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2002年  10月
10月31日(木)*12月7日追加
 カレル・チャペック『ロボット(R.U.R)』の第1幕で、ユニバーサル・ロボット工場の会長の娘であるヘレナは、3つの大きな事件を新聞で知る。その一つが、「ル・アーブルでロボットの最初の組組織が成立」したという知らせだ。それにしても、なぜル・アーブルなのか。すでにチャペック研究では答えが出ていることなのかも知れないが、ともかく行ってみなければ、ということで朝ルーアンを出て、ル・アーブルへと向かった。印象派命名のもとになったモネの『印象・日の出』に描かれたのもル・アーヴルの港だ。駅前からその海岸へと市庁舎前の広場を抜けるようにして向かう。海は霧が深く、出航してゆく船の明かりがぼんやりと見える。

 ツーリスト・インフォメーションでバスの時刻表をもらった後、マルロー美術館へ。地上階フロアは建築関係の企画展。なだらかなスロープを上がってゆくと、印象派の先駆者とされるウージエーヌ・ブーダンのノルマンディー地方牛や風景を描いた小さな絵が壁一面に架かっている。印象派やそれ以降の画家たちの絵も端正に展示されている。受付横の売店では、ル・アーブルの古い写真や絵葉書を収めた本、第2次大戦後の建築家オーギュスト・ペレらによる市の再開発をまとめた本を購入した。

 13時ル・アーブル駅前発のバスで、オンフルールへ。かつては陸路を遠回りしなければいけなかったのが、現在は1995年1月に完成したノルマンディー大橋を通るようになり、30分弱しかかからない。が、交通事故の渋滞のため、倍以上時間がかかってしまった。バス・ターミナルは旧港から少し離れている。そちらへ向かってホテルを探そうと思い、信号待ちをしていた時に「日本人の方ですか?」と後から声をかけられた。少し立ち話をする形となり、どこか安いホテルを知りませんか?などと聞いているうちに、「一晩だけならうちに泊めてやるよ」ということに。普段はパリに住んでいるが、オンフルールにも家があるからとおっしゃるので、その近くの家へご一緒する。もちろん普通だったら、その日話したばかりの人の家にずうずうしく泊めてもらおうなどとは考えないのだが、その方の雰囲気が画家か美術関係の人のように思え、好奇心の方がまさってしまったのだ。やはりというか、バス・ターミナルからしばらく坂を上った一軒家の中には、至るところに小さな絵がずらっとかかっていた。

 声をかけてこられたのは、島田三郎さんというフランス滞在20年以上に及ぶ画家の方で、近年日本でも毎年のようにデパート等の画廊で個展を開催されている。泊めていただいた来客用の寝室にリソグラフでかかっていたオンフルールの旧港の絵などが代表作で、ヨットの白さがとても印象的な風景画だ。夕御飯を一緒にしましょうということで、時間と場所を約束し、市内見学へと出掛ける。まず、エリック・サティの生家。まず受付でオーディオ・ガイドを渡され、サティの音楽と解説とに耳傾けながら、内部を見学する。1998年に改装後一般公開されるようになったここは、遺品などを博物館風に並べるのではなく、サティの音楽をモチーフにしたヴィジュアルな品々が各部屋に置かれ、その不思議な世界へと迷い込んでいかせようとするユニークな展示方法が特色となっている。最後はサティがピアノを弾いていたモンマルトルのキャバレー黒猫を模したような映写室。お土産に梨の格好に音符を集めたデザインのTシャツを購入。その後、すぐ近くのウージエーヌ・ブーダン美術館へ。オンフルール生まれのブーダンの絵画を集めた展示室があるが、ここは郷土博物館的役割も兼ねていて、生活用品や観光ポスターなども展示してある。ただ冬期の開館時間は17時までで全部見切れず。その後急いで旧港に戻り、サンテティエンヌ教会横の海洋博物館を冬期閉館時間の17時30分まで見学。近くには同じく古きオンフルール協会の民俗大衆芸術博物館もあるが、そちらは見ることが叶わなかった。サティの生家の開館時間は夏期19時、冬期18時だからまわる順番を変えた方がよかったのかも知れない。


 17時に旧港脇のとても印象的な旧総督の館の前で島田さんと会い、近くのレストランで貝をつまみ魚を食べながらお話を伺う。島田さんによれば、フランスで画家としてやってゆくのは、1年やれば誰でもできるようになることだと言う。もちろん現実には、日本に帰ることもままならずアルバイトでその日暮らしをしているような自称芸術家がたくさんいるのもフランスだ。だが、島田さんから言わせると、そういう人たちはやり方が間違っているというのだそうだ。島田さんは一向に芽が出ず悩んでいる人から相談を受けると、3ヶ月食っていける貯金があるなら、まずアルバイトを止めろと言うそうだ。そして、サラリーマンが働くのと同じように毎日8時間、例えばセーヌ河岸へでも行ってキャンパスに向かい続けろと。そうやって自ら退路を断ち、ひたすら一つのことに打ち込んでいると、必ずその人だけの個性が作品に現れ出てくるのだと言う。逆に言えば、その個性を自ら発見し磨くことなしには、何年ぼんやりと夢だけ追っていてもしょうがないということだろう。文学や映画を授業で教えていることもあって、時々学生から就職するか自分の好きな道を行くか相談を受けることがあるのだが、そうした学生たちに直に聞かせてやりたくなるお話だった。

 さらに、今度は何枚か書きためた絵を画廊に持ち込む時の注意点。フランスの画廊の経営者は、絵がいいとか悪いとかは言わず、うちの店にはあわないといった断り方をするのだそうだ。それゆえ、画廊を訪ねたならば、そこで額縁に入れられ商品として並べられた絵をよく観て、自分にあった画廊を探すと同時に、画廊で求められる水準をはっきりつかまなければ駄目だと言う。そして、そのレベルを目標に自分を切磋していかなければならないと。人間には誰しも人に褒められたい認められたいという気持ちがあるし、それゆえ自分のことがわかってもらえず評価してもらえない時には皆落ちこむ。プライドを深く傷つけられたように感じたり、自信が大きく揺らいだりもする。だけど思うに、島田さんが経験的におっしゃっていたことは、そこをどう乗り越えてゆくのかだろう。島田さんは画家として得た収入で、今度は他の人の絵を買うようにしていると言う。それはいわゆるお付き合いとかでなく、自ら絵にお金を出すことで自分の絵のレベルを高めてゆく、精神的な鍛錬に近いもののようだ。

 お宅に戻ってから島田さんのリソグラフや、やはり画家である連れ合いの今井幸子さんの画集を見せていただいた。

10月30日(水)*12月7日追加
 パリ・サン・ラザール駅からルーアンへ向かう。時刻表を調べずに駅に行ったため、約1時間待ち。その間に再来週のアンジェ&ナント行きの往復のTGVの座席を予約。サン・ラザール駅を10時51分に出発し、約1時間でルーアンに到着。ルーアン右岸駅前の2ツ星ホテルに部屋を取り、早速町へ出てみることにする。ジャンヌ・ダルク通りをセーヌ川の方へ向けて進み、大通り通りへと左折。おなかもすいたので、昼食をノートルダム聖堂からさほど遠くない脇道のレストラン、シェ・デュフールで19ユーロのランチ・メニューを注文。アントレのムール貝のクリーム煮から、パリのカフェで頼むムール貝とは鮮度が違う気がして、やはり旅行に出てよかったと思わず思ってしまう。


 モネの連作で有名なノートルダム大聖堂、すぐ近くのサン・マクルー教会とその中庭を見学。さらに、国立教育博物館。サントゥアン教会の横を抜けるようにして、再びジャンヌ・ダルク通りへ。今度は大時計通りとは反対側に右折し、ジャンル・ダルク教会の横を通って、今回の一番の目的地、フロベール記念館をめざす。ところが地図を勘違いしてしまったこともあり、なかなか辿り着けない。18時閉館とガイドブックにあったので気ばかり焦ったが、ようやく17時半過ぎに到着。ところが、ドアが開いていない。市立病院が改装中で、その敷地内にあるフロベール記念館も入場できなかったのだ。

 18時半まで開館のジャンヌ・ダルク博物館を見ようと急いで広場まで戻る。ジャンヌ・ダルク博物館はお土産屋の店の奥に入口がある小さな博物館で、ショーケースに資料が集められている他、蝋人形でジャンヌの生涯が再現されている。ジャンヌの生涯を描いた漫画を購入。そして、広場の一角のレストランで食事。ノルマンディー名物である仔牛のクリーム煮を頼むが、いかにも観光客向けといった感じでいまいち。イタリアだと広場に面したレストランは気分がいいうえに、味も満足ということが経験的には多いのだが、フランスの場合はなかなかそうはいかない気がする。
10月29日(火)*12月7日追加
 昨日は大家から朝、昼時に修繕業者を連れて行くからという電話があって、結局そのまままる一日、近くのモーリシャス料理店に夕食を食べにいった以外は部屋にいっぱなしになってしまったのだが、続けて今日も、外出するのがおっくうな気持ちのままに一歩も外に出ないですごしてしまった。フローベルの『感情教育』を読み始める。明日から数日、フローベルの故郷ルーアンの方へ行こうと思っているからだ。
10月28日(月)*12月7日追加
 アパルトマンの大家夫婦が修繕業者の男性を連れて、部屋の天井を見に来る。3ヶ所ほどしっくいにひびが入ったところがあるので、それを修理しようと思ったらしい。英語でやりとりしているので、こちらにも事情は大体わかった。業者の方は全部塗り替えなければ駄目だと主張する。大家の方は今は人が入っているからそれはできない、3ヶ所だけ塗り替えてほしいと言う。それでは仕事として割があわないと業者が反論する。そのやりとりが、客が業者に仕事を頼んでいるというよりも、まるで議論をたたかわしているみたいなのだ。
 結局こちらが部屋を出てから全面的に塗り替えるとその場では決したようだが、後で大家から電話があり、数日中にこちらの留守に業者が来て塗り替えることになったらしい。しっくいの一部を業者がはがしてコンクリートがむき出しになった穴を見ながら、いろいろなことを考えた。
10月27日(日)
 日本ではそろそろ神田の大古本市なのではと思うが、ここパリもこの季節は見本市や骨董市の開催が多いようだ。ポルト・ド・シャンぺレの展示場で古書・絵葉書・ポスター市が開かれているというので、午後から行ってみることにした。入口にしっかり入場券売場があって、入場料7ユーロの貼り紙。高いなあ、と思いながら並んでいたら、ポンポンと肩を叩かれて、ちょうど出てゆく人が余った招待券をくれた。最初何を渡されたのか分からず、お礼も言いそびれたのだけど、ラッキーと思っていそいそと会場内へ。古書と絵葉書の専門ブースが半々。あと何店かポスターその他を扱っている店もある。

 フランス語の古書はよくわからないので、もっぱらまわったのは絵葉書のブース。ジャポニズム風の着物姿の女性の絵葉書などを少しずつ集めているのだが、町中の骨董市のブースに比べると少し高い気がする。もっとも来ているのは如何にもコレクターといった人ばかりだから、それだけ稀少なものが集められているのかも知れない。何を探しているのかとすぐ聞かれ、「ジャポネ」と答えると、絵葉書の束やホルダーに整理したものを渡される。何枚か買うと少しまけてくれ、これはどうだともっと高いのが出てくる。ちょっといいなあと思って値段を聞くと絵葉書1枚で60ユーロとか言われ、なかには100ユーロを超えるものもある。6枚セットで500ユーロにまけてやるとか平然と言われても、さすがに手が出ない。1枚10ユーロくらいまでと一応決めているので、あまりたいしたものは購入できなかった。それ以外に、ジャン・ドゥーシェとジル・ナドーの『パリ・シネマ』の原著を15ユーロで購入。すでにフィルムアート社から日本語訳が出ている本だが、手元にほしいとこちらに来てから思っていた本だし、来年の授業で早速利用できるから有り難い。

 パリはここ数日天候が悪く、特に一昨日などはかなり強い雨が午後遅くまで降り続いていたのだが、今日は久しぶりに天気がよかった。しかし、風は強く、部屋にいるとそのうねる音がうるさく思えるほどだった。

 フランスでは本日午前2時にサマータイムが終わり、日本との時差も8時間となった。日本から持参したノートパソコンも午前2時にいきなり画面に時刻変更の表示があらわれ、ちょっとビックリした。
10月26日(土)
 14時から、パリ日本文化会館の日本アニメーション7〔戦争直後の作品〕(日本語解説ちらしだと戦後民主主義時代の作品)を観る。「魔法のペン」(熊川正雄、1946)「森の騒動」(前田一、1947)「マッチ売りの少女」(荒井和五郎、1947)「まさかりかついで」(古沢秀雄、1948)「動物大野球戦」(藪下泰次、1949)「森の音楽会」(芦田いわお、1953)の6本。占領期のアニメはいかにもといったメッセージ性があらわだが、「動物大野球戦」や「森の音楽会」では大混乱とその解消という物語構造の中に、弱者の連帯や公衆マナーといったメッセージ性が込められているのだが、アナーキーなまでのぶっとび方が凄すぎて、何がメッセージだったのか忘れてしまうほどの快作。面白かった。

 夜はシャイヨー宮のシネマテークのフランケンハイマー特集へ。19時30分から『The Gypsy Moths』(『さすらいの大空』)、21時30分から『I Walk in the Line』。ちょうど16時30分からの『終身犯』の終わるくらいの時間に着いたのだが、土曜日のせいもあって、さすがに出てくる人の数が違う。客層はやはり年配の方が多い。レイトショーにあたる時間帯の上映に、白髪の男性や年配のカップルがこれだけ詰めかけるというのは、日本だとちょっと考えられない。夕食後に映画を1本、という外出が当たり前のようにできてしまうのがパリなのだ。
10月25日(金)
 午前11時、パリ第7大学のセシル坂井さんの部屋に、書き直した発表用原稿を入れたフロッピーを持参する。十全とはいかないが、発表時間を考えると、このあたりかなという感触はある。発表の持ち時間は45分あるとはいえ、坂井さんに逐語通訳をお願いするうえに、質疑応答の時間もと言われているので、自分が話せる時間は正味15分ちょっとなのだ。微調整は必要だとしても、あとは翻訳=通訳者である坂井さんにお任せすることにした。

 日本では学会発表にあたって、きちんとした原稿を用意したことなどなかった。近年では、とりわけ若い発表者の場合だと、そのまますぐ活字化できるような完璧な原稿を作って口頭発表に臨むことが結構多いのだが、怠け者の自分はせいぜいメモ書きだけ用意し、あとは会場の反応とかを適当に見ながら話をしてお茶をにごしてきた。2週間も前に発表内容をまとめたのは、初めてのことだ。しかも今回は、聞き手の大半がフランス人だろうから反応も読めないし、自分の論文がフランス語になった時にどんなニュアンスになるかもよく分からない。さらに、フランスの日本学の研究状況はアメリカや日本ほどにジェンダー批評が浸透流通している訳ではないそうで、どのへんに標準を合わせるべきなのかも、かなり頭を悩ました点だった。

 あれこれ不安もない訳ではないが、ともかく一段落ついた解放感で、昼食は少し贅沢しようと、すぐ近所のノボテル(元オテル・ニッコー・ド・パリ)の日本食レストラン、Benkay(弁慶)に寄った。普通の席での和食メニュー以外に、カウンターでフレンチ風の鉄板焼きを食べることができる。ホテル内の高級レストランだけに夜ともなれば星付レストラン並みに値段もはね上がるが、ランチの鉄板焼きのコースならば手が届く。鉄板で焼いたマダガスカル産のエビがのったサラダ、お造り、そして160グラムの牛肉、最後にデザートを、赤ワインを飲みながら食べる。目の前でエビや肉を焼き、仕上がりにぱっと炎を立てる。冨士山というデザートを頼むと、これまたパフォーマンスたっぷりに目の前で火を通してくれるのだが、今回は入ってないコースにしてしまった。ランチならばまた来れるかな、その時にはデザート富士山も頼んでみようと思う。

10月24日(木)

 11月1日の万聖節(仏 Toussaint、英 All Saints' Day)の前夜、ハロウィーン(Halloween)というのはやはりとても大切な日だということが、こちらにいるとよくわかる。例えば、近所のスーパー・モノポリではだいぶ前から入ってすぐのところにハロウィーンのコーナーを設け、人形やお菓子を並べている。地下鉄の駅のプラット ホームでは、ディズニーランドのハロウィーンの大広告が目に飛び込んでくる。シネマテーク・フランセーズのグラン・ブールヴァールにあるもう一つの上映館でも、ハロウィーンということでホラー映画の特集が組まれている。今日の19時からの回は べラ・ルゴシ出演のユニバーサル怪奇映画『モルグ街の殺人』(ロバート・フロー リー、1932)。結構有名な映画だが、いままで観る機会を逸してきた作品だけに、いそいそと出掛けることにした。

 初めに「パリ 1845」と原作では曖昧な年が特定される。若い医学生のピエール・デュパン(レオン・ウェイコフ)は恋人のカーミュ(シドニー・フォックス)と カーニバルに行き、ミラクル博士(べラ・ルゴシ)の見世物小屋に入る。そこではア フリカから来た大猿ゴリラのエリックの言葉を博士が通訳し、彼こそが人類の起源な のだと説いていた。と、内容はポーの原作を大きく改変したものではあるが、明らか に『カリガリ博士』を連想させるこの冒頭からも分かるように、ドイツ表現主義映画 と『キングコング』を橋渡しする重要な映画であることは間違いない。三人の証言者 が犯人はイタリア語を話していた、いやデンマーク語だ、ドイツ語だと言い争うシーンは、トーキーならではのなまりの偏差が聞き取れて楽しい。その他、書き記したい ことは幾らでもあるが、ともかくこの「Ape」映画の古典を観られてよかったと喜んでいる。
10月23日(水)
 シャイヨー宮のシネマテークで、ジョン・フランケンハイマーの特集が始まった。今年7月6日に72歳で亡くなった監督の追悼上映にあたる。インターネットで調べたところ、フランケンハイマーの監督作は全31本、そのうち今回かかるのは12本にすぎない。初日の今日は19時から『The Young Stranger』(『孤独の青春』、1957)、21時から『All Fall Dawn』(1962)。前者はフランス語吹替版、後者は英語オリジナル版で、いずれも字幕はついていない。観客席はまばらで、かなり年配の方が多かった。

 監督デビュー作と5作目にあたる今日の2本は共に日本未公開作ではなかったかと思うが、その間に挟まる3本ー『明日なき十代』(1961)『終身犯』(1963)『影なき狙撃者』(1963)で、フランケンハイマーは映画監督としての地位を確保した。『終身犯』の原題は『The Birdman of Alcatraz』。アルカトルズ島に終身刑の判決を受けて服役する男が獄中で鳥を観察し、やがて世界的な鳥類学者になったという実話を基にした映画で、確か紅野謙介さんは高校時代にこの作品を観て、映画的時間というも のを始めて実感したと言っていたように思う。空軍の映画斑で映画製作を学び、除隊 後はまず100本以上のテレビドラマを手掛けたのちに映画監督となったフランケン ハイマーの演出と編集のリズムにはどうもなじめないのだが、紅野さんは今見直して も『終身犯』に映画的持続の流れをみてとられるのだろうか。

 もちろんフランケンハイマーはテレビ出身だから駄目だと単純に決めつけようとは 思わない。何より『終身犯』は、自分にもかなり鮮明に記憶に残っている一本なの だ。『All Fall Dawn』も、仰角ぎみのタテの構図や鏡のショットなど明らかに50 年代ハリウッド映画と通底するものが見てとれるが、それらが作品に翳りや深みを与 えているというよりも、アメリカン・ファミリーの神話に包まれた楽天性とうまく同 調していない感じで、かえって印象に残ってしまいそうだ。

 クリスマスの晩、外で呑んで酔っぱらった夫は、三人の浮浪者を家で飲まないかと 誘い連れ帰る。妻は10ドル札を3枚出し、ここにいるか札を取ってすぐ変えるかど ちらかを選んでほしいと浮浪者たちの前で広げる。長男は家を飛び出していて、クリ スマスの晩もちょっとしか寄っていこうとしない。高校生の弟は兄の生活に惹かれ始 めている。だが、弟が思いを寄せていた年上の女性は、兄と会ったその日に恋にお ち、やがて兄にふられ、交通事故で命まで失う。弟は兄の住む部屋に隠れ、兄を射殺 しようとその帰りを待ちかまえる。と、幾らでもシリアスにできそうな物語でありな がら、あんまり切迫感を感じさせないところが、フランケンハイマーらしいと言えば らしい。が、もしニコラス・レイが撮っていたら、と思わずにはいられないような作 品だったのも確かである。

 さて、11月、12月のシネマテークのプログラムを記載した冊子が出ていたので (一人で大量に持ってかえらないように、受付で小出しにしているようだった)、今 後の予定を書き写しておこう。シャイヨー宮のシネマテークではこのあと、アレクサ ンドル・アストリュック、マルセル・パニョル、マイケル・チミノと特集が続く。ト リュフォー『わが人生わが映画』の『不運なめぐりあい』に関する一文を読んだばか りなので、アストリュックを観られるのが何より嬉しい。

10月22日(火)

 発表用の原稿を書き直さねばと思うのだが、なかなかうまくいかない。手元の本につい手が伸びる。フランソワ・トリュフォー『わが人生わが映画』(たざわ書店)を読み、津島佑子『光の領分』(講談社)を読み返す。

 パリにいると、季節のない街に暮らしているのだと思う時がある。もちろん季節は移ろうし、いまは日も短くなり、街路樹も色づいている。ただ、一日のなかでの天候の変化があまりに大きすぎて、季節に対する感覚が稀薄になってしまうことがあるのだ。つい1時間ほど前まで差していた太陽の光が途絶え、夕方から窓に吹き付けるような強い雨に変わった。風のうなる音が聞こえ、ああそういえばこんな日が6月にも7月にもあったと思い返す。夕食くらいは外でと考えていたのだが、結局また一歩も部屋から出ない一日となった。
10月21日(月)
 夜中に目が覚めてしまい、ピエール・ノール『エスピオナージ』(原題『十三番目の自殺者』、竹尾淳訳、角川書店)を読むことにした。夜明け前に一度寝るが、起きてから再び続きを読み、ほぼ午前中で読了。1968年8月のソ連軍によるチョコスロバキア侵攻を挟む3年間のスパイ戦争の物語。途中で先の筋は大体読めてしまったが、仮に現実だとしても決して表には出ることのない虚実皮膜の世界を描ききった点を評価すべき作品なのであろう。その後、校正を片づけ郵便局から投函する。


 夕刻18:00からのパリ第7大学での池澤夏樹講演会「文学と無信仰ー「帰ってきた男」をめぐって」を聴きに行く。数分遅れて会場の109教室に入ると、50名以上入る教室はほぼ満席。半分以上はパリ第7の学生のようだ。最後方の列に中島国彦先生がいらして、その横に腰掛けさせてもらう。中島先生の隣りが芳川泰久さんと堀江敏幸さん。つまり、本年度坂井さんのところで受け入れていただいている4人が一番後ろの列に並ぶ形になってしまった。

 講演の前半は、パリ日本文化会館での話とかなり重複する内容で、一種の文化的な温室の中で育まれてきた日本文化の特徴の概説。つまり、大陸から適度に離れた島国であった日本は、大陸から文化を受け入れつつ、しかも大陸に一度も侵略されることなしに、季節の移ろいや様々な動植物を詩にうたうことでやってきたし、谷崎・川端・三島といった作家たちは自分の美しいと思うものを表現することで、西洋からエキゾチックな文学として評価された。だから、次の世代もそういう風に書けば、エキゾチックな作品として評価されるはずだったのに、そうはいかなかった。「美しい日本」がなくなってしまったからだ。一つにはヨーロッパの文化を熱心に受け入れたということもあるが、特に日本の場合、第二次大戦の敗戦のショックを強者であるアメリカを受け入れるということで克服しようとした。その結果、自分より下の世代の文学者には谷崎・川端・三島のような、西洋から見てエキゾチックな表現はできなくなったとして、村上春樹を例に挙げた。

 けれども、そうは言っても日本らしいところは残っているとしてご自分の作品に触れ出してから、講演は俄然面白くなったと思う。まず最初は、「スティル・ライフ」の英訳が出た時、イギリスの日本文学に通じた批評家から非常に伝統的な作家だと評されたという話。つまり、日本の「隠者」の文学の伝統に立つ作品だと見なされたというのだ。「スティル・ライフ」については後でもう一度、フィリピンのセブ島で大学生を前に話す機会があった時に紹介に立ったカトリックの神父でもある先生から、実存主義者だと言われたとも話された。池澤氏は最初意外だと感じながら、そのいずれをも言われてみればなるほどとも思ったと言う。

 そして「帰ってきた男」。アフガニスタンの遺跡に辿り着いた「僕」とフランス人のピエールとの対称的な姿を描いたこの短編を、いくらフランス語訳があるとはいえ、あえて講演の材料に選んだというのは相当の英断で、、作家としての自負の表れとも思う。聴衆のほとんどはフランス人なのだし、こんなフランス人はいないなどと反応されたら、作品のリアリティの根幹が怪しくなってしまうのだから。その遺跡では風が吹くと音楽が聞こえ、その音楽は聴く者を外の世界へと誘う。外の世界では個人が個人でなくなり、魂が宇宙全体に溶け込んでしまう。ピエールはそれに強く惹かれるが、「僕」は反対しピエールを引き留めようとする。結局、「僕」だけが帰ってくるが、その「僕」はいま精神病院にいてこの物語を語っている。池澤氏は作品の筋を自ら紹介しつつ、その一場面を朗読された。

 自分という個人でいたいという気持ちと、全体に溶け込んでしまいたいという気持ちとの対立を描いたというこの作品では、なぜ溶け込んでしまいたいと思うのがフランス人のピエールの方なのかが問題なのだが、執筆時の池澤氏は、カトリック国のフランスの人間であれば、信仰をもつ安心感はより大きなものに自分を預ける安心感の拠り所になると考えたらしい。逆に言えば、西欧文化を受け入れることで「個人」というものを持った代わりに、伝統的な日本の文化風土から切り離され、また都会に生活することで、魂を受け入れてくれる祖先たちの眠る土地を失った、寄る辺なき無信仰の日本人の代表が「僕」ということになるのだろうか。しかし、解決のつかない難題だと講演中でもちらっと言っていたと思うが、全体に溶け込んでしまいたいという願望が日本古来のアニミズムの発想と重なることも確かなのだ。

 質疑応答も「帰ってきた男」のフランス語への訳者の発言もあったりして、なかなか興味深かった。ピエールという人名が聖ピーターに由来することについての質問とか、原題では「帰ってきた男」と過去形なのになぜフランス語訳では“L'homme qui revient”(帰ってくる男)となっているのかとか。特に作中での「音楽」に関する質問に答えて、一番大事なところをロジックを言葉で説明せず、ロジックを超える音楽に預けてしまったのは作家としてズルイやり方だと明言しつつ、この作品はもともとラジオドラマとして企画されたもので、そこであるオーケストラそのものを登場人物のように出したかったのだと楽屋裏を語ったあたりは、一つの作品の成り立ちを考える上で示唆的に感じられた。

 終了後、池澤さんを囲む形で夕食を食べに行くけど行かないかと、坂井さんが誘って下さる。他の先生たちもいらっしゃるようだし、ご一緒することに。道すがら、堀江敏幸さんと始めて話をする。同僚のフランス語の内山憲一さんから、堀江さんとは大学院で同期だったと聞いていたのでそのことを伝えると、後はお互いの大学での話をあれこれと。堀江さんの本務校は明治大の理工学部なので、理系大学に勤める文系教員として共通する面も多い。おそらく自分と同じように内気で引っ込み思案な性格の分だけ、初対面だったり社交的な場だったりすると余計そうなられるのではないかという気もするが、とても気さくな感じで正直想像していたのと少しイメージが違った。

 夕食は石の壁がむき出しになった中世風のレストラン。池澤ご夫妻に池澤作品のフランス語への女性訳者3人が揃い、隣り合わせた池澤さんと堀江さんが原稿執筆の舞台裏を語り合うのを間近に目撃できるなど、なかなかのものだった。坂井さんによれば、池澤作品の仏訳はどれも大変見事で、池澤さんはとても訳者に恵まれた作家なのだそうだ。さらに、今年9月に津島佑子「鳥の涙」のとても優秀な卒業論文を出されたと坂井さんが絶賛していたアンヌ・クレールさんと話せたのもよかった。「鳥の涙」は作品集『「私」』(新潮社)に収められた僅か18ページの短編だが、論文はフランス語で170ページに及ぶ大作なのだそうだ。久しぶりにお会いした中島先生ともいろいろとお話ができた。最後に、金井景子さんが今年の一押しだと言って夏に送り届けてくれた『百年の愚行』(紀伊国屋書店)の池澤夏樹さんのエッセイのページに、ミーハーなおねだりをしてサインをもらってしまった。
10月20日(日)
 一日部屋から出ず、テレビの競馬中継やニュースを見て過ごす。これじゃ日本にいた時の日曜とまるで同じだと思わず苦笑いしてしまうが、アイルランドの国民投票でEU加盟に63%の賛成があったというニュース(BBCではずっとこの話題を取り上げていた)には、日本にいてはさしたる関心も持たなかった気もする。EUに加盟していないスイスやノルウェー、ユーロ通貨の導入に反対の意志を示したデンマークも、いずれ遠からずEU加盟やユーロ流通圏への参加を表明するのではないか。もちろんこれは旅行者の表面的な観察にすぎない。けれども、ヨーロッパが雪崩を打つように変わりつつあるのだという実感もやはり拭えない。

10月19日(土)

 三日連続でパリ日本文化会館へ。14時から日本アニメーションのプログラム4〔政岡憲三作品集〕。「茶釜音頭」(1934)「森の野球団」(1934)「べんけい対ウシワカ」(1939)「くもとちゅうりっぷ」(1943) 「桜」(1946)の5本。「茶釜音頭」の「あの手この手箱」を開けると手が幾本を出てくるシーンや雲の上をスキーで滑走するシーンから笑いが起こる。「森の野球団」だけは政岡映画研究所の作品で監督は原田誠一。ミッキー・マウス、ミニー、ベティ・ブープが出てくるのだが、ディズニー社との関係はどうなっていたのだろう。名作「くもとちゅうりっぷ」は画質の悪いのが辛いが、観るたびに感嘆する箇所が増えてゆく。敗戦の翌年に16ミリ版が「春の幻想」の題でひっそりと公開されただけの「桜」は幻のアニメとも言われていた作品で、ウェーバー「舞踏への勧誘」のメロディーにのって京都情緒あふれる夢幻的な世界が展開する。カラー・アニメで撮らせたかったとつくづく思わせる名品だ。終映後に拍手。「日本アニメーションの父」といわれる政岡憲三の世界がしっかり評価されたことがわかり、嬉しい気持ちになった。

 16時からはプログラム5〔30、40年代の他の監督〕。「あめや狸」(監督不詳、1931)「茶目子の一日」(西倉喜代治、1931)「元禄恋模様・三吉とおさよ」(瀬尾光世、1934)「動画狐狸達引」(大石郁雄、1933)「塙団右衛門・化物退治の巻」(片岡芳太朗、1935)「キンタロー体育日記」(鈴木宏昌、1940)「かぐや姫」(荒井和五郎、飛石仲也、1942)の7本。「茶目子の一日」には「人見絹枝嬢の面影」として走幅跳の実写が出てきたり、「塙団右衛門・化物退治の巻」では狸が丹下左膳に化けたりする。「元禄恋模様・三吉とおさよ」は「弱い侍なんかきらい」とおさよに言われた三吉が、侍たちにさらわれた彼女を無事助け出して結ばれるという話で、解説ちらしには『キングコング』のパロディとあるが、どちらも娘の誘拐・救出劇とはいえそこまで言えるのだろうか。

 上映の空き時間に、上の図書室にいって校正ゲラの引用文のチェック。それだけでは終わらず、終映後も再び図書室へ。それにしても日本アニメーションの特集は今日も盛会で、14時の回は若干席が空いていたが、16時の回はほぼ満席。今日は若い女性やアベックの観客も結構多かった。

10月18日(金)

 一仕事終わったかと思えば、次の仕事が待っている。昨日届いた校正刷りをチェック。今日は来年出講する非常勤先の大学からシラバス用の原稿用紙も届いた。なんだか日本並みに慌ただしくなってきた気もするが、冷静に考えてみれば、今までが暇すぎたのだ。草稿原稿の書き直しもあるのだし、早々にやるべきことから片づけなければと思う。

 夕刻から外出し、19時からのパリ日本文化会館での池澤夏樹講演会「国境と文学」を聴きに行く。実はこの講演会、80名ほどしか入らない小ホールが会場でしかも無料ということもあるかも知れないが、一ヶ月ほど前にはもう予約で満席になってしまっていたのだ。実際には定刻の段階で空いている席の人数だけは、予約なしの人でも入れていたようだが。パリ日本文化会館ではこの後、11月9日(土)19時からの古井由吉、堀江敏幸対談「21世紀において「書くこと」とは:エキゾティズムを超えて」、11月15日(金)19時からの津島佑子、ナンシー・ヒューストン対談「同一性と差異:世界のなかの文学」と連続講演会《日本文学の現在》が続く。今回の企画はナントのLieu Unique とパリ第7大学の共催なので、ナントやパリ第7大学などでも講演会が開催される。そのうちパリで行われる分については、このHP上にレポートを掲載していきたいと思う。日本にいる時には文学テクストの書き手その人への興味などさして湧かず、作家の講演会を聴きに行こうという気分にもめったにならないのだが、フランスにおける現代日本文学受容の一端を知る貴重な機会かも知れないので、今回だけは少しがんばってみるつもりだ。

 池澤夏樹講演会は最初に館長によるフランス語の挨拶があった後、ドミニク・パルメ氏による逐語通訳付きで始まった。聴衆はフランス人、日本人半々くらいだっただろうか。予約なしで当日来た人は日本人の若い人が多かったようだが。講演は、今年は6月からイスタンブールの大学、次にスコットランド、そしてかつて3年間滞在したギリシア(今回はクレタ島)、さらにドイツを経ていまフランスと、ずっと日本に帰らずヨーロッパに滞在しているのだという話から始まって、ユーロ通貨の試みは世界史の上でやはり画期的であり、それが可能だったのはヨーロッパの人は国は違ってもお互いをよく知っているからではないかと指摘。翻って日本人はヨーロッパ文学を熱心に翻訳し、学びあるは楽しみ、それが小説だと思って自らも書いてきたが、ヨーロッパ人にとっては当たり前の要素が消えてしまった。それが、人種・民族・言葉の違う「隣人」を知ることだと、ここから話は比較文化論になっていった。

 6、7年前にブリュッセルでみかけたというエスニック・ジョークに満ちたポスター(「理想のヨーロッパ人」と言いながら各国人の否定的なイメージを列挙するもの)、単一民族だと時に思いこんでいる日本人ももともとは南方系の縄文人と北方系の弥生人とが複雑に混じり合ったものだとして、3月の雛祭りの人形の顔が弥生型で2月の節分の鬼の顔が縄文型だという話、友人がフランス人からなぜ日本人は哲学なしでやってこれたのかと問われ、その友人が日本には季節が50くらいあるからだと、つまり桜が咲き満開となり散ってゆく季節の移ろいを哲学の代わりに詩にしてやってきたのだと答えたという話など、聴衆を惹き付ける話題を次々と出してくるあたりはさすがだなと思いつつ、話の中身のあれこれよりも、いまこの話が他ならぬヨーロッパで語られているのだという、言表行為が遂行される場の問題へとやはり思いは巡ってしまう。

 池澤氏は大陸とほどよく海で隔てられていたことが日本文化の実りをもたらす反面、日本人は異人恐怖症を身につけてしまったとして、その角度から日本の近代史での振舞を概説し、移民・難民をほとんど受け入れていない現状を指摘する。時々「我々」という言い方が混じる。つまり、他者に興味を持ちつき合い方も知っているフランス人に対し「我々日本人」はこういう人間なのですよと語りかけ、その一方で聴衆の約半分の日本人には同一化を求める。それは異国において「日本」「日本人」を語る際にはある程度止むをえないことなのは経験的に分かるが、少なくとも聞き手の一人である自分にとってはあまり居心地のいいものではない。

 池澤氏は、日本と他の国の関係、日本人と他の国の人との関係に一番興味があり、ほとんど日本を舞台とすることなく小説を書いてきたと自らを語る。しかし話の方向は、他の国の人を知ることで逆に自分のこともよく分かるとして「日本」「日本人」のアイデンティティを立ち上げることにしか向かっていないように思える。そうではなく、他者との関係を描くことで「日本」「日本人」というものの自明性を突き崩すという方向もあるのではないか。また、「隣人」を知るのが苦手な日本人にも変化のきざしはあるとして、いま日本文学で一番活力があるのが朝鮮半島出身の作家や沖縄の作家であることを例に挙げる。そうした異質なものを取り込むことで、日本人が異質なものへの過剰な脅えを克服し、身近な「隣人」を持つ端緒になると考えているようだったが、こうした発想は、マイノリティの側の表現をほどよく温度調整し制度の中に取り込んでしまおうと言うのと紙一重なのではないか。

 会場からの質問は、まず『スティル・ライフ』の冒頭と今村昌平の映画との細部の一致に関するものがフランス語であり、その後『スティル・ライフ』と池澤氏が昨年秋から出しているメールマガジンに衝撃を受けたという人、『南の島のテオ』がとても好きだという人と、日本人の若い女性の質問が続いた。グローバリゼーションをどう考えるかという最後の質問に対し、池澤氏は、グローバリゼーションは向こうから勝手にやってくるものだから反対できないし拒否できない、ローカルな側の魅力を押しだし対抗して止めるしかないと答える。南の島の人たちがそうしようとしているという話ならばそれでもいい。けれども、質問者は作中に登場する日本人のカップルのことにも触れていたのだ。言表化されなかった答えの中に、おそらく自分が一番違和感を感じるものが含まれているのだと思う。

 池澤氏の講演は21日の月曜日18時からパリ第7大学でも行われる。タイトルは「文学と無信仰ー「帰ってきた男」をめぐって」。もし会場の雰囲気が許せば、直截に疑問をぶつけてみるべきなのだろうか。さて、『スティル・ライフ』以前からギリシア現代詩の翻訳者として親しんできた方の話を聴いた後だけに、ギリシア料理を食べたいと思ったのだが、あいにくと近所には店がない。代わりに昨日最初行こうと思っていた帰り道沿いの店に入り、アルジェリア・ワインを飲みながら羊肉付きのクスクスを食べた。

10月17日(木)
 午前11時に、パリ第7大学のセシル坂井さんの研究室まで草稿原稿を手渡しに伺う。プリンターを持っていないため、フロッピーに入れて持参し、自分用にも一部プリントアウトをいただいた。ただ、いろいろ話を伺っていると、どうもこのままでは使い物にならず、もう一度ゼロから考え直した方がよさそうだ。12時少し前に、芳川泰久さんがフランス語の発表用完成(!)原稿を持って現れる。大学近くのクレープ屋でお二人と昼食をご一緒した。

 芳川さんはフランス語による執筆で胃のあたりが痛くなったそうで、また質疑応答のことを気にされてもいた。坂井さんにおんぶにだっこ状態の自分には雲の上のような話なのだが、やはりフランスで発表することの意味や困難をうまく掴みきれていなかったことを実感した。坂井さんは午後の授業のためにデザート・クレープを食べるや早々に席を立っていかれたが、その後しばらく芳川さんとよもやま話。初対面、ないしはそれに近い方と面と向き合うと、人見知りする性格ゆえの過剰適応でつい喋りすぎてしまうのが自分の欠点なのだが、あまり寝てないせいもあって、ずいぶんペラペラと脈絡のない話をしてしまった。おまけに、シードル1杯しか飲んでいないのに、席を立つ時あやうくこけそうになったり、外の通りのパス停で後方からきて停まろうとするバスとごく軽くだが接触してしまったり…。部屋に帰り、軽く仮眠をとろうと思うが、それもうまくいかない。

 夕刻、再び外出し、パリ日本文化会館の日本アニメーション特集を観にゆく。二日目にあたる今日は、18時からプログラム3〔村田安司作品集〕として、「動物オリムピック大会」(1928)「瘤取り」(1929)「太郎さんの汽車」(1929)「猿正宗」(1930)「空の桃太郎」(1931)「お猿の大漁」(1933)「のらくろ伍長」(1934) の7本を上映。初日ほどの入りではなかったが、6割くらいの席はゆうに埋まっていただろうか。切り紙アニメーションの名手と言われた村田安司による動物たちの動きは、今日から見ても思わず賛嘆したくなるほど見事なものだ。

 終わって外に出ると、雨が本降りになっている。夕食にクスクスでも食べて帰ろうかと思っていたのだが、のらくろが焼き鳥屋で五人前たいらげてしまうシーンを見て、近くの日本料理屋へと予定を変えた。もちろん焼き鳥盛り合わせを五人前も食べた訳ではない。
10月16日(水)
 松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』のフランス語訳ペーパーバックを、日本語の原本を横に置きながら眺める。発表草稿の引用箇所を確認するためだが、松浦理英子の小説はフランス語に乗りやすい感じがした。本人が英訳よりもフランス語訳を望んでいたのもむべなるかなと思う。会話の強度は日本語以上にくっきりとしていて、談笑する場面はより楽しげに、逆に言い争う場面は原作にもまして痛切に耳に響く。もちろんこれはフランス語のできない人間の直感的な印象に過ぎない。本当のところはどうなのか、今度坂井さんに聞いてみようと思っている。

10月15日(火)

 17日の木曜日に発表草稿をセシル坂井さんにお渡しする約束になっているので、そろそろパソコンのキーボードを叩くスピードも加速してくれなくては困るのだが、なかなかそうもいかない。書きあぐねてしまう理由の一つは、津島佑子を論じる際に取りうるスタンスと松浦理英子の場合のそれとにかなりの隔たりがあって、自分の中で接合できていないからだと気づいた。それは津島佑子、松浦理英子の批評研究史がそれぞれどのようなものであったかということとも無関係ではない。

 例えば世代論的、文学史的に一九四七年生まれの津島佑子を中上健次らと同じ文学世代として位置づけ、一九五八年生まれの松浦理英子を後続する世代の一人として対置すれば話はわかりやすいし、発表する場を考えれば多少はそうした整理も必要だとも思うのだが、積極的に乗りたいと思う見取り図ではない。松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を深く理解し最も評価したのが、他ならぬ中上健次だったからだ。

 本格的に考え直さねばという気持ちもあるのだが、すでに時間もない。とりあえず今の自分にできるのは、津島佑子のテクストを松浦理英子を読むように読み、津島佑子を論じるのに似つかわしいスタンスに整序してバランスをとること以外にはなさそうだ。ともあれ、あと一日の勝負だ。
10月14日(月)
 誰が読んでいるか分からないネット上の日記で、ここまで言っていいものか憚られる気持ちもないではないのだが、この半年間の海外生活で何よりよく分かったのは、自分の根無し草性だった。パリで暮らした人間は、熱病にかかったかのように帰国後も大変なフランスびいきになるか、あるいは反動で極端な日本主義者(愛国者)になるかだとしばしば言われ、自分も出発前にはどちらになるのやらと好奇の目を向けられた。横光利一『旅愁』の久慈と矢代とはこの対称的な二つのパターンの典型だと言えるが、はっきり言えることは、そのどちらにも自分はなりそうにないことである。

 来年度の非常勤の話を早々と入れてしまったのも、「出稼ぎにをしに日本に帰る」ための下準備なのかも知れない。出稼ぎとは出掛けるものであるから語法的におかしいのは確かだが、「出稼ぎに帰る」という言い方の方が感覚的にしっくりくることは否めない。東京にもパリにも帰属したくはないし、できない。もちろんこれは心理的なレベルの話でであって、帰国後にどういう現実が待ち受けているかとは別問題だと思っている。


 先週の金曜にカメラが直ったという電話があり、修理費の請求書も郵送されてきたので、午後からアルジャントゥイユのペンタックス・フランスに出向いた。修理費51.34ユーロを小切手で支払い、カメラを受け取る。その後アルジャントゥイユの町中を歩き、シスレーが描いた教会やモネが描いたアルジャントゥイユ橋で早速シャッターを切った。9月17日に来た時には天気もよく夏の名残を強く感じたのだが、いまは街路樹も色づき、セーヌ川のほとりにも全く人気がない。曇天だったせいもあろうが、あれから1ヶ月もたたないというのに、すっかり晩秋の気配だった。
10月13日(日)
 いまパリでは午前7時でも外は真っ暗だ。それがだんだんしらしらとなり、午前8時にはすっかり明るくなっている。一方、午後7時にはまだ明るいが、午後8時ともなれば完全に闇に包まれる。昼と夜とがちょうど同じくらいの長さなのだ。今日は一日どんよりした雲に隠れて太陽は姿を現さず、雨が降ったり止んだりしているようだった。夕食に出た以外は一日部屋にこもって、津島佑子関係の論文コピーを読む。11月7日の発表原稿を書き出そうと思うのだが、なかなか言葉が出てこない。結局何も書けずに一日が終わってしまった。
10月12日(土)
 ある大学から来年度非常勤講師として出講しないかという話をいただき、履歴書と業績表をメール送付した。6月にやはり非常勤の話をいただいた大学からは無事教授会を通過した旨の連絡があった。声をかけてくれるのは嬉しいし光栄でもあるのだが、本務校での次年度の状況もはっきりしていないだけに、帰国後のことが不安にならない訳でもない。もしこれ以上仕事が増えていきそうな状況になったら、いよいよ本格的な帰国恐怖症にはまってしまいそうだ。

 太田博昭『パリ症候群』(トラベルジャーナル)はパリ・サンタンヌ病院に邦人専門の精神科外来を設置し、パリ市中に邦人医療相談室(心の健康診断)を開設してきた精神科医による著書だが、1991年刊行と10年以上前のものとはいえ、そこで取り上げられている事例には、あっけにとられるようなものも多い反面、身につまされるものも少なくない。とりわけ著者が「パリ症候群」と名付けるタイプの3ヶ月以上の長期単身渡航者が深刻な心理的・精神的トラブルを引き起こした場合、帰国を勧めても「それでもパリ」と固執し頑として首を縦に振らないケースが大半だというのだ。著者の言うようにそこには日本人の「パリ幻想」が大きく関与していようが、同時に現代日本の社会システムが抱え持った様々な問題点も透けてみえる。

 何とか談笑できる程度のフランス語能力さえ有しなくとも、社会的・経済的な滞在基盤が安定している自分が、向こう半年間にカルチュア・ギャップから来る精神的トラブルに陥る可能性は少ないように思える。だがそこに、帰国後の状況を先取りして考えることで生じる不安や圧迫が加わった時、どうなってゆくのかまでは想像がつかない。


 パリ日本文化センターで日本アニメーションの特集上映が始まった。1920年代から50年代にかけての短編アニメーションを通して、その過去を展望しようとする企画である。日本アニメーションの歴史に関しては、工学院大の「芸術学各論」の授業でも取り上げたことがある。その時は、関川夏央が解説者役を担当したNHK教育テレビの番組のビデオに補足説明を加える形で講義を行ったのだが、いまパリにいて改めて日本アニメーションの歴史を振り返る機会が持てるのは有り難い。

 初日の今日は14:00からの回がプログラム1〔草創期の作品〕で 「兎と亀」(山本早苗、1924)「正ちゃんの冒険」(監督不詳、1924〜5頃)「のんきな父さん山崎街道」(木村白山と推定、1924〜5頃)「日本一の桃太郎」(山本早苗、1928)「花咲爺」(村田安司、1928)「文福茶釜」(村田安司、1928)「塩原多助」(木村白山、1925)の7本。16:00からの回がプログラム2〔大藤信郎作品集〕で「孫悟空物語」(1926)「みかん船」(1927)「黒ニャゴ」(1929)「村祭」(1930)「春の唄」(1931)「ちんころ平平 玉手箱」(1936)「雪の夜の夢」(1947)「花と蝶」(1954)「団子兵衛捕物帖・開けごまの巻」(1955)の9本。どちらの回も80名入る小ホールが満席。シネマテークのポランスキーよりずっと多い。観客は日本人もぱらぱらいたと思うが、ほとんどがフランス人で20代、30代のどちらかと言えば男性が多かったように思う。フランス語スライド字幕付きの上映で、入口で日本アニメーションの歴史を概括したフランス語の8ページのパンフレットとその日本語訳、日本語による作品解説(それぞれA5版両面コピー)とがもらえ、さらに各回の最初にフランス語による短い解説まであった。日本においてもポピュラーとは言えず、また状態もよくないフィルムに熱心に見入る様子からは、フランスでの日本アニメーションへの関心の高さが窺われた。

 最後に、「声の劇場」の第3回公演のちらしを内木明子さんが送って下さったので、下に案内を掲げておく。もちろんパリにいては観に行くことなど叶わないし、ここではたいした宣伝にもならないだろうけれども。蛇足ながら、いつか「声の劇場」も海外公演が実現できればいいのにと思う。蜷川シェイクスピアだって日本語だったのだし、フランス語資料をきちんと配布し、水俣病に関する写真や映画と組み合わせる形でイベント化できたならば、石牟礼道子「ゆき女きき書」の方言の調べに耳傾けるフランス人もいるのではないだろうか。


   
声の劇場 第3回公演 「苦海浄土」
作:石牟礼道子 企画・制作・演出:金井景子 出演:内木明子
2002年11月16日(土)18:00開場 18:30開演
早稲田大学本部キャンパス14号館B101教室(AVホール)
入場無料
       詳細、お問い合わせはこちら

 
10月11日(金)
 松浦理英子の初期小説を読む。「葬儀の日」「乾く夏」「肥満体恐怖症」そして「セバスチャン」。読み終わってから、しばらく仮眠。夜はパリ日本文化会館へ蜷川幸雄演出の『真夏の夜の夢』を観に行く。

 電話予約を入れておかなかったので、席があるか心配だったが、整理券を受け取り、開演直前に当日券を購入。全席自由ですでに大半の席は埋まっていたが、前から5列目の端で観劇できた。小劇場より若干大きいくらいのホールで、舞台との距離は近い。15ユーロのチケットが会員割引で10ユーロに。日本ではとてもこんな料金で蜷川シェイクスピアを間近に観ることは叶わないだろう。観客の3分の2くらいがフランス人だっただろうか。日本語の台詞による上演で、通訳も字幕もつく訳ではない。A4裏表にフランス語で簡単な筋と解説とを載せたもののコピーを入口でもらえるだけ。日本語のできる観客とそうでない観客との間で反応の違いがあるのがはっきりわかる。それでも、かなり受けていたように思う。竜安寺の石庭を象った舞台上で、能・歌舞伎などから引き出された日本イメージを交えつつ、本来サブ・プロットにあたる部分がユーモラスに展開するあたりが一番新鮮なのだろうか。特に途中の台詞もなくスローモーション風に役者が動く場面や最後の劇中劇は、笑い声がそこかしこから聞こえてきた。

 休憩時間には割引で浮いた5ユーロで、贅沢にシャンペンをグラスで一飲み。考えてみれば、今回の渡欧では初めての観劇だ。もし滞在先にパリではなくロンドンを選んでいたら、きっとシェイクスピアを中心に芝居を何本も観ていたことだろう。夏には野外劇場での上演も多く、以前観た時の愉しさは格別のものがあった。もちろんパリでも多くの芝居が上演されているし、フランス語ができないがために観に行かないこちらが悪いだけなのだが、それでも演劇はイギリスが本場だという思いがどこかしら残っている。
10月10日(木)
 10月8日の日記がアップされるや間髪を入れぬように、4月から熊本学院大学に移られた奥山文幸さんからメールが届いた。掟破りだがその内容はと言うと、奥山さんは10月から日本文学協会近代部会の機関誌「葦の葉」の編集担当になられたそうで、「今の状態であれば原稿を書いていただけそうなので、いきなり依頼します。」と書き記してある。口は災いのもと、これだからネット日記はこわい。
 「葦の葉」は月例会案内として報告要旨と前回のまとめとを会員に伝えるA5版裏表くらいのミニ機関誌で、最近はメルマガ版も出ている。そして毎号巻頭に小エッセイが載っているのだが、今まで一度も書かせてもらったことがない。まあ、何年も例会に顔を出してない幽霊会員だから、しょうがないのだけれども。しかし、松浦理英子は『親指Pの修業時代』が売れに売れて原稿依頼やインタビューが殺到したとき「もっと暇な時に来てくれたらいいのに」と思ったそうだが、自分だってもっと若くて就職も出来なくて暇だった時に書かせてくれたらいいのに、とは思うぞ。あ、いまが暇そうだから依頼が来たのか…。
 奥山さんはおそらく書きやすいようにと気をつかって、「パリ雑記のようなエッセイもの」をとも言って下さっているのだが、こちらでのことは基本的にみんなこの日記に書いてしまっているので、これも困る。何でもいいと言われると、だったら誰でもいいんでしょ!とつい言い返したくなる。ひがみ根性が抜けきらない。それに11月の研究発表までは、考えることはそれに集中したいのになあ、などとぶつぶつ心中で呟きながら、久しぶりでパリ第7大学の図書室へと出掛けることにした。

 パリの大学はちょうど今が新学年の始まりの時期で、キャンパスも活気にあふれている。第7大学は来週月曜からいよいよ授業開始らしい。地下鉄最寄り駅ジュシューは夏の間は改装工事で降りられなかったのだが、入口への通路がぐっと広くなっていた。エスカレーターで地上に出て、振り向くとすぐそこが大学の正門で、ちょうどお昼時だったせいもあろうが、多くの学生たちが出たり入ったりしていた。

 目的は図書室で芥川賞全集の入用な巻を借り出すことにあったのだが、12巻までしか揃っておらず、あてがはずれた。資料が揃ったかと思うと、また新たな資料が必要になってしまう。因果なことだ。それでも、久しぶりに坂井さんとお会いし、スケジュールについて確認できたのはよかった。

 ここのところは外食もひかえ、韓国ヌードルばかり食べていた気もするので、帰りはビストロで食事していくことにする。ラ・モット・ピケ・グルネル駅に近いカフェ・デュ・コルメスは、カフェとは名乗っているが、簡単にフランス家庭料理が食べられる庶民的な食堂といった雰囲気のお店だ。レストランはだいたいどこもランチタイムの終わる14時か14時半で一度閉まってしまうが、ここはノンストップで昼から夜まで開いているのが有り難い。天窓のある吹き抜けの中央部分に木が植わっていて、室内にいながらテラスで食事しているような気分が味わえる。3階建てで、吹き抜けを囲むようにして300席近くもあるらしい。アニス風味のサーモンマリネと鴨のコンフィを注文。昼間からワインを飲んだせいか、部屋に帰ったら眠くてたまらなくなり、ベッドにもぐり込んだ。目が覚めたら、もう外は真っ暗で、ほんの数時間しか太陽のもとで起きていない一日になってしまった。

10月9日(水)
 昨日、探してもらっていた本や資料が日本から届いた。段ボール1箱分、郵送料だけで9400円かかっている。中身は津島佑子、松浦理英子、笙野頼子、そしてスパイ小説の文庫本と関連する論文等のコピー。津島佑子の文庫本はすでに版元品切になっているものが多いが、『謝肉祭』河出文庫)や『山を走る女』(講談社文庫)など。ジャン・バカン『三十九階段』(創元推理文庫)の古本やコンラッド『密偵』の翻訳(井内雄四郎訳『スパイ』)のコピーなども入っていた。

 有り難い。これで在外研究中に書き上げなければならない論文のめども、かなりのところまで立つはずだ。早速、これも版元品切らしい河出文庫の松浦理英子と笙野頼子の対談『おカルトお毒味定食』を読み上げてしまった。
 
 夕方からは昨日に続いてシャイヨー宮のシネマテークへ。19時からの『Pirates』(1986)、21時半からの『Frantic』(1987)を観る。ハリソン・フォード主演の『フランティック』はビデオ販売もされているし、日本公開作については邦題を記すべきだと思うのだが、なにぶん海外では簡単に資料が見られず、ネットで調べるにしても大変なことがあるので、今後はこのように原題と年だけを記して済ませてしまうこともあるかも知れない。

 さて、日本でもビデオで簡単に見直せる『フランティック』を観に行ったのは、これがパリを舞台にした映画だからである。オペラ座がすぐ目の前に見えるル・グラン・オテル・インターコンチネンタルの一室で自分がシャワーを浴びているうちに失踪した妻を、パリの街の暗部にまで降り立つようにして捜し求めるハリソン・フォードの追跡劇は、午前5時のセーヌ川の自由の女神の横の橋、つまりグルネル橋とその下の中の島にある白鳥の小径とでクライマックスを迎える。今住んでいるところからこのグルネル橋と自由の女神までは、ほんの5分もかからずに行けてしまうからだ。

 一方の『パイレーツ』はポランスキーの長編第一作『水の中のナイフ』を思い起こさせるような、たった二人の男だけが筏で漂流する場面で始まり、そして終わる。ポランスキーの作品で一番よく知られているのは『ローズマリーの赤ちゃん』だろうが、個人的にはナスターシャ・キンスキー主演の『テス』を偏愛していて、けれども今観たら不快になってしまいそうな予感も強くて、ずっと観直せないでいる。『パイレーツ』の冒険活劇風のピカレスク譚も観ていて楽しかったが、終わってみれば痛快さなどはみじんも残らなかった。

 ところで、今日シネマテークの席に座ろうとしたら、すぐ横の席の下から一匹のネコが姿を現した。これが駒沢短大の石割透さんがおっしゃっていたシネマテークに居候しているネコなのかとしばらく見ていたのだが、上映開始の直前にどこか隅の方へといなくなった。上映が終わると、出口の階段のところに坐っていた。インターバルの時間にはホールをのんびりと散歩していて、時折背中をなでる人がいても動じる気配さえ見せない。シネマテークの常連の人たちにはすっかり馴染みの存在になっていて、当のネコ君の方もこの場所に充足しきっている様子だった。と言うわけで石割先生、ネコ君は元気ですからご安心下さい、とこの場でお伝えしておきたい。
10月8日(火)
 10枚のエッセイを書き上げ、某出版社にメール送付した。パリ到着後に執筆依頼のあった唯一の原稿である。思うに、海外に出掛ける文学者や研究者は、実際に書くかどうかは別として、体験記で原稿料をかせげる者とそうでないものとに階層的に二分化されてしまうのだが(後者が前者に劣るというのではない、念のため)、紛れもなく後者でしかないはずの自分に書く機会を与えてくれた奇特な某雑誌には深く感謝している。在外研究のいい記念にもなると思う。もっともまだ没になるかも知れない訳だから、ここでは名前を隠しておくけれども。

 それにしても、これまた言うのも憚られることではあるが、最初に言われた締切期日前に原稿を渡せたのは、何年ぶりだろうか。10月10日締切で一月半前に依頼のメールが届いたのだが、今回だけは送ろうと思えばスイスに出発する前にでも送れそうなくらいに余裕があった。この数年は慢性的に締切オーバーの原稿を抱え、精神的に追い詰められた状態が続いていたから、格別の爽快感がある。この感触を大事にしたいと思う。

 夕方からはロマン・ポランスキー特集を観にシャイヨー宮のシネマテークへと出掛けた。19時からの回を観るつもりで行ったのだが、10分前に着いてみるとまだ開門しておらず、外に20人ほどの人が待っている。門は19時を過ぎても開かず、人はだんだんと増えてゆく。どうやらスケジュールを一日間違えて来てしまったらしいと思い始めたが、それではこの人たちはなんのために集まってきたのだろうか。19時40分少し前にようやく開門。せっかくだから入会手続きだけでもしていこうと思い、一群の後について中へ入り、スケジュールの載った冊子やちらし類に目を凝らすが、今日が何なのかだけはどこにも載っていない。

 入会手続きは証明写真を渡し、所定の用紙に名前や住所を書くだけで簡単に完了。30ユーロの会費で、1回4.7ユーロの入場料が3ユーロに割り引きになる。今日も同じ料金で入れるようなので、好奇心半分やけ半分で観てゆくことにする。客席はすでに半分以上埋まっていて、壇上には2本のマイク、そして客席の中央の通路には舞台に向けられたテレビキャメラ、その後ろ2列には招待席の紙が貼ってある。やはり場違いなところに来てしまったかと半ば後悔しつつ、開演時間を待つ。やがて席はほぼ満席となり、20時30分に開演となった。


 それで、監督と主演のレイフ・ファインズの舞台挨拶付でクローネンバーグの新作『Spider』を観たのだった。拍手で迎えられたクローネンバーグは、この映画はイギリスが舞台のカナダ映画だしフランスの皆さんに見終わった後も喜んでいてもらえるか分からないみたいなことを英語でジョークまじりに短く話し、「My Friend, Spider」と言って、映画の冒頭と確か同じ色調の服を着たファインズにバトンタッチ。短いフランス語の挨拶があった後、上映が始まった。プリントは今年のカンヌ映画祭で上映されたもので、冒頭にカンヌのマーク、そしてフランス語字幕がついている。観客席がすみやかに静まり、小休止的にうけるべきところでは、ちゃんと反応が起こる。いかにもシネマテークでの試写という雰囲気が感じられ、気持ちよかった。

 『Spider』の内容はネタばれになるから書かないが、幼少時の母親の死にまつわるトラウマを抱えたレイフ・ファインズのスパイダーが、少年のスパイダーと同一画面中に共存しつつ、ひたすら小さな文字でメモをつけてゆく。つまり、ストーリー的には過去の事件の真相探しの様相を呈しながら、クローネンバーグの関心はむしろ過去の出来事をみつめることで時に発作を起こしもする大人のスパイダーの身体的変動に向いている。それがこの映画を、いわゆる心理スリラーとは違った、見ることと書くことを主題としたメタフィクション的な水準へと押し上げているように見える。けれども、例えば「ジン・オレンジ」と書き付ける言葉がスパイダーの口から漏れることはあっても、彼の文字そのものはほとんど画面に映らない。あれもメイクなのだろうか、異様な彼の手が映し出されても、その下の紙に書き付けられた小さな文字は定かには読めない。少年のスパイダーが皿にナイフをこすって立てた嫌な音と共に、おそらく誰も気にはしないであろう文字の抹殺劇の記憶をしかと刻みつけられて、家路についた。

10月7日(月)

 鈴木布美子『映画で歩くパリ』を読む。エスパス・ジャポンで借りてきた1冊だが、薄い本ながら丸一日読みふけってしまった。正直日本で手にした時には、ああこんなもんかという感じでさっと読み飛ばしてしまったのだが、なにせここはパリだから、言及されている映画の舞台や映画館に行こうと思えば今すぐにでも行くことができるのだ。

 ストーリーを交えながらかなり詳しく紹介されているのが、『パリところどころ』『勝手にしやがれ』『獅子座』『地下鉄のザジ』『5時から7時までのクレオ』『ラストタンゴ・イン・パリ』『ディーバ』『ポンヌフの恋人』の8本。その後、地区別のパリ映画散歩、映画史におけるパリについてのエッセイ、古典フランス映画のポスターにアレクサンドル・トローネルの舞台スケッチ。パリで行ってみたい映画館ガイドや映画専門店、映画雑誌、映画関係公共施設なども載っている。地図を横に置き、一つ一つ確認しながら読んでゆく。例えば『ラストタンゴ・イン・パリ』の舞台はいま住んでいる場所からそう遠くなく、マリア・シュナイダーが婚約者役のジャン=ピエール・レオと口論するのは、歩いて10分ほどの最寄り駅の一つビル・アケム駅のホームだったのだと分かった。もっともマーロン・ブランドがシュナイダーと逢い引きを重ねるアパルトマンは、ビル・アケム橋を渡った16区の高級住宅街パッシー地区なのだが。映画中では架空のジュール・ヴェルヌ通りにあるアパルトマンはパッシー駅の近くに実在するらしい。今度探しにいってみようかと思うが、その前に何処かの映画館で映画自体を観られないものかと切実に思ってしまった。

10月6日(月)

 凱旋門賞を見にロンシャン競馬場へと赴く。といっても、第1レースは13時55分発走、まして凱旋門賞は7レース目で17時30分発走、そんなに慌てることはない。はやる気持ちを抑えるように、11時頃アパルトマンを出る。しかし、ポルト・ドートゥイユで降り競馬場行きのバスに向かう人も先日よりずっと多く、送迎バス乗り場もいつもとは違っている。ついでに書けば、帰りの送迎バスは長蛇の列ができていた上に、その行列の整理がうまくなく、道路も渋滞気味で大変だった。

 入場料8ユーロ。というのは、ヴェルメイユ賞の日の倍。それでも入場口前にすでに人ごみはできているし、華やかな帽子や衣服をまとっている女性の姿も目につく。中に入ると、凱旋門賞グッズを扱うブティックやシャンペンバー(ビールやワインもあるが)にすでに人だかりができている。馬券でなくすよりはと凱旋門賞のマーク入りのトレーナーを購入し、今日はなぜか入場口でタダでもらえた「paris TURf」に目を通す。読めないはずのフランス語も、競馬新聞だと大体言っていることがわかるから不思議だ。

 さすがに凱旋門賞デーだけあって、先日とは比較にならないほどの混みようだが、日本ダービーや有馬記念の日の混雑を思えば、そう大変とも言っていられない。お昼からシャンペンを傾けつつ談笑しているおしゃれな格好の人々を見ていると、競馬場が社交場だというのが少しだが分かる気もする。その一方で、日本で言えば平日の地方競馬場でよく見かけるような雰囲気の人も少なくない。入場者が多いだけに馬券の購入も一苦労だ。日本と違ってフランスでは購入窓口と払い戻し窓口が一緒だから、前のレースが固かったりすると、払い戻しに並ぶ人が増えて、なかなか列が進まない。購入する際には口頭で言うか、紙に書いて渡すのだが、向こうも忙しすぎて焦るのか、何度も間違った馬券を手渡された。後ろで待っている人がいるので、訂正を申し入れるのも気がひける。こんなに混むのは一年で今日だけなのだろうが、日本のようにマークシートを導入してほしいと思ってしまう。

 さて、凱旋門賞の結果を正直に書いておこう。昨日の日記を読み、もしかして大儲けしたのではないかと思っている人もいるかも知れないが、実は全然そんなことはないからだ。勝ったのは、マリエンバード。鞍上のフランコ・デットーリは、天才としか言いようのない世界のナンバー1ジョッキーで、その騎乗センスには見ているだけでほれぼれしてしまうものがある。有力馬が世評ほど力が抜けているとは思えず、むしろチャンスはこの馬あたりに一番あると思っていたのだが、今日のデットーリは、その前の何レースかを馬券を買って注視していてもリズムが今ひとつと言うか、どうみても乗れているようには思わず、直前に軽視してしまったのだ。代わりに、マンハッタンカフェの馬券を買ったと話している日本人の声につられるようにして、まず応援馬券に単勝、そしてスラマニ、マンハッタンカフェと他の有力馬を組み合わせたトリオ(三連複)を購入。本線は二頭+マリエンバード、オッズの関係もあり一番購入したのは二頭+ハイチャパテル。マンハッタンカフェは好位につけたが、直線でこれからという時に失速。馬券はその瞬間にすべて紙屑と変わった。マリエンバードの単勝16.8倍。2着スラマニでジュムレ・ガニヤン(馬単)36.3倍、3着ハイチャパテルでトリオ(3連複)36.8倍は明らかにつけすぎ。まあ、その前の6レースのトリオを当てることができ、大やけどをしないですんだだけでも良しとしておこう。

10月5日(土)
 昨日、近所の韓国食材店に行った。先日歩いていた折にたまたまみつけた店だが、日本食材店があるならば韓国があっても少しもおかしくはないだろう。ただ、パリの在住人口は日本人の方が多いせいなのか、店の品揃えの約半分は輸入した日本食材。値段は大体同じくらいで、若干高いものもあれば安いものもあるという感じか。これからしばらくは節制生活の予定なので、韓国ヌードルを買い込む。値段は煮て作るインスタントラーメンタイプが1ユーロ。カップ麺だと若干上がる。興味深かったのは蕎麦で、特に表に「熟成そば やまいも入り」とありながらハングルを添えた蕎麦は、裏の作り方の説明がハングルと英語。どうやら韓国製造で各国に輸出されている日本蕎麦らしい。

 今日さっそく韓国製日本蕎麦を食べてみた。日本食材店で購入したストレートのそばつゆにつけながら口に運ぶが、特に変わったところはない。若干ぬめり気が強いような気もするが、こういうのは作り方によっても違ってくるだろう。そばつゆは日本で買うよりかなり高いのだが、すでに半分なくなってしまった。


 明日の日曜はいよいよ凱旋門賞。競馬の世界最高峰のレースの一つで、今年は日本
からもマンハッタンカフェが挑戦する。今日のロンシャン競馬場では、マンハッタンカフェと一緒に渡仏したイーグルカフェがドラール賞に出走。大外から追い込み、あわや2着はあるかという3着と善戦。勝ったのはダノマストというスウェーデンの馬で、鞍上は復帰したばかりのオリビエ・ペリエ。

 凱旋門賞の最有力候補はハイチャパテルだろうか。地元フランスの期待は仏ダービー馬スラマニと、昨年2着の牝馬アクアレリスト。マンハッタンカフェのフランスでの注目度はかなり高く、Equidia で今週再三流していた凱旋門賞関連の番組は、最初にマンハッタンカフェの仏厩舎入厩、夜明け前のシャンティでの調教、砂場でじゃれる姿をまず映し、その後にスラマニ、アクアレリストの調教と騎手インタビュー、そして前哨戦でアクアレリストに苦杯をなめたアナバブルーといった構成だった。

 スラマニとアクアレリストは9月15日に、凱旋門賞と同距離で行われる二つのレースで、それぞれ単勝1倍台の圧倒的人気に応えて勝つところを生で見たが、圧倒的な強さまでは感じなかった。3頭立て、5頭立てという小頭数のレースで、そつなく勝利をものにしたといった印象が強い。ただスラマニの前走のタイムが悪いのは、スタートしてしばらくはまるでジョギングしているようなレースだったからで、勢いがついてからのスピードの持続力はさすがだった。

 パリはここ数日雨が降っておらず、ロンシャン競馬場の馬場も例年よりもよさそうだ。ハイチャパテルにこの乾いた馬場が合うかどうか。先行抜けだしをはかるスラマニが動いた時に、マンハッタンカフェはついていけるかどうか。むしろ怖いのは、デットーリ鞍上のマリエンバードかも知れない。

 今宵はドラノエ市長が夏の「セーヌの砂浜」の評判に気をよくして提唱した「パリの白夜」で、パリ市内の約60箇所にて無料のイベントが行われている。無料の巡回バスと夜間バスも運行する、相当におおがかりな企画なので、日本のテレビ等でも紹介されているのではないか。しかし、明日の凱旋門賞を思うと気もそぞろで、夜の街のそぞろ歩きに出る気分にはなれない。

10月4日(金)
 昨晩遅くにスイスからパリに戻ってきた。スイス日記(9月26日〜)をまとめてアップすることにする。スイスではホテルで何度かメース送受信を試みたが、うまくいかなかったためだ。手元の『地球の歩き方 スイス』02〜03年度版は、夏のハイシーズンの旅行を前提に取材記載しているために、現時点では異なっていることもかなりあった。できるだけ相違点を書き記しておいたので、今年スイスに行こうという人には結構有意義な情報も多いと思うのだが、まあ、そうした読者が読む日記でもないだろう。自分の記憶を止め置くための煩瑣な記述が目立ちすぎるかも知れない。

 それにしても、この時期にスイスを旅行できてよかったと思う。ハイシーズンでは人が多すぎて、ホテルの確保さえ大変な上に料金も高い。逆にもう少し先ではスキーシーズンに入ってしまう。スイスに限った話ではないが、やはりヨーロッパを旅行するなら、梅雨のない6月か、観光客が一段落する9月後半ではないか。旅行の後半は晴天が続いて寒さも感じず、これだけ天候に恵まれるなら山にも行ってみたいと思った。こんな贅沢な時期の旅は、もう定職にあるうちは許されないかも知れない。

 他言語国家であり、フランスとドイツ双方の影響を受けたスイスは、若い頃からの憧れの地だった。アルプスや観光リゾートとしてのスイスに惹かれていた訳ではない。ジョルジュ・プーレやスタロバンスキーを愛読していたこともあり、もし語学の才能に恵まれていたら、大学では批評史を学び、密かにジュネーヴ大学あたりへの留学の道を模索していたと思う。そして今は、可能ならば定年退職の翌年、6月頃からしばらくスイスの山岳ホテルに逗留し、読書と散策とで日々を過ごすという優雅な夢想に囚われている。

 ところで、この一週間ほどのメールを昨晩まとめて受信したら、コンピュータ・ウイルスと思われる添付ファイル付きのメールが7通も届いていた。そしてなんと、こちらの工学院のアドレスからも、ウイルス添付のメールが届いたとの連絡が入っていた。

 工学院のパソコンは4月15日以降電源さえ入れていないはずだし、ここ数ヶ月はそのアドレスも使用していない。知人の話では、おそらく感染した誰かのパソコンのアドレスブックを読み取り、こちらになりすましてウイルス・メールを送信しているのではないかということだ。他にも届いた人がいるのだろうか。感染すると毎月6日にCドライブのデータを破壊する、とてもこわいウィルスらしい。メールの件名と文書は今のところすべて英語なので、判別はすぐつくと思う。くれぐれもご注意の程を。

10月3日(木)
 エクセルシーをチェックアウトし、夕方まで荷物を預かってもらう。駅前からバスに乗って、国際赤十字・赤新月博物館へ。入口でちょうど日本人ツアーの団体とぶつかった。日本語ガイドを申し込んでいたようだが、その唯一の日本語ガイドの女性は目下別の団体の案内中らしく、受付前とショップとが日本人観光客であふれる状態に。しばらく待って空いてから入館し、日本語オーディオガイドを聴きつつ、ゆっくり見学。最初に六つの幕が、赤十字・赤新月の精神と重なる教典や論語の言葉をそれぞれに記して下がっている。赤新月とは露土戦争の際土耳古が赤十字のマークでは中世の十字軍を連想させ、イスラム教徒の兵士の感情を傷つけるとして、白地の赤い月のマークの使用を求めたことに由来するもので、公的に認められたのは後年だが、事実はいつも先んじるとオーディオガイドの解説にあった。

 博物館は事実を紹介するだけで判断は下さないともオーディオガイドは語るが、もちろん赤十字・赤新月の歴史が政治と無縁でいられたことはない。例えば、第一次大戦初期のフランスなどヨーロッパ諸国の絵葉書は、包帯を巻いた兵士に看護婦姿の赤十字の女性が恋人として寄り添ったり、ベッドに腰掛けた兵士を何人もの女性が取り囲んで世話をやいたりといった図柄が目立ち、またアイドルのブロマイド写真さながらのものもあるが、一方で日露戦争時の「大日本赤十字衛生会」の活躍を描いた錦絵では、黒服を着て赤十字の腕章をつけた兵隊と見紛うようないかめしい男性たちが負傷した日本兵の救出にあたっている。ジェンダーをめぐる政治がそこに深く関与していることがよくわかる。

 国際赤十字・赤新月博物館の図版入り解説本と赤十字・赤新月のマーク入りのヨーヨー(3スイスフラン)をショップで購入した後、再びバスに乗って、コルナヴァン駅前を通り抜け、自然史博物館へ。スイスでは博物館の入場料も高めだが、ここジュネーヴでは公的な博物館は特別展以外無料のことが多く助かる。もちろんだからといって展示がいいかげんな訳ではない。オフシーズンということもあろうか、かえって見学者も少ないようだ。入ってすぐの水槽で飼われている、双頭の生きたカメ(!)を見てから、充実した剥製標本やジオラマ、化石などを見てまわる。展示の仕方もかなり巧いと思う。地質学、鉱物学に関わる展示もあり、宝石の原石のコレクションが置かれている小部屋もあった。続いて同じ公園内のすぐ近くの時計博物館へ。ここも無料。二階建ての小さな博物館で、アンティークの時計が集められている。すべての時計が定時に合わせてある訳ではないので、時々時を刻む音が響き、一つの時計から別の時計へと反響するように鳴り続く時もある。

 次は少し歩いて、ボール・コレクションの中国・日本の美術品を見に行く。入口のある階の1〜4室、一つ上の階の7〜9室には中国陶器が時代順に並べられ、さらに赤い階段をもう一つ上がった階の10〜12室には日本刀、陶器、屏風などがあり、根付や印籠などは小ケースを引き出してみる形になっているものもある。さらに最下階では「日本の書展」が開催中だった。現代書家のものが一人1点ずつ全105点。ジュネーヴにおける日本文化月間の一貫で、すでにパリで展示され、この後アメリカでも開催されるものだという。受付で入館料5スイスフランを払うと、図録パンフを無料でくれた。全作品の写真入りで、横に日本語活字とフランス語訳とで何と書いてあるかが示されている。

 旧市街の中心へと少し戻り、美術歴史博物館。ここも無料だが、大きな建物に何でも詰め込んである感じで、どう見たらいいのか最初戸惑う。入口から左折し現在は何も展示してない部屋を抜けて、コインロッカーに荷物を預けた後、その先のフロアを見ると刀や鉄砲など様々な武器が満載になっている。その先には二階にわたって、室内用品や食器などのコレクション。正面玄関に戻り、最上階に上がると、フランス印象派やスイス近現代絵画の展示。また地上階に降りると考古学コーナーとして古代エジプト、ギリシア、ローマの出土品。中庭は食堂のテラス席になっている。さらに美術歴史博物館のちょうど左手後方にあるプチ・パレ(近代美術館)へと赴いたが、現在閉館中だった。

 19時23分ジュネーヴ発のTGVの予約を取ってあるので、それまでに軽く夕食をと思ったが、入ってみたいレストランは18時ではまだ空いてなく、そうこうしているうちに時間が足りなくなり、ホテルから荷物を引き取って駅へと向かう。駅内のスナックでマフィンと小ビールだけ、残ったコイン全額でちょうど買えた。フランス行きの列車の入場口はスイス国内行きとは別で、税関検査所が設けられているが、別にパスポート提示も求められなかった。早々に車内へ。ところが時間になっても発車せず、25分遅れでようやく走り始める。パリまで3時間20分ほど。集英社文庫のフィッツジェラルド短篇集『バビロン再訪』(沼澤洽治訳)をちょうど読み切る。

 ヘミングウェイの『移動祝祭日』は「スコット・フィッツジェラルド」の章でリヨンまで彼の車を取りに行った帰りの旅での酒に弱く不安げなスコットの様子を描き、「鷹は与えず」の章ではスコットの妻ゼルダのことを、夫の仕事に嫉妬し彼を駄目にしようとしていたとかなり辛辣に描いている。そこにはヘミングウェイ一流の偏りが明らかに窺われるが、確かに1920年代後半に入るとゼルダは夫への対抗心からバレエと小説執筆とに憑かれたように熱中し、ついに精神異常をきたして、1930年スイスの病院で精神分裂症の診断を受ける。そして転地療養に赴いたのが、ジュネーヴのプランジャン・クリニックだった。フィッツジェラルドは療養費捻出のため短篇執筆に励む一方、なかなか面会さえできなかったらしいのだが、パリースイス間を再三往復する。

 22時45分パリ・リヨン駅到着の予定が、やはり25分遅れで23時10分となった。さすがに疲れた。当時はTGVがあった訳でもなく、ジュネーヴーパリの旅は今よりもずっと大変だったはずなのだし、ましてその精神的な疲労の程など想像の域さえも超えるものだが、パリに帰り着いた時のスコット・フィッツジェラルドの心境を想った。地下鉄を乗り継いで部屋に帰り着いた時には、すでに24時をまわっていた。

10月2日(水)

 朝、ル・シャトー・ドゥィシーをチェックアウト。料金を確認していなかったのだが、ビュッフェの朝食込みで160スイスフラン。話の種だと思えば、こんなもんだろうと納得する。フロントに相当重くなった荷物を預け、街中へ。一度ローザンヌ駅まで行き、そこから湖畔へと下ってエリゼ写真美術館の横を抜け、オリンピック博物館へ。入館料はスイスパスで25%引きとなり、10・50スイスフラン。入るとすぐ横で「オリンピック活動の開始」、さらに上の階でも「競技の魔力」という映像ショーが見られるなど、最新のオーディオビジュアル技術を駆使した、1993年開館の新しい博物館。クーベルタン男爵の著作や書簡、オーエンス、ザトペック、カール・ルイスらのシューズなど、マニアにとっては垂涎ものの展示品が並ぶ。しかし、オリンピックが引き起こした悲痛なあれこれを知識として知りすぎている自分には、公的な歴史記述のパネルを見ても、感動を呼び起こしたり面白がったりできず、気持ちは感傷的になってゆく。地下がビブリオテークでオリンピック関係の本を自由に閲覧できるが、日本を含むアジアのものはまだ十分集めきれていないようだ。

 再びメトロで終点のフロン駅へと上がる。サン・フランソワ教会の横を抜け、ぐるっとまわる形でノートルダム大聖堂へ。少し先のサン・メール城を見た後、大聖堂に戻って屋根付きの階段を降り、市庁舎前のパリュ広場へ。そこからリュミーヌ館の前のリボンヌ広場へと向かう。元ローザンヌ大学の校舎だったリュミーヌ館には、考古学歴史博物館、州立美術館、地質学博物館、動物学博物館、貨幣展示室と五つの博物館が入っているが、州立美術館は次の特別展のための展示替の最中らしく入館できない。残り全部を見れる入館料が4スイスフラン。鉱物や化石、剥製や骨格標本、出土品や発掘現場の再現などをざっと見てまわる。ヌーヴ通りを通ってショドロン広場へと赴き、ショドロン橋を渡ってモンブノン公園に入る。今日は天気はよくとも見晴らしは駄目で、あいにくとアルプスまでくっきり見える訳ではなかったが、極上のレマン湖の景観が望めるはずの場所である。

 ホテルで荷物を引き取った後、ローザンヌ駅へと向かい、ジュネーヴ方面行きの列車に乗り込む。ジュネーヴ・コルナヴァン駅からノートルダム聖堂の先のルソー通りに入って、3ツ星ホテルのエクセルシーに向かう。モームの『秘密諜報員アシェンデン』を原作とするヒッチコックの映画『間諜最後の日』には、4ツ星デラックスホテルのエクセルシーというのが出てくる。しかし、田中一郎『秘密諜報員サマセット・モーム』によれば、モームの原作中で言及され、またヒッチコックがロケに使ったのはレマン湖畔のホテル・ボオ・リバージであり、「ジュネーヴではエクセルシー・ホテルは三つ星だが、国際的にはより高名ーーたとえば、ローマでは超高級四つ星だし、香港も私の記憶が正しければ四つ星・レベルの豪華さだったと思うーーな名前を拝借した」と推理している。ホテル・ボオ・リバージは1898年にオーストリア皇后エリザベートが玄関を出たところで暗殺されたホテルでもあり、さすがに宿泊するには金銭的にも精神的にも臆するものがある。が、3ツ星エクセルシーならば十分手が届くので、泊まってみようと思ったのだ。

 レセプションで泊まれるかどうかの交渉。あいにくとシングルの空部屋はないが、18時になればキャンセルが出るかも知れない。それまで荷物を置いて市内を見てきてはどうかという言葉に甘え、散策に出る。まずはモン・ブラン通りの一番先にあるホテル・ブリストルーの外観を見、そこからレマン湖畔沿いに歩くとデ・ラ・パリ、リッチモンド、ダングレテルー、ノガ・ヒルトンと4ツ星デラックスの高級ホテルが並んでおり、その中でも歴史的な重々しさを感じさせるのが、ホテル・ボオ・リバージだ。ブリュンズウィック記念碑の少し先でユータンし、モンブラン橋を渡り、国家記念碑や花時計のあるイギリス庭園をまわる。旧市街へと通りを上がり、マドレーヌ大聖堂の横を抜け、サン・ピエール大聖堂へ。中からオルガンの音色が聞こえるが、すでに入館時間は過ぎていて殿堂内は見られない。すぐ近くの市庁舎の横を抜け、坂を下り、宗教改革祈念碑のあるパスティオン公園へ。さらにオペラ劇場とシナゴーグの横を通り、ローヌ川の岸に出て、途中ルソーの島がある橋を渡って、ホテルへと戻った。ちょうど1時間半ほどで市内を一巡できたので、明日は博物館見学にだけ時間を割くことができる。

 エクセルシーではやはりシングルの部屋は空かなかったが、ツインの部屋ならあるというので4階と6階の二部屋見せてもらい、4階の方に泊まることにする。1泊朝食付き190スイスフラン。『秘密諜報員サマセット・モーム』には「内側が薄暗かったので、ラブ・ホテルの印象を受けた」と書いてあるのだが、部屋に淡い水彩の小さなヌードが掛けてあり(他に1階のエレベーターを出てすぐ目の前の壁にも2枚あった)、浴室の天井が鏡のようになっている他は、別に怪しくもなかった。男性女性とも一人客が多く、駅近くの少し古風なビジネスホテルと言ったところではないかと思う。夕食には近くのレストランでベネチア風モツ煮込みをパスタを付け合わせて食べた。他に英国風というのもあったが、どう違ったのだろうか。スイスの赤ワインをずいぶん飲み、疲れてもいたので、10時過ぎには早々に床に着いた。

10月1日(火)
 今日からまた月が変わる。在外研究期間を本年度いっぱいと考えるならば、ちょうど半年が経ったことになる。この日記も折り返し点をまわったということになろうか。観た映画の記録や競馬の収支のためにと毎年一月には日記を付け始めるのだが、半年も続いたことはない。ここまで来れたのも、ひとえに會津さんの手を煩わせながら、公開の形で書いてきたからだと思う。ネット上の日記にはふさわしくない極私的なことまで記してきたが、記憶が曖昧になる前に書き留めてきたあれこれは、自分にとっては貴重な旅の記録であり、大事な財産でもある。

 朝10時の開館にあわせるようにして、ベルン美術館に赴く。一時期ベルンに住んでいた、パウル・クレーの作品が多く収蔵されている。地上階のほとんどがクレーに関する展示。ドイツ語の解説パネルの翻訳リーフレットがフランス語や英語以外に日本語でも用意されていて、それを手にしながら丁寧に作品を追う。クレーだけですっかり時間を費やしてしまい、上階の印象派やホドラー、べックリン、キリコらの作品、地下の階で行われていたアドルフ・フォン・ステュラーの特別展は、ざっと見るに止めざるを得なかった。2005年にはパウル・クレーのセンターがこのベルンにできる。そのためであろうか、クレーの収蔵品図録は現在販売していない。代わりにクレーの絵葉書を売店で購入するが、置いてある絵葉書には見かけなかった作品も多く、開館が待たれる気がする。

 12時をまわらないよう慌ててホテルに戻り、チェックアウト。ベルン駅からインターラーケン・オスト行きの列車に乗り、シュピーツで乗り換え。ちょうど接続していたツヴァイジンメン行きに乗車。ツヴァイジンメンで10分後の14時ちょうどに出るモントレー行きに乗り換え。テラスに花を飾ったグシュタード周辺の山岳ホテルやシャトーデーあたりのうろこの家を幾つも視界に見せながら、列車はゆっくりと進んでいく。やがてまず進行方向左側の車窓にレマン湖が見えてくる。しばらくすると今度は右側の車窓に湖が見えるようになる。斜面をジグザグの形で駆け下り、約2時間でモントレー駅に到着した。

 駅から湖畔へと階段を降り、1番のバスに乗ってシヨン城へと向かう。バイロン『シヨンの囚人』の舞台で、ジュネーブの宗教改革者ボニヴァールが4年間幽閉されていた牢獄には、3番目の柱にバイロンの名が刻まれ残されている。シヨン城には以前も来たことがあり、すっかり薄れた記憶を修復する思いで見学。入口前の売店で販売している『シヨンの囚人』訳詩入りの解説小冊子は以前にも買ったはずだが、英語版共々改めて購入。城の歴史を記したパンフも日本語版があったので、買っておくことにした。

 閉門時間の17時までいて(17時以降入場できなくなるが、18時まで中にはいられる)、退出後は近くの船着場に向かう。17時16分にここを出て、19時にローザンヌに着く船に乗れればよかったのだが…。残念ながら、十月以降は月から金は一日一便だけ、この時間の便は土日のみになるので、船でローザンヌへは向かえない。スイスパスは湖の船便にも有効なので、やはり乗ってみたかった。しかたなくバスでモントレーに戻り、鉄道でローザンヌへ。今朝電話で予約を入れたル・シャトー・ドゥィシーへと、駅から湖畔へと斜面を下りるメトロで向かう。

 ル・シャトー・ドゥィシーは1170年に築城されたものを内部改装した、いわゆるシャトー・ホテル。しかし、外観には中世の面影を色濃く残してはいても、内部はとりたててどうという感じでもない。廊下の天井などに独特の造りを残してはいたが。ただ、到着時間が遅くなるので特に頼みもしなかったのだが、レイクビューの部屋からの風景はきっと見事だろう。ともかくもうすぐ目の前がレマン湖なのだ。

 夕食はル・シャトー・ドゥィシー内のレストランでとも考えていたのだが、明日の朝食ビュッフェがそこなので、外に出て、メトロ駅横のブラッセリー・ドゥ・ラ・リヴィエラで取った。いかにも典型的なブラッセリーの雰囲気で、この時期だと客も地元の人が中心であろうか。店のお勧めになっている魚のムニエルをつまみながら、ピッシェで取った白とロゼのワインを飲む。プレートを出された時、ひさしぶりに「ボナぺチ(Bon Appetit〔eに´〕)」と言ってもたった気がし、耳を傾ければ店内はフランス語会話ばかりで、同じスイスでもドイツ語圏だった今まではとは違って、レマン湖畔のここはもうフランス語圏なのだと実感する。

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