2002年  7月
7月31日(水)
 パリ・ストーリーというアトラクションが、オペラ・ガルニエのすぐ近くにある。ワイドスクリーンにパリの名所旧跡がスライド・フィルムで次々と映し出され、パリの歴史をテンポよく紹介したナレーションがつくと言う。毎正時から45分間の上演。ヘッドフォンの日本語解説もあるらしい。幾度もその前を通ってはいるが、まだ観たことがなかった。それで今日こそは、観るいい機会だと思っていた。

 まず始めにパリ・ストーリーでパリの歴史をざっとおさらいした後、2階建てのロープン・トゥール・バスでパリ市内を一周。このバスは30数カ所の停留所で乗り降り自由なので、ノートルダム大聖堂、サクレ・クール聖堂、凱旋門、エッフェル塔で降りて、それぞれの眺望を堪能。ディナーの後は、バトー・ムーシュでセーヌの水上からの夜景を楽しむ。これがこちらの考えた、パリの街のあらこれを最も効率よく把握でき、かつ観光名所をひとあたり満喫できる、始めての人のための1日観光プランである。

 しかし、ロープン・トゥール・バスの2階席には屋根がない。今日は朝から小雨まじりの不安定な天気。結局、パリ・ストーリーに向かう変わりに、ルーヴル美術館へ。午後はデパートでショッピング。ルーヴルはクーラーがきいているせいか、ほんの少し寒かった。実は十数年ぶりでクーラーのない部屋で暮らしている。日本からのメールには、どれも猛暑と熱帯夜の大変さが記されているが、それと比べるならば天国のような日々を送っていると言えるかも知れない。

7月30日(火)

 パリに来て、始めて競馬場に行く。パリの区内から少し外に出た、セーヌ河畔のメゾン・ラフィット競馬場。ここはスタンド前の直線だけがやたら長く、押しつぶされた楕円のような、かなり特殊なコース形態をしている。種々の事情から時間が遅くり、着いた時には最終の8レースを残すだけ。せっかくだからと、1番人気のBest Buy という馬に賭けてみることにした。

 一緒に行った知人は、日本でもすっかり馴染みになったフランスのトップジョッキー、オリビエ・ペリエの乗る馬を買うというので、Best Buy の単勝とペリエの乗る馬への馬単、馬連を各10ユーロ購入。しかし、人気薄のペリエの馬は3着に来たが、Best Buy は全然見せ場さえなく、着外に沈む。Best Buy の単勝は3.3倍。日本の競馬では、3倍台の単勝1番人気は、他にこれという馬がいないための押し出され人気の場合が多く、こけやすいのでまず買わない馬券。それくらい旅行先で沈着さを欠いているのだろう。なんとかパリ滞在中にはリベンジしてやろうと思っているのだが…。

 競馬場の雰囲気は日本とさほど変わらない。ただ心配になってしまうくらいに来場者は少なかった。馬券も自動発券機はなく窓口の販売だけだが、すぐ購入することができる。もっともフランスでは一日に1レースだけ場外発売される4連単、5連単(カルテ・プリュス)が馬券の目玉なので、場内発売自体は少なくてもいいのかも知れない。カルテ・プリュスの5連単、つまり1着から5着までを順番通りに当てる馬券は、配当も時に宝くじ並みになる。確か先日は1ユーロに対し、9000ユーロ以上の配当が出ていた。100円が大体1億になる計算。少なくともサッカーのTOTOよりは当てる自信があるから、日本でも何とか発売してほしいものだ。

 それ以外に今日行ったのは、ル・コルビュジェ財団(ラ・ロッシュ邸)とラ・デファンスのグランド・アルシェなど。新凱旋門グランド・アルシェは、エレベーターで地上110メートルの最上階に上がることができる。そこからは、凱旋門まで一直線にのびるシャルル・ド・ゴール通りを含め、パリ南東部が一望することができる。いわゆる観光名所になっている訳ではないので、まだ訪れる日本人も少ない気がするのだが、時間があればぜひ前衛的な高層建築が建ち並ぶラ・デファンスにも足を運ばれるといいと思う。

7月29日(月)
 ここしばらくかかりきりだった、小林秀雄『近代絵画』に関する文章がようやく一段落するところまで辿り着いた。そう簡単には終わりへと行きつかない勉強の仕方を選んでしまったこともあって、完成というにはある意味ほど遠い状態ではあるのだが、もうこれ以上は物理的にも時間を割けない。あとは文章にもう少しだけ手を入れて、日本へメール送信するつもりだ。脱稿の解放感はないが、何かをやっつけたという感触だけは自分の中にある。

 出発前、シベリア鉄道経由でヨーロッパに行くと話すと、驚かれたり呆れられたりという反応がほとんどだったが、そうしたなかで「学生」をしに行くんだろうからそういうのも分かる、と言ってくれた人がいた。もう一度「学生」をしに海外に出るというのは、言い得て妙だと思った。この数年は授業以外に公務と学会関係の雑務とに追い立てられ、研究を続けるモチーフさえ摩滅していきそうな状態がずっと続いていたからだ。初心に戻る、という言い方では固すぎる。もう一度「学生」の時の感触を取り戻したいとどこかで願っていた。その意味で、内容や書き方や出来もまたそうなのだが、ようやく第二の「卒業論文」を書き上げたというのが、今の実感に一番近い。

 『近代絵画』で取り上げられた絵を、ドラクロア、レンブラント、ベラスケス、ゴッホ、と一つずつその実物の前へと足を運び、小林の「感動」を確かめるようにして、言葉を探し続けてきた。論文の内容から言えば、そうした行為自体には何の意味もない。ただ、こんな贅沢で至福に満ちた時間の無駄遣いは、日本にいたらとても許されなかっただろう。まだ見ていない絵も、読みたいと思って時間の足りなかった本も、あるにはある。それらは残された在外生活期間の愉しみの糧となるだろう。日本を出発する時には、よもや小林秀雄論を書こうとは露ほども考えていなかったため、資料面では困窮を重ねたが、こちらの切なる懇願に応えて資料のコピーを送って下さった方々には、この場で厚くお礼申し上げておきたいと思う。ありがとうございました。
7月28日(日)
 風の便りに水村美苗『本格小説』が9月には単行本になると聞いた。11月のシンポジウムで現代日本の「女性文学」について語るのであれば、当然言及しなければならない書き手の一人なのだが、おそらくそれは叶わない。発表時間やこちらのテーマの絞り方の問題もあるが、何よりも水村美苗の小説はフランス語に訳されていない(ある意味では翻訳不可能な)はずだからである。その代わりに、水村美苗のブックレビューをフランス語で「作りたい」という思いが忽然と起こって、気持ちの持ってゆき場に少し困っている。

 『私小説 from left to right』はフランス語に翻訳できない。英語部分だけをフランス語に置き換えても普通翻訳とは言わないだろうから、訳すとすれば日本語部分をフランス語にするか、あるいはすべてをフランス語に置き換えるかのいずれかだろう。けれどもその時、横文字の書式に合わせて左開きのページに組まれた日本語と英語とが批評的に絡まり合う、苛烈なまでに美しいテクストの魅力は確実に失われてしまうだろう。

 『続明暗』もおそらく西洋語に訳されることはない。言語テクストであれば、原理論的にはすべて翻訳可能とも不可能とも両様に言い得るのであり、『続明暗』もストーリー内容を骨子とするならば、ヨーロッパ19世紀小説に通じる構想力の高さにおいて、むしろ西洋語訳は容易な方であるかも知れない。だが、ただ縦のものを横に移しただけでは、この小説が日本でまとってしまった商品価値(!)を相当下落させるため、手を出そうとする翻訳者も出版社もないのではないか。

 『続明暗』は夏目漱石の文章に「そっくり」なことが重要なのではなく、「似る」という仕草を取ることで文学言語の荒々しいまでの兇暴さを表に出してしまったことが肝要なのであり、未完のストーリーの果てへと疾走する物語内容と連動しながら展開してゆく言葉の界面のサスペンスを堪能することにこそ、何よりも醍醐味があると思うのだが、そうした読者の愉しみもまた西洋語訳では奪われてしまうだろう。仮に『明暗』の西洋語への訳者が『続明暗』も翻訳すれば、原作以上に『明暗』の文体「そっくり」の『続明暗』を刊行することができるはずだ。だがそこからは、同じ訳者が同じように翻訳したという以上の意味を見いだすことは難しいように思われる。

 水村美苗は日本ではリービ秀雄などと共に、日本文学の直接的な伝統からは切れたところに位置する傍流的な作家だと見なされているのではないか。だが、その水村美苗の小説が最も西洋語に翻訳不可能なテクストであるという逆説は、西洋語に翻訳しにくいものほどより日本的なものであるといった思いこみが、いかに曖昧で独善的で文化的な構築物に過ぎないかを小気味いいくらいに暴露してくれる。と同時に、決してフランス語で読むことは叶わないけれども、それでも読んでほしいと願わずにはいられないような小説が、現代日本語文学の最も重要な試みの一つとして書かれていることだけは、やはり伝えたいという気持ちに駆られてしまうのだ。
7月27日(土)
 ギャラリー・ラファイエットに、先日購入し裾直しを頼んでおいたズボンを取りにいく。ところが、買った場所には、もう何もない。メンズ館の3階(日本だと4階)、エスカレーターを上がったところの、バーゲン品のジャケットやズボンをずらりと並べていたコーナーが、あとかたもなく消え去っていたのだ。出来上がりの日は間違いなく27日の土曜と聞いたし、領収書にもそう記されている。狐にでもつままれた気分で、しばし茫然と立ちつくしてしまった。

 だいぶ前になるが、非常勤として出講していたある大学で、教室に行くと先週は200名近くいたはずの学生が一人もいなかったということがあった。これではまるで高橋和己の『悲の器』ではないかと、愕然とした思いで教壇の椅子にへたり込んでいるうちに、ほどなく事務室が別の授業と間違えて教室変更の掲示を出してしまったことが分かり、学生たちもぞろぞろと教室に戻ってきて事なきを得たのだが、その時のショックを思い起こしてしまったのだ。

 いったい誰に何を、それもフランス語でどう聞けばいいのかも分からないので、本館内の松坂屋の受付に言って窮状を訴える。ギャラリー・ラファイエットの日本人店員の女性が付き添ってくれ、メンズ館3階の近くの売り場の人に尋ねてくれる。それでも、ズボンの行方はそう簡単にはわからない。一人の人に聞くと、ああそれなら彼が知っている感じで別の人のところに連れていかれ、するとまたああそれなら…となるのだ。とてもフランス的で、誰も全体を把握してないので…と申し訳なさそうに説明してくれるのを聞きながら、フロアをちょうど一周したところで、ようやく事情の分かる人に行き着き、それなら倉庫にあるから取って来ようということになったらしく、待つことしばしの後無事裾上げされたズボンを受け取ることができた。

 いまパリは夏のバーゲンの最後の時期で、30〜50%引きからさらに20%引きみたいなことを、いろいろなところでやっている。荷物を増やさないよう、アパルトマンに移るまで服を買い控えてきたから、この期に買っておかなければと思うのだが、既成服だとサイズが合わなかったりしてなかなか難しい。バーゲンのコーナーを回っているだけで、だんだん頭がぼうっとしてくる。おまけに今日のパリは気温がかなり上昇し、佇んでいても汗をかいてしまうほどの陽気だったが、さすがにあるはずのものが何もないのをみたその瞬間だけは、背筋が急に寒くなる思いだった。
7月26日(金)
 昨日セシル坂井さんからお電話があり、来週月曜の朝にお宅まで津島佑子と松浦理英子の本をお借りしに行くことになった。なぜ津島佑子と松浦理英子なのかと言えば、実は11月にパリ第7大学でこの二人について研究発表をすることになっているからだ。

 この秋、池沢夏樹、古井由吉、津島佑子があいついでフランスを招待で訪れ、ナントとパリで講演をする予定になっている。また、パリ第7大学が受け入れた研究者数も例年より多いので、これを機会に何かシンポジウムをと、坂井さんらが中心になって準備中の企画がある。フランスでは数年ぶりのこの大きな日本文学関係のイベントの詳細については、9月に全体プログラムができるそうなので、その後にここでも紹介したいと思うが、とりあえず自分が話すのは、11月9日(土)のパリ第7大学でのシンポジウム「日本文学の現在ー時間、空間、言語をめぐって」。日本側からは中島国彦さんが荷風・藤村・横光について、長島裕子さんが漱石の現代性について、芳川泰久さんが古井由吉、中上健次、村上龍について、自分の他に話をする予定になっている。フランス側の発表者は、セシルさんの妹のアン・ヴァヤール・サカイさんと矢田部和彦さん。6人の報告の後、古井由吉、堀江敏幸、平野啓一郎の小説家3氏による公開座談会が続けて行われる。

 坂井さんが考えて下さったこちらの発表予定タイトルは、「現代日本における場と女性文学ー津島佑子、松浦理英子らをめぐって」。最初は「都市」の表象と絡めて何か、というお話だったので、とっさに唐十郎の『佐川君への手紙』と『ナチュラル・ウーマン』のある細部を重ねる前置きが浮かび、それなら松浦理英子と笙野頼子でどうかと言ったところ、笙野はフランス語訳がまだないから誰か他を、というので津島佑子になった。

 津島佑子はかなりの作品がフランス語訳されているそうで、パリ第7大学の図書室にも6冊ほど並んでいた。松浦理英子は『ナチュラル・ウーマン』と『親指Pの修業時代』がフランス語訳されている。実は津島佑子の作品はある時期からほとんど手にとらなくなってしまい、決していい読者とは言えないのだが、こうした機会に読み込むのも大事だと思った。フランス語訳のある作家をという条件の上に、発表時間が正味15分程(こちらの日本語の発表を段落毎に、坂井さんがフランス語に訳して下さる形)なので、言及可能な作家や作品の選択など止むを得ない面もあるが、できれば最後に未紹介の笙野頼子の作品の一部分を、坂井さんに翻訳・朗読していただこうかと考えている。タイトル中の「場」というのはフランス語の「lieu」だが、坂井さんによれば「都市」(urbain)とか使うよりも、この方がフランス語ではカッコイイのだそうだ。ブルデューの「文学場」にも通じるしと言われ、それで発表の基本的な方向性だけは固まった。

 現代女性文学をテーマに選んだのは、芳川さんが取り上げる3人の作家の名前を聞き、矢田部さんは村上春樹だろうと聞き、さらに座談会の小説家3人までが全部男性なので、それはないだろうと思ったこともあるにはあるが、今の自分の切実な関心に応えるものが、むしろ女性の書き手の作品中に表現されているということが大きい。近代文学会編集委員会で抜刷を配ったくらいなので、ほとんど誰も読んではいないと思うが、日本で自分が最後に活字化できた論文は「江國香織」論なのだ(「工学院大学共通課程論叢」)。そこから、松浦理英子や津島佑子に遡行することは、自分にとってはしごく当然のことに思える。

 「江國香織」論は当然抜刷が大量に余っているので、興味がある人には、同じ勤務先の紀要の次の号に書いた『フランケンシュタイン』(これも女性作家!)の授業研究レポートの抜刷と一緒にお送りします。ただし今手元にある訳ではないので、連絡は必ず来年3月以降に。そうでないとこちらが忘れてしまうからだが、その頃には今ちょっと興味を持った人も忘れてしまうかも知れないし、抜刷の山は少しも減らないだろうけれども…。
7月25日(木)

 怪美堂に最近「映画」本のコーナーが出来た。読みたくなる本がたくさん並んでいる。『メトロポリス』のブリギッテ・ヘルムの評伝、『猿人ジョー・ヤング』のハリーハウゼンの自伝的作品解説、ジャングルの女王&女ターザンの研究書…。う〜ん、ほしい…。ほしいけれども、異国にいて日本の古書店から洋書を取り寄せるというのもなあ。會津さん、売れちゃったらしょうがないけど、もし帰国後まで残ってたら上記の本は引き取りますので、よろしく。

 今日、近所の写真屋にこれまでに撮った写真の現像を頼んできた。フィルム14本。24枚撮りがほとんどだが、全部で300枚以上になる。ヨーロッパへは持ち歩きやすいように、ペンタックスの望遠付のコンパクトカメラを持ってきた。ただこれだと、撮った写真をすぐにネット上に載せることはできない。幸い知り合いがデジタルカメラを日本で購入してきてくれるので、これからはたまに写真も添えたいと思う。會津さんが気にしているグラン・ギョール座の跡地も、いずれデジカメで撮ってきます。海外版「出前一丁」も(笑)。

7月24日(水)
 CITYRAMA の観光バス「オーヴェル・シュル・オワーズとジベルニー」に乗る。日本語ガイド付きの1日コースで96ユーロ。朝8時にルーブル前を出発。バスは英語ガイド付きのほとんどアメリカ人の参加者と一緒で、日本人との比率はだいたい半々。二人のフランス人女性ガイドによる、英語と日本語の説明が交互に行われる。

 まずゴッホが最晩年の数ヶ月を暮らしたオーヴェル・シュル・オワーズ村に向かう。ゴッホの描いた教会の前を通って、ゴッホと弟のテオとが並んだ墓へ。コバルト色に澄んだ夏の光の中でこの村の風景を見てみたかったのだが、まるでゴッホの絵を模倣するかのように、空はどんよりと曇り、時折霧雨が降ってくる。さらに、ゴッホが住んだラヴー亭へ。ここは自由見学で、入場料5ユーロは各自で払わなければならない。入ると『ゴッホの家へのパスポート』という小冊子がもらえ、10分ほどのスライドを見ることができる。スライドの字幕は、フランス語、英語、日本語で、日本国際交流基金(安田火災他)の協賛で作られたものだと小冊子にある。ゴッホの故国のオランダ語はない。ゴッホは弟への手紙もフランス語で書いていたから、これでもいいのかも知れないのだが…。

 高速道路を通り、ジベルニーへ。ここにはモネが晩年を暮らした家や庭が復元されている。それを可能にしたのは、特にアメリカの富豪からの多額の寄付だ。アメリカン美術館で昼食。日本人参加者16名は8名ずつ丸テーブルに座るかたちだが、それぞれのテーブルに赤ワインのボトルと白ワインのデカンタが付いている。前菜がサラダ、メインがサーモンのムニエルにライスを付け合わせたもの、さらにチーズ、デザートのアップルパイ、コーヒーが付く。これほどちゃんとした食事が出るとは、思っていなかった。もっとも、何年か前まではオワーズ川での船上ブランチだったらしい。モネの絵に惹かれジベルニーを訪れたアメリカの画家たちの作品をざっと見た後、モネの家と庭園へ。家の中にはモネが集めた浮世絵がところ狭しと掲げられ、家の正面のフランス式庭園と道を隔てた日本庭園へは地下道で行くことができる。

 午後からは天気も回復し、青空が顔をみせる。フランス式庭園の花々は美しく、日本庭園の睡蓮の池も印象深い。ただ、観光バス・タイムとでも言うべき時間なのだろうか、いかんせん人が多すぎる。観光バスでの訪問は効率的だが、印象までがどこか画一的な枠に入れられてしまっているような気がしてならない。それでも、車窓から眺められるイルド・フランスの牧場や小さな家々の風景は心に残るものがあり、パリに来て一度も郊外を訪れることなく帰るのは、本当にもったいないことだと思う。
7月23日(火)
 ル・ボン・マルシェに行く。1852年創業のこの世界最初のデパートは、高級ブランド目当てに世界各地からの観光客が集まるギャラリー・ラファイエットのような華やかさこそないが、厳選された商品がかなりゆったりと並べられていて、買い物もしやすい。目的は紳士服売り場。実は近々「ムーラン・ルージュ」を見にいくため、急遽正装の用意が必要となったのだ。といっても、ほしいのはできるだけカジュアルなジャケット。サイズを聞いて探すが、ない…。肩幅のサイズはあっても、袖が長すぎるのだ。ズボンは裾上げすれば済むし、シャツなら袖を折って着ればいい。けれども、ジャケットではそうもいかないし、かなり絶望的な気分になって戻ってきた。

 夕食は昨日の「サワデー」の近くの日本料理屋へ。入るとまず付け出しに、あられのお菓子が小皿で出てくる。お刺身のお造りを取り、ごはんとみそ汁で定食のようにして食べた。ここも中国系で、こうしたお店ではよくあるのだが、みそ汁の具にはワカメと豆腐とネギ以外に、薄く平たく切ったマッシュルームが入っている。お刺身の鮮度は…、まあ、贅沢を言ってはいけないのだろう。
7月22日(月)

 下の階の部屋の水道に何か問題があったらしく、入れ替わり立ち替わり人がやってきて、浴室の壁の向こうの配管を調べてゆく。実は昨日もアパルトマンの担当者がやってきたのだが、さっと見て別に問題がなかったようなので、それで大丈夫なのだと思っていた。今日は水道専門の技術者と思われる青年二人もやってきて、浴室であれこれ話をしている。が、フランス語を解さない自分には、よくわからない。ただ、問題が解決するまでは部屋にいなければならなかったので、出掛ける予定が大幅に遅れた。

 ルーヴル沿いの CITYRAMA と Paris Vision に行き、日本語ガイドの観光バスを予約。その後、ギャラリー・ラファイエットとプランタンに寄って、それぞれ提携している松坂屋と高島屋のメンバーズカードを作ってもらう。紳士服売り場で買い物をするはずだったのだが、結局何も買わなかった。

 うまく行かなかった日の気分を変えようと、エミール・ゾラ通りのタイ料理店「サワデー」へ。昨日の夕食は、すぐ向かいの「ル・パレ・ド・シャンジャン」というインド料理店だった。しばらくフランス料理しか食べられなくなる気がして、このところ他の国の料理ばかり食べている。

7月21日(日)

 夏休みがもうあとわずかしか残ってないのに、全然宿題に手をつけていない小学生のような気分に日々はまりつつある。こちらの場合は、夏休みまであと数日しかないという状況ではあるのだが。

 夕方の散歩に、16区パッシー地区のアール・ヌーヴォー建築を見に行った。グルネル橋を渡り、メゾン・ド・ラジオ・フランスの横を通って、ラ・フォンテーヌ通りへと左折、さらにモザール通りへと入り、地下鉄ジャスミン駅の方へ。このあたりには、エクトル・ギマールの設計した建物が今も現役のアパルトマンとして使われている。「アール・ヌーヴォー散歩」のページがある『地球の歩き方 パリ&近郊の町』と『Plan de PARIS』とを片手に、一軒一軒訪ね歩く。パリはここ数日初夏の快晴が続いているが、日没近くともなると風も冷たくなり、少し肌寒いくらいだった。
7月20日(土)
 13区の中華街に行く。今回の目的はラーメンではなく、髪を切ること。前回行った時に理髪店が何軒か目に入り、近所に手ごろな店が見あたらないこともあるのだが、同じ切るなら中国系の理髪店の方が安心できるような気がして、わざわざ出掛ける気になったのだ。

 着いた時間が遅く、何軒かはすでに閉まっている。このままでは来た甲斐がないと思い、まだ開いていた店に飛び込む。まずシャンプー。香りが結構きつい。続いてカット。ハサミを使わず、いきなり電気のバリカン。ああっ、と言おうとした時にはすでに…。併せて15ユーロの格安料金。まあ、夏らしい髪型になったことは確かなのだから…。
7月19日(金)
 會津さんに見てきて欲しいと言われたグラン・ギョール座の跡地を訪ねる。20 rue Chaptal がその住所。パリ市内のあちこちで見かける、歴史的モニュメントであることを記した黒っぽい碑がここも立っている。

 すぐ横の白い建物の隣りの入り口から細い道をちょっと入ったところが、やはり歴史的モニュメントのシェフェール館(16 rue Chaptal)。現在はロマン派美術館として、ジョルジュ・サンドの遺品やアリィ・シェフェールの絵などが展示されている。アトリエではマーティン・フランクの写真展が開催中だった。


 帰り道、パリ日本文化会館で会員登録の手続きをする。A会員、B会員と2種類あって、A会員(22.87ユーロ)は展覧会無料、映画無料入場4回などの特典があり、B会員(53.36ユーロ)になると、さらに図書資料18000冊のうち約6000冊が、1回につき3冊3週間まで貸出可能となる。だが、その約6000冊のなかに文学全集・個人全集類は、文庫版全集を除き入っていない。

 確かに事典類や大型の画集図録等を貸出対象から外すのは日本でもそうだか理解できるが、文学全集はその中の作品が読まれてなんぼのものではないか。それを館内閲覧しか認めないというのは、見かけだけは文学者の全集をずらっと並べて文化大国振りを誇示しつつ、その実個々の作品が少しでも読まれるようにとの配慮などいっさい払わず日本文学の国際的受容を妨げようとする、ほとんど国家的謀略と言っていい振る舞いではないのか。日仏の文学者・文学研究者の署名を集めて強く抗議したい。といったことを、もっともっと穏便に、会員申込書の裏面のアンケートには「今後の文化会館の活動に関する希望・ご提言」という自由記述欄があるのだから、そこに書けばよかったと思ったが、後の祭りだった。
7月18日(木)
 異国に暮らしていても、特に日記に記すほどのことがない日もある。まだ行ってない場所も多いのだから、散歩がてらに出掛ければいいのだが、なんだか日記のためにわざわざ行くみたいで、気持ちが引けてしまった。今日のパリは初夏らしい、空が青く澄み渡った快晴。どこにも出掛けないでいるのが、もったいないくらいの一日だった。
7月17日(水)
 先週の金曜日にケーブルネットの勧誘の電話が掛かってきた。つないでもらおうとしたが駄目だったと言うと、ジャパニーズ・コンピュータも扱ったことはあるし、つなげるはずだと言う。もう一度技術者を派遣してもらい、試みるが、やはりつながらない。これでケーブルネットによる常時接続は完全に断念せざるを得なくなった。

 電話料金の最初の請求も来たので大体月にどれくらいかかりそうか見当はついたが、日本のプロバイダの説明書をよく読むと、海外ローミングアクセスポイント利用の場合は別料金と書いてある。が、海外のプロバイダによって違うせいなのか、具体的に幾らとは書いていない。ネット利用の方法については、いまだ暗中模索の状態が続いている。

 ついでだがら書いておくが、海外ローミングアクセスポイント経由でメール送受信をする際には、まずメールの「受信」を行うことでプロバイダに「認証」してもらってからでないと、メールの「送信」が実行できない。例えば、Outlook Express の場合は「送受信」をクリックすると、まず「送信」を先に行うからエラーが出てしまう。最初はこのやり方がよくわからず、なぜ「受信」はできるのに「送信」できないのか、困惑していた。

 ごくたまに「読んだら折り返し返事を下さい」と言ったことを気軽そうに書いてあるメールが届くが、まったく…と思いたくなってしまう。海外ローミングアクセスポイントに電話を掛け、日本のプロバイダにつなげてもらい、「受信」の作業を一度して、それでようやく「送信」できるのだ。1通も届いていないことがわかりきっているのに、それでも「受信」の作業をしなければならないのが、結構こたえるのである。


 夕方、16区の村田堂という日本書籍の古本屋を覗きにいった。狭い店内に文庫本や新書サイズのノヴェルスなどがぎっしり並べられている。駐在員の家族や留学生が帰国売りしていった本がほとんどだろうから、品揃えに偏りは目立つが、いかにも古本屋といった雰囲気は日本と変わらない。日本のテレビ番組のビデオなどをレンタルしている他、入り口のショーウインドウの上段には小さな観光土産用の置物が、奥の棚にはなぜかブルドックソースなどの日本食品が少し置いてある。

 店の主人は読書中で、こちらが声をかけても最初気がつかない。必要な本はみつからなかったが、カトリーヌ・アルレー『大いなる幻影 死者の入江』(創元推理文庫)とロナルド・ケスラー『スパイVS.スパイ』(新潮文庫)を購入。日本の古本屋と同じで最後のページに鉛筆で値段が書いてあるのだか、見ようともせず2冊で5フランと言われる。もちろん5ユーロの言い間違いで、正直高いと思ったが、今日のところは値切らずに帰ってきた。

7月16日(火)

 夏休みにパリに来る知り合いから頼まれた、レストランの予約をする。マドレーヌ教会そばの3ツ星レストランのランチと、ボン・マルシェ近くの創作料理で評判のビストロのディナー。予約は電話でいいのだが、フランス語であれこれ聞かれるのが不安で、散歩を兼ねてパリの街に出、ランチの終わる時間を見計らって直接店を訪ねた。

 日本人はもう…と半ばあきれかえられる感じで、どちらも無事予約を完了。聞かれたのは日、人数、時間、名前、電話番号だけだから、これならば電話でも大丈夫かも知れない。日本のガイドブックには、星付きの有名レストランは遅くとも数ヶ月前でないと予約が取れない、とか書いてあるのだが、それって本当なのだろうか。超有名店ではたぶんそうなのだろうし、また週末のディナーなどが相当混むことも確かだろう。しかし、今日訪ねた2店はいずれも予約が難しいとガイドにあったところだが、数日前でも十分間に合いそうな感触だった。お店が夏休みに入る直前の時期だし、一方はランチだし、それでなのかも知れないのだが…。


 帰りはジュンクに寄って、日本語の本を購入。新刊の棚に小森陽一『歴史認識と小説 大江健三郎論』が3冊。文庫やフランス関係の書棚以外には、文学関係の評論も研究書もほとんど何一つないのだから、これは本当に破格の扱いだと思う。もし残っていたら買おうかどうしようか逡巡していた『言語都市パリ』は、売れてしまったのか棚に見あたらなかった。

 やはりパリで買う日本書籍は高い。入用な実用書を中心に7冊買って、169.20ユーロ。日本での定価(消費税含まず)は合計8723円だから、ほぼ2倍の値段。また、取り寄せには約2週間かかるらしい。

 自分でこんなことを言うのも変なのだが、書評を書かせるなら、日本の本の有り難みが違う今だと思う。けれども今年に入ってからは、さすがに一つも原稿依頼がない。この数年の常時締切超過の原稿を抱える悪循環を一度断ち切るためにパリまで来たのだから、これはこれでとても有り難い状況ではある。

7月15日(月)

 キャトールズ・ジュイエが過ぎると、フランスはいよいよバカンス・シーズンに突入する。早い人たちは今日あたりから移動を始める。そして、8月に入れば俗に言う、観光客しかいないパリになってしまうのだ。有名なレストランでも、この時期は休むところが結構あって、どれほどフランス人にとってバカンスが大切なものなのか、少し分かる気がする。

 バカンス・シーズンを意識させるのは、テレビの天気予報を見ている時で、海浜のリゾート地の天気と波の状況とが表示される。今日のパリは一日中どんよりとした曇り空で、あんまりそう言った雰囲気でもないが、自分も8月に入ったら、断続的だがパリを離れる予定でいる。航空機や列車のチケットはすでに押さえた。あと半月の辛抱なのだ、がんばらなくては。

7月14日(日)
 キャトールズ・ジュイエ。すなわち、7月14日の革命記念日。日本では巴里祭と呼ぶが、このルネ・クレールの映画の邦題から取られた名前が日本でしか通じないことは、別にここに書かなくても多くの人が知っているだろう。凱旋門からシャンデリゼ大通りを抜けてコンコルド広場までゆく軍事パレードは、テレビで見た。時折空からの映像が入るが、見ていて本当にパリは美しい街だと思う。パリ上空は確か飛行禁止なので、東京のようにそう何時でも見れる映像ではないし、まして自分の眼では絶対に見ることのできない光景なのだ。


 午後からは、今日が最終日の「モンドリアン」の特別展を見にオルセー美術館へ。日曜日とあって、長い長い列ができている。迷わず並ばずに入り口へと向かう。工事中のため、セール川沿いに臨時の入り口が設けられている。カルト・ブランシュ(年間フリーパス)はどこで買えるのかと入場整理係の男性に聞くと、英語はわからないと言いながら、まあいいか、という感じでサッと中に入れてくれた。

 オルセーのカルト・ブランシュは年会費39ユーロ。しかし、ルーヴル友の会に入会しているので、30ユーロに割引になる。入館料が7ユーロ(特別展+常設展だと8.5ユーロ)だから、すぐに元が取れてしまうだろう。

 「モンドリアン」は感動的な展覧会だった。この特別展には、いかにもモンドリアンといった感じの新造型主義の抽象絵画は一点も展示されていない。オルセーには原則として1848年から1914年までの作品が集められているのだが、この「モンドリアン」展も1893年の具象画から始まり、1914年のキュビズム的な作品で幕を閉じる。モンドリアンがまさにモンドリアンになる、その寸前で展示は打ち切られているのだ。だが、今回の展示作品を順に追ってゆくと、一人の才能ある画家が自らのスタイルを打ち立てるまでに、何を捨て何を得ようとしたのか、その精神の彷徨と決断とがはっきりと見えてくる。

 オルセーは日本人の見学者がとても多くて、閉館30分前から部屋を閉め始めるというアナウンスが日本語でも流れる。ドガのパステル画だけは見て帰ろうと思い急ぐが、すでに部屋が閉められてしまっていた。


 夜になると、あちこちで爆竹の音が鳴り、花火が上がり始める。近くのグルネル橋の上も人でいっぱいだった。今宵はエッフェル塔も明かりを落とし、交響曲の調べが遠くから聞こえるなか、色とりどりの花火が夜空に舞い上がる。今日は隅田川ならぬセーヌ川の花火大会の日でもあるのだ。
7月13日(土)
 いてもたってもいられない気分にかられ、サン・シュルピス教会、ドラクロワ記念館、ルーヴルのドノン翼2階の19世紀フランス絵画を見にゆく。サン・シュルピス教会には、ドラクロワが最晩年に描いた壁画がある。正面入り口から入ってすぐ右の一角。向かって左の壁が有名な『ヤコブと天使の闘い』、右の壁は宝物庫を荒そうとしたヘリオドロが天使の乗る馬に踏みつけられ鞭打たれようとしている『神殿から追われるヘリオドロ』、そして天井画は大天使ミカエルの足下に打ち倒されたルシフェル。ドラクロワ記念館はこの壁画を制作していた時期に住んでいた家とアトリエとが展示室になっている。

 ボードレールの「ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯ー「国民世論」紙編集長へ」(1863)によれば、この最後の大作は愚かな批判を相当浴びたらしい。ボードレールはそれに抗議し、「巧みで超自然的な色彩の妙」と「意志をもって示された叙事詩的なデッサン」とを絶賛している。その言葉は力強い。

 ルーヴルにある『キオス島の虐殺』(1824)も『サルダナパロスの死』(1827)も、当時大いに物議を醸した作品として知られている。とりわけ、ダヴィットの弟子のドレクリューズは前者を「絵画の虐殺」と呼び、後者を「混乱した線と色彩のなかに何も見分けることができず、画家は絵画の基本原則を露骨に無視している」と全否定した。これは、普通の美術館図録とはひと味違った構成と文章が気に入って今日購入してきた『ルーヴルー700年の絵画の系譜』に載っていたエピソードだが、ボードレールはまさにその「線と色彩」とを擁護しているのだ。その「眼力の確かさ」をはっきり確認したくて、見に来たのだった。

 朝がたは雨で、天気予報のパリの最高気温の予想は14℃。ロンドンだと12℃になっていた。午後から雨も止んだので、実際にはもう少し高かっただろうと思うが、それでもカフェのテラス席にいると風が冷たかった。
7月12日(金)
 電気料金を払いに地区のサービスセンターに出掛ける。最初から銀行引き落としにはできないので、初回だけは直接出向いて小切手で払うように不動産屋から指示されたからだ。口座開設の時に貰った記入例のコピーを見ながら、始めて銀行の小切手を切る。後から勝手に書き加えられないよう、数字や文字の間を詰め、余白には線をきちんと引いておかなければならないから、結構緊張する。実は郵送されてきた請求書の期日が昨日までだったことに、出掛ける直前になって気づいた。が、特に何も言われず受け取ってもらえた。

 このところ、こうした細々とした用事が続いていて、集中力がとぎれがちだ。もう書き上がっていなければならない仕事が、なかなか先へと進まない。ようやく手応えのある暗礁に乗り上げた感触はある。が、時間がもうない。焦る気持ちが余計集中力を奪ってゆくようで、少し辛い。

 知りたいと思っても、パリではすぐ調べられないこともいろいろ出てくる。例えば、小林秀雄はアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの映画『ミステリアス・ピカソー天才の秘密ー』(1956)を観て、「音楽さえ時々聞こえなくなる」ほどの強い「感動」を受け、その直後の座談会で感想を求められたが「口をきくのもいやだった」と述べている(『近代絵画』)。小林が「何やかや上の空で喋った」座談会は、おそらく「芸術新潮」昭和31年9月の吉川逸治との対談「映画「ピカソ・天才の秘密」」。そこまでは突き止めたが、肝心の「上の空」の発言内容を直ちに確かめるすべが今はない。

 そもそも小林は何時映画を観たのか。同じ「芸術新潮」の翌10月号には、『近代絵画』の「ピカソ」の章の第1回目が掲載され、そこで小林はこの映画について、「今は、もう感動はない。だから、感想が湧くのである」と記しているのである。「感動」が「感想」に変わるまでには、何日くらいを要したのだろうか。

 あまりにトリヴィアルな関心だと思われるだろうが、調べようがない分だけ余計気にかかってしまうのだ。

7月11日(木)
 會津さんを始め、多くの方が興味を持たれている(ホントか?)海外版「出前一丁」についてレポートする。現在までに発見できたオランダ製の「出前一丁」は9種類。赤い袋が日本と同じ、ごまラー油(麻油味)。他に、茶(牛肉麺)、緑(鶏肉麺)、黄(カレー麺)、青(海鮮麺)、ピンク(鮮蝦麺)、強い赤(香辣麺)、そして「日本の味をそのまま!」と書かれた北海道みそと九州とんこつで、最後の2つだけは0.91ユーロとほぼ2倍の値段。括弧内は中国語による麺の種類の表記だが、一部改めたものもある。袋の表面には「出前一丁」と書かれた下に「DEMAE RAMEN」とローマ字(?)表記、さらに英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語(?)の5カ国語で「JAPANESE NOODLESOUP」と記され、裏面の作り方の説明には中国語が加わる。

 海外版「出前一丁」の味付けは確かに微妙に日本のと異なる。ラー油の鼻にツンとくる感じが弱い。麺も日本のものほど腰に拘ってない気がする。それで思い出したのは、シベリア鉄道の車中で見たロシア人のカップめんの食べ方だ。

 ロシアにはどんぶり状のもの以外に、ちょうど焼きそばのと同じような四角い容器のカップめんがあって、車内販売もしている。それを食べる時、ロシアの人たちはお湯を入れる前に、麺を手で折ってこなごなにしてしまうのだ。そしてフォークですくうようにして食べる。長い麺をズーッと啜るようなことはしない。

 海外版「出前一丁」も最後の3種類以外は、袋の裏面に調理例の写真が載っているが、平たいお皿を使っていて、中央に3色のピーマンが盛りつけてある。つまりヨーロッパでは、ライスがサラダや料理の付け合わせのためのものであるように、ヌードルもまたスープの具の一つに他ならないのだ。もっとも「出前一丁」はまだ中華か日本の食品店でしか見かけていないから、本当にスープとして好んで食するフランス人がいるかどうかは定かではない。

 日清食品の海外進出は相当進んでいるようで、焼きそばにも海外版があるようだし、カップヌードルは「合味道」の名で販売している。ただし、こちらは香港製だ。カップめんといえば、日本ではふたの写真にある具がまがりなりにも入っているのが当たり前だが、こちらで買った中国のものは麺と粉末スープにせいぜい薬味くらいしか入っていない。ふたの写真に肉や蝦や野菜がおいしそうにのっていても、何一つ具として入ってはいないので、最初はだまされたような気分になってしまう。
7月10日(水)
 テレビで台風情報を見た。CNNもBBCもウェザーレポートの最初は、日本に上陸したCNATAAN TYPHOONのことだ。街の様子が映像で映る訳でもないし、詳しい状況は何もわからないが、アジア地図の日本の関東地方の上に黒々と塗られたマルを見ていると、穏やかな気持ちにはなれない。


 スペイン(5月23日〜31日)、オランダ(6月14日〜18日)、ドイツ(6月21日〜25日)旅行中の日記をアップした。他にも若干いじった箇所がある。ここまでアップを遅らせて来たのには当然理由もあるのだが、あえて触れることはしない。追加改訂合わせて全部で19日。お時間がおありの時に読んでいただければ、嬉しく思う。
7月9日(火)
 滞在許可証を受理するために、シテ島の警視庁に行く。開門時間の8時45分より前に着いたが、すでに100人を有に超える人の列ができている。約30分後に、空港並みの所持品検査を受けて中へ。しかし、召喚状に記された指定の窓口は誰もおらず(それでも順番待ちのチケットを切れと言われたが)、召喚状とOMIの健康診断を受けた証明書のコピーとを渡しただけで、拍子抜けするくらいあっさりと、1年間の滞在許可証をパスポートに貼り付けてくれた。もちろんこんなに簡単なのは大学を通しての申請だったからで、個人での申請では持参した書類を一つ一つチェックされ、さぞ大変なのだろう。

 ともあれ、ようやく滞在許可証をもらえて、ほっとする思いも強い。ここまでたどり着くまでに、セシル坂井さんにはずいぶんお手数とご心配とをかけた。おそらく坂井さんにとっても、これまでは年長の研究者の、ある程度型通りの受け入れがほとんどで(それはそれで気をつかって大変だったろうと思うが)、御自分と同世代の、それも従来の型からはずれた自己流の在外研究を希望するわがままな研究者は始めてだったのではないだろうか。

 とはいえ、在外研究の在り方も時代と共に変わってゆくのだし、これからは自分ほどではないにしろ、今までとは違った形の在外研究を模索する研究者も出てくるだろう。おそらく自分ができる恩返しは、そうした人に対して日本の事情に即した形でのアドバイスを事前に差し上げることだけなのだろう。パソコンの使い方に関して、ちょっと前まで同じ初心者だった人の方が、よりわかりやすく必要なことだけを教えられるということだってあるのだから。

 パリの初夏はたった一日で過ぎてしまったかのように、今日は朝から暗く厚い雲が空を覆い、時々雨が急に降り出したりしている。
7月8日(月)
 日本では急に夏の太陽がやってきたようだが、パリも昨日に続いて快晴で、ようやく初夏が訪れた感がある。とはいえ、気温はまだ25℃前後だろう。湿度も低く、日本よりずっとすごしやすいことは確かだ。

 大家のおばさんに近所の安いスーパーや屋外プールなどを案内してもらう。おばさんという言い方は好きではないので、これまで家主の女性と書いてきたが、やはりこの方がイメージが伝わるだろうか。大の日本びいき、というよりは日本人びいきと言うべきか、今借りている部屋は日本人にしか貸してこなかったのだそうだ。革命前のイランで仕事のつきあいがあった日本人が、みんなインテリジェントだったからだと言う。日本酒も大好きだと言って、昨晩もとても喜んでくれたが、さらに以前日本大使からもらった日本酒(一升瓶?)を一晩であけてしまって「オーシャン ocean」と呼ばれたという話を聞くに及び、今度はにわかに心配になってしまった。「上善如水」ではそれこそ水の如しで物足りないのではないだろうか…。


 その前にはパリ・リヨン駅にTGVの指定席券の購入に行ってきた。

 ヴァカンス前だからだろうか、どの予約窓口にも列ができている。ようやく順番がまわってきたが、窓口の女性が運悪く(?)英語が話せず、こちらの聞きたいことも頼みたいこともうまく伝わらない。パリは観光客が立ち寄るところなら大体ブロークン・イングリッシュでなんとかなるし、これまで国際列車の窓口でユーレイルパスや寝台車のチケットを購入した際にはスムーズに事が運んだから、少し甘く考えすぎていた。

 リヨン駅には「ル・トラン・ブルー」(青い列車)というレストランがある。リュック・ベンソンの映画『ニキータ』で、アンヌ・パルローのヒロインが20歳の誕生日のお祝いにと暗殺の道具の拳銃を手渡されたのが、ここだ。駅構内のカフェの両横から階段が壁沿いに上にのびていて、それがつながる中央に入り口がある。あの扉の向こうが、映画で見たシャンデリアきらめく壮麗なレストランだとは、下の雑踏からはにわかに信じがたい。パリ滞在中に一度は来てみたい場所の一つだ。
7月7日(日)
 日本は七夕。パリも今日は久しぶりの快晴。毎月第1日曜日は多くの美術館が無料になる日なので、マルモッタン美術館へモネを見に行くことにする。セーヌの中の島に立つ自由の女神のすぐ後を抜けるようにして、グルネル橋をわたる。橋上からはその向こうにミラボー橋が見え、振り返ればエッフェル塔が大きく目に入る。20分も歩かずにマルモッタン美術館に到着。しかし、第1日曜も通常料金で少し当てがはずれた。

 モネは地下の展示室。主治医べリオ博士の娘やモネの息子ミシェルの寄贈した作品の数々。一番奥の円形の部屋は、オランジュリーを明らかに意識した感じで睡蓮の絵がずらっと並んでいる。有名な「印象・日の出」は、瀟洒で何とも美しい作品だ。そのモネが晩年には色のタッチこそ忘れがたいものの、何を描いているのかわからない「日本の橋」連作のような作品を描く。その変容が手にとるようにわかる。モネの絵は近くで見ただけでは駄目なこともよくわかった。少し離れすぎかなと思うくらいから見る時、光と影が、水の深さまでがはっきりと眼に映る。

 地上階は建物の主であった美術史家マルモッタンのコレクションや調度品、上の階にはルノワール、ドガ、モリゾなどの19世紀絵画が展示されていた。


 続けて、ブローニュの森の北端にある国立民芸博物館へ。ここは第1日曜で無料。だが、ついでにクロークもお休みで、荷物を預けることができない。ここのミュージアムは様々な視点から民衆の生活文化を取り上げている。それでフランスの少年少女文化に関する展示がないかと思って来てみたのだが、マリオネットが集められていたり、口承文芸をその受容の場を再現したりはしていたが、そういうコーナーは特に見あたらなかった。

 ただ、子供向けの問題を随所に用意するなど、家族連れでも楽しめる工夫があちこちに見える。隣がアクリマタシオン遊園地で、園内からも入館できるようになっているのだ。晴天の日曜日で遊園地には人がたくさん集まっている。けれども無料のここには、あまり人が来てはいなかった。


 行く途中、香苗という日本食材の店をみつけた。そういう名前の店が15区にあることは本で見た記憶があったが、こんなに近所だとは思わなかった。コンビニに近い雰囲気の店で、レンタルビデオのコーナーもある。

 會津さんがとても気にしているので、海外版「出前一丁」の味を日本のと比較すべく、日本直輸入の「出前一丁」5食入りパックを購入。6.56ユーロだから、一袋あたりの値段は海外版の3倍近い。それから日本酒の「上善如水」。今晩家主からディナーに招かれているので、持ってゆくのに、慣れない人でも比較的飲みやすいはずのこれを選んだ。

 ディナーはイラン料理で、鶏肉を煮こんだ汁をカレーのようにライスにかけて食べる。客は他に、父系がポルトガルのフランス人男性とベトナム人女性のカップル。彼女はいま妊娠9ヶ月め。その二人と家主の娘さんとの会話がフランス語で長く続くと、フランス語のできない自分のために「イングリッシュ!」と家主の女性が厨房から声をかける。別にこちらは、フランス語で話していてくれた方が、話しかけられる気苦労もなくてよかったのだが。仕舞いにはそれが、はやり言葉のようになってしまった。
7月6日(土)
 昨日のケーブルネットのことがまだ少し精神的に尾を引いている。別のコンピュターを用意すればつながると言われたが、あと僅か9ヶ月のフランス滞在のためにこちらで新しいのを買う気にはなれない。今使っているのは、Windows Me 内蔵のカシオの FIVA という、重量が1キロにもみたない小型のノートパソコンだが、なかなか使い勝手がいい。出発前に最新の Word と一太郎をインストールしてきたので、文章を書く分には何ら支障はない。キーボードが小さいのがどうかと思っていたが、すぐに慣れた。ただ、気持ち的にはパスポートの次に大事なこのパソコンが、もし盗まれたり毀れたりしたらどうなってしまうんだろうと、時々不安になる。やはりその時にはフランスで購入せざるを得ないのだろうか。

 ちなみに、パリの日本語を使う人はほとんどが Macintosh User のようだ。Mac ですよね、と聞くとみな、そうだと返事をされる。日本では Mac を使っていたが、まわりには紅野謙介さんや中沢弥さんくらいしか「同士」がいなくて、肩身のせまい思いをしてきた。たぶん一太郎が95までしか出てないというのが、近代文学研究者にMac User が少ない理由の一つだろう。アメリカやヨーロッパだと、Mac に Japanese Language Kit をインストールすれば日本のソフトのほとんどが使えるので、それがMac の多い理由なのだろうか。いずれにせよ、パソコン少数派はこちらに来ても免れない運命であった。


 今日の午後、ケーブルテレビではドーヴィル競馬場のレースを実況していた。武豊が来ている。5レース、断然の1番人気の馬に乗る彼をキャメラがずっと追いかける。日本と違ってテレビ画面には単勝オッズだけが朝のとその時点のとを上下に並べる形でずらっと出ているのだが、朝5.3倍だったのが、直前には2.8倍にまではね上がった。馬はいれこんでいるし、明らかに過剰人気だろうと思って見ていると、最後のびずに3着に沈んだ。しかし、9レースでは1番人気の馬をきっちり差しきって見事1着。レース後に解説者が YUTAKA TAKE の騎乗技術を褒めていることだけはわかった。

 すっかりフランスの競馬にも慣れ、当たり前のような顔をしてレースに臨んでいる。そういうところを素直に羨ましいと思う。
7月5日(金)
 ケーブルテレビ&ネットの設置工事に、朝9時、技術者の黒人青年がやってくる。すでに部屋までケーブルが引かれているので、程なく設置も終わり、今日から電話料金に関わりなく無制限にインターネット接続が可能になるはずだった。ところが、ケーブル回線用の専用モデムを介してのネット接続がうまくいかない。午前中と、さらに夕方からと正味3時間以上はパソコンをいじってもらっただろうか、ついにつながらず、ケーブルネットへの加入を断念する。インストールしたソフトが使えないこちらのノートパソコンに問題があるというのだが、本当のところはよくわからない。日本語表記のパソコンに悪戦苦闘し続けた青年もとんだ骨折り損だったと思うが、脇で見ているこちらもくたくたになってしまった。

 これでインターネット接続をどうするか、振り出しに戻った。現在は日本のプロバイダを海外ローミングアクセスポイント経由で利用している。パリの市内通話料金でアクセス可能なので、フランスのプロバイダと契約すべきかどうかは、電話料金の請求が来てから考えればいいのだろうか。


 ケーブルテレビの方は契約を済ます。普通は選択チャンネル数によって使用料の月額が変わってくるのだが、ネットとのセット契約の場合はすべてのチャンネルを見ることができる。一挙に約100チャンネル見られるようになった。CNN、BBC、ZDFはもとより、モロッコ、アルジェリア、中国語放送なども入っている。

 子供のいる家庭の加入が多いと聞いていたが、確かにアニメなど子供向けの番組を流し続けているチャンネルも多い。MANGASという日本アニメの専門チャンネルまである。「めぞん一刻」をちらっと見たが、もちろんフランス語への吹き替え。響子さんがジュリエットと呼ばれていて、なにか雰囲気が違う。(五代くんはムッシュー・ゴーです。)


 142チャンネルが競馬専門のEQUIDIA。日本のグリーンチャンネルやMXテレビの中継とどう違うか、興味がある人もいないことはないと思うが、今日は疲れたので細かく説明するのは控え、もう寝ることにする。
7月4日(木)
 昨日の日記の書き出しについて、會津さんからメールで「戦前の文学者のようだ」と評された。シベリア鉄道経由で来たことについても、「なんか戦前のスパイ小説みたいだ」と言われている。なるほど。自分ではそう意識している訳ではないが、そんな風に見えるのかも知れない。

 言うまでもなく、「戦前」とは「戦後」になって“発見”された、過去の時空のことである。それなら「戦後」とは何か。吉本隆明は小林秀雄の『本居宣長』について、「小林の無意識の織りなす綾のうちに、営々たる戦後の解放と営みを全否定しようとするモチーフが、あやしい光を曳いてゆくのをどうすることもできない」と述べている。吉本がそう言いたい気持ちもわからなくはない。 けれども、「戦後の解放と営み」もいずれ確実に過去のものとなってゆくことだろう。「戦後」をいったん切断した時点で思考しようとする行為は、本当に「戦前・戦中」へと後退するものにしかならないのだろうか。

 解くべき問いは何も解かれてはいないのに、ポスト・モダンという言葉さえ手垢にまみれた過去のものとなりはててしまっている。その空虚さを埋め合わせてくれるから、加藤典洋のような言説が力を持ってしまう。そんなあれこれを考えていると、抱えてしまった問題の困難さにたじろぐ思いでどうしようもない。


 警視庁からの召喚状が届いていると言うので、パリ第7大学のライヤさんのところへ取りに行った。指定された日時にシテ島の警視庁まで出向けば、ようやく滞在許可証が発給されるはずなのだ。

 帰りは13区の中華街に寄る。中華街といっても、横浜やロンドンのような区切られた空間ではなく、大通りをはさんで中華料理店や土産物屋などがバラバラと並んでいる。目的はスーパーでのインスタントラーメンの購入。「出前一丁」の海外版(生産はオランダ)をまず赤・緑・茶・ピンクと4種類。緑は鶏、茶は牛、ピンクはエビ、赤がもともとの麻油味だが、日本とは味付けが異なるのだと言う。1袋0.46ユーロ。他に北海道味やとんこつもあった。

 カップメンも日本より賞味期限が長いことを確認し、中国・香港・韓国のものを11種類購入。せっかくなので、中華料理店で鴨肉入りのスープヌードルを食べて帰る。
7月3日(水)
 風のうなる音で目が覚めた。台風でも来ているのかと思った。パリは今日も朝から雨が降っている。出掛ける予定を変更し、部屋にこもる。だが、言葉は思うようにかたちにならず、遅々としか進まない。午後から雨が上がったので、スーパーで日持ちのするパンと挽いたコーヒー、そしてコーヒーメーカーを買ってきた。


 怪美堂オーナーの會津信吾さんが「十八時の文学浴」というコーナーを設けられ、「蘭郁二郎の生涯」をアップされている。蘭郁二郎は海野十三と共に日本SFの創生期を支えた優れた作家だが、いまの勤務先である工学院の電気科の出身である。けれども残念ながら、工学院で蘭郁二郎の名前を知っている方に出会ったことがない。ついでに書けば、映画監督の成瀬巳喜男も一時期工学院で学んでいたはずなのだが、著名出身者のリスト等をみてもその名前は記されていなかった。

 工学院大ではSF研究会というサークルの顧問をしている。年一回『空間回帰』という創作同人誌を刊行することが会のメインの活動なのだが、学生たちはパソコンの編集ソフトを駆使し、グラフィックな挿絵をふんだんに入れ、かなり大部のものを作っている。始めて見せてもらった時にはまずその見栄えのよさに、とても文系の人間ではここまで出来ないと感嘆してしまった。

 蘭郁二郎について『空間回帰』に論を書こうと思いながら、もう何年か過ぎてしまった。一、二年のうちに必ず約束を果たしたいと思う。
7月2日(火)
 7月だというのに、まだジャケット代わりのジャンバーが手放せず、朝夕はセーターをはおっている。まるで初冬のようで、本当に夏が来るのか心配になる。今年のフランスは異常気象らしく、天候が不順で寒い日が多い。

 昼食時を少し過ぎてからレストランやカフェに入ると、かなり年配の男性が一人で食事をとっているのを見かけることがある。年金生活者だと思うが、外食も毎回だとお金もかかるから、相当の地位と収入があった人なのであろう。それでも食事が終わった後、勘定書をじっとみて額を確かめている様子をちらっと見てしまうと、いろいろなことを考えてしまう。

 一つには、アパルトマン暮らしを始めて、外食が贅沢なものに思えてきてしまったということがある。スーパーで買う食品の値段と、外で食べるのとではかなりの差がある。一概には言えないにしても、食品の値段だけならフランスの方が日本より安い。贅沢さえ言わなければ、本当に1日数ユーロで食いつないでいけそうに思う。それでも一日中部屋にいると息がつまりそうで、つい食事に出てしまうのだが…。

 今日は朝から何本も電話がかかってきて、幾つか状況が動いた。部屋にこもらなければという思いとは裏腹に、外に出る用事が増えてゆきそうだ。
7月1日(月)
 日本ではまだ梅雨が続いているのだろうか。パリも今日は朝から雨。サンラザール駅とオペラ大通りの銀行に用を済ませにゆく。それ以外に書くことは特にない。

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