2002年  6月
オランダ旅行日記 14〜18日ドイツ旅行日記 21〜25日
6月30日(日)
 グルネルの朝市に行く。アパルトマンから歩いて10分くらい。地下鉄6番線の高架の下に市が作られている。途中で後ろから声をかけられる。こんなところで出会うのは、家主くらいしかいない。家主というのは実はイラン人の女性で、なぜパリにアパルトマンを持っているのかについてはいろいろ背景があるのを不動産屋から聞いたが、ここで書いていいことなのかどうか分からない。話好きで面倒見のいいおばさんで、ちょうど娘さんと息子さんとを連れて市に買い出しに来ていたのだ。背が高くてハンサムな大学生の息子さんが、ドアの鍵のシリンダーを取り替えたり、シャワーを直したりととてもよくしてくれている。


 こちらでは午後1時から放送開始だったワールドカップの決勝、ドイツーブラジル戦はケーブルテレビのドイツ語放送で見た。地上波のTF1でも実況していたが、この方がずっと画質がよかったからだ。日本では圧倒的にブラジルのファンの方が多かったのだろうか、スタンドの映像は黄色い服を着たブラジルの応援しか映らない。判官贔屓からドイツを応援する気になる。ドイツの缶ビールを飲み、朝市で買ってきた鶏肉とロックフォールのチーズをほおばりながら観戦。ハーフタイムに、ベルリンのソニーセンターやフランクフルトのレーマー広場を埋めつくした群衆の映像が映ると、少しなつかしい気持ちになりほっとする。試合終了後はゴールポスト脇に立ちつくすオリバー・カーンの悔しそうな表情を、キャメラがずっと追っていたのが印象に残った。

 毎回世界中で発生するワールドカップ燃え尽き症候群は、今回は日本でも大量発生するのだろうか。自分で確認した訳ではないが、フランスでは予選敗退の原因はキーセン・パーティのやりすぎだとの暴露記事が週刊誌をにぎわせていると言う。ともあれ、月も変わる。気持ちを入れかえなければ。
6月29日(土)
「モデルを雇う金がない、よろしい、モデル女はモデル女でなければならぬと言うような言葉に何の意味があるのか、(略)絵具も思うように買えぬ、かまわない、《馬鈴薯を食う人々》は「掘りたての、泥だらけの、できのいい馬鈴薯色」で描くのが正しい、それにデッサンというすばらしいものがあるではないか。たしかに、貧乏がゴッホの画業を決定するのだが、要するに、環境が人を定めるということには、言ってみれば夏には汗をかくという以上の意味はないのである。」(小林秀雄『ゴッホの手紙』)


 異国にいて、日本文学の論文を書くにはやはり多くの困難がある。何よりも日本にいれば簡単に参照できる資料を見たくても見られない。あらかじめ構想を固め資料を十全に準備していれば、あるいは日本から資料を順次取り寄せるだけの時間的余裕があれば、それは決して埋めきれない困難ではないと思うが、一方に締切の期日というものがある。ゴッホに託して語る小林秀雄の言葉は大きな励みにもなるが、自分を絶望に突き落としもする。

 率直に言って、今の自分は「研究者失格」の状態にある。学問共同体で要求される最低限の作業さえ施すことのできない文章を書くことになんの意味があるのか。これは批評だから、と居直る気持ちにはなれない。いや、はっきり言えばそう居直りたいのだが、それだけの言葉がまだ自分の中に発酵してこない。とはいえ、こんな愚痴など人から見れば単なる言い訳にしか聞こえないだろう。「言ってみれば夏には汗をかくという以上の意味はない」のだから。
6月28日(金)
 OMI(フランス移民局)の健康診断を受ける。フランスの滞在許可証を取得するためにはこのOMI発行の健康診断書が必要なのだが、受診日の連絡がなかなか来なくてやきもきしていたのだ。先週ようやく申請を代行してくれている大学の方に連絡があり、指定された今日の午後2時半に指定された場所へと赴いた。地下鉄3号線の終点ガリエニで降りて、6、7分歩く。ここはもうパリ市内ではない。20区の外にほんの少し出たところだ。

 健康診断は身長と体重の測定、視力検査、胸部のレントゲン撮影、尿検査、問診と続き、やることは日本と変わらないがフランス語で指示されるから結構右往左往する。連絡通知に「空腹で来る必要はない」と明記してあったのでそうだろうとは思っていたが、血液検査はなかった。

 問診はフランス語か英語だが、別に日本語も含む質問用紙が用意されていて、それを見ながらイエス、ノーを言っていけば済む。最後の予防接種の項目など、子供の頃のことでよく思い出せず黙っていると、日本で当然受けてきただろうと言わんばかりにイエスに印をつけてくれた。問診が終わると、大きな封筒に入れてレントゲン写真をお土産にくれる。いや、別にそういう訳でもないはずだが、捨てていいものかどうかもよく分からず、結局家まで持って帰ってきてしまった。


 昨日のビールの話の続きをもう少しだけ。パリの街角には小さなスーパーもあり、さらに安いビールが置いてある。今日買ってきたのはGoldstein というドイツビールと、St.Wendeler というアルコール8・8%のStrong Beer。どちらも100円しなかった。そして、Schoenbrau というビールに至っては0・29ユーロ、日本円にして35円くらいでその店では売っていた。
6月27日(木)
  一人暮らしを始めるとなると、いくら家具付きのアパルトマンであっても、いろいろ必要なものが出てくる。石鹸、シャンプー&リンス、タオル、トイレットペーパーなど、ホテル暮らしではいらなかったものからまず揃えなければならない。幸いすぐ近くにモノプリ(MONOPRIX)があって、しかも夜の10時まで開いている。大きなスーパーで品揃えも豊富だ。

 地上階が食品売り場で、幾つもの高い棚にずらっと色とりどりの箱や缶が並んでいる。パンや野菜や鮮魚や肉やチーズは別のコーナーがあり、お酒も家庭用の高くないワインを中心にかなりの種類が揃っている。とりあえず冷蔵庫に入れておくビールがほしいと思い、50clの缶ビールを20種類、足を運ぶたびに数本ずつ購入した。フランスではどんなビールが飲まれているのか、興味を持つ人がいるかも知れないので、以下その名前を列挙する。


銘柄
種類・産地
Adelscott ウイスキーモルト
Amadeus Blanche
Bud  
Fischer アルザス
Goudale Ancienne
Jenlain Garde Ambree
Jenlain Blonde
Kanterbrau ストラスバーグ
Kingston Aromatisee au Rhum
Pelforth  
Saint Landelin 修道院ビール
Pietra 修道院ビール
Tequieros  
Bavaria オランダ
Beck`s ドイツ・ブレーメン
Foster`s オーストラリア
Karlsbrau ドイツ・ハンブルグ
9X イギリス・リヴァプール
Ottakringer オーストリア
Stella Artois ベルギー
 

 値段は0.7ユーロくらいから高くても2ユーロ未満。日本円で100円以下からせいぜい250円くらい。実は日本のビールの缶もあったのだが、アサヒの50clで1・98、サッポロの65clだと3・11ユーロと一番高い。他に日本でもおなじみのハイネケン、クローネンバーク、ギネス、あるいはフランスの1664だと33clやビンも置いてあり、またBuckler、Tourtelといったノンアルコールのものはいずれも33clで0・8ユーロといったところだ。

 これがコンビニ風の雑貨店で買うと冷えている分、値段が少し上がり、テイクアウトの食品店などで買うとさらに高い。観光名所の出店のコーラやジュースは、スーパーの3倍くらいする。日本でも観光地やホテルの飲料水が高かったり、スーパーや格安店でまとめ買いすると安かったりするが、町中の自動販売機ならどこでも同じ値段だし、「もの」に定価があると考えるのが普通の感覚ではないだろうか。けれども地下鉄のプラットホームくらいにしか自販機を見かけないパリでは、値段に占める「もの」以外の要素が際だって大きく目に映る。

 さて、スーパーのレジではベルトコンベアーに自分で品物を並べて前の人が払い終わるのを待つ。順番が来るとキャッシャー係が次々値段を打ち込んでは、レジの先の台に移してゆく。それを今度はすばやくビニール袋に自分で入れなくてはならない。このビニール袋が薄くて、缶ビールを何本も入れるとすぐ破れそうに見える。けれどもすぐに次の人の買ったものが台に移されてきてしまうから、本当にあたふたと袋に入れなければならない。
6月26日(水)
 今日ようやくアパルトマンに移った。場所はパリの15区、セーヌに架かるグルネル橋の近く。エッフェル塔そばのパリ日本文化会館まで歩いて10分、シャイヨー宮のシネマテークへも15分ちょっとで行けると思う。

 物件を紹介してもらった日本人不動産にまず赴き、車でいよいよアパルトマンへ。不動産立ち会いで家主の女性と会い、さあこれから一番大切な借家現状点検書の作成だと緊張していたのだが…。フランスでは家主と借家人との間で家具、壁、水まわりなどの契約時の状況をきちんと書面に残し、出る時にはその書面に添って再び点検が行われる。その結果が敷金の返済等に大きく関わってくる訳で、日本的な“なあなあ”では駄目だと言われている。けれども、まず数日住んでみて問題の箇所だけ連絡してくれと言われ、なんだか拍子抜けしてしまった。よほどのことがなければ、敷金はそのまま戻ってくるらしい。不動産屋が専属で扱っている物件なのでかなり特殊なのだろうが、ともかくほっと息をつけた。

 入居中の段階で見せてもらった時の印象と比べれば、正直キズや痛みも少し目立つが、新築マンションではないのだし、なにもかも完璧とはいかないだろう。ともかく一目見て、ある理由で絶対ここにしようと決めた部屋なのだ。

 家具付きなので、生活に必要なものは一通り揃っている。何代にもわたって日本人が借りてきた物件なので、ランドリーには日本語の説明が紙で貼ってあったりする。塩・砂糖・胡椒や各種の洗剤類を前の人が残していってくれたのも有り難い。

 今日の夕食は引っ越しそばだな、と思うがそうもいかず、近所の中華料理店に入ったらさっと差し出された日本語メニューの中から、その店の「特製ラーメン」というのを注文。青島ビールで一人乾杯の仕草をした。


 ところで、今朝ホテルをチェックアウトしようとした時、ちょうど先にすませた日本人男性から声をかけられた。もし時間があれば近所でお茶でもしないかと誘われ、こちらも不動産屋との約束までの時間を持て余す気分だったから、ご一緒することにした。

 話かけてこられたのは、画家の奥津国道さんという方で、これからブルターニュに数日スケッチに出掛けるところだと言う。もう20数年も同じホテルにしばしば逗留され、フランスで絵を描いて来られたそうだ。

 奥津さんは相模原市在住で、どの美術団体にも所属していない、もとは平凡出版(現マガジンハウス)に勤めていたが、45歳で画業に打ち込むために退社。翌年「週刊読売」の表紙を担当し注目される。明るい表情の裸体画で有名な方だが、近年は今まで誰も描かなかったようなフランスの地方風景を独自のタッチで描いている。というのは、奥津さんご本人から聞いた話に後でインターネットで確認した情報を付け加えたものに過ぎないが、特に2年前に出された『スケッチブックをもって旅に出よう』(講談社)が評判となり、今年5月に出された2冊目の『水彩画プロの裏ワザ』(講談社)もすでに版を重ねている。ちなみに東京の八重洲ブックセンター4階のベストセラーというのをネットで見たが、先週(6/16〜6/22)の第6位にランクされているのが、この『水彩画プロの裏ワザ』なのだ。絵画技法の本は山のように出ているが、これほど売れている本は他にないのではないか。

 奥津さんは現在70歳。60歳の時に、今が20歳なんだと思ったのだと言う。ちょうどバブル経済が崩壊したその時期に風景画に転じ、自分を取り戻したように感じたそうだ。そして『スケッチブックをもって旅に出よう』で画壇を越えて広く人に知られるようにもなり、いよいよこれから人生の旬を迎えようとしている人の意気軒昂さにあふれている。

 年齢など気の持ちようだとはよく言うが、奥津さんの話を伺っているとそのソフトな口調の背後に、それだけでは片づかない強靱な意志のようなものを感じた。
6月25日(火)◆ドイツ旅行日記◆*7月10日追加
 ベルリン・ツォー駅からICEで再びフランクフルトへ。ゲーテ号に乗り換え、一気にパリへと向かう。乗車したのが10時41分、パリ東駅到着が21時6分。10時間半ほどでドイツを北東から南西へと横断し、フランスの首都まで戻ってきたことになる。フランクフルト駅での乗り換え時間は9分しかなく、途中10分ほど遅れていたので少し心配したが、ほぼ予定通りの到着で何ら問題なかった。ゲーテ号も今度は1等のオープンシートに座る。フランス国内に入ると乗客が少し増え、しかもパソコンをいじっている人が結構いた。
6月24日(月)◆ドイツ旅行日記◆ *7月10日追加
 ベルリンの街を歩く。まずティアーガルデンの中心にある戦勝記念塔ジーゲスゾイレへ。ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』に出てきた金色の天使の像が上にある塔だと言えば、すぐイメージが浮かぶ人も多いだろう。天使像の足元までは、塔内の螺旋階段を使って登ることができる。塔の中の壁は下から上まで一面に落書きがあって、ベルリンの壁に書かれた落書きを思い出した。この塔にこうして誰でも登れるようになったのは、いつからなのだろうか。

 塔の上からはベルリンの街が一望できる。仮にこの塔を街の中心だと仮定すると、ベルリンは中央に広大な森を抱え、それを取り囲むようにして建造物があるように見える。ロラン・バルトは皇居を空虚な中心と見立てることで、東京という都市の構造を鮮やかに浮かび上がられてみせたが、このティアーガルデンのうっそうとした緑の広がりに比べれば、いかにその江戸・東京の中心が箱庭的な人工の自然に過ぎなかったかが実感される。

 そしてこのティアーガルデンを、ウンター・デン・リンデンのブランデンブルク門から一筋に貫く6月17日通り。ベルリンの壁の崩壊によって、ヒットラーの夢みた「世界の首都」のイメージがかえってはっきり見えるようになったというのは言い過ぎだろうか。


 ジーゲスゾイレからグロススターナーレー、つまり巨大な星通りという森の中の道を通って、ティアーガルデン通りへ出る。ここはかつて各国の大使館が幾つもあった一画で、いま昔通りに再建しようとする動きが進んでいる。その先頭をきってすでに完成しているのが、日本国大使公邸。そのすぐ隣ではイタリアの大使公邸が目下建築中で、少し先に行くと南アフリカの公邸が工事に取りかかっている。

 ベルリンには工事中の巨大な建物が目立つ。ブランデンブルク門も現在修復工事中でその姿を見ることができない。門の足にストッキングをはかせた洒落た絵のカバーで全体が覆われている。

 すぐ横の広場では、“United Buddy Bears”の展示が行われている。ベルリンの象徴であるクマの像に、世界各国のアーティストが自分の国のイメージにあわせて自由に彩色デザインしたクマたちが、ずらりと並んでサークルを作っている。

 ブランデンブルグ門の近くも現在路上工事の最中で、かつてカフェに人が集ったという雰囲気は残念ながら味わうことができない。一番門に近い、1911年開業のホテル・アドロンのテラス席でビールと食事をとる。なぜかメニューにある Japanese Egg Noodles というのが気になって注文。野菜の上に焼きそば風に麺がのっていて、横に春巻が2つ添えてある。イメージとは少し違ったが、おいしかった。


 ヴィルヘルム通りを左折し、森鴎外記念館へ。開館時間は10時ー14時ですでに閉館時間を過ぎていた。ペルガモン博物館なども月曜日で休館で、少し時間をもてあました気分になる。ちょうど呼び込みをしていたので、シュプレー川遊覧の船に乗った。ベルリンはこのシュプレー川と市の南に作られた運河とを使って、ぐるりと船で一周することもできる。

 下船後、ノイエ・ヴァツェとフンボルト大学前の古書店を覗き、大学近くの書店で19世紀末のベルリンの地図(1882年と1896年)、それに文学者の居住地を記した地図と1936年のベルリン・オリンピックの際に作られた地図との復刻を、日本に持って帰る方法も考えずに衝動買いしてしまった後、ドイツ連邦議会議事堂(帝国議会議事堂)へと向かった。

 議事堂は東西ドイツ統一後に改装され、ガラスのドームが作られた屋上へ上がることができる。空港同様の厳重な所持品とボディのチェックがあって、いっぺんに何人も入れないためか、列ができている。エレベーターで一気に屋上へ上がり、なだらかな螺旋の歩道に沿ってドームの最上部へと登る。

 ここから見るベルリンは、かなり鮮やかな地域的対照を示している。シュプレー川を挟んで左側、つまり市の北東部には旧市街の赤い屋根の家並みが見下ろせるのに対し、川の左側には白い高層ビル群が広がりつつある。そしてこの方向を見る自分の背後には、ティアーガルデンの緑が広がっている。


 実はベルリンに関しては、実際に訪れたことはなくても、かなり正確な空間的把握ができていると思いこんでいた。前田愛の「舞姫」論(『都市空間のなかの文学』所収)が頭の中に強固に刷り込まれていたからである。森鴎外の「舞姫」を高校の現代国語や短大の文学史の講義で教える時には、必ずベルリンの地図を入れたプリントを配り、前田さんの指摘に即してその空間論的な構図について講義してきた。

 けれども、こうして実際にベルリンに来てみると、自分の頭の中にあったイメージが大きくゆらいでゆくのを感じる。あえて思いつきだけで書いてしまうが、前田さんの「舞姫」論はやはり東西分裂していた頃のベルリンのイメージにどこか囚われてはいなかっただろうか。もちろん、否定的な意味でそう書くのではない。あらゆるテクストは歴史的な刻印を免れないのだし、前田さんの優れた仕事を図式的に定式化するのではなく、すでに現在とは隔絶した過去となりつつあるその歴史的な時空に差し戻して考え直す必要を強く思ったのだ。
6月23日(日)◆ドイツ旅行日記◆*7月10日追加
 朝7時15分、フランクフルト駅からICE(Inter City Express 都市間超特急)に乗ってベルリンへ向かう。ユーレイルパスなので、1等車に乗れる。座席の上の荷物棚のところに予約のカードが入っていない席ならば、自由に座ることができる。ICEは1等車に乗ってこそと聞いてはいたが、確かに新幹線のグリーン車もつまらなく思えるような豪華さだ。1車両の中が5人用のコンパートメント、一定方向を向いたオープンシート、向かい合わせで座れるオープンシートと3つのタイプに分けられていて、オープンシートの中間部には洋服をハンガーに吊しておく場所がある。座席は小さな枕がついたリクライニングで、オーディオをヘッドホーンで聴くこともできるし、なかには前の座席の背後に付いたテレビ画面で映画を楽しめる席まである。なにより座席がとてもゆったりしている。2等車の座席もちらっと覗いてみたがそちらが大体日本の1等車くらいだと言えば、少しはわかってもらえるだろうか。


 4時間と少しでベルリンに到着。終点の一つ前のツォー駅、言い換えるならばベルリン動物園駅で降りる。カイザー・ヴィルヘルム記念教会とオイローパ・センターの近くのホテルにチェックインしてから、まずは市内一周の観光バスに乗った。ベルリンには古くからの建造物がある一方、モダンなデザインのビルや計画的な住宅地域も多く、さながら建物の博物館をまわっているかのようだ。建築史を学ぶ学生にはぜひ行ってみるように勧めたいと思う。と言っても、建てられた当時のまますべてが残っているのではなく、再建されたもの、再建中のものが実は結構多い。つまり、度重なる破壊によって街が自然の発達を阻害され、それぞれの建物が歴史から切り離されて、あたかも復元された遺跡のように今なお存在している感じがどこかしてしまうのだ。

 もうほんのわずかしか残っていない「壁」も車窓から見た。イヤホーンで聴く日本語の案内からも、ホロコーストや東西対立の記憶がこれから先どのような形で伝えられていこうとしているのかが、情報として流れてくる。あまりに深刻な人類の過去を幾層も抱えつつ、それを石化し人々に目の当たりにさせたまま保とうとしているこの街の有り様を思うと、ここに来るための心の準備が何もできていなかったことを思い知らされる。


 1844年開園のベルリン動物園。森鴎外「舞姫」の太田豊太郎が「ある日の夕暮」エリスと出会う前に「漫歩」した「獣苑」がここのはずだが、ウンター・デン・リンデンにもクロステル街にもかなりの距離がある。パンダがいる動物園の一つだが、大型類人猿の飼育実績でもよく知られている。例えば、ゴリラは現在ズーストック計画のために見られる動物園がごく限られているが、ここのゴリラは堂々と人前で振る舞っているし、飼育室では飼育係に抱きかかえられた赤ん坊のゴリラも、いやより見た通りに言えば、ゴリラの赤ん坊を抱きかかえた人間の男性の姿も見ることができた。

 園内にはアクアリウムもあるが、水槽による魚の展示は地上階だけで、上2つの階では爬虫類、両生類、昆虫などが飼育され、特にカエルとクモの種類の多いのが特色となっている。中央部は熱帯のジャングルを再現した温室になっていて、橋の上からワニを見下ろすように作られている。アクアリウムの入り口にはイグアナドンの石像があって、これがシンボルとなっているようだ。

 何よりも印象深かったのは、うっそうとしげった木々の間に飼育施設があることだ。サル山など自然石を使ったものも多く、うまくまわりと溶け込んでいる。森の木立の中を散策している気分にさえなった。
6月22日(土)◆ドイツ旅行日記◆*7月10日追加
 朝テレビで韓国ースペイン戦を見た後、マイン川沿いのミュージアム通りことシャウマインカイ通りへ。その名前の通り魅力的な博物館が幾つも並んでいるが、駆け足でまわる気分にはなれず、のみの市を見てまわる。たまたまなのかも知れないが、古着やアンティークばかりでなく、電気製品を扱うところが目立った。テレビやステレオのアンプなどを路上にずらっと置き、大声で交渉に応じている。そうこうしているうちに時間はお昼をだいぶ過ぎ、結局シュテーデル美術館とドイツ映画博物館だけを見た。

 シュテーデル美術館はクラナッハやホルバインら初期ネーデルランドの作品が多数あると聞いていたが、日本でいう2階の展示室から順番に見ていこうとすると、ベックマンやキルヒャーらドイツ表現主義の作品などから始まっていた。美術館の解説書が示唆するように、キルヒャーの『帽子をかぶったヌード』(1911)やオットー・ディクスの『芸術家の家族』(1927)は確かにクラナッハを意識した作品だから、これはこれで効果的な展示順なのかも知れない。ボッティチェリの女性画や『カンパニアのゲーテ』(1157)あたりがここの目玉であろう。

 ドイツ映画博物館ではケン・アダムスの特別展が行われていた。キューブリックの『博士の異常な愛情』やベルトリッチの『ラストエンペラー』の、というよりはジェームス・ボンド・シリーズのと言うべきなのだろうか、映画美術を担当した人物である。常設展示は映画誕生前史の光学的な見せ物などが丁寧に集められていて、エジソンのキネトスコープを実際にコインを入れて覗いたりできる。映画自体についても撮影機器や技術的な革新などが主に取り上げられていて、具体的な作品に関するものは少ない。

 會津さんや中沢弥さんの大好きなフリッツ・ラング『メトロポリス』関係では、ロボット・マリアが表紙のウーファ・マガジン、ミュージック・スコア、そして全然似ていない実物大のロボット・マリアのレプリカがあった。
 時々、クラクションをけたたましく鳴らして通る車の音がが外から聞こえる。言うまでもなく、トルコの勝利を祝って赤い国旗を窓から振りかざしながら通りを駆けめぐっている車の音だ。


 映画博物館の横のシュヴァイツアー通りには、夏期の土曜日の恒例なのか分からないが、夕方からは屋台のブースが幾つも出て大変なにぎわいだった。生演奏の音楽があちこちで鳴り響く中、人混みをかき分けて通りを歩くと、ビールやワインやフルーツカクテルなど様々な種類のアルコールのブースがあって、目移りがしてしまう。グラス代として幾らか余分に払い、グラスを返すとその金額が戻ってくるシステムだ。食べ物のブースも沢山出ていて、中華のテイクアウトの店は焼きそばが人気で大混雑していた。自分が地元の人間だったら、焼き鳥の屋台でも出すのにとちょっと思う。こうしたフェスタの情報は事前に掴みにくいせいか、どこにでもいるはずの日本人観光客の姿もほとんど見かけない。

 日本の夏祭りは盆踊りにしても死者を迎える宗教的意味合いからどこかしんみりしているように思うが、ドイツのそれはひたすら飲んで踊って、短い夏を楽しもうとする熱気と気合いにあふれている。この楽しさに一度でも遭遇したら、自分と同じ意味でドイツびいきになる人は絶対多いはずだと思う。

6月21日(金)◆ドイツ旅行日記◆*7月10日改訂

 種々の事情から、今日からまた数日パリを離れます。戻るのは火曜日。翌水曜日にアパルトマンに移り、その後しばらくはおとなしく(!)している予定。日記もできるだけ早く、遅くとも木曜日には再開したいと思います。


 以上のメールを就寝前に送信しておき、朝ホテルを出て、パリ東駅から国際急行ゲーテ号でフランクフルトに向かう。パリーオランダ間の列車は日本の特急と同じオープンシートだったが、今回乗った2等車両は6人室のコンパートメント。それでも座席はゆったりしているし、窓の近くには横にパソコンの絵を添えた電気の差し込み口が付いている。途中からは完全に個室状態だった。

 15時過ぎに終点のフランクフルト着。駅の入り口近くに人だかりができている。ワールドカップのドイツーアメリカ戦のテレビ中継を、巨大スクリーンに写していたためで、思わずドイツ人の群衆に囲まれながら見始めてしまうが、こういう応援風景はどこも同じらしい。ドイツ国旗がふられ、チャンスが訪れると歓声があがり、ボールを奪われれば溜息に変わる。試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、拍手がわいたが、駅ということもあってすぐに人々は散り散りとなった。

 強国の余裕でまだまだ大騒ぎしないのかと思ったが、ホテルに荷物を置いて町中に出てみると、若者たちはやはりはしゃぎまくっている。広場の周囲の通りには窓からドイツ国旗をかざした自動車が何台も集まり、けたたましくクラクションを鳴らしまくっていた。


 フランクフルト中央駅の北側にあるホテル・クリスタルにチェックインする。レセプションが思いがけなくも日本人男性で、シングルはあいにくふさがっているが、地下の空いている部屋なら朝食付き60ユーロでいいと言ってくれる。従業員用の予備の部屋のようだが、日も十分差し込むし、むしろ有り難い。そういえば昔、ケルンでツインの部屋しか空いてなく、もう少し安くならないかと交渉したらやはり従業員用の、けれども結構いい部屋に泊めてもらったことがあった。

 部屋の電話は内線専用だったが、レセプションの電話を使ってメール送受信もさせてもらう。日本から持参した6カ国対応の電話線コネクタと小さなノートパソコンでの操作をドイツ人男性と興味深そうに覗き込まれる。

 ゲーテの家と博物館だけ見て、フランクフルトの大通りをゆっくりと散歩する。ホテル代が安くすんだ分、旧市庁舎近くニコライ教会の横の15世紀の木造の建物だというレストランで少し贅沢にドイツ料理を食べる。白ワインがおいしかった。


 フランクフルトは日本人駐在員の家族も多いところだけあって、いろいろなところでドイツ人から日本語の挨拶をされる。ここに限らず、個人的な好みと印象で言えば、観光客としての居心地がヨーロッパで一番いいのはドイツだと思う。かってケルンからライン川を上り、フランクフルトからロマンチック街道をバスでミュンヘンへ抜け、ノイシュヴァンシュタイン城を見るという定番的なコースで駆け足に旅した時にもそういう感想を持った。交通の至便さやサービスの効率性が日本と同じくらいにいいのも助かる。

 それだけに、ドイツの小さな町々を泊まり歩くようにして、もう一度ゆっくり旅してみたいとずっと思ってきた。小さな町々にと思うのは、ワインの町として知られるライン河畔のリューデスハイムに泊まった時の印象がとてもよかったからである。ちょうどワインフェスタか何かで、広場でその年の新酒のロゼを試飲をするような感じで何杯も安く飲むことができた。泊まった小さな宿の女主人は全然英語が通じず、6カ国語会話帳のページを見せての一言も話さない宿泊交渉だったが、とても快適にすごすことができた。

 フランクフルトはライン川下りやロマンチック街道、メルヘン街道の旅の基点となる場所だ。このままパリにしばらく戻らず、ライン河畔の古城ホテルや街道沿いの中世都市を泊まり歩きたい気持ちが心をよぎる。今回の在外研究中にはおそらく難しいだろうが、まるで修学旅行の下見に来た教員のような思いで未来に夢をはせながら、フランクフルトの夜をすごす。
6月20日(木)

 幾つか用事があって、パリ第7大学までセシル坂井さんを訪ねた。柴田勝二さんが坂井さんのところに併せて送って下さった『三島由紀夫 魅せられたる精神』(おうふう)を渡される。

 パリでは昔、おそらく日本では今後も上映が難しいであろう映画『MISHIMA』(ポール・シュレイダー、1987)を観たことがある。若い頃から三島嫌いだった自分には、キッチュとしか見れない緒方拳の演技が、かえって三島の毒を体から抜いてくれるように感じられた。もちろん決定的だったのは、三島主演の映画『からっ風野郎』(増村保造、1960)との遭遇に他ならなかったけれども。ついでだから書いてしまうが、数年前には映画『憂国』も新宿のとあるトークショーの折に観ているのだが、これはどれくらい自慢できるのだろうか。『憂国』のプリントはフランスにも現存しているらしく、ここ数年の間に何度か映画祭で特別上映されているようなのだが。

 閑話休題。かつて映画で三島に触れたパリで、今度は三島の研究書を読む。奇縁のようなものを感じないでもないのだが、その一方で、いま自分の手許にある唯一の研究書がこの本になるわけだから、過剰な影響を受けてしまいそうで少しこわい。すぐには難しいが、いずれ読み終わったら感想を書かせていただこうと思う。


 パリでは品切れかどうかも分からず、篠崎美生子さんにお願いして調べて送ってもらった文庫本も受け取る。折口の会という、三谷邦明さん・三田村雅子さん・長谷川政春さん・東郷克美さんらがずいぶんと長いこと持たれている研究会のメンバーの寄せ書きが同封してあった。折口の会にも、本務校の会議日と重なることが多くて、ここ数年は欠席がちだった。とてもとても有り難いことだと思うが、一年間の在外研究にしては今時大げさすぎるんじゃないかという気がしないわけでもない。ともあれ、いまだにパソコンも使われず「フランスに行きたしと思えどフランスは遠し」とおっしゃっている東郷先生らに、「普通に」元気に暮らしていますとお伝えしてほしいと、この場でお願いしておきます。

6月19日(水)

 ある小さなクレープ屋がとても気に入っている。モンパルナス界隈の店は、下町の定食屋か安い居酒屋の風だったが、ここは窓が大きく室内も明るい。元は飲食店ではなかった感じで天井が高く、白い壁には子供の絵が幾つもかかっている。店内には二人掛けのテーブルが6つ、4人掛けのが2つしかない。近所の常連客でほとんどいつも満席だが、異邦人の自分も温かく迎えてくれる。

 少し暖かくなってきたからか、今日は道にテラス席を2つ出していた。中が混んでいたので、しばらく外の席にいたが、朝夕のパリはまだけっこう寒い。いまだに自分はジャンバーをはおっている。少し冷えてきたので、席が空いたところで中に入れてもらった。テキサスという、そば粉のクレープの上にチリソースをかけたハンバーグ、さらにその上に目玉焼きがのっているものを注文。タバスコをかけて食べると、ぴりっとした香ばしさが口に広がる。混んでいるから注文したものが出てくるまでに、少し時間がかかる。シードル(リンゴ酒)やポワレ(ナシ酒)をつい飲み過ぎてしまうのが、ここの困ったところではある。グラスではなく、店のティーカップのような陶器に注いで飲むのだ。空っぽになったピッチャーを名残惜しそうに見ていたのが目に入ったのか、先日は最後にもう一杯、ご馳走にまでなってしまった。


 今日のお昼は、オペラ界隈にある國虎屋のうどんを食べた。関西風の薄い汁で、4ユーロ追加の昼だけの定食にすると、炊き込みご飯にカツと卵焼きのおかずが付いてくる。油っぽいもの食べることが多いせいか、時々無性にそうめんか冷や麦を食べたいと思う時がある。食べ終わった後、近くの京子食品へ。いままで地上階しか覗いたことがなかったのだか、奥の階段から上の階に上がると、干しそば、インスタントラーメン、カップ麺などが沢山並べてあった。自分が欲しいと思っていたものもだいたい入手できることが確認できた。冬になったら、フランス食材も加えた特製の石狩鍋や水炊きも作れると思う。

6月18日(火)◆オランダ旅行日記*7月10日改訂
 夜9時過ぎにパリに戻ってきた。急な天候悪化でスキポール空港の到着待ちの出発時間が遅れたためらしく、アムステルダム発ブリュッセル行きの出発時で20分、さらに到着時で40分も列車が遅れていたため、乗り継ぎのパリ行きの一等席の予約が無駄になったかと心配したが、そちらも20分出発時間を遅らせてくれていたため、無事乗り継ぐことができた。

 ワールドカップの日本ートルコ戦は朝ホテルで、オランダ語のテレビ中継で見た。クールと言っていいほどの淡々とした実況と解説。トルコからの移住者が多い、隣国ドイツだとどうだったのだろうか。市立近代美術館では、日本人かと聞かれ、握手を求められた。とっさにワールドカップのことだろうと思ったら、やはりトルコの人だった。パリに戻ったら今度はホテルのレセプションの黒人青年から、おめでとうと言われた。韓国の劇的な逆転勝利について、録画放送中のテレビを見やりながら、興奮した感じで話してくれた。


 アムステルダムでは、市立近代美術館を見終わった後、すぐ横のゴッホ美術館で出発までの時間をすごすことにした。館内の気持ちのいいカフェテリアで、公園を眺めながら軽食をとる。ヨーロッパの大きな美術館では、食べたいものを自分でトレーにとるタイプのレストランが中にあることが多くて、割と安く簡単に昼食をとれるのが助かる。すでに『ひまわり』に関するパネル展示は片づけられ、若干展示替えもなされていた。日曜に比べればさすがに人も少なく、記憶を確かめるかのように、館内をざっと一巡りする。
6月17日(月)◆オランダ旅行日記 *7月10日追加
 昨日とはうってかわって快晴。レンブラントの家博物館(7ユーロ)とユダヤ歴史博物館(5ユーロ)を見学してから植物園へ。さらに熱帯博物館(6・8ユーロ)を見てから動物園へ。( )内がミュージアム・イヤーリーカードで無料となった金額。国立美術館が8・5ユーロ、ゴッホ美術館が7ユーロだから、明日市立近代美術館を見れば、もう元が取れてしまう。ユダヤ歴史博物館では、シャルロッテ・サロモンという26歳でアウシュビッツで亡くなった女性の“Life? or Theatre?”という絵物語の特別展をやっていて、追加で1・5ユーロ払う。親族が次々と自殺してゆく悲痛な女性の自伝的物語を案内テープに耳傾けながら絵に沿って追ってゆくが、1940年から死の前年にかけて描かれたこの作品を最後まで丁寧に見ることは時間的にも叶わなかった。


 植物園(Hotus Botanicus)は、1638年に作られたヨーロッパで最も古い植物園の一つだが、ここはそれほど広くないうえに薬草園や菜園といった要素が乏しく、はっきり南洋を志向している。温室が現在5つあり、入り口から見て一番奥の1912年に開かれたものには椰子、園の中央の栽培養育用のものを挟んだ小さな二つは、それぞれ熱帯の蝶が放してあるものと、メキシコとカリフォルニアの砂漠のサボテンなどが集められたもの。入り口に一番近い運河沿いの大きな温室は1993年に開かれたもので、オセアニアと南アフリカ、南アメリカの熱帯、そしてアフリカの砂漠の3室に区切られている。この植物園の草木の多くは17,18世紀にオランダ東インド会社によってもたらされたものだと言うし、インドネシアの油椰子のプランテーションもここから送られた苗が基になっているらしい。

 駆け足で回った熱帯博物館のことも書いておこう。民族学的資料が豊富に集められているが、ごくわずかとはいえ探検家や植民者の展示がある一方で、ラテンアメリカやインドの現在の店舗がそっくり再現されているのを見ると、どこに視点を置いていいのか、とまどいのようなものを感じる。「環境と人間」というコーナーでは熱帯雨林とサバンナで生活する人々のことが取り上げられたが、ここでも展示はいきなり都市への人口集中の問題へと移る。発展途上国援助に熱心なオランダらしいと言えば言えるけれども。地上階はシアターになっている大きな博物館なのだが、まだ準備中のところもあり、見学者もほとんどいない。

 動物園は1854年に、中のアクアリウムは1882年に始まっている。アクアリウムには水族館だけでなく、剥製標本や博物学者を紹介したコーナーもある。中心部には日本のオオサンショウウオの水槽があり、これが目玉ということになるのだろうか。動物園内には動物の彫刻があちこちにあり、アクアリウムの前には日本庭園もある。植えられていた植物は必ずしも日本庭園に似つかわしいものばかりでなく、南洋のものも混じっていたが。


 夜、フォンデル公園内の映画博物館で、グルーチョ・マルクスが出演するミュージカル『ミカド』のフィルムを観る。存在だけはかすかに記憶にとどめていたが、まさかこんなところで観られるとは思わなかった。1960年にNBCテレビの The Bell Terephone Hour という番組で放送されたもので、3幕の各幕間には電話の宣伝が入っている。グルーチョのココの役はあまりに嵌っていて楽しいが、その分他の存在感は薄くなり、ストーリーも途中でひっくり返る感じでもなく、シンプルな仕上がりとなっている。
6月16日(日)◆オランダ旅行日記*7月10日追加
 アムステルダムは朝から雨。市内をまわるつもりでいたが、予定を変更し、ゴッホ美術館へ。開館時間早々に行ったが、列ができている。日本の展覧会並みに混むのは、ルーヴルとここだけかも知れない。日本で言うところの2階の展示スペースの入り口には、新宿の東郷青児美術館の『ひまわり』の真贋を科学的に鑑定検討した結果がパネルで紹介されている。実際の絵がかかっている訳でもない、そのパネルの前から人だかりなのだ。

 ゴッホの絵にだけ特に心惹かれるということはないのだが、弟のテオの許に遺された油彩をニュウネン、パリ、アルル、サン・レミ、オーヴェル・シュル・オワーズとゴッホが住んだ場所の順番に追ってゆくと、やはり心が騒がずにはいられない。ゴッホの作品だけでなく、最上階にはパステル画が、別館にはゴッホと関わりのある19世紀の画家の作品が主に展示してある。

 ミュージアムショップには「SURIMONO」や「UKIYO-E」に関する欧文の大部な画集が10種類ほども平積みされていたが、さすがにそこまでは手を出す余裕はない。『1870ー1930年のアメリカにおけるオリエンタリズム』という図録と、『Meisjes in kimono』というオランダ語の冊子を購入。


 昼から雨もあがったので、中央駅で1時間以上待って帰りの列車の予約を入れた後、運河ツアーのクルーズに乗る。乗船場が駅に一番近く、また多くの国からの観光客に対応しているはずの Holland International のボートがちょうど来ていたので乗り込むが、コースが同じかどうかは分からないけれども、同じ1時間の他のツアーに比べて若干高い。運転席には各国の小さな旗と一緒に日本のも差してあり、日本語の案内テープもあるはずなのだが、他に日本人客が同船していなかったので、やはり流してはくれない。マヘレのハネ橋やレギュレリエス運河の7つの橋など、船上からだけの眺めは十分楽しむことができたが。


 中央駅から大通りを歩いて、王宮前のダム広場へ。さらにカルファー通りを抜けてムントタワーへ。シンゲル運河沿いの花市をのぞいたりしながら、ライチェ広場へ戻る。夕食には広場にほど近いインド料理店アクバルで、スパイスのきいた辛口のラム・カレーを食べる。おいしかった。もしかしたら他のインド料理店より若干高めかも知れないが、雰囲気も含め、ここは人に推せるのではないかと思う。キングフィッシャーとコブラというインドビールを飲む。それぞれの銘柄用のグラスがあり、コブラのグラスはインドの地図で中央にここのビールだと赤いマークがついていて、なかなか洒落ていた。マンゴの果実かマンゴのアイスか悩んだが、マンゴ・ラッシーをデザートの替わりに飲んだ。

 それにしても、旅先で韓国風の焼肉やインドのカレーを食べると、どうして元気になるのだろう。自分の場合、日本料理を食べてもそうは感じない。日本から見た場合、肉食文化=西洋だと単純に決めつけられない構造のようなものが、近代日本の食文化にはあると思う。
6月15日(土)◆オランダ旅行日記*7月10日追加
 ミュージアム広場へ。ここには、国立美術館、ゴッホ美術館、市立近代美術館が集まっている。国立美術館でオランダ国内のミュージアムが1年間フリーパスとなるミュージアム・イヤーリーカード(31・5ユーロ)を購入し、三館を順番に見るつもりが、国立美術館だけで丸一日かかってしまう。いわゆる『夜警』などレンブラントの傑作10数点やフェルメールの『台所女中』など4点を始めとするネーデルランド絵画のコレクションだけでなく、オランダの歴史を辿った展示や宝飾品、さらに日本の仏像も含む彫刻類の展示がある。


 ライチェ広場にあるアメリカン・ホテルは、女スパイのマタ・ハリが1894年に結婚披露宴を挙げたことでも知られている。ミュージアム・ショップでの収穫は、マタ・ハリに関するオランダ語の小冊子を入手できたこと。マタ・ハリはいま自分が最も心惹かれている対象の一つだからだ。1905年にパリで撮られた有名な写真が、ドラクロワ、モロー、クリムトの絵画などと対照されるなど、文化史的なコンテクストも踏まえながら、その生涯がコンパクトにまとめられている。他に、『Surimono Poetry & image in Japanese prints』という、アムステルダム国立美術館所蔵のコレクションをまとめた英語の大部の図録も購入した。


 ずっと国立美術館にいて昼食を抜いてしまったので、ライチェ広場近くのインドネシア料理店の老舗ニュー・バリで早い夕食。5時台だとまだ日は高くまぶしく、他に客もいない。ライスターフェル、英語メニューではリッチ・テーブルのミニを頼む。10数皿がテーブルに並ぶが、こういうのはやはり二人以上で楽しむものなのだろう。インドネシアのビンタン・ビールを飲みながら、たんたんと口に運ぶ。
6月14日(金)◆オランダ旅行日記 *7月10日追加
 日本ーチュニジア戦をちらっとロビーのテレビで見ただけで、ホテルをチェックアウトし、北駅へ向かう。倒錯的な心境でない訳でもないが、どうせ日本が勝つだろうとたかをくくってもいる。しかし到着予定時間を過ぎても列車が到着しない。40分遅れで出発。2等が満席で1等に乗るが、しばらくすると飛行機の機内食のような感じで軽食が出る。チーズを挟んだパンと、サラミを挟んだパンと、パイと、チョコレートムースと。4種類の中から好きなのを好きなだけ食べられる。デザートがつき、飲み物をアルコール類も含め、何種類かから選べる。サラミのパンがおいしく満腹になる。

 ところが、アントワープを過ぎてしばらくすると、今度は昼食にあたるのだろうか、再び食事が配られる。先ほどの軽食から1時間半くらいしか経っていない。生ハムとチーズと豆に干しぶどうの付け合わせ。1等の車両には3人ずつ向かい合わせで座れるサロンの部屋まで付いていた。


 アムステルダム中央駅からトラムに乗り、ライチェ広場へ。『地球の歩き方』を手に安いホテルを探そうとしていると、イタリアン・ツーリストを名乗る男に話しかけられ、地図を見せてくれと言われる。やむなく立ち止まって対処に苦慮していると、いきなり偽ポリスの二人組がやってくる。パスポート・プリーズなどと言いながら、いかにも芝居がかった登場の仕方。囲まれる前にすぐのその場を離れたので、幸い何もなかったが、明らかに旅行者と分かる格好をしているだけで、日本人は眼をつけられるのだろう。

 さすがに少し自分で探す気力がなえ、ライチェ広場のツーリスト・インフォメーションで近くのホテルを紹介してもらうが、失敗した。パリよりも安いと思っていたが、場所のせいか、かえって落ちる。ライチェ広場には市立劇場があり、カフェやライブハウスやディスコなどが集まる。近くの通りにはイタリア、インドネシア、インド料理などのレストランが並び、夜中まで人が絶えない。もう少し静かなところを紹介してもらえばよかったと思う。

6月13日(木)

 明日からまた数日パリを離れます。日記もお休みします。
6月12日(水)
 もう来なくてはいけないはずの連絡がなかなかなく、精神的にかなりまいっている。具体的なことをここで書く訳にはいかないのだが、先の予定も見通しも立たず、暗礁に乗り上げた心境だ。日本と違って自分の思うようにばかりはそうそういかないのだし、ケ・セラ・セラ、なるようになると思い切れればいいのだけれど、実際にはそうもいかない。

 結果として、人に迷惑や心配をかけざるを得なくなるのが一番つらい。こうして書くことも、心配する人間を増やしてしまうことになるのだろうか。それは困る。黙って聞き流しておいてほしい。


 レオンという名のレストランでムール貝を食べる。ベルギー料理の店だが、雰囲気は明らかに日本のファミレスで、メニューも写真入りだ。昼だけの10ユーロ50のセットを頼む。ムール貝をセロリと煮た一番オーソドックスなものに、付け合わせのフライドポテトとデザートが付いてくる。店の名前のビールを飲みながら、ひとつずつ貝を口に運ぶ。

 ムール貝をつまんでいると、昔ブリュージュのマルクト広場で食べたことを思い出す。ローデンバックが『死都ブリュージュ』に描いたこのフランドルの水の都には、中世の町並みがそのまま時の流れから取り残されたかのように残っている。観光客の姿が少なくなる夕刻になると、遠い過去の時空へと自分が迷い込んでいきそうな気がする。ブリュージュに行きたい、どうしてもそう思ってしまう。

 どうして自分はこうなのだろう。日本に戻ればパリが恋しくなるに決まっているのに、いまパリにいて、思いは他のところにばかり向かってしまう。焦る気持ちがパリから居場所を奪っているのか、そぞろに漂泊の思いばかりがつのっている。
6月11日(火)
 ここのところ、1日に1,2通ずつ日本からのメールが届く。この日記を読んでいることが必ず書き添えてある。有り難いことだと思う。すぐご返事できていない方々に対しては、この場でお詫び申し上げておきたい。

 カウンターを見ても、毎日のように読者がいることがわかる。本当のことを言えば、読んでる人がいるのかどうか分からないマイナーな雰囲気で行きたかったので、カウンター設置など考えてなかったのだが、こちらが読者の反応を気にしているのではないかと、わざわざ會津さんがつけて下さったのだ。それはそれでやはり有り難いことだと思う。ただ、読んで下さる人がいるからこそ誠実に書いてしまうが、だんだんと複雑な気持ちにも傾きつつある。

 当初の目的は、ヨーロッパの状況やこちらの近況をできるだけオープンに伝えることにあった。オープンに、というのは、必要な人にだけ伝わればというニュアンスである。けれども実際に書いてゆくうちに、モチーフが少しずつ変わってきてしまったことを感じる。一つには、所詮自分は観光客と同じレベルでしか西洋に触れてはいないし、『地球の歩き方』の読者からの投稿情報くらいのことしか書けないことがわかってしまったということがある。だがそれ以上に、言葉の通じない異国で暮らすことで否応なく内省的になってしまっていることが大きい。

 もちろん、少しでも多くの人に読んでほしい、せめて一度はアクセスしてほしいという思いも強く、そのための努力(?)とお願いも少しずつしている。けれどもその一方で、この日記は結局自分のためだけに書かれているだけではないかという気持ちも拭いがたい。正直、こうしたことで躓くとは予想していなかった。


 人類学者で工学院大でも非常勤をお願いしている小川徹太郎さんは、フィリピンでのフィールドワークの時に日記をつけてみた体験を書き送って下さった。後から読み返してみて、浅い理解や独我的な偏向が目について嫌な気もしたのだそうだ。小川さんとは1年ほど前から研究会をご一緒させてもらっているが、その篤実な性格から推して、さぞ緻密で思索的な日記ではなかったかと思う。それでも後日嫌な思いに囚われたのだとしたら、間違いなく自分にも自己嫌悪と悔いとに駆られる時が来るのだろう。けれどももう、引き返すことはできない。

 午前中の試合でフランスがデンマークに完敗し、1勝もできずに予選リーグで去ることになった。午前中というのは、言うまでもなく日本とは時差が7時間あるからだ。試合を見終わって昼下がりのパリの街に出ても、どこか元気がないような気がしてしまう。日本ではロシア戦の勝利でさぞ盛り上がっていることだろう。けれども、ロシアはこの4月に2週間かけて横断してきたばかりの国だし、デンマークにはこの夏に訪れる予定になっている。それだけでも親しみのようなものがずいぶん違うし、主観的な受け止め方は少し微妙なものがある。

6月10日(月)

 モンマルトル墓地を散策する。文学者で言えば、エミール・ゾラ、ハインリッヒ・ハイネ、テオフル・ゴーチェ、アレクサンドル・デュマ、ゴンクール兄弟、スタンダールらがここに眠っている。画家のドガの墓もあるのだが、はっきりわからなかった。

 フランソワ・トリュフォーの墓もここにある。モンパルナス墓地のアンリ・ラングロワの墓は映画の名場面が石に刷り込まれていたが、トリュフォーのは平らな黒大理石に名前が彫られているだけだ。墓石を鉢植えが丁寧に取り囲んでいるだけで、ここに眠るのが有名な映画監督であることを誇示するものは何もない。その時ふいに、山田宏一『映画監督トリュフォー』冒頭の埋葬の日の記述が思い起こされ、胸がつかえそうになった。


 パリに来てから、いや実は今年になってから、まだ1本も映画をスクリーンで観ていない。こんなことは久しくなかった。生まれて初めてとまでは言わないが、少なくとも大学に入ってから以後で、これほど映画から遠ざかったことはなかったと思う。観たい映画がない訳ではないのだが、もし1本観てしまったら、そのまますべてが突き崩れてしまいそうで、禁欲的に情報誌さえ見ないようにしている。もうあと少しだから、そんな思いがかろうじて意志を支えている。

 蓮実重彦は映画を母国語となぞらえ、遅くとも10代までに映画を環境として生きることの重要さを説いていたが、その意味で言えば、自分にとっての映画は外国語でしかない。すでに大人になった段階で、母国語を一切遮断した環境にあえて身を置き語学の習得をはかるように、一時期に集中的に半ば暴力的に身体に叩き込んだ異物のような存在でしかない。生粋のシネフィル(映画狂)だと自称することなどとても出来ない。

 例えば、大学時代には早稲田のシネ研で山川直人や室井滋らと自主映画の製作にも関わっていた日本大学の紅野謙介さんと接していると、幼い頃からずっと映画に深く親しみ続けてきた人はやっぱり違うと、どうしても思ってしまう。一昨年の早稲田文学新人賞をとった城殿智行くんの話を聞いていると、ああ彼は本当に映画を愛しているし映画から愛されることも知っているんだなあと、嫉妬に近い感情を抱いてしまう。観てきた本数だけなら少しもひけをとらないはずだが、彼らのように自然には映画に接することができない。ぎこちなく、不格好にしか映画に近づいていけない。

 トリュフォーの映画が好きなのは、映画を愛し映画から愛されようとした彼の思いが、画面の細部にまで揺籃しているからだ。それは決して叶わぬ夢の結晶のようなものとして、切なく自分の心を撃つ。モンマルトルの街を歩いていると、ふいにトリュフォーの映画の一場面がよみがえり、眼がかすんでしまいそうになる時がある。

6月9日(日)

 フランス憲法学者大会出席のため来仏された長谷川憲先生と会う。長谷川先生は自分が所属する工学院大学共通課程人文・社会セクションでは二番目の年長者で、まとめ役のような存在。こちらの暮らしぶりを案じて夕食に誘って下さったのだが、担任の家庭訪問を受ける出来の悪い生徒のような気分もしないではない。

 約束の時間にホテルに伺うが、ロビーで20分待たされた。あまりの忙しさに、自分で招集しておいた会議に時々遅刻してくるのがこの先生の困ったところなのだが、状況は異国にきても変わらないらしい。でもまあ、二ツ星レストランでご馳走になってしまったから、文句も言えないか。

 アルバサド・ドーヴェルニュ。ポンピドー・センターに近いオーヴェルニュ地方の郷土料理店。チーズをアリゴテという白ワインで溶いてのばしたものが、この店の名物。席の前で、フライパンから頭の上まで手を伸ばしてチーズを引っ張り上げ、こんなにのびるんだぞと実演してくれる。ソーセージをくるんで食べる。チーズくささはまるでなく、こまくして蒸したポテトのような味がする。

6月8日(土)

 パリ日本文化会館の図書室へ。『定本横光利一全集』の「旅愁」の巻をぱっと開くと、「チユイレリイ宮殿の跡」の文字。いっぺんで必要な箇所を引き当てる。偶然とはいえ、すごいことだ。

 チュイレリー公園にあるオランジュリー美術館は、1998年以来の改修工事がまだ終わらず、閉館中の状態が続いている。「旅愁」では「モネー館」と記された、モネの『睡蓮』の絵に囲まれた楕円形の部屋にも入ることはできない。

 「睡蓮の花の間に渦紋が漂ひ密集した浮葉の群青のその配置は、見れば見るほど一つとして同じ形のもののない緊密なリアリズムの沼だつた」(「旅愁」)。しかし、おそらく時間のもたらす修正作業が大きく働いているのであろう、自分の記憶の中の『睡蓮』は、リアリズムという言葉とは遠く、幻想的なまでの光のたゆたいと共にある。そこには本当に、どれだけの光の戯れが、洪水があふれていたのだろうか。「群青」の印象が強く、その光の記憶をはっきりと呼び起こせない。切実に、モネの光を見直したいと思う。


 夜11時過ぎ、テレビでユーロスポーツのワールドカップの試合ダイジェストを見ていたら、長居スタジアムのある「大阪」が小特集の形で紹介され始めた。最初は常套的に、道頓堀からユニバーサル・スタジオ・ジャパンまで観光スポットの映像を流していたが、次に大阪は相撲ファンがとても多いところだとしてジュニア相撲の練習風景が流れ、さらに大阪のラブホテルにはとても面白いものが揃っていると言ってユニークな部屋のあれこれが映し出された。レポーター役の日本の女性タレントも明らかに困った表情で台本を口にしている。今に始まったことではないのだが、本当にまあ、人は異国に対して見たいものしか見ないんだなあと、思わず溜息が出てしまった。

6月7日(金)

 モンマルトル博物館を見学する。17世紀にはモリエール劇場の俳優ロッシモンドの別荘だったという小さな洋館に、ぶどう畑しかないないような小さな村だった頃の絵から、ムーラン・ルージュやシャ・ノワールなどに関する資料などが端正に展示されている。こういう小さな博物館がとても好きだ。ふと庭に目をやると、有名なシャ・ノワールのポスターそっくりの黒猫がゆっくりと前を通り抜けていった。

 モンマルトルバスにも乗った。観光用ではなく、普通の路線バスだが、他の市内バスと違って路線番号がついていない。地下鉄のピガール駅とジュール・ジョフラン駅とのある広場にそれぞれ始発ー終着のバス停があって、全行程乗るとモンマルトルの丘を、石畳の坂道を上り降りしながら巡回することになる。ジュール・ジョフランに向かう途中ムーラン・ド・ギャレットのすぐ近くで停車し、ピガールに向かう路線はサクレ・クール寺院のすぐ前も通る。
6月6日(木)

 モンマルトルを散歩する。地下鉄2番線アンヴェール駅からサクレ・クール聖堂の方へ向かう道はちょうど寺社の参詣道といった趣きなのだが、お土産屋と並んでこのあたりには洋服の安売り店や生地屋が何件もある。マックス・フルニー素朴派美術館を見たあと、石段を上ってサクレ・クール聖堂へ。すぐ近くに、似顔絵描きがたくさんいるテルトル広場。エリック・サティの住んでいた家とモンマルトル博物館の前を通り抜け、右折して坂を下る途中にぶどう畑と有名なシャンソニエのラパン・アジル。昇り降りのきつい階段などもあるが、石畳の坂道を歩くのは、パリの他ではなかなか味わえない情趣がある。

6月5日(水)

 ルーヴル美術館の年間会員登録をする。年会費50ユーロ。これで一年間、特別展も含めフリーパスとなる。ちなみに通常の入場料は7.5ユーロ。在仏中に何回来れるかはわからないが、パリに住むことの贅沢は、見たい時に見たい作品だけ存分に見られることだと思う。

 オルセー美術館にも年間パスがあるが、そっちはどうするか少し悩んでいた。ルーブル年間会員の特典をみると、オルセーとポンピドーの年間パスが団体及びグループ料金で購入できるとあるから、近日中に申込みに行く気持ちが固まったが、実はルーブルと同じようにオルセーにも行きたくなるかどうか、疑問だった。

 誤解ないよう書き添えるが、オルセーはとても好きな美術館なのだ。館内の見取り図を見れば、ああここにはあの絵があったと鮮明に思い出すことができる。ただ、1848年から1914年までの作品を集めたオルセーは、画家毎にあるいは流派毎に部屋が区切られ、美術史の流れに沿って整然と展示が組み立てられており、一部分だけ見ようという気持ちになかなかなれない。それは王宮であるルーヴルと、駅を改造したオルセーの違いから来ている面もあるかも知れない。

 ルーヴルは何時行っても人が多く、騒然としている。ここは一日かけてじっくり見るというよりも、好きな作品を見に通い詰めてこその場所だと思う。まわりにどれほど人がいようとも、あたかも自分だけのためであるかのように、作品はいつもの場所で待っていてくれる。


 ところで、以前コレアン・バーベキューという日本人オーナーの焼肉屋のことを書いたが、それでは日本料理屋はというと、どうやらパリでは韓国人や中国人の経営が多いようだ。店に入ると片言の日本語で話しかけられ、厨房から韓国語や中国語の会話が聞こえてくることがしばしばある。焼き鳥とお寿司のセットを主とするタイプを中心に、パリの日本料理店は100店を下らないと思うが、日本人によるものは何%くらいなのだろうか。もちろんだからどうと言う気はない。おそらく日本人観光客がターゲットの一つだからであろう、メニューには日本語が書き添えられ、壁の張り紙にも日本語で食べられるものが並べてあるくらいだから、注文で困ることもない。

 帰りがけに、ルーヴルの近くで醤油ラーメンを食べた。カウンターの向こうの会話はフランス語まじりの韓国語だった。

 パリは朝から強い雨が降ったり止んだりで、一日中鬱陶しい。天気のせいばかりではないが、気分が鬱に傾きがちでよくない。

6月4日(火)

 以前パリに滞在中の人から突然航空便が届き、横光利一『旅愁』の資料をコピーして送ってくれと頼まれたことがあった。手紙には千円札が挟んであり、至急資料が必要になった事情が切々と記してあった。いろいろな人にコピーカードを預けて資料を送ってくれるよう頼んできたのだが、誰も送ってくれない。そんな訴えも書いてあったが、こんな頼み方をしているようではそれも当然だろうと思った。日本から送る側に対する想像力が全く欠けていたからだ。

 修士論文は横光で書いたから、確かに基本的な書籍は手元には揃ってはいる。しかし自分のには書き込みもあるし、論文コピーには紛れてすぐ出てこないものもある資料。そもそも自宅にコピー機がある訳でもない。結局、非常勤先の短大の図書館で、授業の後に半日近くかけて資料のコピーを揃え、今回限りと書き添えて航空便で差し出した。

 無事受け取ったという連絡さえ来なかった。いや、礼状などどうでもいいが、腹がたったのは、その資料を用いて書いた文章の掲載誌もコピーも送ってこなかったことだ。簡単に入手できるからと考えたのかも知れないが、『旅愁』の資料送付を頼んだのは、こちらを横光利一の研究者だと認識したからではなかったのだろうか。研究者同士の関係は何よりも書かれたものを通しての関係が優先されるべきだと自分は考えるし、明らかに相手の態度は礼を失していると思った。

 その後、偶然会った折に口頭で礼を言われたが、立ち話を続ける気分にもなれなかった。

 断っておくが、その人を非難するためにこんな昔話を書いたのではない。異国に暮らしていると、それくらい日本にいる人との感覚のズレが生じる怖れが、自分にもあると思うからだ。

 出発にあたって、幾人もの人が必要な資料があれば送りますよ、とおっしゃってくれた。有り難いことだと思った。けれども基本的な資料は自分で入手する手だてを講じるべきだと思い、大学院生に資料送付のアルバイトをお願いしてきた。とはいえ、彼にばかりすべてを依存することはできないから、間違いなくいろんな方にお願いをすることになるだろう。それでも、甘えすぎてはいけないなと思う。切実に読みたいと思う本や資料が増えているだけ、よけいそう思う。

 心待ちにしていた、次の仕事に必要な資料コピーの束が昨日日本から届いた。日本ーベルギー戦をテレビで見た後、パリ第7大学へ早速受け取りにいった。

6月3日(月) *7月10日追加
 スペイン旅行をはさんでしばらく滞留したオデオン劇場近くのホテル・グランドテル・デ・バルコンを出て、モンマルトルに移ることにした。少しずつ荷物も増え、移動もしんどい。
 パリが一望できる高台のホテルをまず当たったのだが、インターネットが使えるかどうかなどと話しているうちに、近くの別のホテルに電話で連絡をとってくれた。折角の好意なのでそれに従うことにしたが、一泊くらい最上階の部屋に泊まってみたかったなあと、残念な気持ちも強く残っている。

6月2日(日)

 14年前のソウル・オリンピックの時はイギリスにいた。ホームスティ先のテレビで観た、鈴木大地が金メダルをとった背泳ぎの決勝などは今も鮮やかに記憶に残っている。けれでも自分にとってのソウル・オリンピックは、もし日本にいたら体験できたであろうそれとは、決定的に異なっている。帰国後、必要があってその時期の新聞記事を読むことがあったのだが、そこで報道されているオリンピックが、自分の知るそれと同じものだとは思えなかった。それほど国際的なスポーツ・イベントはメディアによる統括力が強く、どこで観たかで印象がまるで違ってしまうことさえあるのだ。自分にとってのソウル・オリンピックは、日本の時間的堆積とは完全に切れた、どこか別世界の夢のような出来事として、記憶の中にだけ存在している。

 いきなりこんなことを書いたのは、言うまでもなく今、韓国と日本でサッカーのワールドカップが開催されているからだ。前回98年の優勝国であるフランスでも関心は高い。幾つもの試合がテレビ放映されているし、毎夕刻にはその日の結果を中心とした特集番組も組まれている。思いがけなくも初戦でセネガルに敗退したショックは、はっきりと伝わってくる。情報として不足はないし、インターネットを通して日本での報道振りを知ることも可能だ。けれどもやはり、自分にとっての2002年ワールドカップは、日本にいたら体験したであろうそれとは、間違いなく別のものになってゆくだろう。試しに幾つかの日本の新聞社のサイトの記事をネット上で読んだのだが、別の世界のフィクションのような記述にしか感じられず、もうこの時点で感覚が決定的にずれていると気づいてしまったからだ。

 サッカーをめぐる言説は怖い。ナショナリズムにまみれたオリンピック言説のような単純な表れ方をしない。もちろんそこに魅力と可能性があることも確かなのだが、今日本のメディアを領有している言説は、そうした繊細さはもとより怖ささえも忘れさせる単一性に満ちてはいないのだろうか。自分が信頼するほんの一握りの言葉など、ひとたまりもないだろう。そんなことを思うと、日本のサイトでの記事を読みたいという気にはどうしてもなれない。いたたまれなさに胸が痛み、フランスにいることが幸せなことなのかどうかさえわからなくなる。

 のんびりとした日曜日の空気のたゆたうなか、カフェ・レ・ドゥー・マゴで昼食にカレー風味のサラダを食べる。すぐ隣がカフェ・ド・フロール。この2店はサルトルやボーヴォワールが常連だったことなどでよく知られている。ドゥー・マゴは渋谷の文化村の地下にもあるが、パリのここはテラス席のすぐ目の前がサン・ジェルマン・デ・プレ教会で、通りに面したカフェとはまた違った趣きがある。日差しがのびてくるとテラス席の屋根が動く。席には海外からの観光客も多い。
 突然「ワールドカップ!」と、試合結果を速報する新聞の売り子の青年の声が響いた。空気が一瞬動いた。帰ってから、スペインースロベニア戦をテレビで観た。

6月1日(土)

 昨日の続いて、国際シンポジウム「1920年代の日本の大衆文化」を聴講しに、パリ第7大学へ。残念ながら一日目の参加者が30名ほどだったため、50名位入る教室へと会場が変更になる。そのことで発表者と聞き手との距離がぐっと縮まり、昨日にも増して発表が終わる毎に何人もの発言が続く。ほんとに議論の好きな人たちなんだなあと、思わず感心してしまう。

 フランスで「新国劇」の話を聴いたりすると、なんか不思議な感じでしょ、と坂井さんから尋ねられたが、今の自分の関心と重なるため、不思議とは感じない。とはいえパリに来て、「カチューシャの唄」「船頭小唄」「篭の鳥」「東京行進曲」「波浮の港」「君恋し」「酒は泪か溜息か」「島の娘」「東京音頭」のさわりをカセットテープで流しながら日本の流行歌史を辿る話に接したり、関西圏の鉄道路線図と大阪の英語版の市内地図のコピーを資料として配布し、阪急電鉄を中心とする各私鉄の特徴等を指摘する報告を聴いたりする機会があろうとは、やはり想像していなかった。

 こうした発表が概説に傾くのは止むを得ない面もあると思うが、どう受け止めるかはむしろ聞き手の側の問題であろう。例えば、昨日も新国劇がなぜ東京ではなく関西圏で発展したのかが問題となったが、日本であれば直ちに関西人気質や風土性の問題へと還元され実体論的にあるいは体験論的に語られてしまいそうな話題が、ここでは別のスタンスで議論されている。距離の取り方みたいなものが決定的に違う感じがする。おそらくフランスから見れば、東京も大阪も等しく遠い異国の都市なのだ。少なくとも自分には、その感触は新鮮だしものを考える糧となる。


 シンポジウムの開始前、昨日「新国劇」の話をされたブライアン・パウエルさん、日本近代文学の研究者であるイレーナ・パウエルさんのご夫妻と話をすることができた。東京の工学院大学に勤めていると話すと、すぐに今井先生の名前を出された。今井義夫先生はロシア社会思想史、特に協同組合運動の専門家で、その今井先生がちょうど今の自分と同じ在外研究の形で若き日にイギリスに滞在しておられた時以来の、何十年に及ぶ家族ぐるみのおつきあいがあったのだと言う。

 自分が工学院に勤め始めた翌年に定年退職されたため、今井先生とは親しくお話する機会がほとんどなかった。のみならず昨年、突然鬼籍に入られた。最終講義に当たるような講演で、これからようやく自分の研究に打ち込めると若々しく嬉しそうに語っておられたのが印象に残っていただけに、訃報が嘘のようにしか思えなかった。告別式にも翌日のお葬式にも、とてもたくさんの方がみえられていたのですよと話すと、ご夫妻はなつかしそうに目を細めておられた。


 お昼は矢田部和彦さんと近くのカフェでとった。ゆっくりランチがとれるよう昼休みを2時間もとってあるのが、いかにもフランスらしい。矢田部さんは日本の大学で政治学を修めた後、フランスに渡って社会学の博士号を取られている。現在はパリ第7大学の日本セクションに所属し、卒論でホームレスなど現代日本の社会問題を取り上げる学生は、矢田部先生が担当となる。専門は歴史社会学・都市社会学で、特に今は「散歩」を、「移民」の問題と絡めつつ公共性の観点から研究されている。そのさわりをお聞きし、発想の斬新さと鋭利さとにすっかり魅せられてしまった。

 松田良一『散歩の詩学サンポロジー』(駸々堂出版、1988.7)など日本にも「散歩」を主題とした本は存在するし、その幾つかは個人的な興味から書架に収めてもいるが、こうした視点は皆無だったと思う。現役の新聞記者で、村上春樹の熱心な読者でもある矢田部さんの関心領域は広い。ヨーロッパの日本学の現状や問題点などについて、いろいろと教えていただいた。


 会場に戻ると、中島国彦・長島裕子ご夫妻が大学生の娘さんと三人で、セシル坂井さんの発表を聴きに来ておられた。中島先生は、自分が大学時代に出会った最初の日本近代文学の専門家である。卒論は竹盛天雄先生だったが、中島先生の卒論指導の自主ゼミにも特別に出席させてもらっていた。

 4年生向けの講義で、当時結婚したばかりの先生は、妻と正月にトランプで婆抜きをしながら漱石の話をしていて…、と前振りをしてから授業を始められたことがあった。不出来な学生だった自分は、二人きりで婆抜きして何が面白いのやらとやっかみ半分に思ったことだけ記憶に残っていて、肝心のその後の講義内容は少しも覚えていない。それにしても昔の恩師に久しぶりに、それも異国でお会いしたりすると、どう応対していいのやら少し困ってしまう。


 その他、いずれ紹介する機会もあると思うからここでは省くが、何人かの人から名刺をいただいたりなどした。散会後の懇親会にも出席させていただき、おいしいワインを飲んだ。今日が、日本を離れて後、最も多く日本語を話した一日だった。

▲このページのトップへ

Copyright © 怪美堂 All Rights Reserved.