2002年 8月
(イタリア旅行日記 4日〜8日北欧旅行日記 11日〜22日)
8月31日(土)
 朝ホテルからロンシャン宮まで歩いて向かう。宮殿の両翼はそれぞれ自然史博物館、マルセイユ美術館となっている。自然史博物館は空いている展示ケースも多く、いかにも完成途中の印象。入口より上の階では、プロヴァンス地方で出土した恐竜に関する展示とプロヴァンス地方の動物たちの標本。また入口より下の階にはアクアリウムがあるのだが、閉館中だった。マルセイユ美術館はプロヴァンス絵画の展示が興味深かった。

 14時23分発のニース。ヴィレ行きの列車に乗るつもりで、マルセイユ・サン・シャルル駅に向かう。しかし、切符の購入のために30分以上の余裕をみて駅に行ったのだが、長蛇の列で結局14時23分発の列車の切符が2、3分遅れて購入できず。次の列車は16時46分発。しょうがないので、待合室でうとうとしながら待つ。ところが今度は、20分遅れの到着。実は今日はマルセイユにもう1泊する予定だったのを、少しでもニースに近いところに移動しておこうと思って、午後の列車でサン・ラファエルまで行くことにしたのだ。午後14時23分発乗れれば16時04分に着ける予定が、14時23分発の到着予定時間18時19分よりも遅れることさらに30分以上。こんな時間に着いてホテルがみつかるかどうか不安だったが、幸い駅の目の前のホテルで部屋が取れたのでいそいそとチェックインする。

 サン・ラファエルは日本ではそれほど知られていないかも知れないが、コート・ダジュールの入口に位置するリゾート地。駅から10分も行かずに、もう海岸に出られる。ホテルで紹介してもらった、海岸通りからちょっと入ったレストランへ。16ユーロのコースをとるが、おいしかった。海辺の料理店だけに、ここの名物もブイヤベースかブリード(クリーム風味のブイヤベース)らしい。もう一度来て、昨日のマルセイユのブイヤベースと食べ比べてみたい気がしてならなかった。
8月30日(金)
 朝10時11分アルル発の列車に乗ってマルセイユへ向かう。昨日乗った列車より6分早くアルルを出発するが、マルセイユへの到着時間は若干遅い。ただ、こちらの車両はコンパートメント。8人用の部屋を独り占めできた。約50分でマルセイユ・サン・シャルル駅到着。駅前の階段を降り、アテネ大通りからカヌピエール大通りへ出て、旧港近くのホテルが集まった一画に向かい、手頃なホテルをみつけてチェックイン。

 昼食にタヒチ風サラダを食べた後、連絡船に乗ってイフ島へ。アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』の主人公が無実の罪で幽閉された島で、島内のシャトーを巡ると何カ所かでクロード・オータン・ララ監督による映画がビデオで流れている。旧港に戻り、マルセイユ歴博物館を覗いた後、ミニトレインに乗って、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂へ。横光利一が『旅愁』の中で言及しているこの聖堂には、十数年前に一度来たことがある。その時は確かマルセイユ駅から歩いて聖堂に行ったはずなのだが、とてもそんな気持ちにはなれないであろう急坂をミニトレインは上がってゆく。本当に自分は歩いてここまで来たのだろうか? 記憶はどんどん曖昧になってゆくのに、傷ついて横たわるキリスト像を見た瞬間、かつて見たその瞬間の記憶だけが鮮明に蘇る。おそらく地元の人なのだろうが、キリスト像に口づけをする年配の男性や長い時間跪いて祈りを捧げている女性の姿を見ると、この教会の存在がどれほどマルセイユの人々に大きいか、朧気ながらわかる気がする。

 夕食は旧港右岸のミラマールへ。この店を「本物」のブイヤベースが食べられると『地球の歩き方』が絶賛していたからだ。まず前菜にキノコのプロバンス風いため、そしてブイヤベースには欠かせないと言われるカシス・ワインの白を注文。名物のブイヤベースは魚を溶かし込んで煮込んだスープと山盛りのラスクが最初に出てくる。ラスクにルイユ(カイエンヌ・ペッパー入りマヨネーズ)かニンニクをすりつぶして塗って食べながら、まずスープを啜る。その後に、魚の肉を盛り合わせたいわゆるブイヤベースが皿に盛られて出てくる段取りとなっている。かなり濃厚な味で、ここも少し塩辛い。おいしいとは思うものの、「偽物」の観光客用のブイヤベースの味がどんなものなのか分からないから、正直ありがたさも今ひとつなのがさみしい。
8月29日(木)
 朝9時45分発のマルセイユ行きの列車に乗り、隣の駅のアルルへ。約20分。駅を出てしばらく歩くと、ラマルティーヌ広場とカヴァルリ門。ここから先が実質的なアルルの町になる。門をくぐってすぐのホテルにチェックイン。シングルとダブルの区別がなく、一人で泊まっても二人でも料金51ユーロ+税金。最近改装されたらしく、部屋はなかなかかわいらしい。

 朝食をとらなかったので、まずは何か食べようとフォーラム広場のカフェ・ヴァン・ゴッホへ。正式名称はゴッホの『夜のカフェテラス』をもじったものだが、黄色い壁の前に黄色い背もたれの椅子を並べ、壁にはカフェ・ヴァン・ゴッホと記されている。立ててあるメニューを見て注文するものを決め、いざ注文をしようとするや、食事は12時からだと言われる。しょうがないので、しばらく時間をつぶすことにする。

 古代フォーラム地下回廊へ向かい、アルルのモニュメント9ヶ所が無料になるヴィジット・ゼネラールを12ユーロで購入し、光の差し込まない地下の回廊を見学。次に詩人フレデリック・ミストラルがノーベル賞の賞金を基に作ったというアルタラン博物館へ。上半身は山猫、下半身は魚だというのだが、どう見ても顔の不気味なカメとしか見えない怪物タラスクの展示コーナーなどがある。時計が12時を回ったので、一度フォーラム広場に戻り、サラダ・ヴァン・ゴッホというのを注文。

 食後はサン・トロフィーム教会、ローマ時代の古代劇場、円形闘技場、コンスタンタン共同浴場、レアチュー美術館、古代アルル博物館を回る。さらに、ゴッホがゴーギャンを殺そうとし、自分の耳を剃刀で切り取った後、精神病とみなされて入院した病院(現エスパス・ヴァン・ゴッホ)の花が咲き誇る中庭を見学してから、タクシーに乗って、ゴッホの絵のモデルとなった跳ね橋へ。実はこの橋は戦争で焼失し、現在架かっているのは1960年に場所を変えて復元したものに過ぎない。それでもせっかくだからと見にいく。タクシー料金は市内のツーリスト・インフォメーション前の乗り場からの往復でちょうど12ユーロだった。

 夕食は古代劇場裏のレストランが数軒集まる一画へ。14ユーロのコースメニューを注文。前菜はムール貝のグラタン、メインに出てきたのが豚の足をプロヴァンス風に味付けしたもの。食前酒にパスティスを取ってみるが、口にあわない。どうしてこんなに塩からくするんだろうか? でもまま、食に恵まれなかった昨日に比べれば、ずっと満足の一日だった。
8月28日(水)

 朝9時34分パリ・リヨン駅発ニース・ヴィレ行きのTGVに乗る。二等車でも車内はなかなかおしゃれで、緑とグレーの縞の座席に窓のカーテンも緑。12時15分アヴィ二ヨンTGV駅に到着。ホームを出ると、すぐ下に花壇が広がるモダンな駅舎。そこからバスに15分弱乗り、アヴィニヨン中央駅とレピュブリック門近くの停車場に着く。すぐホテル探し。近くの4ツ星クロワトル・サン・ルイは17世紀の修道院を改装したホテルで魅力的だが、旅行初日からこんな贅沢をしてはと少し先のプチ・ホテルへ。45ユーロと50ユーロの部屋があるというので見せてもらい、少し広い50ユーロの部屋に泊まることにする。

 アヴィニヨンは全長4.3メートルの城壁に囲まれた町で、行く先も定めずのんびり歩いていても、すぐ城壁に行き着いてしまう。サン・べネゼ橋と法王庁宮殿を見学。共通券11ユーロ。少し高いが、オーディオガイド付き。しかし、説明が長すぎて、うまくポイントを掴みにくい。特に宮殿はオーディオガイドの順番と見学順路とが一致していないこともあって、よく説明が飲み込めなかった。しかも、携帯電話を長く大きくしたような形状で、持ってるだけで疲れてしまう機器だった。

 あとは、モディリアニ『ピンクの服の少女』などがあるアングラドン美術館、ボッティチェリ『聖母子』などがあるプティ・パレ美術館を見る。特に後者は15世紀のアヴィニヨン派の絵画を見ることができて興味深かった。

 アヴィニヨンは本当にこじんまりした町で結構気に入ったのだが、ただ食事にだけは恵まれない一日だった。特に駅近くのレストランで食べた夕食は、いかにも観光地と思わず言いたくなるような味で、辟易してしまった。

8月27日(火)
 このところの日本ではヨーロッパ中部での記憶的水害のニュースが連日流れていたようで、北欧旅行中のこちらの安否を心配している旨を記したメールを何通かいただいたのだが、こと北欧に関しては、水害の被害等はまるっきり関係ないみたいだった。旅行中も、ノルウェーのヴォスで夕食を取っている時いきなり夕立のような強い雨が降ってきたことはあったが、あとは晴天に恵まれ、旅程を終わらせることができた。

 しかし、パリは今日も朝から雨が降ったり止んだりしている。気温も低く、街ではコートやジャンバーを着ている人まで見かけるから、もう10月か11月にでもなった気がしてくる。もう少し夏の光のなかにいたい。そんな思いに突き動かされながら、明日から南仏に出掛ける。
8月26日(月)
 Paris Vision のモン・サン・ミシェル行きの観光バスに乗る。モン・サン・ミシェルに行く観光バスは各社出ているが、Paris Vision の特色は、途中14世紀に建てられたカルージュ城でのブランチが付いていること。朝7時15分出発、カルージュ城到着は10時30分。日本語ガイド付きの観光バス乗ると昼食のテーブルも日本人だけで囲むことになり、なかには自己紹介をしようなどと言い出す人までいて閉口してしまうのだが、今回は自由着席。しかし、途中トイレ休憩もなかったので、先にトイレに寄ってから遅れてブランチ用の部屋に入ると、日本人の若い女性7人だけが腰掛けたテーブルに席が一つ空いているだけ。気が詰まる思いで、うつむきがちにブランチを食べた。

 ブランチの時間にはすでに雨が降り出し、その後も雨はほとんど止むこともなく、天気には恵まれなかった。おまけに帰途には、自動車事故による渋滞に巻き込まれ、予定より30分以上帰着が遅れた。9時過ぎのパリはすでに暗い。いつしか陽の出る時間も短くなっていることを実感する。
8月25日(日)
 ヨーロッパにおける「少女文化」の有無について調査せよ。これが、目白大学の久米依子さんからの厳命である。明治期日本における「少女小説」ジャンルの形成に関する優れた論考を書かれている久米さんは、日本近代文学会11月例会で発表をすることになったそうだ。テーマは「「少女小説」の生成と変容」。発表者は他に『女の首ー逆光の「智恵子抄」』の黒沢亜里子氏と『少女領域』の高原英理氏。う〜ん、豪華だ。こっそり帰国して聴きに行きたいくらいに。

 久米さんの発表は「構成される「少女」ー明治期「少女小説」をめぐって」という題で、「少女」に対するセクシャリティの形成と連動した形でなされる「少女小説」の生成過程を論じるのだと言う。近々会報に載る発表要旨の原稿も見せてもらったのだが、そこから察するには、均質な範型が初めから存在していたと見誤れかねない「少女小説」なるものの内実を、読者論的なアプローチが挙げてきた成果を援用しつつ、つぶさに微分化してゆくことに発表の主眼があるらしい。つまりは「少女小説」を含む「少女文化」を自明なものとみなすのではなく、あくまでも日本の近代化の歴史に即して、徹底的に相対化し歴史化するプロセスを一度踏もうとなさっているのだろう。となれば、発表内容とは直接関わらないとしても、ヨーロッパでの「少女小説」や「少女文化」の状況について興味を持たれるのも当然であるに違いない。

 マレ地区にある人形博物館。1860年頃からほぼ百年間の人形を集めたこの小さなミュージアムを見に行こうと思ったのは、ドールズ・ハウス(人形の家)に代表される大人たちのものであった人形が、いつから子供たちの、とりわけ少女たちのものとなったかが掴めるのではないかと思ったからだ。展示と説明プレートから推察すると、1860年代の人形はまだ女性の形を象ったおそらく大人の鑑賞用(?)のものばかりなのだが、1798年の万国博覧会に出された「Bebe」(eには共にアクセント記号)、つまり赤ちゃん人形の登場によって、人形の歴史は大きく変わってゆくようだ。そこから、女の子がままごと遊びにつかう着せ替え人形が派生してくる。人形は家庭の主婦としてジェンダー化された大人の女性のあれこれを模倣し反復する教育装置ともなってゆく。

 とここまで書いたことは、日本でも本を見れば調べられる程度のことに過ぎず、久米さんが知りたいと思っていることの一端にさえつながっていないだろう。パリでは、例えば書店を覗いてみても、日本のように少女マンガがずらっと並んでいることはない。だが、そのことから直ちに、西洋には日本のような「少女文化」が存在しないと即断することはできない。人形博物館の、日本人である自分には少し不気味な感じさえする表情で、様々な衣装を華麗にまとった西洋人形を見ていると、ヨーロッパでも「少女」をめぐる欲望の眼差しが幾重にも錯綜していることは、はっきりと感じられる。
8月24日(土)
 ともかく生活に必要なあれこれを買わなければならない。そんな思いに駆られて、高速地下鉄A4番線で大型ショッピングセンターのヴァル・ドーロップへ。終点ディズニーランド・パリの一つ前で下車。駅前からガラス天井のパサージュの商店街を歩いてゆくと、最近できたアウトレットショップ村ラ・ヴァレーに到る。小さな家の形をした店舗が何軒もあって、昨シーズンのものを主としたブランド品が少なくとも30%は引いた格安価格で売られているようなのだが、まだまだこれからといった感じは拭えない。サイズが合うものも少なく、ざっと見て回るだけで終わる。ヴァル・ドーロップにも多くの店舗が入っている。特に郊外型の大型スーパーAuchan(オーシャン)の売り場面積は広く、何でもある感じの食料品売り場など回っているだけで、目がくらくらしてくる。しかし、必要なものとはなかなか巡り会わない。結局、たいした買い物もせず帰宅せざるを得なかった。
8月23日(金)
 二日続きのシャルル・ド・ゴール空港。第2ターミナルのホールFに4時半少し前に着くが、なにやらしきりと「ムッシュー、マダム、ポワシー(?)」を呼び出すアナウンスが流れている。どうも26番の荷物台に不審なケースが置き去りになっているらしい。まもなく機関銃を肩にした男性を含む数人が荷物台の方へ向かうと共に、到着ゲートが封鎖。その前にテープが貼られ、そこより奥のホールには誰も入れなくなる。すでに到着している乗客は入国審査のところで足止めされているのか、ガラス越しに近くの荷物台のところを見ても誰も出て来てはいない。

 午後5時過ぎ、26番の荷物台の方向から爆発音。ほどなく到着ゲートも開き、空港は普段通りの喧噪さを取り戻す。こまかいことは、何の説明もないのでわからない。あの爆発音が荷物に仕掛けられた爆弾によるものなのか、それとも爆発物処理班の作業によるものなのか、実際に現場を目撃した訳ではないので、それも判然としない。ともあれ、はからずも遭遇したテロ騒ぎは一段落した。
8月22日(木)◆北欧旅行日記◆
 12日間に渡る今回の北欧旅行は、正直少し長すぎた感じがする。人と一緒に行動することから来る気疲れもないではなかった。原さんもさぞ疲れたことだろう。旅行中、幾度かもうパリに帰りたいと思った。日本へのホームシックは感じないが、それでも人はどこかに自分の居場所を求めてしまうものらしい。

 10時過ぎにホテルをチェックアウトし、空港へ向かう。13時25分オスロ発コペンハーゲン行に搭乗。16時25分コペンハーゲン発パリ行に乗継。18時30分頃、パリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立った。パリ市内へと向かう高速地下鉄の車内は、ラッシュと重なる時間のせいか存外に混んでいる。北欧と比べて、人々の目線がどこかきついのを感じる。

 北欧は噂通りに治安がとてもよさそうで、少なくとも表面上異人種に対する差別的な眼差しを感じることもなかった。原さんともよく話したのだが、街を歩いていても異国情緒みたいなものが感じられず、ほとんど東京にいるのと同じような感覚だった。しかし、パリは違う。どちらがいいという問題ではなく、様々な困難さをあらわに抱えた空間がいまのパリの街なのだ。しばらくは日本語と片言の英語しか喋らなかったため、ほんの簡単なフランス語さえ頭からすっかり抜け落ちてしまったようだ。それでも今日からはまた、この街のなかで生きてゆかなければならない。
8月21日(水)◆北欧旅行日記◆
 早朝7時少し前にオスロ中央駅に到着。原さんはこの後、13時35分発の航空機に乗り、コペンハーゲン乗換で日本へと帰る。当初は明22日にオスロを立つ予定で、こちらもそれに合わせて22日の航空券をおさえたのだが、その日のコペンハーゲン発成田行の航空機が満席で、キャンセル待ちしていたけれども、ついに席が取れなかったというのだ。ともかく駅でこれまでの精算。原さんが日本で購入してきてくれたシリア・ラインとフィヨルド観光チケットの代金分、及び前払いしてくれたこちらのホテル代分を現地通貨で払うという約束に即して、立替たりカードで支払ったりしてきた分を合算。予想に反して、こちらが払った合計額が原さんに立て替えてもらった分をオーバー。超過分を日本円で受け取る。それを踏まえた総括。いい古されたことだが、やはり北欧の物価は高い。実はノルウェー・クローネのレートを勘違いしていたこともあるのだが、予想以上の出費に二人して愕然とする。

 オスロ市庁舎のムンク『人生』を見学し、お土産の買い物につき合い、10時半過ぎに飛行場行きの列車に乗る原さんを見送る。その後は、見残したオスロ市内の博物館見学。24時間有効のオスロ・カードを購入したので、少しハードでも精力的に廻ることにする。まずは、ムンク美術館近くのオスロ大学付属の植物園内にある動物学博物館。哺乳類や鳥類を中心とした多くの剥製標本が集められ、生息地別の展示などもある。こちらが知る限りでは、オスロ市内に大きな動物園はない。とすると、オスロの子供たちはここを動物園代わりに訪れるのだろうか。続いて、王宮近くのイプセン博物館へ。イプセンが最晩年に住んだ家が保存してあり、12時、13時、14時とガイドツアーの形で見学できる。13時のツアーまで30分弱時間があったので、受付のある地上階のパネルを説明文のコピーを束ねたものを読みながらじっくり見て、イプセンの生涯について学習。13時少し過ぎから、いよいよ建物2階のイプセンの旧宅の見学。自分以外にはアメリカ人と思われる男女1組だけ。受付にいた女性が英語でいろいろと説明してくれる。予習の甲斐があったか、とてもわかりやすく面白かった。イプセンはここから毎日11時半に出発して、グランドホテルの地上階のグランカフェに行き、いつも同じ席について彼用のドイツビールを飲んでいたのだという。グランカフェには文学者たちのサロンだったその当時の様子を描いた大きな絵が掲げられているのだが、その絵葉書もここで購入した。

 さらに国立劇場前から30番のバスに乗り、ビィグドイへ。ここには5つも博物館が集まっている。まずはノルウェー版スカンセンと言うべきオープンエアーのノルウェー民俗博物館をざっと見学。300メートル先がヴァイキング博物館。発掘され復元された船3隻と発掘品が展示されている。そこから歩いてコンチキ号博物館。隣りのフラム号博物館。さらに隣りのノルウェー海洋博物館を見学。帰りはフラム号博物館前の船着場から夏だけ出ている市庁舎前行きの連絡船に乗る。そしてホテルにチェックインして北欧最後の夜をゆっくりとすごす、とくれば万々歳だったのだが…。


 ホテルでチェックインしようとするなり、予約が入ってないと言われた。しかも、今日はすでに満室だとも。19日に泊まったホテルに、フィヨルド観光に出掛ける前、21日の宿泊の予約を追加で入れておいたのだ。ところが、当ホテルのシステムでは、19日にチェックインし21日、つまり今朝チェックアウトしたことになっているとの返事。20日の朝、チェックアウトしようとした時、コンピューターがダウンしていて電話代が払えなかったのだが、その影響なのだろうが…。

 今回の旅行では、コペンハーゲンでもチェックアウトの際に誤った請求書を渡されるなどのトラブルがあった。大型ホテルチェーンの一つで、レセプションの人が頻繁に変わる。コンピューターが打ち出したデーターをそのまま鵜呑みにしてしまう。全体を把握している人もいないので、どこにクレームをつけたらいいのかも定かではない。北欧に限ったことではないが、コンピューター処理へと移行したシステムに、人がついていけてない感じだ。しょうがないので、別のホテルを紹介してもらい、そこへ向かう。

 実は19日に泊まったのは、イプセンゆかりのグランカフェがあるグランドホテル。20日の朝は慌ただしくて、グランカフェでの朝食をゆっくり楽しめなかったので、明朝こそはイプセンらを描いた壁の大きな絵を見ながら味わいたいと、楽しみにしていたのだ。今回のこと自体よりも、こうしたことにぶつかると、次もまたこのホテルに泊まろうと素直に思えなくなってしまうのがかなしい。個人的な好みを言えば、ラディソン系列の機能性重視の高級ホテルよりも、古いヨーロッパ型のホテルの雰囲気を残したグランドホテルにより好感を覚えていただけに余計そう思う。原さんはこちらの苦境も知らず、今頃は日本でゆっくりくつろいでいるんだろうなと、つい逆恨みめいた感情も抱きながら、床についた。
8月20日(火)◆北欧旅行日記◆

 朝8時前にホテルを出て、フィヨルドを見に遠出をする。原さんが日本の旅行店で取ってくれたのは、"Norwey in a Nutshell"というフィヨルド観光チケットで、オスロからミュルダールまで鉄道、ミュルダールからフロムまで登山鉄道、フロムからグドヴァンゲンまで船でフィヨルド観光、グドヴァンゲンからヴォスまでバス、そしてヴォスから再びオスロへと鉄道で戻るコースになっている。ただ問題は、オスロを朝出てもヴォスに着くのは夕方で、その日のうちにオスロまで戻って来れないことだ。チケット自体は2ヶ月も有効期間があるようなので、普通は途中で一泊するか、あるいはヴォスから鉄道でノルウェー海の港町ベルゲンまで出て、そこで泊まるものらしい。しかし、原さんの日程的な都合から明朝までにはどうしてもオスロに戻ってこなければならない。旅行社のくれた行程表には、ヴォス到着18:15、ヴォス出発0:15、オスロ到着6:58、とぞっとするようなタイム・スケジュールが書いてある。だがともかく、これで行ってみるしかない。

 昨日に続けて、今日も列車がトラブルを起こした。ミュルダール到着予定時刻の12時50分を過ぎても、まだノルウェーの鉄道駅としての最高地点であるフィンセ駅を通過していない。フィンセでは車内放送で最高地点に到達したことを知らせてくれるはずだからだ。結局、ミュルダール駅に着いたのは40分遅れの13時30分頃。行程表にある12時55分の登山列車はすでに発車してしまっていて、次の列車は14時28分とのアナウンス。困惑顔の多くの観光客と一緒に標高867メートルの山頂の駅で1時間を過ごす。ようやく登山列車フロム線に乗車。絶壁を横に見て走る列車は、途中ヒョース滝で途中停車するなど見所も多いのだが、トンネルを通っている時間も長く、つい眠くなってしまう。約1時間でフロムに到着。今度は船が待っていてくれたのか、"Norwey in a Nutshell"のチケットを持っている人は、1番の船に乗るようにアナウンス。15時40分過ぎ、フロムから出発。フェリーは静かに流れるように進んでゆくが、だんだん速力を上げているためか、風が強くなる。その風に抗うようにして、カモメが船のすぐ近くまで飛んできては、観光客が差し出すお菓子を鮮やかにくわえて離れてゆく。決して天気に恵まれたとはいえず、また時期的に雪がまるっきりと言っていいほどないので、想像していたフィヨルドの風景通りではないのだが、おそらく季節毎にここは新たな表情を見せるところなのだろう。

 17時35分、もともとの予定より35分遅れでグドヴァンゲン到着。ヴォス行きのバスが船着場の前で待っていて、すぐに出発。バスも途中スタルハイムのホテル前で一時停車。ヴォスの駅に着いたのは、18時55分。それでも、0時20分発の列車までは、持て余すほど時間がたっぷりあるので、まずはヴォスの町を散策。1250年に建てられた木造の集会場フィネスロフテットと1277年に建てられた石造りのヴォス教会を外から見て、カフェ兼レストランで夕食を取り終わって午後10時。駅に戻るが、構内のカフェはすでに閉まっていて、待合室のベンチに腰掛けるしかない。。駅前のガソリンスタンドとくっついたコンビニで、閉店時間の11時少し前にミネラルウォーターを仕入れきて、それからさらに待つこと1時間半。ようやくオスロに向かう列車の車中の人となった。

8月19日(月)◆北欧旅行日記◆
 コペンハーゲンからオスロへと飛行機で移動。原さんの日程の都合上、どうしても今日中にムンク美術館と国立美術館をまわらなければならない。どちらも開館時間は18時までだ。ところが、焦る気持ちをあざ笑うように、空港からオスロ中央駅へと向かうエアポート・エクスプレス・トレインが途中で立ち往生。中間駅で次の列車に乗り換えることとなる。

 ホテルにチェックインした後、早々に地下鉄でまずはムンク美術館へ。700点以上もあるらしい収蔵作はその折のテーマに併せる形で、頻繁に展示替えされる。最初の部屋に最もムンクらしいと日本でイメージされる有名な作品が並ぶ。しかし、だんだんと展示を見てゆくうちに、そのイメージは徐々に変更を余儀なくされる。『叫び』に代表されるように、ムンクは人間の孤独や絶望を描いた北欧の暗い画家といったイメージが強いはずだが、実際には明るい色調の絵も決して少なくはないのだ。後半生に描いた多くの裸体画。モデルの女性たちの写真を並べた通路を通って、その裸体画の部屋に入りこむと、そこにはまた別のムンクがいるようで、心惹かれてならなかった。

 研究目的で来ている原さんは、熱心にメモをとりながら作品を追っている。瞬く間に時間は過ぎてゆく。図版類を買い込み、いそいそと国立美術館へ向かうことにする。ところが、今度は地下鉄が来ない。反対方向へと向かう方はひっきりなしにやってくるのに、中央駅方向へのが全然やって来ないのだ。都合15分くらいは待たされただろうか。

 国立美術館には主にノルウェー絵画が3階にわたって展示されているのだが、ムンクだけの作品を集めた部屋がある。まるでダイジェストのようにムンクの代表作だけが展示してある。入館無料ということもあって、その部屋だけは混んでいる。しかしなあ、『叫び』の前でポーズを取りながら、シャッターたいて記念写真を撮る日本人観光客の騒々しさだけはやはり堪えがたいと思うぞ。日本人だけ破格の入場料をとればいいのに、とやくざなことを考えてしまった。


 ホテルに戻って、買い込んだ画集類を部屋に置いた後、オスロの街に食事に出た。現代美術館の手前のエンゲブレット・カフェ。イプセンが通った店としてはグランドホテル地上階のグランカフェが有名だが、この店にも足繁く通った時期があると言う。テラスはカフェで地元の人たちがビールを飲んでいる。中がレストランで、ノルウェー料理にフランス料理のテイストを加えているとガイドブックにはある。原さんも今日は殊勝にアントレとプレートとを1品ずつ。それでもワインはまた、高い白を選ぶ。ギャルソンが英語にメニューを訳してくれたので、それを手掛かりに注文。しかし、せっかく勧めてもらった料理が、今日はあいにく材料がないと後で断わられてしまい、少し残念。前菜のマグロのカルパッチョは絶品。メインのソースは少しくどいが、味わい深い。明日はフィヨルド観光で朝が早い。もう少し飲みたい気分をぐっとこらえて、ホテルの部屋に戻る。
8月18日(日)◆北欧旅行日記◆
 オーデンセ動物園に行く。自分の希望でキルケゴールゆかりの地をまわる分、オーデンセはこちらに任せるというので、原さんにもつき合ってもらうことにする。娘を連れてきてもここ来ただろうなあ、などとのたまう原さんの方がずっと喜んでいた気もするのだが。

 アンデルセン子供時代の家に寄り、アンデルセン公園を見た後、オーデンセ川沿いに少し歩いてムンケ・モーゼという場所へ。ここから動物園行きの観光船が出ているのだ。60人ほど乗れる船はたちまち満席に。地元の人のグループが何組もできていて、、出船早々にシャンペンで乾杯したり、飲み物やサンドイッチをまわしたりながらワイワイ盛り上がっている。約25分で動物園内の船着場に到着。

 オーデンセ動物園は規模こそ大きくないが、ある意味ではとても動物園らしい動物園だ。ゾウはまだいないが、主だった役者は一通り揃っている。ライオンやチンパンジーはかなり広いスペースで飼育されており、逆にトナカイやアシカもいるが特にスカンジナヴィアの動物に拘るという感じはない。興味深いのは、各動物毎にスポンサーがついていることで、動物名とスポンサー名を併記してずらっと並べたプレートがある。しかし、ここの目玉はと言えば、アンデルセンの国の動物園らしく、ジュゴンだ。南アメリカの動物を集めた温室風の展示室をずっと進んでいくと、まず上から、次には水中から数匹のジュゴンを見ることができる。そして次の部屋がペンギンで、屋外飼育ではなく、南氷洋の雪原を再現した飼育スペースをガラス越しに見ることになる。ここでもキリンの飼育舎の前に身長計が置いてあるなど、家族連れで楽しめる工夫がみてとれる。

 再びオーデンセの町に戻り、アンデルセン博物館へ。生涯を追う形での展示。各国の翻訳書を集めたライブラリーなどもある。夕刻、オーデンセ駅へ。オーデンセの地ビールはアルバニというのが有名で、これは昼食の時に飲んだのだが、もう一つジラフ・ビールという銘柄があることを知り、ぜひ飲んで帰りたかった。幸い駅舎の中にキリンの像を店先に置いたパブを発見。列車が着くまでの時間、ああだから船着場から動物園に上がって最初に見る動物がキリンだったんだなあなどと、たいして根拠のないことを考えながら、ジラフ・ビールでおいしく喉を潤した。
8月17日(土)◆北欧旅行日記◆
 午前中からコペンハーゲン市内の美術館二つをまわり、午後はキルケゴールがよく訪れたというデュアーハウンの鹿公園、そしてアンデルセンの生まれ故郷であるオーデンセに移動し宿泊、というのが今日の予定。まず朝10時過ぎにニュー・カールスベア美術館、つまりカールスバーグのビール会社の社長が開設した美術館へ。正面から入ると熱帯植物の植えられたパティオがあり、まるで巨大な温室のような雰囲気がある。エジプト、ギリシアなど古代からの彫刻を中心とするコレクションで有名だが、デンマーク絵画やフランスの印象派以後の絵画も収められており、特にゴーガンは30点以上の作品がずらっと展示されている。

 お昼過ぎからは、国立美術館へ。イタリア・ルネッサンス以降のヨーロッパ絵画がずらりと並んでいる。デンマーク絵画が中心ではあるが、初期ネーデルランド絵画、オランダ絵画も数多い。クラナッハは特別展の形で公開されていて、感動的だった。赤煉瓦造りの本館の後ろに白亜の新館が続き、現代美術はその2階、3階にテーマ別に展示されている。が、すでに本館の豊富な展示を見ただけで息切れ状態。デュアーハウンに向かうだけの十分な時間もなくなってしまい、駅から直接オーデンセーにインター・シティの特急で向かうことにする。

 ラディソンSASホテル・H.C.アンデルセン。コペンハーゲンのロイヤルと同じラディソン系列だが、ここはずっとこじんまりしていて、親しみやすい。部屋に入ると、ベットの後ろの壁に鶴と梅と牡丹とをあしらった大きな扇が掲げられている。夕刻の町へ散歩に出て、結構いい雰囲気の地元のレストランに食事に入った。我儘者の原さんは、食事は前菜のシュリップ・カクテルとピンク・キャビアしかいらないと言う。他に料理は?と不審顔のウェイトレスに、後でまたメインは取るからと言って、それだけ注文。そしてワインはリストの中でず抜けて高価なシャブリ。正直ここまで来てフランスの白ワインに高いお金を払いたくもないのだが、つきあいだからしょうがない。食事の後ホテルに戻り、そのなかのカジノをのぞいてみる。清楚な中国人女性ディラーのルーレット台で、原さんがしっかり賭け金を4倍に増やすのを目撃した。
8月16日(金)◆北欧旅行日記◆
 原仁司さんの北欧旅行の目的は、実存主義及び表現主義と日本文学との関係についての基礎調査で、公的出張のため帰国後に論文を書く義務があるのだと言う。ということで、今日は哲学者のキルケゴール関係の場所をまわるのにつき合うことになった。彼がぜひ行きたいというのは、キルケゴールが実存の原体験を得たというギルべーアの断崖という場所で、コペンハーゲンと同じシェラン島の北端ギーレライエから2、3キロのところにあるのだと言う。もちろん、日本語の観光ガイドには何の説明も載っていない。果たして交通機関があるのかさえ分からないので、まずチボリ公園横のツーリスト・インフォメーションで、今日のホテルを紹介してもらうのと併せて、行き方を聞いてみたが、どうやらヘルシングーアからギーレライエまではミニ・トレインが出ているらしいとわかった。

 コペンハーゲン中央駅から国鉄に乗って、ヘルシングーアへ。ここには『ハムレット』の舞台となったクロンボー城がある。城内の教会、地下牢、王室、海洋博物館の共通入場券が60デンマーク・クローネで、どれか1つか2つだけの入場券もある。しかし、この城に来て、地下牢を見学しないのはやはりもったいないだろう。デンマークの伝説上の英雄ホルガー・ダンスクの像もあるこの地下牢は思いのほかに広く、また不気味さを漂わせているからだ。

 城近くのオープン・エアーのカフェで軽食。デンマークでは主要都市毎にビールが違う。日本でも有名なカールスバーグとツボルグはコペンハーゲンのビール。ここヘルシングーアの地ビールはヴィブローといい、それをおいしく飲んだ。そしてその後、2両しかない列車に乗りこんだ。

 列車の終点がギーレライエ。着いたのはいいが、断崖へはどう行けばいいのか皆目わからないので、駅のツーリスト・インフォメーションで尋ねる。しかしギルべーアと言っても、発音が悪いためか全然通じない。海沿いの断崖に行きたいのだと言っても、泳ぎにきたのかと問い返される始末だ。が、キルケゴールの名前を出すと、にわかに反応が変わった。ああそれならここだろうという感じで、地図を差し出される。見ると地図の左上の端にキルケゴールの名前が書かれている。その地図を片手に、駅から北西へと向かい、海岸沿いの高台の歩道を30分ほど歩く。左手には別荘が建ち並び、空にはハンググライダーが飛んでいる。夏の光はまぶしく、北の海の青さも日本とは違う。やがて別荘地の端の森に行き着くと、そこにキルケゴールの名を刻んだ大きな石があった。確かに切り立つような断崖の上にその石はあった。

 再びギーレライエの駅に戻り、今度は別の列車でヒレロズへ。キルケゴールは幼少の一時ここにいたことがあるという。キルケゴール家の代々の墓がある教会と、キルケゴール通りという名前の通りへ。駅の地図を見てこの二つは案外簡単にみつかった。ところが、ヒレロズで最も有名なフレデリクスポー城がみつからない。地図を見誤って方向を勘違いしてしまったせいで、ずいぶんとさまよった。そのせいもあって、当初の予定では最後に行くはずだったデュアーハウンの鹿公園へまわる時間は残っておらず、コペンハーゲンへと直接戻ることになった。


 ところで、今日とてもショックだったのは、手持ちのコンパクトカメラが使えなくなってしまったことだ。実は昨日、人魚の像を撮ろうとした時にシャッターが押せなくなり、電池切れかと思っていたのだが、今日電池を入れ替えても何ら状況は変わらなかった。パリに戻ってから修理に出したとして、それでまた使えるようになるのかどうかも心許ない。国際保証書を用意してこなかったので、修理費もどれくらいかかるか不安だ。それでまた、ライカのコンパクトカメラを持参した原さんが、嬉しそうに何枚も写真を撮るのだ。憎らしくなるくらいに。
8月15日(木)◆北欧旅行日記◆
 コペンハーゲン動物園に行くつもりで駅前から28番線のバスに乗るが、誤って逆方向のバスに乗ってしまい、終点まで行ってしまった。正味約1時間のロス。やがて赤い屋根の一戸建てが並ぶ郊外へと進むと共に、バスには乳母車を押した女性や年取った人々が次々と乗り込んでは数ステーション先で降りてゆく。市街地の若者たちや観光客とは明らかに層が違う。極端な言い方をすれば、北欧の福祉国家としての一面に触れた感じがし、車中いろいろなことを考えてしまった。

 さて、フレデリクスベア公園の一角にあるコペンハーゲン動物園は、1859年創設とヨーロッパでも古い動物園の一つだけに、ここではゾウ、サイ、カバ、ライオン、キリンなどの熱い地域の大型哺乳類も多く飼育され、特に珍獣オカピが目玉となっている。市内の動物園だけに必ずしも飼育スペースのすべてが広々としている訳ではないが、動物を象った子供向けの質問板があちこちにあったり、中には体重計を置いてあったりと様々な工夫が見られる。園内では、Zoo Tattoo といって、簡単に動物風のメイクを施してくれたり、絵柄を皮膚にプリントしてくれたりするコーナーもあった。

 同じフレデリクスベア公園内のストーム・ピー博物館を覗いた後、北東に移動し今度は植物園へ。そこからしばらく歩いて歩行者天国のストロイエを歩いて、今日の宿泊先であるホテルへと戻った。


 待ち合わせしやすいようにと、今日のホテルは亜細亜大の原仁司氏に日本で取ってもらった。コペンハーゲン中央駅前のラディソンSASロイヤルホテル。ラディソン系列のSASというのは、北欧主要都市には必ずある高級ホテルチェーンで当然値段も相当に高い。もちろんめったに来れない海外だから、それなりの贅沢をしようというのは分かる。しかし、高級ホテルは普通旅程の最後に泊まるもので、初日からこれというのはどうしたものか。最初に高いホテルに泊まってしまうと、翌日からランクを落とすのが辛くなるはずだからだ。

 ともあれ、午後5時過ぎに原さんも無事ホテルに到着。まだ日は高いので、まずキルケゴールとアンデルセンの墓のあるアシステンス教会墓地へ。パリのモンパルナスやモンマルトルの墓地と違って、所々に木立がある芝生をひきつめた空間に墓石が点在しているのだが、キルケゴールの墓を探し当てるのにずいぶんと苦労した。その後、クリスチャンスボー城、旧証券取引所、ニューハウン、アメリエンボー宮殿、聖アルバニ教会、ゲフィオンの泉(噴水は止まっていたが)などの名所を見やりながら、暮れなずむ街中と海のほとりを人魚の像まで歩く。

 最後は中央駅前のチボリ公園へ。夜のチボリは絶対お勧めだと思う。日本の遊園地に比べ、全体に暗いのだが、その分照明が本当に引き立つのだ。チボリでは夜11時半を少し過ぎた頃から、十分弱だが花火が打ち上げられた。今日泊まるラディソンSASロイヤルホテルの部屋は、高層ビルの15階にあり、チボリをちょうど見下ろす位置にある。従って、花火はちょうどホテルの窓越しのすぐ手前に見ることができた。それだけでも、今日ここに泊まった意味があったと、感動ものであった。
8月14日(水)◆北欧旅行日記◆
 旧市街ガムラ・スタンを散策し、王宮を見学。まだ足の疲れが抜けないので、ゆっくりゆっくりと歩く。最後に国立美術館へ。2階(日本でいう3階)が絵画の展示フロア。18、19世紀のスウェーデン絵画が中心ではあるが、17世紀のフランドル、オランダ絵画や18世紀のフランス絵画も多く展示されている。1階にはモダンなデザインの椅子などが多数展示されていたが、ゆっくり見る時間はなかった。

 午後2時15分発のスウェーデン国鉄自慢の超特急X2000でストックホルム中央駅を出発し、コペンハーゲンへと向かう。昨年の夏、ルンド大学で在外研究をしていた岐阜大学の根岸泰子さんが、X2000でストックホルムへ向かい、そこからシリア・ラインでヘルシンキへとちょうど今回と逆の行程で旅行をなさっている。出発前にメールで色々不明の点について教えていただいたのだが、根岸さんがめちゃくちゃきれいだと絶賛していた車窓の風景は、確かに感動的だ。ほとんど平坦な土地なので、森や湖や田園の風景が流れるように移り変わってゆくのだ。

 やがて列車はスウェーデン最南の都市マルメに到着。そこからは逆方向に走り出し、オーレスン海峡に架かる橋をかなりかかって渡りきった後、デンマーク国内のトンネルの闇の中へと吸い込まれてゆく。左右どちらの車窓から見ても一面の海というのも、印象深いものだった。

 コペンハーゲン中央駅では、まず構内の銀行の自動引き出し機でデンマーククローネの現金を引き出す。実は東京三菱のインターナショナルカードの利用案内の冊子では北欧4カ国は通信事情等が悪く利用状況がよくない地域に入れられていて、少し心配ではあったのだが、別に何ということもなかった。コペンハーゲンの初日だけは、ナイト・アライヴィングに備えてパリの旅行代理店で取ってもらっておいたのだが、地図がわかりにくかったのと、バス付きなのに熱いお湯が出ないのには閉口した。夕食は市役所前広場に面した「コペンハーゲン・コーナー」で、一人では贅沢だよなあと思いながら、ハウスメニューのコースを注文。最初に出てきたパンとブラウン・ビールからおいしくて、時々ギャルソンに日本語で「おいしい?」と問いかけられても素直にうなずくことができる。メインの肉のソースは自分には少し重たすぎたけれども、大満足。明日から合流する原仁司氏は食べ物屋飲み屋にはなかなかうるさいので、いろいろ高いところにつき合わされそうな気もするが、一番おいしかったのはコペンハーゲンで最初に食べたここだったと後から言ったら、どんな顔をするだろうか。いやいやきっと、まだまだおいしいところはたくさんあることだろう。
8月13日(火)◆北欧旅行日記◆
 目覚めると、船は多島海の間を滑り抜けるようにして進んでいる。朝靄のなか、デッキで眺める島々の風景は幻想的な感じさえする。午前9時半過ぎに、と言ってもフィンランドとスウェーデンとでは1時間時差があるため、時計は1時間先に進んでしまっていたが、ストックホルムに到着。船中のインフォメーション・カウンターで、市内の公的交通機関や博物館等が無料になるストックホルムカードを購入できたので、シリア・ラインのトランスファーのバスは利用せず、地下鉄で中央駅に向かうことにする。

 スウェーデンはフィンランドと違って、ユーロの流通国に入っていない。どこかでスウェーデン・クローネに両替しなければならないのだが、船中ではユーロが使えたし、トランスファーのバスもユーロで乗ることができる(2.5ユーロ)。あわてて両替する気遣いなく市内に向かい、中央駅構内の大手両替チェーン店Forexで両替することができた。銀行よりもここの方がレートがいいというのだ。少し古い情報なので正確はどうかはわからないが、手数料は幾ら替えても、何カ国かの通貨を両替しても、一定額までは一律20クローネ、最大40クローネらしい。トラベラーズチェックだと1枚あたり5クローネ、最大40クローネになるようで、場合によっては現金の方が有利になる。金額の何%という形ではないので、残してしまった他国の通貨と日本円とを合わせて、Forexで必要な額だけ両替するのが賢いやり方ということになるだろうか。

 細々とこんなことを書いたのは、実際に数カ国を旅する場合、どこでどう現地通貨に両替してゆくかは、節約型の貧乏旅行者にとってかなり重要な情報だからだ。けれども、ユーロ流通圏の国だけを移動するのであれば、こうしたあれこれに頭を悩ます必要はなく、旅行者にとっての恩恵は大きい。だからといって単純にユーロを賛美する気持ちなどないのだが、久々に両替のあれこれに気をつかい、これがユーロ圏の旅で失われてしまったものなのだと妙になつかしい気分にさえ駆られてしまった。

 ホテルも前日と同じように、中央駅構内のホテル案内所で紹介してもらう。駅に近いシングルで安いのをと頼むと、迅速に対応してくれた。二日続けてこうまであっさり宿がみつかると、北欧のホテルは高くて満室が多いというのは、日本の旅行業者が作った神話なのではないかという気がしてしまう。実は昨日のも今日のも、『地球の歩き方 北欧』にも載っているホテルなのだ。しかし、値段が手頃でリピーターが多いとか、部屋数が少ないので早めに予約をと記されていて、当日ではとても無理だろうと直接交渉をする気にはなれなかったところだ。しかも、どういうシステムなのかはわからないが、宿泊料は紹介手数料を含めても、『地球の歩き方』に記載されている最低料金よりも若干だが安い。もちろん自分の狭い体験だけで、だから北欧旅行でもホテル予約はしなくて大丈夫などとは書かないし、責任もとれないけれども。


 まずはホテルに近いストリンドべリイ博物館へ。建物の4階(日本でいう5階)に彼の寝室やダイニングや書斎が保存されており、他の部屋は展示フロアとなっている。劇作家としてだけでなく、小説家、画家、写真家でもあったストリンドべリイの多面的な活動を伝えようとする展示は、英語の解説プレートもあってわかりやすい。

 地下鉄に乗り、ガムラ・スタンの付け根にあたるスルッセンへ。そこから船でスカンセンのあるユールゴーデン島へと渡る。連絡船はチボリ公園のそばに到着。まずアクアリアへ。水族館と言っても、水槽がずらりと並んでいる訳ではなく、入場するとすぐ南米の熱帯雨林を再現したコーナーがあり、10分おきにいきなり暗くなっては雷鳴がとどろきスコールが降り出すという仕掛けになっている。その先の方には北欧の渓流を再現したコーナーもある。

 近くのコンサートホールで開催中だったマリリン・モンローをモチーフにしたアーティストたちの作品の展示を見たあと、いよいよ世界最初の野外博物館だというスカンセンへ。広い敷地内に1600年代頃からのスウェーデンの農家などが幾つも保存されている。昔ながらに商品を商っていたり、衣装を着て生活を再現してあるところもある徹底振りだ。日本でも各地にある民家園を大きくしたものだと言えばいいかも知れない。ただ、おそらく民俗学が発見し観光資源としての価値が付与されて保存されるようになったのであろう日本のそれに対し、ここは1891年にすでにオープンしている。創設者のハッセリウスはスウェーデンの工業化に伴う伝統文化の喪失を嘆き、ここを作ろうと決意したという。グローバルな工業資本主義の浸食が、逆にナショナル・アイデンティティの創造を促したというところまではよくある図式だと思うが、問題はハッセリウスとその協賛者たちにとってそれが家族で楽しむことのできる巨大な娯楽施設の建造という形をとったことだ。

 スカンセンの北の方は動物園になっている。といっても、アフリカなど熱い地域の動物は一つもいない。ムース(大鹿)やクマやオオカミなど主にスカンジナヴィアに生息する動物たちが広大な土地に自然放牧式に飼育されていて、見学者は岩山で悠々とすごす姿を眺めたり、森の上に作られた展望台から姿を現わすのを待ち受けたりするようになっている。それはある意味で、日本人が普通考える動物園のイメージを根底から突き崩すようなものを秘めているように思えた。
8月12日(月)◆北欧旅行日記◆
 コルケアサーリ島、すなわちヘルシンキ動物園。ここが今回のフィンランド訪問の最大の目的地。というのは言い過ぎとしても、何しろ島全体がそのまま動物園なのだ。マーケット広場から連絡船で約10分。寒冷地ゆえゾウ、サイ、カバ、キリンといった動物は現在飼育されていないが、ライオンやラクダはいる。冬はどんな風にすごしているのだろう。島に中央に最近できたばかりのアフリカシアという、温室に砂漠や熱帯雨林の小動物が飼育され、サボテンなどがある温室。そこからアマゾニアという温室へもいける。

 マーケット広場に戻って、次はスオネンリンナ島へ。フィンランド南海岸を守る重要な要塞だった4つの島の総称。現在は幾つもの博物館やレストランなどがあり、ヘルシンキ市民の行楽地となっている。おもちゃ人形博物館としてプライベートなコレクションを公開しているカフェにまず行く。船着場から10分ほど歩いた島と島をつなぐ橋のたもとには、インフォメーションの建物。奥の方はスオネンリンナの歴史を紹介した博物館になっていて、毎定時から30分弱の歴史を紹介したビデオも上映している。日本語の字幕(?)もあるらしく、これから見ればよかった。今回は時間がなく断念。島内には戦車や戦闘機をそのまま展示してある軍事博物館や、艦内を見学できる潜水艦べシッコなどもある。

 エスプラナーディ公園のカッペリ(1831年創業)のカフェで軽食をつまみ、ストックマン(フィンランド最大のデパート)の土産物コーナーでムーミン柄のネクタイを買ったら、もうヘルシンキにいられる時間がなくなってしまった。


 午後5時、ヘルシンキとストックホルムを結ぶシリア・ラインの豪華客船セレナーデ号が出航。6万トン近い大型フェリーで、中央は吹き抜けになっており、レストラン&バーやショッピング・アーケードが並んでいる。その上の階にはカジノ、下の階には免税店やビュッフェと、大型ホテル並みに何でも揃っている。実は北欧に行く以上はどうしてもこのバルト海横断のクルーズに乗りたかったのだが、パリ市内の日系旅行社のどこに当たっても扱っておらず、無理言って原さんに日本の旅行社でチケットを取ってもらったのだ。

 1日違いで、というのは明日13日からは通常料金に戻って値段が下がる(ただし金曜だけは上がる)のだが、まだハイシーズン中なので「3等船室」というのをとってもらった。それでも、4人使用可能の船室を1人で使うのだから、代金は3万円を超える。

 けれどもチェックインの際、同じ料金でいいからと、窓なしのツーリストクラス(これが正規の言い方)の部屋から、内側向き窓のプロムナードクラスの部屋に変更してくれた。8831号室、というのは8階の海側窓のシーサイドクラスとプロムナードクラスとが向き合って並んだところの一番奥の部屋。内側向き窓のすぐ下には船中央吹き抜け端のバーのカウンターがあり、さらにその先は船後方に開かれた大きなガラス窓になっている。つまり、内側向き窓でも船から遠ざかってゆく島々を見ることができる(大きなスクリーンを下ろしてテニスの試合の中継が始まるまでは)。多少無理してでも海側窓のシーサイドクラスを取るべきだったと後悔していただけに、思わぬ拾い物をした気分だ。

 船室は残りのベット3つが列車の寝台車のような感じでたたまれた状態で、1人でいる分にはゆったりしている。シャワーが使えるのでまず日中の汗を落としてから、下のバーでビールを頼み、そのグラスを持ってデッキへ出、海風に当たりながらヘルシンキの街が遠ざかってゆくのを眺めた。ちょうどお風呂上がりのビールを飲むような感じでこれだけの景色を堪能できるのだから、贅沢と言わずして何と言おうか。
8月11日(日)◆北欧旅行日記◆ 
 パリからスカンジナビア航空でヘルシンキへ。途中コペンハーゲンで乗り継ぐが、どちらのフライトも軽食を食べているうちに目的地近くまで来てしまう。

 ヴァンダー国際空港のトラベルポイントで市内の安いホテルを紹介してもらう。朝食付きシングル60ユーロ+手数料5ユーロ。北欧のホテルは高く、しかも予約でいっぱいと聞いていたので、まずはほっとする。実際ベットは小さく、シャワーしかない部屋だが、思ったよりも広々としていた。

 夕刻、市内を散歩。人が少なく、ゆったりしているというのが第一印象。パリやフィレンツェの観光客の多さ、慌ただしさを思うと、この街には別の時間が流れているような気さえする。ヘルシンキ大聖堂、ウスペンスキー教会、国立劇場、国会議事堂、スウェーデン劇場など、本当に「絵になる」としかいいようのない建物も多い。

 夕食は、駅近くのツエトル(Zetor)で食べた。白身魚の刺身+トナカイのステーキにデザートが付く31ユーロの「ヘルシンキメニュー」というのを頼むが、新聞紙を模して作られたメニューを眺めているうち、「レニングラード・カウボーイズ・ミート・シチュー」というのが気になってしまい、追加で注文。肉をじゃがいもやにんじんとごちゃごちゃ煮たのが、鉢植えの鉢のような容器に入っており、さらにその鉢が篭に入れられて出てくる。味は確かにシチューだが、形状は日本の肉じゃがに近い。

 なぜこんなメニューがあるかと言うと、レニングラード・カウボーイズのメンバーの一人、サッケ・ヤルヴェンバがこの店の生みの親だからだ。アキ・カウリスマキの映画『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』で日本では知られているかも知れないが、思い返せば、当時まだ日本未紹介だったカウリスマキ兄弟の映画を発見し、心ひそかに驚喜したのもパリだった。シベリア鉄道経由で来ようと決めたのも、エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅まで』のことが頭にひっかかっていたためである。日程が許せば、ペテルスベルグからヘルシンキへと列車で向かって国境を越え、そこから南下しベルリン経由でパリへと来たいと思っていた。ようやくヘルシンキまで来たんだなあという、感慨に似た思いが胸をよぎる。
8月10日(土) *9月19日追加
 パリに戻るや片づけなければいけないことが幾つかあった。明日からまた北欧だから、かなり慌ただしい。メールの返事を何通か書いて送信し、日本から送られて来ていたゲラの校正をする。ようやく仕上げて郵便局へ差し出しに行くが、今日が土曜で午後には閉まってしまうことをうっかり忘れていた。明日空港から差し出したいが、日曜ではそれも無理かも知れない。ストックホルムあたりから差し出さざるを得ないのだろうか。書き上げてしまいたかった短い事典原稿も結局終わりそうになく、資料を持っての北欧旅行と決した。明日は地下鉄の始発に乗るつもりで部屋を出発しないといけない。眠くなるようにと明るいうちからワインを飲み、早々に床についた。
8月9日(金)
 今朝パリに戻ってきた。パリ・ベルシー駅から外に出ると、冷たい小雨が降り注ぐどんよりした曇り空。地下鉄内ではオーバーのようなジャケット着ていたり、首にマフラーを巻いていたりする人まで見かけた。たった一晩車中で寝ただけで、こうも違ってしまうものかと不思議な気持ちにさえ駆られる。

 それでも午後からは陽が出てきたので、たまっていた洗濯をする。実はパリあたりでは洗濯物は人目につかない浴室あたりに干すのが普通らしく、いくら天気のいい日でも洗濯物が干されているのを見たことがない。けれども、昨日のシエナでは2軒ほどだが、衣服を外に干してある家を見かけた。それにならって、窓の近くに洗ったものを干す。だが、そんなに早くは乾いてくれない。夜9時過ぎに夕食に外に出た時には、しっかりジャケットを羽織らなければならないほどにまた寒くなっていた。


 ところで、8月11日(日)から北欧旅行に出掛けます。15日(木)にデンマークで亜細亜大学の原仁司氏と合流し、22日(木)パリ帰着の予定。ちょうど怪美堂オーナーの會津信吾さんの帰省と重なったこともあり、イタリア&北欧日記のアップは23日以降になると思います。ノートパソコンは北欧に持ってゆくつもりですが、果たしてうまくメール送受信ができるかどうかはわからない。ご迷惑をおかけする向きもあろうかと思いますが、ご容赦下さい。
8月8日(木)◆イタリア旅行日記◆*9月18日追加

 昨日購入したシエナの美術館共通券では市立美術館以外に6箇所が入場無料となる。できるだけ全部まわりたいと朝から精力的に歩く。まずドゥオーモ内から入れるピッコローミニ家の図書室で壁面に描かれたピントゥリッキオの『ピス2世の生涯』や展示された彩色の聖歌集を見る。続けてドゥオーモ付属美術館と、現代美術を展示するパペッセ館へ。この二館はいずれも屋上へ上がれ、シエナの町のパノラマが楽しめる。再びドゥオーモの前に戻って、サンタ・マリア・スカラ救済院へ。ここは地下に巨大な展示スペースがあり、とても短時間では見切れない。植物園を少し散策した後、サンタゴスティーノ教会へ。そして最後にサン・フランチェスコ教会を見る。

 トスカーナの県庁所在地でもあるシエナだが、町としてはフィレンツェよりも小ぶりな感じで、その分観光客ばかりが溢れている訳でもない。今回だけの印象で言えば、いささか観光都市として大きくなりすぎた感のフィレンツェよりも、シエナの方がずっと魅力的に思えた。いや、フィレンツェを堪能するには時間が足りなすぎたのだとも思うし、シエナのように個性的な町はイタリア中にまだ幾らでもあるだろう。ロンバルディアの湖水地方、パトヴァやヴェローナ、アッシジ、パルマ、シチリア島のパレルモ…。行きたい場所が次々と浮かんでくる。名残惜しさをいっぱいに噛みしめながら、バスでフィレンツェへと戻り、夜行列車の車中の人となった。

8月7日(水)◆イタリア旅行日記◆*9月18日追加
 ホテルをチェックアウトし荷物を預けた後、まだ人通りも少ないフィレンツェの朝の通りを歩いて、サン・マルコ修道院(美術館)へと向かう。。フラ・アンジェリコ『受胎告知』があるここは、以前訪れた時に最も印象深かったところの一つであり、ぜひ再訪したかった場所だ。2階へと向かう階段途中の踊り場を曲がって上に目を向けると、『受胎告知』の絵がいきなり目に飛び込んでくる。この絵だけは幾度訪れても飽きない気がする。修道僧の僧坊の壁にもアンジェリコの描いたとされる絵があり、一つ一つを覗いてゆく。
 その後は、サン・ロレンツォ教会を見、そのうしろに接続するメディチ家礼拝堂を見た。それから駅の脇のバスターミナルに行って、時間の確認。荷物を取りにホテルに戻り、再びターミナルへ。昼すぎのバスで、シエナへと向かった。

 バスは北のグラムシ広場に到着する。まず宿を確保し、町の中央のカンポ広場へ。イタリアで最も美しい広場に数えられるこの開いた貝殻のような形態の広場を、「ここは、もはや広場ではない。完成された一個の宇宙である」と言ったのは、歴史家モンタネッリである。広場に面したカフェで軽くパスタをつまんだ後、国立絵画館でシエナ派絵画をゆっくりと見る。再びカンポ広場に戻り、プッブリコ宮殿(市庁舎)へ。受付で美術館の共通切符を購入して、宮殿内の市立美術館を見学。ここにはシエナ派の画家のフレスコ画が何点も壁にあるのだが、シモーネ・マルティーニ『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬肖像』が特に印象深い。ちなみに泊まったホテルの部屋にかかっていたのも、この絵だった。また、マンジャの塔に登って町を一望することもできるのだが、残念ながら塔の見学時間が過ぎてしまっていた。

 夕食はサリンべーニ宮の近くの路地を入ったところのメディオ・エーヴォという中世の館を改装したリストランテ。開店時間とほぼ同時に入ったので、一人でもテーブルを取れたが、あっという間に店が混み始める。雰囲気もよく、食事もよかった。何よりトスカーナ産の白ワインがとてもおいしかった。
8月6日(火)◆イタリア旅行日記◆*9月18日追加
 フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェラ駅近くのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会とウッチェロ『ノアの洪水』の緑の回廊などがある教会美術館を見た後、ウッフィツィ美術館へ。入場者数の制限があるため、長い長い列ができている。それでも結構思いの他に前へと進むので、これなら1時間ちょっとで中に入れるのではないかと期待した。ところが、段々と空の雲行きが怪しくなり、いきなり雷鳴轟いて、豪雨が降り出す。回廊に沿う形で列に並んでいたので雨には濡れないで済んだが、目の前の通りからは人が消え、水が溜まり出す。おそらく館内の人もいきなりの豪雨で外に出るのを控えているのだろう。列も動かなくなり、半袖では肌寒ささえ感じる。そう言えば以前フィレンツェに来た時にも、ボーボリ庭園でいきなり豪雨に降られたことがある。やはり雷が響き、怖い思いをした。夏のイタリアはほとんど雨が降らないなどとガイドブックには書いてあったが、天気の変わりやすさには用心すべきなのだと思う。

 1時間ほどで雨もようやく小降りとなり、列も動き出す。結局、2時間半待ちで館内へ。ただ人数が制限されている分、混んでいるとはいえ、絵は鑑賞しやすい。言うまでもないことが、ボッティチェリの『春(プリマヴェーラ)』『ヴィーナスの誕生』を始め、ジョット、マルティーニ、ウッチェロ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノらイタリア・ルネサンスの巨匠たちの作品がここにはふんだんに治められている。

 ウッフィツィ美術館から外に出ると、すっかり雨は止み、青空が広がっている。昨日入れなかったボーボリ庭園に行き、町を見下ろす高台のカフェで遅まきながら軽い昼食。ピッティ宮殿内のパラティーナ美術館を見る。歴代トスカーナ大公のプライベート・コレクションなので、画家別・時代別に展示されている訳でもなく、館内の表示を頼りにラファエロらの作品を見る。さすがに一日にこれだけ絵画ばかりを見てしまうと、疲労を覚えない訳でもない。

 夕食にはフィレンツェ名物のTボーン・ステーキを食べた。今日こそはとイタリアの白ワインを取った。しかし、この豪快な味のステーキにこそ、昨日のキャンティ・ワインの赤がよかったと、二日続きの失敗をかみしめることとなった。
8月5日(月)◆イタリア旅行日記◆*9月18日追加
 パリ・ベルシー駅19時27分発の夜行列車でフィレンツェに向かう予定が、種々の事情からその列車に乗ることができず、22時20分パリ・ベルシー駅発のミラノ行き夜行列車に乗る。すでに2等のクシェットは満席で、1等寝台に150ユーロ払って乗車する。ミラノ到着予定時刻は8時45分。しかし、1時間30分ほど遅れる。ミラノ中央駅近くのATMでキャシングした後、11時10分発のフィレンツェ行きに乗車。今度はほぼ到着予定時刻通りだった。

 フィレンツェではまず町の中心にあるドゥオーモとギベルティらによる扉で囲まれた洗礼堂を見た後、彫金細工店や宝石店が橋上に並ぶヴェッキオ橋を渡ってアルノ川の対岸へ。ピッティ宮殿には向かわずに右折し、サン・ジョルジョの坂を上る。ベルヴェデーレ要塞からの町の眺望をこの目におさめたいと思ったからだ。しかし、要塞へは修復のための閉鎖中で入れず、さらにピッティ宮殿のボーボリ庭園も休館日で、結局ボーボリ庭園の外側を西南のローマ門までぐるっと廻らざるを得ないはめに陥る。月曜日とあって、美術館はウッフィツィもアカデミアもピッティ宮殿内のパラティーナもみなお休み。結局あとは、メディチ・リッカルディ宮を見ただけ。早めに夕食を取ることとし、駅近くのクワトロ・アミチというリストランテに入った。魚料理で評判の店らしく、確かにおいしいが、キャンティ・ワインの赤を取ったのは失敗だった。まだ陽も沈まない時間だし歩き疲れて喉もからからだったのだから、素直にさっぱりした冷たい白を取ればよかった。
8月4日(日)
 急に思い立って、というのは正確ではないのだが、イタリアの夏の光が恋しくなってしまい、夜行列車でフィレンツエに向かうことにした。パリ帰着は9日(金)朝。しばらく日記の更新はお休みします。
8月4日(日)◆イタリア旅行日記◆*9月18日改訂
 ル・コルビュジエのサヴォワ邸を見にポワシーまで行った。よかった。サヴォワ邸もだが、ポワシーの街自体がとても魅力的だった。サヴォワ邸へは駅前の道をパリからみて進行方向に進むとまもなく教会が見えてくる。その横をまわるように左折し、少し行くと古い城壁の門がある。その門をくぐり、石畳の坂道を登ってゆくと、やがてバス通りに出るので今度はその道なりに進んでいけばいい。駅からバスでも行くことはできるが、中世の面影を止めた石畳の道を歩いていかなければ、もったいないと思う。城壁の門は現在おもちゃ博物館になっていて、帰りに寄ってみたが、なかなか楽しかった。始めに15分ほどビデオによる概説があり、フロアに入ると19世紀後半以降の人形や玩具が効果的に展示してある。

 さて、サヴォワ邸では日本語のちらしをもらえ、そこにはル・コルビュジエの5原則(ピロティ、屋上テラス、自由な平面、水平窓、自由なファサード)が説明されている。一つ一つを確かめるように、まず邸内を、それから庭にまわって外観をじっくりと見る。ちらしを渡してくれた受付の若い男性は建築史を学ぶ学生なのだろうか、空き時間には日本建築に関する本を読んでいた。

 3時過ぎにポワシーを出発。早々にいったん部屋に帰り、小旅行の準備。イタリアの夏の光が恋しく、夜行列車でフィレンツェと向かうはずだったのだが…。
8月3日(土)
 アラブ世界研究所の建物を見に出掛けた。パリ第7大学に隣接する、総ガラス張りのビルディングである。カルティエ財団本部と同じく、設計はジャン・ヌーヴェル。そこからバスで移動し、ル・コルビュジエの設計した救世軍難民院とプラネクス邸へ。救世軍難民院はロビーしか入れず、プラネクス邸は通りから眺めることしか叶わない。プラネクス邸は1920年代のル・コルビュジエのホワイトキュービックスの一つだが、歳月が壁面を色あせたものにしてしまっていることもあり、いい感じで古典的な町並みに溶け込んでいる。

 オペラ・バスティーユ(カルロス・オット)や新国立図書館(ドミニク・ペロー)など、人目見ただけでその外観が忘れられなくなる新しい建築物が、パリ東南部には増えている。ベルシー地区やマセナ大通り周辺の再開発が進めば、北西のラ・デファンスとはまた違った雰囲気の近未来的な空間が出現することになるのだろうか。

 8月に入ってからのパリの天気はとても不安定で、今日もアラブ世界研究所に向かう途中かなり強い雨に降られた。午後6時をまわると一転し快晴の青空。しかし、風が強くて寒い。少し風邪をひきかかっているかも知れない。明日はRERのA5番線に乗り、ラ・デファンスのさらに先、終点のポワシーまで、ル・コルビュジエのサヴォワ邸を見に行く予定だ。晴れてくれると、いいのだが…。
8月2日(金)
 モンパルナスにあるカルティエ財団現代美術館で「Kawaii! Vacances d'ete」〔eteのeにはアクセント記号〕という展覧会をやっている(〜10/27)。もし会期中にパリに来られる方がいれば、ちょこっと覗いてみるのもいいと思う。地上階には村上隆の作品が並べられ、地下のフロアでは村上隆が選んだ現代日本のポップカルチャーを代表する作品が展示されている。入り口のすぐ横の壁一面には篠山紀信激写の「GORO」などの表紙がずらりと並べられ、谷内六郎、水木しげるらはもとより、ポケモンやたれぱんだなどが展示され、さらにヨーロッパでは映画監督として高く評価されている「北野武」出演のテレビ番組や電波少年の「なすび」の生活するさまが会場内のテレビで流れ、見学者に受けている。いま日本の文化が西洋からどう見られているかを考えるためにも貴重な展示だと思う。にもかかわらず、たまたまなのかも知れないが、日本人の見学者は他に誰もおらず、フランスの若者たちばかりが次々訪れては興味深そうに見ているのだ。

 カルティエ財団本部ビルはジャン・ヌーヴェルの設計で、ガラスで作られたファサードがとても美しい。しかし、日本のあれこれを紹介した展示とは結構しっくり合っている。その不思議な感覚を体感するだけでも、十分に面白いと思う。せっかく久しぶりにモンパルナス界隈まで行ったので、ラ・クーポールでプチ・デジュネを食べ、モンパルナス・タワーの最上階(59階209メートル)に昇り、「フィガロ」で一番おいしい店に選ばれたこともあるらしいクレープ屋で昼食替わりにガレットをつまんだ。



 夜、始めてムーラン・ルージュの舞台を観る。座席は後方ながらも舞台の正面、すぐ手前の席はナイトショーだけの団体客用なのか、誰も座ってないし、段差も大きいので視界を妨げるものはない。10日以上も前に直接予約を入れにきた甲斐があったと思った。舞台のすぐ近くの席はおそらく観光バスツアーではないかと思う。見やすいのはいいが、知らない人たちと同じテーブルを囲んで食事しなければならないので、結構窮屈な気持ちになったかも知れない。自分の席のまわりはおそらくフランス人の4人グループがほとんどで、何も気をつかわず食事を楽しめたのがよかった。

 19時からのディナーショーの間はおきまりと言っていい唄が次々と歌われ、なかには日本語による「雪が降る」もあった。20時を少し過ぎると、前の席に中国人の団体観光客がぞろぞろと入ってくる。ディナーショーにはジャケット&ネクタイを着用するよう、観光バスのパンフなどに明記してあるのだが、いくらナイトショーだけとはいえ、中国人男性の多くはトレーナー姿で、あまりの落差に愕然としてしまう。21時からがいよいよその日の1回目のナイトショー「フェアリー」。19世紀末から20世紀初めにかけて行われていたショーとは相当内容が異なるのだろうが、途中のボードビルや腹話術も含め、演出の巧みさ華やかさには感嘆してしまう。ショーは22時45分頃に終わり、次の23時からの2回目のショーの観客のためにあわただしくテーブルが整えられてゆくなか、なごり惜しい気持ちでいっぱいで席を立った。
8月1日(木)
 「ロワールの古城めぐり」の観光バスに乗る。パリには、Paris Vision、CITYRAMA、それにマイ・バスやミュウバスといった会社があって、いずれも日本人ガイド付きのエクスカーション・ツアーを何種類か用意している。「ロワールの古城めぐり」も各社出ているが、シュノンソー城、シュヴェルニー城、シャンポール城と3つの城の内部見学がある、Paris Vision を選んだ。CITYRAMAも3つ城を訪れるが、うち一つは外からの見学だけだからだ。しかし、実際に乗ってみた印象を言えば、城3つは少しあわただしい。シュノンソーは川の上に建てられた瀟洒な城、シュヴェルニーは城と言うよりも貴族の城館、本当に城らしい城はシャンポールで部屋数440、二重螺旋階段で知られるロワール最大の城になる。やはり同じ行くなら大きな城に限るな、というのが率直な感想。

 19時少し前にパリに戻るが、まだ街は明るい。木曜日はオルセー美術館が21時15分まで開館している日なので、フランス近代絵画を駆け足で見て回る。

▲このページのトップへ

Copyright © 怪美堂 All Rights Reserved.