い起こさせてくれた場所がここになってしまった。
3月15日(土)
 10時半に最寄り駅のシャルル・ミッシェルで十重田さん&田中さんと待ち合わせ。まずアパルトマンの部屋にちょっと寄ってもらう。坂井セシルさんも言っていたことだが、もし在外研究でパリに来た場合一番大変なのは住居探しなので、こちらのアパルトマンの様子や家賃レベルを知ってもらおうと思い、お節介ながらも不動産屋気分で(!)部屋をお見せしたのだ。まあ、東京ではちょっと住めないような部屋に住んでいるので、少しは自慢(?)もあったかな。すぐ近所の日本食材店・香苗を覗いた後、グルネル橋からセーヌ川の中道である白鳥の小径を通ってビル・アケム橋へ。中道の端の自由の女神像のところで遊覧船はUターンするので、お二人にとっては昨日船中から見た風景を今度は歩いて見直すことになる。パリ日本文化会館に到着。どれくらい文学全集や日本語関係の本があるかも見てほしかったのだが、あいにくと閉館状態で図書室に入れない。十重田 さんからはフランスの日本文学関係の研究書を買って帰りたいのでどこに行けばいいかと聞かれたのだが、あいにくここでという場所を知らない。実際かなり大きな書店でも、翻訳はある程度置いてあるが、研究書となるとまるで見掛けない。それで中島国彦さんがむしろここの方がある可能性が高いのではと挙げて下さったのが、パリ日本文化会館のショップであり、JUNKUや文化堂といった日本書籍店だった。幸いショップだけは入れたので、坂井セシルさんが昨年出された川端康成論を仲良く購入。こちらは会員なので、割引で買って差し上げることができた。

 そこからしばらく行くとエッフェル塔。セーヌを渡るとシャイヨー宮。その中のシネマテークの入口だけお教えする。トロカデロ広場から地下鉄に乗り、凱旋門へ。シャンゼリゼ大通りを少し行ったフーケッツで軽く昼食を取ることにした。1901年創業のここも大変有名なカフェ。007ジェイムズ・ボンドもよく来たことになっている。田中さんは野菜が不足気味だからと、ニース風サラダを注文。こちらのサラダの量の多さに驚いておられた。この後、十重田さんと田中さんはシャンゼリゼ大通りを歩いてホテルまでいったん戻られるということなので、ここでお別れすることにする。今日の午後と明日の午前中と、まる一日はお二人だけでさらにパリを回って楽しんでいかれることだろう。ぜひまた来たいと思ってもらえたならばいいのだが…。ともあれ、こちらもいったん部屋に戻り、夜は昨日同様フォーロムデシマージュでの「銀幕のジャンヌ・ダルク」特集を観に行くこととする。


 今日はまず17時から『ジャンヌ・ダーク』(ヴィクター・フレミング、1948)。イングリッド・バーグマンが念願のジャンヌ・ダルク役を演じたハリウッドのカラー大作。しかし、バーグマンの大仰な演技のせいもあって、作品の評判は散々。この後、『無防備都市』を観て感動したバーグマンがロッセリーニに熱烈な手紙を出し、彼のもとへと家族もハリウッドも捨てて走ったというのはあまりに有名なエピソードだが、おそらくバーグマンにしてみれば『ジャンヌ・ダーク』の失敗は自分の才能を引き出せなかった監督とハリウッドのせいであり、ロッセリーニこそはジャンヌ・ダルクを再び演じるために最良の監督と思えたのであろう。バーグマンとジャンヌ・ダルクとの関わりは映画史的には不幸だと思うが、それほどにバーグマンがなぜジャンヌに拘ったかは、彼女の意志を超えた部分まで含めて、じっくり考えてみるべき問題だと思っている。フランス語吹替版で、案内には145分の全長版とあったが、上映されたのは100分の短縮版だった。その後、21時まで時間がかなり空いてしまったので、レオンのレ・アレ店でムール貝を食べた後、イノサンの泉のあたりを散歩する。

 21時からはシネ・ミクスという企画で、カール・テホドール・ドライエル『裁かるゝジャンヌ』(1927-8)のHector Zazou による音楽付上映。入場料11ユーロ(30歳以下と60歳以上は7ユーロ)。500人くらい入れそうなオディトリウムに大体8割くらいの入りで、若い人が圧倒的に多い。時間になってもまだ切符を買う列が終わらなくて、15分ほど遅れて主催者側の簡単な挨拶。作曲現場を撮った10分ほどの短い映画の後、いよいよ『裁かるゝジャンヌ』が始まった。スクリーンの手前でシンセサイザーとノートパソコンを前に座った二人の伴奏者(?)の姿。時折頭が痛くなるような電子音が混じるコンピューター音楽がこの作品に最良かどうかは分からないが、ジャンヌのはまった悪夢のような狂気の世界に強く同調していて印象深かった。プリントは1985年にフランスのシネマテークが修復したもの。十重田さんの代表的な仕事の一つは、横光利一の『裁かるゝジャンヌ』評を新資料として発掘し、横光と映画との関係を論じたものだが、その十重田さんがパリに来ているちょうどその時に、これまでとは違った『裁かるゝジャンヌ』を観ることができるとは、何と奇遇なことだろうか。
3月14日(金)
 朝9時、ホテルに十重田&田中さんを尋ねる。やはり横光利一ゆかりの場所くらいは案内しなくてはと変な使命感に駆られて、いや本当のことを言うとこちらがきちんと調べなかったことを後は優秀な十重田さんにいずれ調べてもらおうと思って、モンパルナス界隈への散歩にお誘いしたのだ。レートのいい両替所を探したいというので、すぐ地下鉄に乗らずにリヴォリ通りを歩き、商品取引所の脇からフォーロム・デ・アールの方へ。かつてパリの中央市場があったこの地も今はすっかり様変わりし、鉄骨の奇妙な建物が集まる未来都市風の一画である。サントゥスタッシュ教会前で記念写真。フォーロム・デ・アールの地下へと降りて、そこからRERのB号線に乗り、3駅目のポール・ロワイヤルで下車。降りた目の前の交差点をわたったところにラ・クローズリー・デ・リラ。サルトル、ジッド、ヘミングウェイらが通った有名なカフェ。日本人では島崎藤村。鬱蒼と樹 木に包まれた中にあるので、コーヒー一杯のために簡単には入りにくい雰囲気。リラは横光の『旅愁』でも言及されている。ロンドンからパリに来た千鶴子はリュクサンブール公園の端にあるホテルに泊まり、このあたりのマロニエの並木を島崎藤村も毎日楽しんだと矢代から聞かされる。藤村がパリで最初に滞在したのはポール・ロワイヤル大通り86のマダム・シモネの宿で、ここから200メートルほど。その番地にも行ってみたが、すいぶんとこぎれいな石造りの建物で、藤村がいた頃と同じかどうかはわからなかった。

 今度はモンパルナス大通りを西へと進み、カンパーニュ・プルミエール通りへと左折。高村光太郎のアトリエがあったのが、この通りである。11月5日の日記にも記したように、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)で、ジャン=ポール・ベルモンドが背後から撃たれるラストシーンが撮影されたのもここだ。そしてこの通りを抜けたところが、ラスパイユ大通り。1936年に横光利一がパリで泊まったのは、この通りにあったブルヴァール・ラスパイユというホテルの6階で、モンパルナス墓地が眼下に見えると書き残している。現在その名前のホテルはない。昨年4月29日から泊まったエグロンの可能性もあるが、より墓地沿いの建物が当時ホテルだった可能性もある。当時の細かい地図を見れば判明するはずなので、いずれ十重田さんが突き止めてくれることだろう。エドガー・キネ大通りに入ってモンパルナス墓地の中を少しだけ歩いた後、地下鉄ヴァヴァン駅上のラスパイユ大通りとモンパルナス大通りとの交差点へ。ロダンのバルザック像があり、ル・ドーム、ラ・ロトント、ル・セレクト、ラ・クーポールと20世紀初頭に芸術家たちが集った有名なカフェが4つ集まっている。ル・セレクトの横から入る小道がヴァヴァン通り。当時この通りのオテル・ド・ブロアにいた岡本太郎がパリ滞在中の横光の面倒を最もよくみたという。ル・セレクトと大通りを挟んで向かい合うラ・クーポールに。『旅愁』で歌舞伎座の中に似ていると書かれたアールヌーヴォーの内装の広々とした店内を見ながら、お勧めのカフェ・オ・レを頼む。プチとグランとあるが、プチでもコーヒーとミルクとが別々の器で出てきてカップ3杯分くらい飲める。

 お茶の後は再びラスパイユ大通りを歩いて、カルティエ財団本部ビルへ。ジャン・ヌーヴェルによるガラスとアルミニウムの美しい建物内の現代美術館では、いまポール・ヴィリリオ監修の「Ce qui arrive」という展覧会が開かれている。ポンピドゥーのロラン・バルト展が終わってしまった現在、最も注目すべき展覧会だと思うが、実はまだ自分も見ていない。よければ一緒にぜひと勧めたのだが、開館が12時からですぐ中に入れない。12時半から中島さん、芳川さんと昼食の約束をしてあり、それなら午後にということで、地下鉄でオデオン駅に向かう。お昼はル・プロコープ、1686年創業の世界最古のカフェで。ヴォルテール、ルソー、百科全書派のディドロ、ダランベール、またベンジャミン・フランクリンらが通っては議論を交わし、フランス革命時にはロベスピエール、ダントン、マラーが会合をもち、バルザック、ユゴー、ヴェルレーヌ、アナトール・フ ランスといった文学者が常連に名を連ねた、伝説的なお店である。最近またおいしくなったと3月1日に坂井セシルさんから聞き、それならばと芳川さんが予約を入れて下さったのだ。芳川さんの名前を出すと1階(日本の2階)へ案内される。現在はカフェというより、華やかではあるけれど肩肘張らなくていいレストランの雰囲気。四人の方々は勧められたムール貝のクリームスープをアントレに頼んで舌鼓を打たれる。スープを最初にのむことはめったにしないので、サーモンのタルタルを頼んだこちらだけ、なんだか仲間はずれ。が、そんなことを思っている間もないほどに、すぐにメインのお皿も出てきた。リーズナブルなランチメニューでも久しぶりにフランス料理を堪能した気分だった。

 食事の後、すぐ近くのパッサージュを見てから、再びカルティエ財団現代美術館へ。すでにメモを取りながらじっくりと見て、その印象記を「読書人」に載せられている芳川さんも、26歳のコンピューター・デザイン関係の仕事をしている息子さんへのお土産の本を買いたいからと同行。デジタル・ビューティ、つまりコンピューター画像の人工美少女たちのフランス語による大部のカタログだそうで、到着すると芳川さんはすぐ階段を上ったところの書籍売場へと向かう。階段を下りた地下のフロアが「Ce qui arrive」の展覧会場。薄暗いフロア内が幾つかのブースで仕切られ、事故や災害をモチーフとした様々な映像作品が映写されている。が、こうした展示は一本一本をじっくり観ていかなければどうしょうもない訳で、限られた日程での見学には向かない。やはり自分で先に観ておくべきだった訳で、お二人には悪いことをしてしまった。早々に書籍売場に戻る。芳川 さんは最後の1冊を在庫から頼んで出してもらい、ようやく目的の本を買われたところだった。こちらも今回の展覧会カタログとその名も『ROBOTS』というデザイン図録を購入した。

 この後、十重田さんと田中さんは、天気もいいしセーヌ川の遊覧船バトー・ムッシューに乗りたいと言う。夜には中島さんがチケットを取って下さったというオペラ座でのモダン・バレエ公演を観に行かれる。ここから先は芳川さんにお任せすることとし、こちらは朝地下鉄に乗ったフォーロム・デ・アールへと戻ることにした。

 フォーロム・デ・アール内のフォーロムデシマージュでは、「信仰」に関する映画の特集を今月25日までやっている。今日から3日間は「銀幕のジャンヌ・ダルク」という企画。ドライエル、ロッセリーニ、ブレッソン、リヴェットといった偉大な監督たちが撮り続けてきた、数あるジャンヌ・ダルク映画の中から7本を上映(リヴェットの『ジャンヌ・ダルクT戦闘』『U牢獄』は別々の回なので分けてカウント)。14時半からのGleb Panfilof 監督『Nacala』は日曜に観ることとし、16時半からの『聖女ジャンヌ・ダルク』(オットー・プレミンジャー、1957)へ。バーナード・ショーの原作をグレアム・グリーンが脚本化したものの映画化。『勝手にしやがれ』より2年前のジーン・セバーグがやはり短髪でジャンヌを演じている。登場人物が次々と寝室に現れて議論する変わった味わいの作品。観終わってホールに出ると、今度は壁に『勝手にしやがれ』のポスターが貼ってあるのが目に入った。

 小一時間でも仮眠しようかと思ってアパルトマンに戻ると、玄関で家主夫婦にバッタリ。1分間だけビールを飲んでいけと言われて、部屋によるとハムやチーズのおつまみまで出てくる。それでも早々に遠慮するが、結局仮眠もできず濃いコーヒーだけ飲んで、再びフォーロムデシマージュへ。21時半からロベルト・ロッセリーニ『火刑台上のジャンヌ』(Giovanna d'Arco al rogo、1954)を観る。イングリッド・バーグマンの演技は好きにはなれないが、それでもこの合唱劇はすごい。カラーで1時16分のフランス語版。本当に夢でも見ているような気分で圧倒されたまま、あっという間に時間が過ぎてしまった。
3月13日(木)
 午前10時、ホテル・インターコンチネンタルのロビー集合。十重田&田中ご夫妻をパリ案内する第1日めである。10時ちょうどくらいに着くとすでに中島さん、少し遅れて芳川さんも現れる。午後は長島裕子さん発案のパリ・ヴィジョンのツアー、凱旋門などをバスでまわった後、セーヌの遊覧船に乗れ、待たずにエッフェル塔に昇れるコースを勧めることとし、午前中はそこに含まれていないノートルダム大聖堂を見た後、パリ第7大学へと向かうことに。チュイルリー駅から地下鉄に乗り、オテル・ド・ヴィルで下車。パリ市庁舎の前を通って、アルコル橋からシテ島に渡り、ノートルダム大聖堂へ。さらにサント・シャペルへとまわる。実は今回の滞仏中ではノートルダムもサント・シャペルも訪れるのは初めて。そんなのは自分だけかと思ったら、芳川さんもそうだった。サン・ミッシェル大通りを上がり、クリュニー・ラ・ソルボンヌ駅から再び地下鉄。3駅目が ジュシュー駅でそこから地上にエスカレーターで上がって振り返れば、そこがパリ第7大学である。坂井セシルさんを学部長室に尋ね、日本語科の図書室等を見せていただく。日本語教育にも関心の深い田中さんはその関係の棚を熱心に見ておられる。その後、近くのクレープ屋で昼食。坂井さんは滞在許可証を取るための注意事項まで具体的に話され、十重田さんはパリに住む場合はどこの地区がいいかといったことまで尋ねている。当然ながらこちらは、よしよしと密かにほくそ笑む。各自がデザートにとったクレープはどれもかけるお酒の種類が違っていて、目の前でお酒をたらした上で火をつけてくれる。もちろんシードルも飲んでいる訳だし、なんだか昼からアルコールにどっぷりとつかったような雰囲気。

 さて昼食後、お勧めの観光バスに乗ってみますかと改めて尋ねてみると、むしろパリの街を歩いてみたいというお二人の返事。それならばと、芳川さんと二人、ムフタール通りからサン・ジェルマン・デ・プレ界隈へ歩いてみることにする。古代ローマの遺跡であるリュテス闘技場の脇を通って、コントルスカルプ広場へ。ここがあの69年の、とすぐ口をつくのは芳川さんの世代である。ヘミングウェイの住んでいた場所とヴェルレーヌが亡くなった家のレストラン(ヘミングウェイはこの上にも下宿していた)を見た後、ムフタール通りを南下。芳川さんからいいワイン専門店を教えていただいた後、今度はパンテオンの方へ。パンテオンには多くの偉人たちが眠っている。中も見た方がいいですかと芳川さんにお尋ねすると、入ったことないんだというお答え。その一方、すぐ横のアンドレ・ブルトンが初めてシュールレアリスムの自動筆記を試みたホテルなどはしっかり 把握しておられる。結局中は先送りにし、ソルボンヌの横を通るようにして、リュクサンブール公園の横のカフェへ。ビニールがかけられた温室状態のテラス席でしばらく休んだ後、公園へと入る。ここにぜひ行きたいといったのは十重田さんで、確かに永井荷風にも島崎藤村にも横光利一にも出てくる、いわば日本近代文学者必見の地ではある。しかも、ジョルジュ・サンドらの像を見やりながら、カヴリエ・ド・ラ・サル庭園との間を横切るオーギュスト・コント通りへと向かう。横光利一が『欧州紀行』で「私にも好きな通りがある」として名前を挙げているのが、この通りなのだ。

 もうしばらくリュクサンブール公園でのんびりした後、次はサン・シュルピス教会へ。ドラクロアの壁画を見た後、細い小道を抜けてサン・ジェルマンの大通りへ。目の前がサン・ジェルマン・デ・プレ教会の建物。大通り沿いのリップ、カフェ・ド・フレール、レ・ドゥー・マゴを外からめ、芳川さんの要望でこの一角の書店を覗いた後、教会の中をまわり、さらに横の公園のピカソによるアポリネール記念碑。数年前に持ち去られ、数年後にみつかったとされる、いわく的なものである。ドラクロワ記念館の中庭で休もうと思うが、17時閉館で入れない。出版社が幾つかあるジャコブ通りを歩いて、パリ第5大学薬学部の向かいのドゥボーヴ・エ・ガレへ。1800年創業のパリで最も古いと言われるチョコレート店で、東京でも買えるラ・メゾン・デュ・ショコラやジャン=ポール・エヴァンよりも、ここの濃厚なチョコレートこそパリ土産にふさわしい気もして、来週末にまた買いにくる予定。ただし、おいしいのはギリギリ1週間くらいだと思うので、3月中にお会いする方にしかお裾分けはできない、などとうっかり書くと帰国早々から大変だろうか。外のショーウィンドウで品定めしている間に、甘いものの好きな十重田さんもどうやらお土産ではなく自分の分をしっかり購入していた。そこからセーヌ河岸の方へと向かう。カルーゼル橋のところで、ここからルーヴル宮を抜けてホテルへといったん戻り、中島さんと再合流後軽く食事をして、夜はパリ管弦楽団のコンサートを聴きに行かれるというお三方と分かれ、再びパリ第7大学へと戻る。

 「アジアの詩(Poesies D'Asie)」。「詩人の春」という企画の一環として開催されたもの、中国、韓国、日本、ベトナムの4人の詩人の作品が原語とフランス語で朗読されるという試み。パリ第7大学の学科構成がこの4カ国だからという話だが、ベトナムが加わるところがいかにもフランスらしい。司会役をつとめる坂井セシルさんのお話では、こうした4国の詩をまとめて取り上げるのは今回が最初で最後だろうという。120人ほど入れる会場で、かなりの盛況。空いている席に入れてもらったら、たまたま隣りに腰掛けておられたのが太田知美さんだった。太田さんは日本のICUを出られた後ヨーロッパに留学し、ベルギーの大学で幻想文学に関する論文でメトリーズの学位を取られた後、今は坂井セシルさんのところで博士論文の準備中。ピエール・ブルデューの方法を生かして永井荷風を論じようという、とても熱心でフランス語も堪能な日本語科の大学院生である。これはとばかりに、フランス語の解説の要所要所を教えていただく。以下の報告は太田さんの協力によるところがとても大きい。

 最初に韓国からわざわざいらしたというKo Un さんが自作を立って朗読し、フランス語訳を訳者が朗読。続いてRyoko Sekiguchi さんがフランス語と日本語とで自作の詩を読まれる。Sekiguchi さんは実は芳川さんが教壇に立ち始めた頃の教え子だそうで、日本にいた頃から詩を書かれ、パリに住むようになってから今度はフランス語でも詩を発表なさっている。後でご本人からお聞きしたところでは、今回朗読した詩は、まず日本で発表したものと、こちらに来てからそれを自らフランス語訳して発表したものとの組み合わせだという。当初は日本で書いた詩を翻訳する形でフランスでも詩を発表してきたが、最近はストックがなくなってきたため、最初からフランス語で発表しているけれども、それでもまず日本語で考えてから書くそうで、フランス語で一から書き始めないのは、やはり文体が違ってきてしまいそうだからなのだそうだ。他の詩人の詩をフランス語に訳す場 合と、自分の詩を訳す場合と、困難さは同じだけれどもやはり違うそうで、いろいろと興味深い話を伺うことができた。少なくとも朗読を聞いた限りでは、フランス語も日本語もとてもなめらかな印象だった。

 三人目にベトナムのPham Tang さん。サイゴンでジャーナリストとして活躍し始めると共に詩を書き始め、現在は画家としてイタリアとフランスで活動しておられる。Ko Un さんは70歳を越える韓国詩壇の長老といえる方だが、Pham Tang さんもかなりのお歳。で、そのフランス語が明らかなベトナムなまりで、例えばSekiguchi さんのフランス語と、同じ自作朗読でもこうも雰囲気が違ってくるものかと驚く。そして最後に中国から亡命し現在はオランダのライデンに住んでいるDuoduo さん。まず中国語による詩人自らの朗読、そしてフランス語の朗読があった後、パリ7中国語科のゼミでDuoduo さんの詩のフランス語訳に取り組んだものの発表があった。学生がまず中国語で詩を読み、次にフランス語訳。どこが翻訳にあたって難しかったのかの説明があり、Duoduo さんが応答。最後に詩人自らが同じ詩を朗読。学生の中国語もすごく滑らかで上手だったが、ご本人によるものだとやはり全然違った味わいを感じる。

 とこうして、韓国語、ベトナム語、中国語の朗読を聞いてみて、その読み方の抑揚に結構共通するものがあるように感じられた。ただ日本の現代詩の読み方だけがフラットで異なっている。これは想像だが、もし日本の歌人が3国の詩人たちと一緒だったら、それほどの差異は感じなかったかも知れない。簡単に結論を出すつもりなどないが、日本の近現代詩は文字言語の詩的実験と洗練とに向かうことで「声」においてはアジアの詩から離脱していったということになるのだろうか。

 8時を少しまわったところで、司会役の坂井セシルさんも再び登壇し、30分ほどの予定で討議が始まる。最初にDuoduo さんの詩の翻訳に関する具体的な話があったことを受けて、Ko Un さんの詩作品と翻訳とのパラドキシカルな関係についてなど、「翻訳」の問題について発言が順番にある。会場のところどころから笑いが洩れるなど、なごやかな雰囲気。最後には会場からの質問を受けて、Ko Un さんが韓国語による様々な口承芸能のイントネーションを実例付(!)で、つまりパンソリだのアリランの歌などをその場で披露し始め、なんだかすごいこととなった。

 その後、場所を移して懇親会。と言っても別に大げさなものでなく教室にワインかキール、そしてお菓子が置いてあるからご自由に、という感じで、坂井さんからいろいろ苦労話を聞いたり、Sekiguchi さんとお話したり、太田さんと日本における博士論文の位置づけについておしゃべりしたりなどする。アン・クレールさんら日本語科の院生学生たちの姿もちらぽら。キールのためのカシスをワインと勘違いして紙コップにいっぱいついでいたら、そんなんじゃ飲めないよ、何やってるの、といきなり男子学生から日本語で注意される。筑波大への留学経験がある彼は関西弁に興味があるそうで、日本の率直な印象をいろいろと聞かせてくれたのだが、その話っぷりの元気のよさに煽られたのと、いかんせん夕食も何も食べずにキールを何杯も飲んだのとで、すっかり酔っぱらってしまった。
3月12日(水)
 朝8時前に起床。宅配業者が荷物のピッキングに8時30分から14時の間に来ることになっている。それ以上の時間指定はできない。4時近くまでカートンに本を詰めるのにかかってしまったので、正直眠い。コーヒーを飲み、メールを打ちながら待つ。11時少し前、ピンポンと呼び鈴がなる。日本の宅配業者に頼んだので日本人かと思っていたが、陽気な感じのフランス人男性。てきぱきと用を済ましてから、再びベッドに潜り込む。

 16時起床。シャワーを浴びた後、チュイルリー公園近くのホテル、インターコンチネンタルへと向かう。今日から早稲田大学の十重田裕一さんと日本大学の田中ゆかりさんご夫妻がパリに来るので、その出迎え。十重田さんは横光利一、川端康成などの昭和文学の研究者、田中さんは現代日本語の方言、音声、音韻、アクセントの専門家。17時に着いてロビーをふらふらしていると、中島国彦さんがやはり出迎えにいらっしゃる。ご病気の方はどうやらすっかり回復させたらしい。が、芳川泰久さんがお見えにならない。少し心配になって正面玄関から出たところで、ちょうど到着した十重田さん&田中さんとバッタリ。ほどなく芳川さんも、この後日本への帰国のお見送りにいかれるというお相手の同僚の倉方秀憲さんと現れる。十重田さんは二年後に一年間の研究休暇がとれる予定らしい。それならパリ第7大学へぜひ来てもらおう、というのが芳川さんや坂井セシルさ んらと今回たくらむ陰謀(!)である。田中さんはすでに2004年の2月から6月まで、国際交流基金の招きで北京に教えにいくことが決まっているという。それならまず北京に行き、夏休みにお二人でパリに移動し、十重田さんだけもう数ヶ月パリ暮らしをしたらどうかというのが、こちらの勝手な提案。もし本当にそうなりそうなら、三都市を結ぶ連続国際シンポジウム(同一テーマで東京、北京、パリとリレー式にシンポジウムを積む重ね、最後に論集を公刊)を実現すべく、すぐにも動き始める。が、そんな先の話はさておき、まずは今回のパリ訪問だ。お二人がチェックインを済ませた後、明日からのことをしばし相談。田中さんが長旅の疲れで体調が万全でないというので、早々に解散。お二人とも出発前夜遅くまで仕事にかかっていた上に、機内では4度も食事が出てあまり寝られなかったらしい。

 一応夕食につきあうつもりで時間を空けておいたので、どうしたものかと少し迷う。自室に一度戻って、二人からいただいたかっぱえびせんの包みを置いた後、近くのトロピカル料理店へ。行きつけの数軒のうち、ここだけはまだ紹介してなかったと思う。天井から電球を包んで大きな唐傘が下がり、壁には緑色が主体の大きな扇が架かっている。店の外には笹などが窓際に植えられ、となんだか不思議な雰囲気のモーリシャス料理店だ。前菜&メイン&デザートのコースメニューしかなく、前菜はビュッフェ形式で、隅のテーブルに並べられた8種類ほどの中から好きなものを好きなだけお皿に盛ってこれる。フランスパンの他に、頼むとモーリシャスの揚げパンを揚げたてでつけてくれる。見た目は小さめのコロッケのようで、カレーのソースをつけながらつまむ。メインは何種類かから選べるが、羊、鶏、エビのカレーのいずれかをよく頼んだ。今日はエビカレーに魚も入 れてもらった。付け合わせのライスも量はそう多くないが、ふっくらと炊きあがっている。夜のコースで20ユーロ。このあたりでは贅沢な方だ。それでも、食べ放題感覚でお腹いっぱいになるので、くさりたくなるようなことがあった日など、よくここへ来た。今日は別にそうではない。一昨年日本近代文学会6月例会で発表された時には満席立ち見まで出た人気者の十重田さんは、パリでもみんなから愛されているなあとちょっぴり嫉妬はしたけれども(笑)。
3月11日(火)
 明日、宅配便業者に別送品を取りに来てもらうので、カートンに本を詰めないといけない。が、なんだかかったるくて少しもやる気が起こらず、困った。だらだらしているうちに、いつしか夕方になってしまう。カートンは家主から以前使ったものをもらったのだが、底が抜けるタイプの上に少しやわな感じなので心配。船便なので、雨や湿気の不安もある。なんとか無事辿り着いてくれればと祈るような気持ちだ。

 20時を過ぎるのを待って、シャイヨー宮のシネマテークへ出掛ける。映画のためではなく、宅配便で一緒に送る書籍を購入するため。受付のショーウインドウに飾られていて、前から買って帰りたいと考えていたものをまとめ買いする。そのうち、『メトロポリス』の写真集だけは船便で送らずに、直接持ち帰るつもりだ。『妊娠するロボット』愛読者必見の怪美堂新コーナー「メトロポリス画廊」で紹介してもらおうかと思っているからである。全部で200ユーロ以上購入したら、おまけにポスターをつけてくれた。壁に貼ってあるのならどれでもいいというので、ラングを指さす。そしたら、メリエスやアベル・ガンスのなどもおまけにつけてくれた。よほどの映画好きだと思ってなのか、受付にいた女性たちの対応が親切で、また嬉しそうで、こちらも楽しかった。
3月10日(月)

 帰国までちょうど2週間を切った。観光旅行としてのパリ滞在であれば十分過ぎる時間かも知れないが、帰国準備をしながらの2週間はあっという間に過ぎてしまいそうな気がする。こちらを離れる前に書き上げておきたい文章もあり、相当慌ただしいことになりそうだ。しかしその一方で、帰国前後はほとんど連絡がつかなくなることもあらかじめお伝えしておきたい。日本を離れるにあたってアパートの部屋を引き払ってきたこともあり、帰国後の住所は不定、電話番号もすぐには決まらないだろう。郵便物だけは実家宛に送ってもらえれば、それなりに迅速対応できると思うが、それ以外の通信手段はメールに限定される。で、そのメールも21日(金)まではほぼ確実に受信できると思うが、それから先は航空機中の時間も含め、少なくとも日本時間で24日(月)の午後までは送受信できない状態に入る。従って、帰国を待ってこちらに連絡をと考えておられる方には、むしろパリにいるうちにできるだけ早く、とこの場でお願いさせていただくことにする。

 帰国が迫ると、いろいろやり残したあれこれに思いが行くのもしょうがないことなのだろう。宅配便業者に申込書類を記入しに出掛けた後、夕食には近所のイタリア料理店でエミリア地方産の冷えた発泡の赤ワインを飲みながらアンティパスト・ミスト(ハム&サラミの盛り合わせ)をつまみ、さらにパスタの盛り合わせを食べた。初めて行く人にはこの2品がお勧め、と書いても別に誰もこちらの行きつけの店にわざわざ行く人はいないだろうけれども。この1年の間にどうしても行ってみたかったのは冬のベネチアで、美食の都として知られるエミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャにもぜひ寄りたいと思いながら果たせなかった。次に訪れる機会はいつか、そんなことを考え始めると気が遠くなってしまう。

 パリは昨日も今日も快晴で、すっかり春めいてきた。観光シーズンの訪れと共に、アメリカ人観光客も日増しに増えている。街中や地下鉄で英語が耳に飛び込んでくることが確実に多くなった。アメリカによるイラク攻撃がいつ始まるか分からないというのに、そんな雰囲気はほとんど感じられない。カフェのテラスにいる人の数も目立って増えてきている。昨日は自分もテラス席でビールを飲み、お勧めのソーセージをつまんだ。まどろみたくなるような平和の一息。この至福の一時をどうして人類は、自分にとっても他者にとっても、本当にかけがえのないものとして共有することができないのだろうか。

3月9日(土)

 ポンピドゥーセンターの「ロラン・バルト」展を見に行く。行こう行こうと思っているうち、ついに最終日前日になってしまった。日本でもすでに管見に入っただけでも「すばる」3月号の芳川泰久さんや同じく「群像」の渡辺淳氏による紹介がなされているので、今さら素人が言うことなど何もないのだが、壁のあちこちに記されたバルトの文章さえ読み解けないほどにフランス語を解さない人間にとっても、すごく刺激的な展覧会であった。入ってすぐに『零度のエクリチュール』関係の原稿や新聞の切り抜き、続いて『神話作用』のコーナーで、プロレスや洗剤のCMなどバルトの取り上げた題材がビデオ映像や物自体で展示してあるのだが、ここだけでもいつの日か『神話作用』新訳完全版刊行記念イベントとして日本でもやってほしいと思った。以降、バルトが論じた作品やイメージが様々な方法で展示され、原稿やメモと併せ見ることで彼の思索の後を順に追うことができる。

 『表徴の帝国』の円形のコーナーでは内側の壁に沿ってウィリアム・クラインの当時の東京を写した写真やギメ美術館の能面が並べられ、短い日本紹介のニュース映像、書と能の紹介映像が隅のテレビ画面で流されていた。さらに日本滞在中のバルトの日記やメモ帳を使った手作りの辞書(アルファベット順にフランス語とそれに対応する日本語の音とを列挙)。ソレルス&クリステヴァが撮影編集した、彼らと中国に行った時の映像が観れたり、壁一面にずらっとバルトのメモ書きが並べられていたり…。といった潤沢な展示を追ってゆく体験は、展示物によって作者の歩みを再確認していくという文学展にありがちなものとは決定的に異なるものだったように思える。朧気に記憶しているバルトのテクストが、展示と交響することで開かれ、奔流となって渦を巻いてゆくような、あるいは炎のようにゆらめいてゆくような、眩暈に満ちたものだったからだ。そしてそれが必ずしも独りよがりなものでもないだろうと確信しえたのは、バルト自身による表現主義的な絵画のイメージと強く重なるように思えたからである。

 バルト展だけのチケット(6・5ユーロ)ではなく、センターの1日利用券(10ユーロ)を購入したので、のどを潤した後、すぐ脇に移築された彫刻家ブランクーシのアトリエを見学し、常設展示を見ることにする。が、2月2日にまわりきれなかった5階部分の展示が閉まっていて見られない。展示替えの最中で再開は4月2日とか。結局今回は1905年から60年までの現代美術コレクションを見ることなく日本に帰らなければならない。さらに最上階と1階の特別展へ。最上階はUgo Rondinone の新作映像“Roundelay”(2003)。6角形の部屋の6面のスクリーンに映し出されるのは、人影一つ見えない高層ビル街の路上をひたすら歩く男性と女性の姿。だが、二人は出会うことも何もなく昼から夜、そして夜明けへと時間だけが流れてゆく。見学者の多くは床に腰を下ろして終わりのない映像の連鎖を見つめているのだが、その二人が歩き続ける場所というのが実は今住んでいるグルネルヴィルだったものだから、いきおい強い既視感に囚われてしまった。1階の特別展はPhilippe Starck。昼には列ができて45分待ちのアナウンスが流れていたが、さすがに夜だとさっと入れた。そう大きくない縦長のスクリーンに映し出された椅子などの写真について、そのすぐ下にあたかも本当の人間がいるかのように映し出される作者の顔が延々と語り続けるというパフォーマティヴな展示が、暗い部屋の中に全部で11。それぞれの前に置かれた椅子に腰掛け、多くの人が映像を見つめ声に耳を傾けていた。子供のためのギャラリーでは、マチス&ピカソの絵に親しむための企画が催されていたので、そこも覗いてみる。こちらでは未来の鑑賞者を育てる試みが美術館や映画館で盛んに行われている。

 特別展の販売ブースでは、大部なバルト展のカタログを始め、昨秋公刊されたバルトのコレージュ・ド・フランスでの講義録2冊やフィリップ・フォレストさんの『テル・ケル派の歴史』などを、日本に持って帰っても読むことなどないだろうと思いながら、これも記念だと思って購入。地下鉄駅近くまで行ったところで、“Roundelay”のユニークなパンフレットを買い忘れていたことに気づいて、あわててまた戻ることとなった。

3月8日(土)
 朝、バルセロナからパリに戻ってきた。寝台を取らすにリクライニングの社中で一晩過ごしたので、しばらく寝ようと思ってアパルトマンへと向かう。が、ドアが開いていた上、部屋の中がたいへんな状態になっていた…。

 いやはや、人生何が待っているか分からない(断っておくが、泥棒に入られた訳ではない)。とりあえず今日は日記を書くことも送ることも叶わないので、いずれゆっくり報告することにする。
3月3日(月)

 今晩からしばらくスペインのバルセロナに旅行に出掛けます。日本時間で4日から8日の夕刻までは、メール連絡もとれなくなります。その間の日記、及びイギリス日記など抜けている日の分は、なんとかこちらにいるうちにアップします。

3月1日(土)

 ワークショップ「日本文学を考える 日仏方法論をめぐって(Les recherches sur la litterature japonaise, questions de methode, en France et au Japon)」がパリ第7大学で開催された。こう書くと何やら大変なイベントが行われたようにみえるが、坂井セシルさんが今回の第7大学滞在研究者への送別会も兼ねて、ごくごく少人数の自由に討論できる場を設けて下さったのだ。芳川泰久さん、堀江敏幸さん、坂井アンヌバヤールさん、ヴェロニク・ペランさんに、パリ7で現在博士論文を準備中の院生4人。残念ながら中島国彦先生はご病気のため、長島裕子さん共々欠席。ジャン=ジャック・チュディンさんやエマニュエル・ロズランさんもお見えになれなかった。会の後、近くの安くておいしいと評判のトルコ料理店で夕食会。グローバル化をめぐるシンポジウムに出ておられた矢田部和彦さんがそこから合流された。

 発言が文字として記録されることを前提としていないオフレコの討論会なので、多岐にわたった話の内容はここに詳しく記せない。ただ、他の方々にどうだったかは別として、自分にとってはこのヨーロッパでの一年の意味を改めて考え直させられる、とても貴重な機会であった。そのことだけを記すために他の出席者の発言を幾つか引くが、そこからそれぞれの方の考えやスタンスを即断したり、会全体の雰囲気を推し量ったりするのだけは慎んでほしいと思う。

 実は坂井セシルさんからお話があった時、それならばこの機会にここ十年ほどの日本での近代文学研究の動向を振り返ってみたいし、議論の叩きに少し話させてもらえないかと、こちらからお願いした。異国にいるとつい日本の状況を展望したくなるのは、もしかしてナショナリスティックな感覚の萌芽なのではないかと警戒しつつも、日本の友人にメールでデーターの確認などを助けてもらいながら、簡単な資料年表を作成。さらに発表原稿(!)まで用意して会に臨んだのだった。ペーパーをきちんと用意し、それを朗読するようにして話すのがフランスでの学会発表のスタイルだが、今回のはむしろ話が長くなりすぎないための用心。しかし、日本では研究会はもとより学会発表においてさえも一度も原稿を用意したことなどなかったのだから、変われば変わるものだと我ながら思う。

 しかも、その原稿をようやくほぼ完成させ、「保存」しようとしたまさにその時にパソコンがクラッシュ。一瞬にしてすべては消え失せ、また一から書き直すはめに。いやそれ以上に、書いているうちに方向性が全然変わってきてしまったのにはまいった。元々は文学研究が文化研究へとシフトしてきた状況を概説しつつ、その問題点と可能性とをできるだけ主体的に前向きに語り、そこからフランスでの状況との共通点相違点とが議論で導き出されるよう配慮しつつ、これからの研究交流への具体的な展望を切り開けないものかと夢想していたのだ。けれども「文化研究」について語るには、自分はやはり当事者でありすぎたのかも知れない。学会での様々な記憶が次々と甦ってきて、いきおい話は愚痴と慨嘆へと傾く。だがその一方で、そうしたことすべてが、遠い遠い昔のまるで夢の中での出来事のように思えてきてしまったのだ。研究と学会とでもみくちゃにされた日本を離れるまでの数年間、本当に自分は何をやっていたのだろうか。以下はこちらの話に対する反応であり、そこから何を思ったのかのメモである。


 堀江敏幸さんの励ましから。吉田さんが何を悩んでいるのか、よくわからない。「妊娠するロボット」は面白かったし、こういうものを批評として書いていけばいいだけではないか。堀江さんは世界で最初の『任ロボ』の感想をメールで下さった恩人である。研究と批評との二足のわらじを履くことの勧め。学会を辞めてしまう手もあるとも。どこにも帰属せず、どのジャンルにも囚われない見事な文章の世界を拓いてきた堀江さんならではの説得力を感じる。さらに話はエスカレートし、今日はもう吉田さんを励ます会だからと言いながら、これまでこちらでこれほど率直に語った日本文学研究者はいなかっただろうし、ここから日本の研究も変わるのだと。最後のは冗談に近いレベルで、自分で変わることなどありえないし、変えることも何もできはしないが、こうした壮大な話に強く励まされ、ふっきれたものがあることは確かだ。

 芳川泰久さんの質問。文化研究の論文を書いたり、授業で文学以外を取り上げたりすることが実は内心イヤなのか。いや、全然イヤでも苦痛でもないと即答すると、だったらそれでいいじゃないかと。それでよくないところが自分にとっての問題なのだが、思うに自分が耐えがたいのは、好きでやっているんだからこれでいいじゃないかと簡単には言わせない抑圧がかかっている状況の方なのだろう。日本ではとても口に出して言えなかったことを思い切って書く。国文科が消滅しようがどうしようがそんなものは学問の危機でも何でもなく、国際や文化を名乗ってくれた方がむしろ授業での選択の幅が広がって楽しいではないか。それを不安に感じてしまうのは単なる既得権意識の現れで、近代文学研究の隆盛など所詮バブルに過ぎなかったという現実を直視していないだけだ。けれどもこうした発話が、自分さえよければそれでいいというエゴイズムだと大反発を招きかねないほどに、文学研究衰退への危機感と大学改革に伴うリストラ不安は広く蔓延している。だったら、ああだこうだ言ってる暇にもっともっとがんばって勉強するか、それがイヤならさっさと転職先を探せばいいだけじゃないか…などと、とてもとても本当のことは言えないくらいに。

 芳川さんからは、国文学ではたった10年くらいの間にこんなに次々と新モードが現れ、動向が変わってゆくのが信じられないとも言われる。坂井セシルさんの話でも、フランス文学、つまりこちらの国文学には、カルチュラル・スタディーズなど英米系のイデオロギー的なものはほとんど入ってきていないのだという。現実レベルで極めて政治的な行動をする反面、研究はそれと峻別しイデオロギー的なものを排除する傾向にあるらしい。もともとの理論はフランスから出ているにもかかわらず、だ。さらには、もうすでに理論的な可能性はすべて出尽くした、後は順列組み合わせの問題にすぎないという、ある意味すごくニヒリスティックな考え方に立つ人もこちらにはいる。その年の収穫を数えあげることはできても、そこから日本のように簡単に、学会動向の通時的物語を紡ぎ出すことは難しいらしい。とするならば、学界展望だの研究史だのといった日本の研究者にとっては当たり前すぎる発想さえもが、もしかしたら極めて日本的で相対化されるべき代物かも知れないのだ。

 坂井アンヌバヤールさんの疑問。どうして日本の研究者はある時期誰も彼もが「国民国家論」へといってしまったのか。フランスではこんなに多くの人間が一つの方向へ向かうなんでことは考えられないし、現にそうなっていない。これは「文化研究」批判としてしばしば言われる、どれもこれも「国民国家論」の枠組で物事を捉えていて、対象は違っても結論は一緒の金太郎飴みたいだという意見と同一ではない(ついでだから言ってしまうと、「文化研究」の結論が紋切り型だと批判する人たちは、そうした批判自体もすでに紋切り型になってしまっていることに気づいているのだろうか。「文化研究」は結論を「国民国家論」につなぐことで何か言った気になっている、と言っている人もそうした紋切り型批判の紋切り型を繰り返すことで何か言った気になっている…)。カルチュラル・スタディーズに批判的な文芸批評家なども含めての話だし、「文化研究」は否定しても「国民国家論」には一つの公理として疑いもせず言及できるスタンスも入れてのことだと思う。「文化研究」を標榜してしまった立場上一応の説明責任はあるようにも思うのだが、いざそう聞かれてみるとよくわからない。その場ではちらっと具体的に話したのだが、実は自分はベネディクト・アンダーソンのよくある援用の仕方とは別のところに、現時点での「可能性の中心」はあると考えている。堀江さんは誰も引用しなかったところを見事に引用するだけでも立派な功績だとすごくいいことをおっしゃっていたが、どうして皆一定のパターンの枠内でしか引用言及しないのか。ほとんど誰もアンダーソンなど読んではいない、ただ「国民国家」という空虚な言葉が日本の言説空間を漂っているだけだ。思わずそう言いたくもなってしまうのだが、やはり言文一致のことに触れていたことが大きかったのではないかという芳川さん共々、しばらく頭をひねってみる。が、いい答えは出てこない。それくらい日本の研究に対して、よくわからないことが増えてしまったのかも知れない。

 そして、坂井セシルさんの問題提起。誰に向かって書くのか。議論全体で話題になったキーワードは「面白さ」と「新しさ」だったのだが、新しさといっても一様ではないし、面白いかどうかの判断は人によって異なる。どう判断するかわからない相手に対して、人はどう言葉を差し出せばいいのか。坂井セシルさんはこちらが「葦の葉」に書いた文章(12月4日の日記参照)に触れて下さりながら、「描写的」な研究をどう乗り越えるかが本当にフランスの日本学の重要な課題だとおっしゃる。ごくごく狭い日本学の専門家だけを相手に書いていたのでは、研究は先細りしてゆくばかりだ。だが、日本学以外の人に向けて書こうとする時にはどうしても「描写的」にならざるを得ない。学会だの文壇だのといったトリアーデを超えたところで、「面白さ」と「新しさ」に満ちた文学/研究の言葉をどうしたら書くことができるのか。そう考えていった先に「文化」という言葉がもう一度浮上する。学会ジャーゴンとしての「文化研究」の「文化」でもなく、学生獲得・大学存続の方便としての「文化」でもなく。

 近代文学研究から遠く離れて。わずか一年足らずのヨーロッパ滞在だというのに、自分はもうずいぶんと日本の研究から気持ちが離れてしまったようにも思う。孤独感やさびしさは感じないが、孤立感は強まるばかりだ。だが代わりにどこか別の居場所がある訳でもない。離れてどこへ行くかではなく、問題はこの距離なのだ。この拭い難い孤立感と距離とをしこりのように抱えながら、すでに居場所など残ってはいない日本へと帰ってゆくしかない。ふいに脱衣の解放感が訪れるかも知れない、その瞬間を夢想しつつ。

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