2002年  12月
12月31日(火)*1月12日追加
 今年も今日でおしまい。帰国まであと3ヶ月弱となった。仕事上必要のある方にだけ帰国予定を伝えたら、揃えたように皆、こちらがあまり長く日本を離れていた実感がなく、1年ってあっという間ですねと返事に書き添えてある。ちょうど年の瀬でこの1年の慌ただしさを振り返る時期であったこと、それとこの日記である程度こちらの状況を把握できたこともあるようだが、確かに逆の立場なら自分もそう感じたかも知れない。

 けれども、率直に今の実感を記すならば、この1年は例年になく長かったような気がする。シベリア鉄道に乗った日のことなど、もう遠い昔の出来事のように思えるのだ。半年を過ぎたあたりから、日本との距離も大きく広がってしまった感じが否めない。留守中の知らないこともさぞ増えていることだろう。

 パリの大晦日がとても華やかなことは聞き知っているが、どこにも出掛ける気分にはなれない。昼はモノポリで買ってきたパックのお寿司をつまんだ。夜は豚肉と豆腐と白菜とえのきで簡単な鍋料理を作り、最後に年越し蕎麦を食べる。お餅も入れよう。紅白歌合戦で時間をつぶすこともできないし、除夜の鐘も聞こえてこない。静かな静かな異国での年越しである。
12月30日(月)*1月12日追加
 4月から非常勤として出講する大学のシラバス原稿を書く。手元に資料がないこともあって、結構頭を悩ます。開講前に読んでおきたい本も多い。帰国後早々に授業準備に取りかからないと大変そうだ。

 アクション・クリステイーヌ・オデオンでラオール・ウオルシュ監督の『追跡』(1947)の18時からの回を観る。アパルトマンの部屋から30分少々で映画館に到着。割と長い列ができていて、しかもなかなか前に進まなかったが、全員入場するのを待って上映開始。予告編もなにもなく、いきなり暗くなってスクリーンにポンと映画が映し出される。日本ではこんなに易々と古いハリウッド映画をスクリーンで楽しむことは叶わない。パリに対する名残惜しさがこみ上げてくる。
12月29日(日)*1月12日追加
 アクション・エコールのルビッチ特集へ。今日の上映は『青髭八番目の妻』(1938)。ゲイリー・クーパーとクローデット・コルベールの主演で、ニースからチェコへと舞台が移動する。『西部の人』とは20年の隔たり。ゲイリー・クーパーの出演作には好きな映画がとても多いのだが、その一人の男優の変貌を思う。

 帰宅後、部屋の屋主を訪ね、解約を申し入れる。家主のおばさんの方は慣れた感じだが、ご主人の方は少しがっかりされた様子。天井や壁を全部塗り替えてきれいにするって、はりきっていたからなあ。契約は普通1年以上なので、9ヶ月で出てしまうのは申し訳ないことではある。しかし、この部屋はものすごく恵まれたところなので、家賃こそ安くはないが、すぐに借り手がみつかるだろう。

 夕食は日曜でも開いている近所のイラン料理店へ。ガラス窓に大きくサンタの絵が描いてある。ユーゴスラビア風の羊肉のブロシェットを注文。先日、ジェームズ・ボンドがイスタンブールからパリへ向かうオリエント急行に乗って、ユーゴスラビアを通り抜ける『ロシアから愛をこめて』(1957)を読んだところだからである。
12月28日(土)*1月12日追加
 昨日に続いてアクション・クリステイーヌ・オデオンの西部劇特集へ。12月25日から大晦日も正月も休みなしで1月21日まで続く、29本の連続上映。思わずここにラインナップを転記したくなるほど、著名な作品がずらりと並ぶが、ジョン・フォードだけは1本もない。2月5日から今度はフォード特集が予定されているからだ。

 『西部の人』(1958)。昨日の『裸の拍車』と同じくアンソニー・マン監督の名作。どちらの映画も男たちは殺し合い、最後はジェームス・スチュアートとジャネット・リー、ゲイリー・クーパーとジュリー・ロンドンの馬上のカップルだけが残る。『シェーン』のように女子供を残して一人旅に出てゆく孤独な男の物語だけが西部劇ではないのだ。けれども、一見パッピーエンドにみえるその結末からは、より深いペシミズムをみてとることもできる。
12月27日(金)*1月12日追加
 映画館アクション・クリステイーヌ・オデオンへ。日替わりで西部劇の特集をやっている。初回である14時からアンソニー・マン監督の『裸の拍車』(1953)。次の16時からもう一室の方の『The Good Fairy』(1935)。日本ではかつて『お人好しの仙女』の題で公開されたようだ。ウイリアム・ワイラー製作・監督、プレストン・スタージェス脚本。婚約者から逃れようとするスクリューボール・コメディのヒロインとは逆に、マーガレット・サリヴァンはその場しのぎのでまかせで夫がいると言っては、男たちを騒動に巻き込んでゆく。ルヴィチ・タッチの艶笑喜劇とスクリューボール・コメディをつなぐ歴史的に貴重な作品と位置づけられるかも知れない。

 レストランの夜の開店まで間があるので、セーヴル通りのシャンテリーヴルという書店で時間をつぶす。絵本の専門店といっていいほどに品揃えがよく、テーマ毎に書棚に整理されている。「戦争」と記された箇所の本を1冊ずつチェック。フランスにも『かわいそうな象』のような物語があるのかどうか探しているのだ。戦争ものは人間のままだとリアルすぎるのか、動物に擬人化したものが目立つ。Isabel Pin『Le Noyau(核)』、Nokolai Popov『Pourquoi?(なぜ?)』、それぞれ、昆虫、蛙と鼠が戦争をして滅んでしまう物語だ。そして文=今西祐行、絵=沢田としきの絵本『土のふえ』(1998) の仏訳『Le Printemps des Ocarinas』(2002)。さらに、子供向きに映画史とメリエスの生涯とをまとめた絵本を購入したら、結構いい値段になってしまった。
12月26日(木)*1月12日追加
 久しぶりの青空。カメラを持って地下鉄ヴァヴァン駅上の交差点から、リュクサンブール公園へ。冬枯れの樹木の間から、白や青銅色のたくさんの彫像がはっきり姿を現している。ジョン・バカン『三十九階段』を読み終え、短編集『007号の冒険』を読み始める。最初の作品「バラと拳銃」の舞台はパリ。「一九四五年以来、彼(=ジェームズ・ボンド)はパリで楽しい思いをしたことが一日もなかった。」(井上一夫訳)

 007シリーズは第二次大戦後の米ソ冷戦時代を背景とし、イギリス秘密情報部のジェームズ・ボンドが立ち向かう相手も、ソ連国家保安省のスメルシュが代表的だ。しかし、19世紀末までのイギリスの仮想敵国はフランスであり、アースキン・チルダーズ『砂洲の謎』(1903)がそれをドイツの脅威へと地勢学的具体性を盛り込んで変換することで、近代スパイ小説が誕生する(新保博久「ミステリ再入門」)。007シリーズの第3作『ムーンレイカー』でも、ナチス残党のイメージがソ連の謀略と節合されている。では、フランスはというと、これが簡単ではない。しかし、第1作『カジノ・ロワイヤル』からして舞台はフランスなのだし、考え始めると結構難問に突き当たった気がしてくる。
12月25日(水)*1月12日追加
 クリスマスは祝祭日。昼食のついでに散歩するが、いつもの日曜にもまして街は閑散としている。コンラッド『密偵』(井内雄四郎訳『スパイ』)を読み終わる。
12月24日(火)*1月12日追加
 午前中、旅行代理店に電話し、帰国のための航空券の予約を入れる。続けて不動産屋に電話。帰国日時が決まったことを伝える。住居など様々な解約手続きを記した書面を送ると言われる。本とかを見ても、帰国までのあれこれが結構大変そうなのだ。早め早めに手を打たなければ。

 モノポリで、薪をかたどったブッシュ・ド・ノエルというケーキを買う。これを食べるのが、こちらの習慣。他にシャンペンと、七面鳥は見あたらなかったので、鶏のグリル。ささやかにクリスマス気分にひたる。
12月23日(月)*1月12日追加
 帰国用の航空券を予約しようと、旅行代理店を訪ねる。来年8月末にポーランドである欧州日本研究学会に参加するので、パリー東京間の半年オープンの往復航空券を購入するつもりだった。ところが、こちらの滞在許可証が途中で切れてしまうのだとすると、半年以上の期間の往復航空券は原則として販売できないと言われる。復路の日本出発時に、空港で搭乗を拒否されることがあるからだそうだ。

 意外な答えに少々驚く。実はだいぶ以前、ロンドンから日本に帰る際にもKLMの一年間オープンの航空券を使ったことがあるからだ。当時は格安航空券の本場であるイギリスで購入するのと、日本で購入するのとではかなりの価格差があり、そうした形で毎年往復している人がまわりに何人かいた。現在はパリー東京の往復の場合、むしろ日本で購入した方が安い場合もあるようなのだが、そうした価格自由化時代にずいぶんと窮屈な話だと思う。どうするか、一晩考えてからお電話しますと伝えた。

 夏に北欧に行った際にも利用したこの旅行店の女性担当者はとても懇切で、いつも様々な情報を丁寧に教えてくれる。2月にまたイタリアに行く可能性があるので、パリーミラノ往復の格安チケットの値段も教えてもらう。2週間前発券で土曜を挟む形だと316ユーロ。さらに土曜出発、日曜帰着だともっと下がって148ユーロ。ただし、格安の席の数は限られているので、後者は2月だともう殆ど残ってないそうだ。そして、格安の席が売り切れてしまった場合は、同じ航空機に正規料金で乗らないとならない。984ユーロ。つまり、日本との往復航空券よりも高くなってしまうのだ。季節による格差も大きいし、聞けば聞くほど航空運賃が摩訶不思議なものに思えてくる。
12月22日(日)*1月12日追加
 昨日スーパーのモノポリで、お寿司のパックを持ってレジに並んでいたら、そういうのはどこにあるのかと日本人の妙齢の女性から尋ねられた。今日も会計を済ませると、すぐ後から「クレジットカード、オーケー?」といかにも日本語っぽい女性の言葉が聞こえてきた。日本人が多い場所だから、スーパーで買い物をする日本人女性をみかけること自体は全然珍しくない。ただここからは想像だが、その方たちはパリに夫が、あるいは子供夫婦が長期出張で来ていて、せめて正月休みだけでも家族水入らずで過ごそうと、はるばる日本からやってきたのではないだろうか。

 そう言えば芳川泰久さんも、妻子がこの冬休みにようやくこちらに来るのだが、帰りの飛行機が元旦しか取れなかったとおっしゃっていた。学校が始めるまでの1週間が完全に満席だというのは、ここまで会いに来る家族がそれだけ多いということだろう。さすがに高齢の両親はフランスまで来る意志がなく、正月くらい帰って来いとも言われなくて有り難いことだと思ってはいるのだが、日本人の盆暮れの過ごし方をつい思いだしてしまった。
12月21日(土)*1月12日追加
 フランス日本研究学会の大会3日目。午前午後ともそれぞれ4つの部屋に分かれての分科会。午前はセクションA「言語」、B「文学と思想」、C[歴史と社会」、D「美術」の4つで、それぞれ発表が4本ずつの計16本。午後はE「言語」、F「文学と思想」、G「歴史と社会」、H「経済と経営」の4つでEが3本、Fが2本、GとHは4本ずつで計13本。

 開始時間の9時より少し遅れてB「文学と思想」の会場へ。入って驚いたのは、20人ほど掛けられる丸テーブルだったことで、学会というよりは研究会といった雰囲気だったことだ。最初はエステル・フィゴンさんの「谷崎の自伝をめぐって」。手渡されたレジュメを見ながら、『幼少時代』の「私」を中心に谷崎の自伝的小説のディスクール分析を聴く。正確に言えば、その発表内容を想定する。人数が多くないだけに質疑もとても活発だ。日本でもほとんど注目されることのない『幼少時代』の一人称回想形式をなんとか評価しようとする発表者に対し、坂井アンヌバヤールさんから『吉野葛』はポリフォニックだが『幼少時代』はどうかと質問が飛んだりする。続けて、上田眞木子さんの「まどみちおにおける幼年時代 ひとりであること、讃えること」。「ぞうさん」「やぎさん ゆうびん」など、まどみちおの有名な童謡や詩をずらりと並べたコピーが丸テーブルの着席者にさっとまわされ、時々日本語でリズミカルに詩を読みながらの愉しい発表。会場の雰囲気もなごやかだった。

 休憩の後、今度はD「美術」を覗いてみることにする。同じく丸テーブルで参加者数はBと同じくらい。ただスライドやOHPが使えるようスクリーンが下ろしてある。まず多原香里さんの「蠣崎波響筆「夷酉列像」についての一考察ー夷風性とアイヌ民族」。この発表を聴きたかったのは、中村真一郎の大著もある蠣崎波響にはずっと興味があったからだ。ブザンソン美術館の「夷酉列像」を一点ずつスライドで映しながら、その装束の意匠が中国のものであることを指摘。わかりやすい丁寧な発表。続いてヴァレリー・ドゥニオさんの「1950年代の日本の洋画にみる鬼の表現ーパリに生きた日本人画家たちを中心に」。カラーコピーも配った上で、やはりスライドを使いながら説明。鬼という字をモチーフにした作品やちょっと見では鬼だとわからないような作品ばかりで、あまりこの時期の洋画を知らないだけに勉強になる。お二人とも若い女性で、すぐ横の席に大学院の指導教官かと思われる方が腰掛けている。質問に対して一生懸命答えようとしているのがよくわかる。なんだか大学院のゼミを覗かせてもらった気分だった。


 昼休みの後は、G「歴史と社会」へ。パッサム・タヤラさんの「極東のオリエンタリズムー日本のオリエンタリズム発見」。理論的な話ではという予想と違って、日本のイスラム研究がどう始まり、文献がどれだけ増えていったかという内容。東海散士編『埃及近世史』(明22)の表紙、奥付、目次などが配布資料に含まれていた。その後のエディー・デュフルモンさんの「第一回東亜文学者大会」も聴きたかったが、急いで隣りのF「文学と思想」の部屋の前へ。午後最初の発表が終わってすぐ入室するが、すでにテーブルは満席で、予備に置かれた端の椅子に腰掛ける。

 なぜそんなに参加者が増えていたかというと、午後2番目の「田園へのあこがれー「桃花源」から「病める薔薇」」という佐藤春夫に関する報告の発表者が、オギュスタン・ベルクさんなのだ。日本でも『空間の日本文化』『風土の日本』などで知られるベルクさんの知名度は当然フランスでも高く、ついに立ち見の人まで出る。最初にレジュメが配られるが、これが註までついた完全に論文の状態のもので、このまま日本語に訳してほしいと切望してしまう。中国漢詩の影響を論じた比較文学的内容を含むものだが、やはり「田園(campagne)」のイメージをめぐって色々と議論が起こる。「田園の憂鬱」の「憂鬱」の方は「triste」と訳されていて、「melancolie〔最初のeに´〕」でも『パリの憂鬱』の「spleen」でもない。言葉一つ取っても、いろいろなことを考えさせられた。


 休憩後、さらにG「歴史と社会」に戻り、ソフィー・ウダールさんの「2005年日本国際博覧会開催地里山の政治事情」と則松宏子さんの「日本における子ども観ー日仏比較研究から」を聴く。後者は東京とパリで取ったアンケート結果をもとに、6ヶ月から3歳までの幼児に対する親の接し方の違いを浮き彫りにしようとする報告だった。そして最後にオーディオトリムでの、元東京大学史料編纂所長の石上英一さんの講演を聴きに行く。講演のすぐ後が学会の総会で、入ると会長選挙の投票用紙を渡される。ここだけ参加しに来られた方もいるようだ。講演に先立って「前近代日本史料の情報資源化の研究」という史料編纂所データベースのホームページ画面コピーなどを含む60ページの日本語の冊子が配られる。講演では特に史料編纂所の歩みを戦前の歴史やアジア諸国との関わりも含めて紹介されたのだが、どういう政治的緊張感の中で公的使命を意味づけようとしているのかがわかり、こう言っては何だが、期待していた以上に興味深かった。


 フランス日本研究学会では総会の後に、懇親会にあたるカクテル・パーティがあるのだが、総会とパーティはパス。会場に来ていた矢野卓くんとアン・クレールさんがうちに来るというので、部屋でお寿司をつまみながら日本酒を飲むことにしたのだ。アン・クレールさんは11月28日の日記で紹介したが、坂井セシルさんの許で津島佑子の研究に取り組んでいる。矢野くんはナントでの池澤夏樹、古井由吉、津島佑子、堀江敏幸の連続講演会で通訳をつとめていた20代の男性。実はナント在住の矢野くんから、できればパリで一泊させてもらえないかと頼まれていたのだ。明朝ストラスブールに旅行に出るというアン・クレールさんは早々に帰られたが、その後終電の時間を気にすることもなく(笑)、矢野くんと午後3時近くまで飲む。

 矢野卓くんは二松学舎大学の国文科を卒業した後、フランス語を学ぶためにこちらに来て4年目。卒論の指導教授は、遠藤周作とモーリアックの専門家であった上総英郎先生で、大学時代からアテネ・フランセに通っていた彼が国文の大学院に進まずフランスに来る決心をしたのは、上総先生が急逝されたことが大きかったらしい。トゥールーズの語学校で学んだ後、ジュリアン・グラックの専門家であるパトリック・マロ教授にメトリーズの論文を今年提出。9月からはナント大学のフッリップ・フォレスト教授の許で、大江健三郎とサルトルの比較文学的研究に取りかかっている。

 矢野くんはフォークシンガーになりたかったそうで、岡林信康や早川義夫に傾倒している大の60年代フリーク。なんだか話をしていると年齢差、世代差が段々怪しげになってくる。このへんは彼のお父さんがテレビのディレクターであったことなどが絡んでくるのだが、こまかい話は省略。矢野くん自身のことは何よりご本人に語ってもらおう、ということで彼がネット上で公開しているエッセイにリンクしておきます。特に若い世代の方々、ぜひ読んであげて下さい。

矢野卓「どこでもない場所と色調」

12月20日(金)*1月12日追加
  フランス日本研究学会の大会2日目。今日明日の会場は、地下鉄ミケランジュ・オートゥイユ駅を出てすぐの、国立科学研究所(CNRS)。入ってすぐのところに設けられた受付で、まずフランス日本研究学会の入会手続き。年会費と昨日払った今回の参加費8ユーロとの差額14ユーロで大丈夫だった。地下鉄の改札口のようなところを抜けて、右手の階段を若干降りて進んだ先が今日の会場であるオーディオトリム。まるで映画館のような背もたれの高い椅子がずらっと並べられ、正面スクリーンにはパソコン画面が映し出されている。

 まず、今日の特別セッション「近世思想を考える」のプログラムを、昨日受け取った冊子から転記しておこう。


 9:30 坂井セシル
ジャン=ピエール・ドレージュ
挨拶
 9:40 ジャック・ジョリ 井上哲次郎、丸山真男の業績をはじめ近世思想史の現在までのさまざまなアプローチをめぐって
10:10 ジャン=フランソワ・スーム 時間・場所・人間ー江戸時代における「変遷」と「改革」の概念をめぐって、碩学から政策へ
10:40 ギョーム・カレ 江戸時代の硬貨と信用貨幣の問題
11:10 休憩  
11:25 タイモン・スクリーチ 狩野派盛衰記
11:55 堀内アニック=美都 遠く離れたところより、ありのままの自分の姿を見つめるー十八世紀末における自己表象の変遷について
12:25 昼食  
14:00 マセ美枝子 本居宣長(1730ー1801)と医学
14:30 フレデリック・ジラール 儒仏問答による羅山の仏教批判
15:00 休憩  
15:15 ヘルマン・オームス 近世思想における人生論
15:45 ナタリ・クワメ 徳川光圀の宗教政策ーその内容とイデオロギーを問う
16:15 フランソワ・マセ 江戸時代の神道諸流派に見る共通概念神道の存在の有無をめぐって
16:45 休憩  
17:00 パネルディスカッション 江戸時代の表象と実践
 

 坂井セシルさんとジャン=ピエール・ドレージュさんの挨拶の後、壇上にはジャック・ジョリさんとジャン=フランソワ・スームさんが残り、ジョリさんが井上哲次郎、丸山真男から子安宣邦ら最近の研究までを概説し、続けて午前中の司会役のスームさんが自ら二番手の発表を始める。林羅山、熊沢蕃山、中江藤樹らのフランス語訳と原文とを並べた配布資料従いながら、丸山真男らを踏まえた発表。その後は、スームさんに紹介される形で、カレさんが登壇し具体的な金融政策の話。さらに15分の休憩を挟んで、スクリーチさんが登壇し、2面にスライドを映写しながら、幕府のお抱え絵師であった狩野派の絵が、やがて遊女の帯の模様として描かれてしまったりするまでの歴史を展望。午前最後の堀内さんの発表は、その前提のところでスクリーチさんの視角文化論を引用したうえで、蘭学の志筑忠雄『暦象新書』がコペルニクス以後の天文学やニュートン力学を紹介するなかで、どのような自己像を析出したのかという刺激的なもの。まるで連歌みたいに、先の発表を受けて次の発表が行われてゆく様は、日本の学会ではまず見られないものだった。

 『大江戸視覚革命』『春画』などを愛読してきたスクリーチさんは、北海道大の中山昭彦さんを思い出させる風貌で、昨日はラフな格好だったが、今日はスーツで決めていらして一段とかっこいい。都立大での講演会などに行きそびれたことがあっただけに、思いがけなくもフランスで話を聞けること自体が嬉しい。さすがにご本人に話しかける勇気は出なかったが、著書を日本から取り寄せサインしてもらえばよかったなと思ってしまう。


 午後の部に入ると、司会者が今日最初の発表者であったジョリさんに交替。ところが、発表者が急に来れなくなったらしく、ペーパーをジョリさんが読み上げる。これも日本の学会ではまずありえない光景だが、しっかりペーパーを用意して話すのがこちらの慣習だからか、さほど違和感を感じない。が、午後始めの二本は、食後なのと風邪薬を飲んだのとでさすがに少しうとうとしてしまった。休憩の後、ヘルマン・オームスさんが登壇。日本でも『徳川イデオロギー』の翻訳が出ているなど、アングロサクソンの近世日本研究を支えてきた重鎮と称すべき研究者である。これまた、フランス語発表。午後も後半になると、会場も聴く一方では物足りなくなってきたのか、質問の形で自分の考えを述べる人が出てくるが、それにもフランス語で応対されていた。さらに神道に絡む発表が二本あり、再び休憩の後、パネルディスカッション。発表者9人がずらりと壇上に並んだ様は壮観だったが、議論が拡散気味になるのはやむをえないだろう。フランス語力の決定的な欠落もさることながら、日本思想大系さえろくに読んでいない人間にはとても太刀打ちできない感じだったので、コメントは控えたいと思う。
12月19日(木)
 風邪をひいてしまい、体調がすこぶる悪い。チェコやドイツの寒さがこたえたというよりも、パリに戻ってきて安心してしまったのがよくなかったようだ。怪美堂の方の事情もあり、しばらく日記の更新は不定期状態になると思う。

 夕方からパリ日本文化会館でのフランス日本研究学会初日の講演を聴きに行く。地下の大ホールが会場で、すでに50人以上は集まっていただろうか。17時30分から磯村館長のフランス語による短い挨拶、続けて坂井セシルさんの挨拶。そしてジャクリヌ・ピジョーさんの『蜻蛉日記』に関するフランス語講演が始まった。白髪の美しいピジョーさんの講演は、思い出話や翻訳裏話など微塵も含まず、菅原道綱母の生涯を辿りながら、『蜻蛉日記』の表現特質を語る堂々たるものだった。谷崎の翻訳者としても知られる方にふさわしく、『鍵』との関連に簡単に触れられたことも付け加えておこう。

 浅見和彦さんの日本語講演は、一口に日本といっても東と西とでは文化が大きく異なるという話を前提として、13世紀に書かれた『蒙古襲来絵詞』の詞書や『沙石集』の説話を例に挙げながら、当時の鎌倉側には論理と論理、証拠と証拠とをぶつけて結論を出すという考え方があったと指摘。『沙石集』『太平記』や天皇家の祖先神であるアマテラスを嘘つきとする話があることや、『曽我物語』に天皇家の敵である北条政子を礼賛する記述があることに触れ、これからの日本研究は京都中心の歴史の見方だけでなく、もっと様々な地域の様々な文化を考えなければならないと述べられた。
 近年の国文学会のカノン批判と通底する内容だが、鎌倉幕府側に合理主義的なものの見方が存在していたという指摘は、フランスでの発表を意識したものかとも伺われた。が、後でご本人にお尋ねしてみると、そうしたことは考えず、むしろどんどん単一化してゆく今の日本を憂う気持ちが根底にあるのだとおっしゃておられた。

 フランス日本研究学会では、受付で8ユーロ(学生3ユーロ)の参加費を払うと、仏英日の3カ国語のプログラムと仏語の発表要約を載せたB5版の冊子を受け取ることができる。ちなみに年会費は22ユーロ(学生12ユーロ)で、今回の参加費は無料。他に年一回機関誌がもらえるらしい。年会費8000円の日本近代文学会などと比べて、かなり安いと思う(近代文学会は機関誌年2冊ではあるが)。その分会員外からは参加費を取るというやり方は合理的かも知れない。日本の学会では、東京近郊に住んでいる人間とそうでない人間とで、同じ会費なのに享受できる恩恵にずいぶん隔たりがあるように思うからだ。

 ちなみに、会場にいらしていた芳川泰久さんによれば、日本のフランス文学会では、学会発表自体が学会誌に載せるかどうかの審査対象なのだという。それゆえ、発表希望者が多い場合は部屋を分けてでも全員発表してもらうのだそうだ。日本近代文学会でも大会・例会後に必ず編集委員会が開かれ、優れた個人発表の場合は投稿の慫慂を、特集やシンポジウムの場合は誌面再録するか否かを審議する。その前には運営委員会が発表要旨を検討して発表してもらうかどうかを決める。しかし、その一方で若い発表者だけでは聴衆が十分に集まらないのではないかと、すでに名前の通った発表者に発表依頼をする。審査システムが全然ない訳ではないが、すごく曖昧なことも確かだ。フランス日本研究学会や日本のフランス文学会の方が進んでいるとは単純に思わないが、考えるべき点はあると思う。

 講演終了後ホールを出ると、ビニールコップに入ったワインやソフトドリンク、それに簡単なおつまみがずらっと並んでいる。しばし観劇の休憩時間のような感じでおしゃべりできる。もちろん懇親会費を取られる訳ではない。フランス日本研究学会の会員登録をされた芳川さんは、会費をもう払ったんだからと、さっとワインに手をのばされる。12月のこの時期ならば、大学から出張で来やすいからと、もう数年先には発表するおつもりなのだ。坂井さんに聞いたら、機関誌にはその年の日本関係の翻訳書・研究書のリストが載るのだという。思い切って会員登録しちゃった方がよかったかなあ。芳川さんは8ユーロくらいカンパだと思わなくちゃと入会を勧めるのだが、目下思案中である。
12月18日(水)
 エスパス・ジャポンに本を返しに行き、新たに007シリーズの残りの文庫本を借りてくる。今年は21日の土曜日まで、新年は3日の金曜日からだと言う。当たり前だが、年末年始のお休みはこちらでもあるのかと実感。年内に片づけなければならないあれこれを、カレンダー片手に慎重にやらなくてはと思った。
12月17日(火)
 小池滋『ロンドン ほんの百年前の物語』(中公新書)を読み終わる。観光ガイドのロンドンの地図を広げながら、取り上げられた場所を確認してゆく。もう次の旅行の計画かと呆れかえられそうだが、もともとこの12月にはプラハではなく、イギリス行きを考えていたのだ。この新書もその下調べにと、エスパス・ジャポンから007シリーズと一緒に借りてきたのである。

 ボウ街の中央警察法廷、テムズ河畔のスコットランド・ヤード、シティ区の中心にあったニューゲイト監獄…。ジェレミー・ベンサム考案のパノプティコンを実現したミルバンク監獄の跡地には、現在テイト美術館が建っている。ロンドンにはかつて一月以上滞在していたことがあるから、場所のイメージはすぐ湧くが、ガイドを見ると変化したところも多そうだ。テイト美術館も一昨年5月にテムズ河畔グローブ座のすぐそばにテイト・モダンがオープンし、モダンアートのコレクションはそちらに移された。

 『ロンドン』の第2章は「コヴェント・ガーデン盛衰記」。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の、というよりは原作にあたるバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』の冒頭で、言語学者のヒギンズ教授が花売娘のイライザと出会うのがコヴェント・ガーデンだ。コヴェント・ガーデン王立劇場とロンドン中央警察法廷の建物が向かいあい、劇場の隣りから裏にかけては毎朝、青物市場が開かれていた。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が1958年4月30日に初演の幕を開けたのは、すぐ近くのドルアリー・レイン劇場で、以後5年半のロングランとなった。青物市場が移転したのは1974年だそうだから、当時は劇場を出るとすぐ舞台さながらのコヴェント・ガーデンへと足を踏み入れることができたことになる。この界隈の記憶は少し曖昧だ。ロンドンをぜひ再訪したい気持ちが強まる。
12月16日(月)
 朝ホテルの窓から外を見ると、うっすらと雪が通りや屋根の上にかかっている。寒そうだが朝の散歩がてらに、ドレスデン動物園へ行こうと準備を整える。昨晩ホテルのロビーでみつけた案内に、8時半開園とあったからだ。大庭園内にある動物園には歩いて15分ほどでいけるはずだとも思った。開園直後に到着。誰もいないかと思ったが、中学生の団体(?)がすでに来ていて、係員の説明をグループで聞いたりしている。

 正門入場口はそのまま温室風のパビリオンにつながっていて、冬の間、象はその中にいる。やはり外に出ていない動物は多いが、ライオンやオランウータンなどは室内で見ることができる。アフリカ館やオランウータンの飼育舎では厨房がガラス越しに覗けるようになっていた。1時間でぐるりと園内を一周。それほど大きくない動物園だが、ネコ科の大型獣の種類は結構揃っていたと思う。

 9時半をまわったので、あわててホテルに戻る。荷物を部屋から取ってきて、チェックイン。駅への道を急ぐ。10時11分発のフランクフルト行きに乗るつもりだったからだ。ぎりぎりセーフ。14時37分フランクフルトに到着すると、今度は14時46分発パリ東駅行きに乗換。21時8分無事パリに帰り着いた。


 帰りの車中で、エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』(ハヤカワ文庫)を読み終わる。主人公のチャールズ・ラティマーはイギリスの二流大学の経済学講師として35歳までに3冊の研究書を書いた後、最初の探偵小説で大成功をおさめ、「余暇に探偵小説を書いている数多い大学教授の中で、余技で金を儲けて恥ずかしそうな顔をしているごく少数の一人」となる。さらに、大学当局と意見が一致しなかったこと、病気であったこと、たまたま独身であったことから大学を辞め、ギリシアの陽光の下で探偵小説を生計のために執筆するようになる。『あるスパイへの墓碑銘』(創元推理文庫)のハンガリー人の語学教師ジョゼフ・バダシーもそうだが、アンブラーは探偵役にふさわしいだけの能力と知識をさりげなく主人公に授けながら、その善良で無垢な性格ゆえに事件に巻き込まれてゆく過程を描くのが巧い。その一方で、大戦間の複雑な国際関係を背景に悪の化身のようなディミトリオスを造型してゆく。

 ラティマーがパリ東駅から乗った列車がトンネルに入ったところで、小説は終わっている。トンネルの闇は現代史の深い闇を象徴しよう。そのパリ東駅へと向かう列車の中で作品を読み終え、偶然の一致に思わずたじろがされるような気分にもなった。
12月15日(日)
 ジョン・ル・カレ『死者にかかってきた電話』にはこんな一節がある。「ドレスデン。ドイツの都市のどこにもまして、スマイリーの愛好する街だった。かれはその建物を愛した。中世と古代の建築様式が奇妙な混淆を見せ、ときには、丸屋根、小塔、尖塔、太陽の下にきらめく青銅色の屋根瓦が、オックスフォードを思い出させてくれた。ドレスデンとは、森に住む者の都会≠フ意味で、ボヘミア王ウェンチェスラスが吟遊詩人たちに、下賜品と特権とを与えたのもこの町だ」(宇野利泰訳)。

 そのドレスデンへと、プラハ発8時55分の列車で向かう。ドレスデン中央駅着12時3分。ホテルを探そうとまず閑静な南口に出るが、近くのホテルは満室。他のホテルは駅の向こう側だと言われる。北口のウィーン広場は現在工事中で、臨時の通路しかないのだが、そこを抜けて駅前のプラーガー通りに入ると、ibis チェーンの11階建てのホテルが3つ並んでいる。一番手前は休業中らしいので、真ん中のホテルにチェックイン。オフシーズン料金でシングル1泊56ユーロ(朝食別)。日本のビジネスホテルを思い出させるいかにも機能的な作りだが、それぞれ306室ずつあるという。部屋もベッドもそれなりにゆったりしていた。

 荷物を置いて、街中へ。北へ向かって市庁舎前のアルトマルクト広場まで来ると、軽食やおもちゃなどのブースが何軒も出ている。広場の中央には大きなもみの木があり、そのすぐ後にお城を模した舞台が作られている。広場は昼間からイルミネーションで取り囲まれ、ブースもそれぞれにもみを屋根に飾り、なかにはサンタクロースの格好をした人もいて、もうすっかりクリスマス・ムード一色なのだ。日曜なので近くのデパートや商店はお休みのところも多いのだが、たくさんの人がのんびりとフェスタを楽しんでいる。ただフィルムを切らしてしまったのでカメラ屋を探すが、日曜なのでやっていない。ドレスデンの美しい街並やクリスマス・フェスタの色とりどりのブースなどの華やかさを写真に写すことができなかった。

 広場を後にいったんエルベ川まで出てから、ツヴィンガー宮殿へと向かう。ドレスデンで一番有名で華やかな建物であり、宮殿内には幾つかの博物館が入っている。その中でも有名なアルテ・マイスター絵画館へ。ラファエロの『シストの聖母』やジョルジョーネ(かティッチアーノ)の『眠れるビーナス』などのイタリア・ルネサンス絵画、デューラー、クラナッハ、ホルバインからルーベンス、ファン・アイク、レンブラント、フェルメールに至るネーデルランド絵画、それにニコラ・プッサンなど充実している画家に偏りもみられるが、そこがまた特色だとも言えよう。しかし、ところどころ絵が床にずらっと置かれていて、入室できないところがある。この夏の大洪水で最も被害を受けた街の一つがドレスデンであり、完全に元通りにはなっていない様子がわかるのだ。入口でどれか1枚くれる(買うと0.5ユーロ)洪水ですっかり水びたしになった宮殿やその日の館内を撮った絵葉書を見ても、すぐ川沿いのここが大変な状況であったことは想像がつく。

 その後は同じ宮殿内の数学と物理のサロン、古生物地質学博物館を見る。いずれも廊下ひとつくらいのあっけないくらいに小さな展示スペース。もしかしたらこれも洪水の影響で、本来は違うのかも知れない。数学と物理のサロンは入るとすぐに様々な地球儀や天空儀が置かれ、計量器具や望遠鏡などが整理されている。古生物地質学博物館にはドイツで出土した化石が何点かと(といっても恐竜や大型哺乳類はない)、様々な鉱石のコレクション。ドイツには鉱山文学というジャンルがあって昔から気になっているのだが、質のいい鉱石を見ていると、改めて興味がかきたてられる。そして最後に充実した陶磁器コレクションを閉館時間の18時まで見る。

 再びアルトマルクト広場へ。夕食はブースの立ち食いでもいいかなとは思ったが、広場に面した地下のビアホールをみつけた。さっそくビールをジョッキで頼むが、ドイツ語メニューしかなく料理がよくわからない。お勧めを頼むと鳥のもも肉が出てきた。昨日も鳥のカツレツだったし、二日続けてとはとちらっと思うが、付け合わせもGoodでおいしかった。パンを一緒に食べなかったので、まだ少しはお腹に入るかなと、ビアホールを出た後、屋台の焼きそばを食べる。紙の丸い器で3ユーロ。蒸し鳥をのせてもらうと4ユーロ。日本で食べるのよりも量が多い。ソース味ではないので、醤油をちょっぴりたらして食べた。縁日に遊びに来ている気分になれて、懐かしかった。
12月14日(土)
 この夏、中央ヨーロッパを襲った大洪水の時、プラハ動物園で象が射殺されるという事件があった。日本では必ずしも大きく報道された訳ではないようだが、ショックを受けた人もいたのではないかと思う。けれども、たかが洪水のためにどうして?というような受け止め方には違和感が残った。こうした事件が起こると日本では、戦争末期に動物園の象を食料不足から殺さなければならなかったという辛い「記憶」が呼び起こされる。子供の頃に読んだ「かわいそうな象」の物語。かつてペレストイカの混乱で食料不足に苦しむロシアの象を救え!と栗本慎一郎が主張した時に想起されたのも、この「戦争の記憶」だった。今回の事件がどのように日本で報道されたのか、詳しいことは知らない。そのうえであえて書くのだが、戦争でもないのになんて残酷なことを、とストレートに感じてしまって、本当にそれでいいのだろうか。ともかくプラハの動物園に行ってみなければ。この厳寒期にプラハ行きを決意した最大の理由はそこにあった。

 地下鉄C線の終点ホレショビツェ駅で降り、動物園行きのバスに乗る。動物園のバス停で降りると、すぐ前にトロヤ城がある。赤茶色と白の美しい建物。次の見学ツアーは11時からの表示が正面扉に出ていたので、数分待って中へ。入場者は他に誰もいない。案内役の男性の後をついて一部屋ずつ見せてもらう。本来ならチェコ語で解説があるのだろうが、代わりに部屋毎の英文の説明文のコピーを手渡され、それを読みながら見学する。それぞれの部屋に見事な天井画が描かれており、その寓意が簡単に説明されている。特に中央の大きな部屋の天井だけでなく壁一面にまで描かれた絵などはすごい。また、19世紀の絵画や彫刻がここには収められていて、それぞれにチェコ語と英語の解説がついている他、作者の解説プレートもある。正味約1時間。その後、庭園にもまわってみる。噴水は冬で水涸れしているが、夏であればさぞ見事だろうとも思う。

 チェコの観光施設では8、9種類の外国語の解説冊子が販売されていたりするのだが、日本語など東洋語のものはまだない。だが、数年たてば必ず日本語訳も出るように思うし、トロヤ城も日本語の解説を読みながら見学できる日がそう遠くなく来るだろう。いまはまだ旧東欧というイメージで少し縁遠く感じるかも知れないが、いずれウイーンあたりと組み合わせたツアーが人気になることは間違いない。プラハはそれほどに魅力的な街だからだ。

 しかし、日本人観光客があいついで訪れる時代になってもまだ、建物に入ってすぐのところに貼ってあった写真は残っているだろうか。この8月の大洪水でトロヤ城が水没した時の惨状を写した、数枚の写真である。


  トロヤ城の真向かいに入場口があるプラハ動物園は、ヴルタヴァ川沿いの小高い山を中心としている。ぐるっとまず外周をまわろうと、北側のキリンの飼育施設の方へ。道路を橋で渡っていった先に展望台が作られ、そこからとても広い放牧地にいるキリンを見ることができる。もちろん冬の今は、キリンは室内施設で飼育されていて外には出ない。運動不足が心配になるような空間だが、ガラス越しにすぐ目の前でキリンの表情を見ることもできる。キリンに限らず、熱帯地方の動物たちは外に出ておらず。なにもいない放牧地が目立つ。やがて西側まで行くとヴルタヴァ川が見下ろせるようになる。川に沿うようにして歩くと、倒れた木々や中ががらんどうになった修復中の家など、大洪水の傷跡が次々目に飛び込んでくる。川のすぐ近くのゴリラ舎やトラ&ライオン舎は、完全に水没したことが建物の染みから分かる。もちろん今はからっぽで、ところどころ瓦礫が積まれていたり、檻が壊れていたりする。

 おそらく南側の日が一番よくあたる平地に、アフリカの動物たちの飼育舎を優先的に作ったのであろう。川沿いの動物園というのがここの売りだったはずで、リフトで山頂まで上がれるようになっており(現在は休止)、そこには展望台と売店が設けられ、ヴルタヴァ川の流れを一望できるようになっている。そして、ゾウ、サイ、カバ、ニシキヘビを飼育するアフリカ・パビリオンもこの川べりの一番低いところにあった。しかも、すぐ近くには鉄筋の見晴らし台が組まれ、階段を上ると運動場にいるゾウやカバを上から見学できた。一方で飼育舎のまわりの、他の動物園と比べてかなり広い運動場は、土を掘り下げる形で低く作られていた。そこに悲劇の要因があった。アフリカ・パビリオンは中央の飼育舎だけがやっと水から顔を出すような形で、すべてが水の中に隠れ、ゾウもサイもカバも流れの激しい泥水に溺れるはめに陥ってしまったのだ。

 飼育舎には8月13日の洪水で亡くなったゾウとカバの親子の写真が、名前とプラハ動物園に来た日と亡くなった日とを記して飾られていた(他にアシカ舎にもあった。ドイツ国内まで川を流され、救助後に亡くなったガストンの遺影である)。併せて8月14日の、ようやく雨が上がった後で撮られた飼育舎や動物たちの救助光景の写真が数枚貼られていた。よくぞこの状況で助かった動物たちがいたものだという感慨の方が遙かに強い。その思いは、売店で購入した冊子を見てより強まった。チェコ語の文章は読めないが、そこには洪水の痛ましい惨状と動物たちの救援にあたる人たちの姿とが多数のカラー写真で収められていたからだ。ぐったりと倒れたゴリラやトラの写真もあった。空中写真と地図を見ると、動物園の約半分が完全に水没したらしい。しばらくはもう口もききたくない気分だった。

 亡くなったインドゾウの名前は、カディール。アフリカ・パビリオンには今も2頭のインドゾウと1頭のアフリカゾウだけが、寒さに身を寄せ合うかのようにして暮らしていた。いずれも洪水からかろうじて救出された象たちだ。しかし、カディールだけは他の象たちから離れ、深々と水を湛えた運動場にはまりこみ動けなくなってしまったのだ。動物園の人気者で、35歳と高齢のカディールの衰弱は激しく、このまま苦しませるよりはと銃が向けられたらしい。らしいと推定で書くのは、現時点で自分が確認できたソースがBBCのネット上のニュースしかなく、またCNNがそう伝えたことくらいしか分らないからなのだが、その情報から推しても、近隣の人に危害を及ぼす危険があるからと闇雲に大型獣や肉食獣が射殺されたとか、軍隊でも出動すれば助けることができたという状況ではなかったと思われる。川沿いの人家に多大な被害が発生していたのだから、軍隊も警察もそれどころではなかっただろう。実際に動物たちの救助に果敢に向かったのは、動物園の職員ばかりでなく、多くのボランティアの人たちなのだ。もし比較文化論的に考えることがあるとすれば、森鴎外「高瀬舟」に主題化された安楽死が、象にも適応されたということであろう。もちろんカディール自身がそう望んだ訳ではない。それでもこれは、人間の尊厳死がそうであるように、簡単に正しいとか間違っているとか言うことのできない問題だと思われる。

 先に書いたように、今の自分は日本での報道がどれほど詳細になされたのかを知らない。チェコ語が読めないため、細かい状況も把握できてはいない。すべては帰国後に検証してみなければわからないことだし、またそうしたいとも強く思っている。正直なところ、ネット上などで読んだ幾つかの意見からみて、日本でのこの事件の受け止め方にはどこか歪みがあったのではないかという思いは拭えないし、そこに反戦童話という「文学」によって培われた「記憶」が関わっているように直感されるからである。メディア研究としてのカルチュラル・スタディーズがその真価を問われるのも、こうした問題なのではないだろうか。


 動物園を出る頃にはすでに暗くなりかかっており、この時間でまだ見られる場所はと探して、美術工芸博物館へバス、地下鉄、トラムを乗り継いで向かう。ガラス製品の贅沢なコレクションを始め、衣装、宝飾品、陶磁器、家具などを18時まで見学。その後は、すぐ近くのウ・ルドルフィナへ。『地球の歩き方』ではレストランに分類されていたが、むしろビアホールだろう。ルドルフィヌム(芸術家の家)の向かいにあるから、この名前。ラテン系の国々に比べるとウエイターは一見愛想がよくない感じがしてしまうが、ポンポンと生ビールと料理とを持ってきてくれるし、とてもリーズナブルだ。その後、美術工芸博物館の裏手のユダヤ人地区を少し歩き、旧市庁舎前の広場の方へ向かう。聖ミクラージュ教会のすぐ手前の家がカフカの生家。今はギャラリーとレストランになっていた。

 トラムを下車してホテルへ向かう途中、連日缶ビールを買って帰ったコンビニに寄る。19.95コロナのビールを買おうとするが、0.5足りない。が、まけてくれた。日本円に直せばたいした額ではないのだが、これで小銭をぴったり使い切る形になったし、とても嬉しい。その街が気に入るかどうかは案外こうしたささやかな積み重ねによると思う。ストラホフ修道院の図書室を始め、見ることの叶わなかった美術館や博物館も多いが、すべでは次の機会だ。今度はやはりビールのおいしい夏に来たいと思う。実際、希望的観測だと笑われそうだが、プラハを再訪する日はそう遠くない予感が強くしている。
12月13日(金)
 いわゆる王の道を通って、プラハ城へと向かう。起点にあたる共和国広場の火薬塔はかつて宮廷の門だったところ。そこからツェレトゥナー通りを通って旧市庁舎前の広場を抜け、カルル通りを通ってカルル橋を渡る。モステツカー通りを通ってマラー・ストラナ広場へ行き、その中心にある聖ミクラーシュ教会の中を見学する。入場料50コルナ。日本語付きの案内ちらしをもらえる。バロック風の凝った装飾や丸天井のフラスコ画が印象深い。外へ出てペストの円柱を見ながら左手に曲がって坂を上ると、やがてプラハ城の正門へと辿り着く。

 プラハ城は入口の両脇に衛兵が立っており、正面から見るといかにも宮殿といった感じではあるが、王宮の豪華な部屋を見られる訳でもなく、そう期待してゆくとイメージを裏切られる。インフォメーションで城内の地図を無料でもらう。順路の矢印もないので、この地図がずいぶんと役に立った。多くの観光客はガイド付きで見学しているので、細かい案内表示や解説も必要ないということなのだろうか。実際どこが見所なのかもわかりにくい感じではある。まず高さ96.6メートルの尖塔を持つ聖ヴィート大聖堂へ。ここが実質上城の中心となろう。ムハ(ミッシャ)のステンドグラスが有名で前にひとだかりができているが、それ以外の壁面や薔薇窓のステンドグラスも美しい。次に旧王宮。入ってすぐ奥がヴラディスラフホールというアーチ型天井の広い空間。さらに聖イジー教会、火薬塔、黄金小路とまわる。かつて錬金術師が住んだという黄金小路には小さな家が並んでいて土産物などを売っているが、その22番の青く塗られた小さな家が、カフカが仕事場に借りていた場所になる。現在は土産用の書籍を扱う本屋で、『カフカとプラハ』の英語版、カフカの説明入りのしおりを購入した。黄金小路を抜けきると、かつて牢獄として使われていたダリポルカという塔。そこから別の道を少し戻ると、おもちゃ博物館。それほど広いスぺースではないが、各種のおもちゃがバランスよく並べられている。古い競馬ゲームや木と紙で作られた厩舎には解説がついている。ヨーロッパには馬の博物館が各地にあるが、馬のおもちゃ博物館というのもできそうだななどと考える。もしかしたらすでにどこかにあるのだろうか。上の階ではバービー人形などをずらりと並べた特別展を開催中だった。

 横のギャラリー・プラハはちょうど展示替えの最中。通りの向かいのロブコヴィツ宮殿へ。国立歴史博物館が中に入っており、三十年戦争が終わる1840年までのプラハの歴史が2階にわたって展示してある。さらに聖イジー教会の横の聖イジー修道院へ。プラハ市内6箇所に分かれているナショナル・ギャラリーの一つとして、バロック期の美術が収められている。宮殿内には王宮美術館、正門を出てすぐ横にはナショナル・ギャラリーの初期ヨーロッパ美術部門が入ったシュテルンベルク宮殿があるが、今回は見る時間が足りない。坂井セシルさんが好きだとおっしゃっていたロレッタ寺院とストラホフ修道院の図書室へと向かうことにする。

 ロレッタ寺院は白く壮麗な建物で、中庭のサンタ・カーサ(聖母マリアの聖なる家)を囲むように柱廊が巡るが、各祭壇はガラス越しにしか見られない。ぐるっと一回りし、出口の手前で建物の中の階段を上ると、財宝室。ここの6222個のダイヤモンドを使った聖体顕士台を見損なっては勿体ない。

 なんとか明るいうちに着きたいとストラホフ修道院へ急ぐ。が、道を間違えてしまって飢えの壁の方へと出てしまう。壁の内側の修道院へと続く道を戻ろうとするが、行き止まりに。しょうがなく来た道を引き返す。16時30分頃ようやく到着。ところが、図書室は閉まっていると言われる。ギャラリーでやっていたジョセフ・ジラという画家の個展と国立文学博物館の小さなギャラリーの特別展示をざっと見る。後で見たら、図書室は映画撮影のため明日まで閉室だと紙が貼ってあった。

 トラム22番線に乗り、市内をぐると一周する形で地下鉄駅のあるI.P.パブロワへ。そこから少し歩いたところに、『兵士シュヴァイク』の作者ハシェクが常連だったというビアホールのホスティネツ・ウ・カリハがあるのだ。兵士シュヴァイクのキャラの看板、テーブルにも同じ図柄のコースター。上が黄色の制服を着た女性が注文を取りにくる。お酒を二瓶持ち、まずはアペリティフを尋ねる。べへロスカの方を注文。超特大のジョッキに入れたビールも一緒に持ってくる。さらにピーナッツを入れた皿。う〜んと唸りながら交互に飲み始めたが、体が温まって悪くない。続けて、ピクルスとタマネギを挟んだ小さなソーセージが酢漬けとなってたくさん入った大きなビンを持ってきて、一本どうかと勧められる。ビール党なら当然とるようなタイミング。カツレツを食べながら黒ビールも小さなジョッキで飲んだ。本当にチェコはビールの本場だと実感する。
12月12日(木)
 朝7時過ぎ、朝食もそこそこにホテルをチェックアウトし、フランクフルト中央駅へ。7時24分発のドレスデン行きに乗るつもりだったのだが、切符売場でプラハと告げると、8時19分発のブタペスト行きでニュールンベルグ乗換の切符を手渡される。この方が安いらしい。急ぐ旅でもないしと、1時間ほど待合所で待つ。が、暖房がなくて寒かった。ケルンから来た列車に乗り、約1時間ほどでニュールンベルグ。そこでプラハ行きに乗換。しかし、他の接続列車を待っていたらしく、15分遅れの発車となった。


 昨日から車中で『死者にかかってきた電話』(ハヤカワ文庫)を読んでいる。『寒い国から来たスパイ』のジョン・ル・カレのデビュー作。主人公のジョージ・スマイリーはオックスフォードで十七世紀ドイツ文学を学んだ後、指導教授の推薦で秘密諜報部員となる。初めての仕事はドイツの地方都市の大学へイギリスからの交換講師の名目で派遣され、ドイツ人学生の中からスパイ候補を推薦することだった。1937年の冬の晩、ナチスを狂信する何百人もの学生たちがドイツ文学の本を数百冊火に投げ込むのを見て、はっきり敵を見きわめ得たと思う。スマイリーは終戦を待たずに召還され、戦後は結婚しオックスフォードに移ったが、やがてイギリス諜報部に復帰する。そしてかつての教え子である東ドイツ側のスパイと対決することになる。

 スパイ小説は国境の存在とその越境を主題とするが、いわゆる戦争ものと違うのは、国境が内面的な主義や心情の問題として表象されることだろう。ただそうした国境も現実の国境線が越えがたいものであったことが前提ではあっただろう。 けれでも、今日のヨーロッパでは現実の国境線が実感しがたくなってきている。幾度か鉄道旅行を繰り返してきたが、寝台車の場合には寝ている間車掌にパスポートを預けておくにせよ。EC圏内の国では国境を越えるからといって、パスポートチェックさえなかった。さずがに今回は始めにドイツの、続けてチェコの検査官が乗り込んできて車中でチェックしていったが、出入国員一つ押される訳でもなく、あっさりとしたものだった。十数年前にハンガリーに行った時には列車が国境で一度停車し、重装備した兵士たちが乗り込んできたように記憶しているのだが。

 しかし、国境通過が容易になった今の状況は、少なくとも自分には、かつて厳然と存在していた国境とは何だったのかという思いを逆に強く抱かせる。国境を越えて走る列車の車中でスパイ小説を読み返す試みは想像していた以上に印象深いものだった。すでに出版予告が出ているので言ってしまっていいのだと思うが、スパイ小説を読み漁っているのは、現在刊行中の岩波講座『文学』の第6巻に「スパイ小説と政治」というテーマで論文を書く約束になっているからだ。けれども、今自分の抱え持った感触は、紀行文のようなかたちでならともかく、限られた枚数の論文でどう表現したらいいのか、まだ見えてこない。

 国境の町へプ、マリアーン・スケー・ラーズニェ、プルゼニュと停車。後二つはそれぞれ、マルグリッド・デュラスの『去年マリエンバードで』のマリエンバード、ピルセンビールのピルセンと言った方が通りがいいだろう。もし時間が許せば途中下車したい町々だ。

 プラハではまず銀行で両替をし、インフォメーションPISで博物館等が無料になるプラハカードと市内交通のフリーパス券を購入。それぞれ3日で49コルナと20コルナ。トラムに乗り、『地球の歩き方』に載っていたホテル・カフカというなんともべタな名前のホテルに向かう。が、通りにライトさえつけていないホテル・カフカはすでに満室。すぐ近くのアマデウスというホテルを紹介してもらう。シャワー・朝食付きで1泊140コルナ。3日分を前払いする。

 それから、夜のプラハの町へ。旧市街の中心である旧市庁舎前の広場では、照明に飾られたもみの木の向こうにティーン教会が青白く闇に浮かんでいるさまが幻想的でさえあり、聖ミクラーシュ教会をバックにする形で組まれた野外ステージではバンドが演奏中だった。温かいパンチをコップで飲みながら、クリスマス用の小さなおもちゃなど、様々なものを扱うブースを見て回る。

 その後、カレル橋へ。川面を渡る風は冷たく、欄干の彫刻は闇にまぎれてしかとは見えない。夕食は『地球の歩き方』の読者欄に載っていたプシュキン・ヴィナールタ。オーナーはプーシキンの直系の子孫らしいと書いてある。通りの向かいが有名なビアホールのウ・ズラテーホ・ティグラでまずはそこに入ったのだが、座る席さえもない。せめてジョッキ一杯立ち飲みしていこうかと思ったが、空きっ腹ではとこちらに。窓から覗くと誰もお客がいないので心配したが、窓際の小さなクリスマスツリーの横の席に座って、オールド・ボヘミア・プレートというのを注文し、プラハ風の各種肉料理をつまみに黒ビールを飲む。食事を終わって外に出ると、さすがに震えあがらんばかりに寒かった。

12月11日(水)
 朝8時54分パリ・東駅発の列車でフランクフルトへ向かうべく、まだ暗いうちに家を出る。が、着いてみると30分遅れの表示。フランクフルト到着も予定の15時6分より20分ほど遅れた。すぐに駅横のホテル・クリスタルにチェックイン。ここまでは6月に来た時と同じで、受付はやはり日本人の方でこちらの顔も覚えていてくれた。オフシーズンだからと1泊朝食付きで55ユーロ。荷物を置き、早々に町中へ出る。雑誌「文学」のエッセイで触れたドイツ映画博物館の新たな特別展だけでも見ようと思ったからだ。開館時間は17時までなので、急いでマイン川岸のシャウマンカイ通りへと向かった。

 しかし、シュテーデル美術館もドイツ映画博物館も水曜は20時まで開いていることがわかり、予定を変更。まずは旧市庁舎前のレーマー広場を抜けて、聖バートロメオ大聖堂を見に行く。広場にはクリスマスのブースがたくさん出ていて、いい雰囲気だ。大聖堂博物館でフランクフルト博物館チケットを8ユーロ購入。2日有効で24の美術館、博物館が入場無料となる(1年間のカードだと49ユーロ)。次に近くのモダンアート美術館へ。ところが、今日は入館無料だと言われ、あれれ…となる。気のおもむくままに館内を散歩。こちらに来てから、ほとんど構えることなく現代美術を楽しめるようになった。ビデオアートも収蔵されており、印象深い作品もあった。

 再びレーマー広場に戻る。ホットワインを一杯飲み、具の入っていない天ぷらのようなものを食べてる人がたくさんいたので、そこをつまみながら広場を抜ける。シュテーデル美術館に戻り、Thomas Bayrle とErnst Wilhelm Nay の特別展を見る。Bayrle はモダンアートのアルチンボルドとでも称すべき画家で、日本に来たこともある。さらに館内をぐるっとまわって、有名な収蔵作だけ一瞥。一度じっくり見ているから、勝手がよくわかる。19時過ぎにドイツ映画博物館へ。俳優ハインツ・リューマンの特別展。ドイツの武田鉄矢、というのは戦前戦後のドイツ映画を支えた、この小さな名優にやはり失礼だろうな。日本では晩年にヴェンダースの映画に出演していた姿しか知られていないかも知れないが、艶笑喜劇映画などで大変な人気があった俳優である。展示場のあちらこちらでその1シーンを流している映画は、観たことない作品ばかりだ。サイレント時代に全盛を誇ったコメディ映画は、トーキー以降その国の映画史の中にのみ記憶され、異国にいて観ることは難しい。確かに字幕や吹替では、笑いの要素を伝えるのは容易ではないからだ。ヨーロッパ映画においてさえも、まだまだ知らないことはたくさんあるのだと実感させられる。

 20時に博物館を出て、夕食をとろうとゲーテ広場に向かう。ハウプトヴァッぺという18世紀バロック風の建物がある。現在は地上階がビアホール。だが、あいにくと席が空いてなくて、階上のレストランに入る。29ユーロのコースを注文。前菜がエビの天ぷら、メインがホタテ貝ののったパスタ。天ぷらはメニューにはっきりTenpura と書いてあるのだ。といっても、チリソースをつけて食べるそれは、日本のとはだいぶ趣きが違うのだが。そして、ここまではよかったのだが、その後デザートが全然出てこないのだ。直前にグループ客が入ってしまったためらしく、さすがにいつまでも待たせては悪いとウエイターがコヒーをサービスしてくれるが、デザートの前に飲んでもなあという気分だ。近くの席の人はメインが終わってすぐデザートが出てきていたから、これは突発的に自分にだけ降りかかった不幸らしい。待つこと45分、ようやく口にしたデザートがどんなものだったかは、哀しくなるから書かずにおこう。
12月10日(火)
 坂井セシルさんとシャルル・ミッシェル駅の出口横のカフェで1時間ほどおしゃべりをする。息子さんのクリスマスプレゼントを買うために近くまでいらしたのだ。今頃になって届いたOMI(フランス移民局)の健康診断の請求書にどう対処するか教えていただいた後、2冊送られてきた岩波書店の「文学」映画特集号のうちの1冊を、パリ第7大学日本語科の図書室にでも置いて下さいとお願いして手渡す。表紙に載った巻頭座談会のメンバーを見ながら、「松浦さん、高橋さん、紅野さんって、知っている人ばかりじゃないの」と事も無げにおっしゃるが、これはそれだけ豪華なメンバーだということを逆に証明しているのだと思う。

 フランスの国文科、つまりこちらのフランス文学科でも最近は映画をカリキュラムに組み込むような試みがなされているそうだ。パリ第7大学の日本語科のある階の一つ上の階はフランス文学科で、ジュリア・クリステヴァ教授を擁するなど評判の高い学科なのだが、数年前に映画のコースがその中に併設されたのだそうだ。坂井さんのところでも日本映画を卒論に選ぶ学生はいるそうだが、北野武か黒沢清あたりになるらしい。溝口、小津、黒澤明をやる学生はいない。そうした映画に興味がある学生は、映画学の専攻に進んでしまうのだろうか。

 それから、来る12月19日から21日に開かれるフランス日本研究学会の案内をいただく。ツーリストインフォメーションなどにずらりと並んでいる各種の案内と同じ仕立ての印刷物で、日本のとは全然違う。自分と同い年の坂井さんは、このフランス日本学会の現会長なのだ。フランスの日本研究ではピジョー先生やオリガス先生など60代の世代はすでに大学を退職され、50代は当時の文教政策でほとんど大学にポストがなかったために層が薄く、40代以降になると逆にパリ以外の大学でも日本語日本研究の講座が設けられたこともあって急速に研究者人口が増えるのだという。それゆえ40代で重い役割がまわってくる反面、上の世代との軋轢というのもほとんどないらしい。

 実は日本の学会ではここ数年、40代を境にして上の世代と下の世代との意識面での断層がはっきりと見えてきて大変なのですよ、と思わずわがことを語ってしまう。パリに来る前、日本近代文学会の編集委員を2年、その前には昭和文学会の会務委員を4年つとめ、良くも悪くも学会の内情をずいぶんと見知ってしまったのだが、大きな転換期だと思う反面、その迷走ぶりに憂いを感じることも少なくない。日本大学「紅野謙介研究室」HPの日録には今秋の日本近代文学会秋季大会の印象記(10/27)や運営委員体験回顧(11/11)が記されていて、もしまだ読んでいない近代文学研究者の方にはぜひ目を通してほしいと思うのだが、こうした実感は自分一人のものではないと思う。

 まあ、日本のことはさておき、フランス日本研究学会のプログラムをごく簡単に紹介しておこう。



12月19日(木)17時〜 パリ日本文化会館
 磯村館長の挨拶の後、パリ第7大学のジャックリーヌ・ピジョー名誉教授の『蜻蛉日記』に関するフランス語講演、成蹊大学の浅見和彦教授の『蒙古襲来絵詞』に関する日本語講演。
12月20日(金)9時〜 CNRS(国立科学研究所)本部
 「表象と実践」をテーマとした江戸時代の思想の特集。30分の発表が午前午後あわせて全10本。その後に約1時間の全体討論。日本でも有名なロンドンの東洋アフリカ研究所のタイモン・スクリーチ氏と、カリフォルニア大学のハーマン・オムス氏の発表が含まれている。
12月21日(土)9時〜 CNRS(国立科学研究所)本部
 午前午後あわせて8つの分科会に分かれての研究発表。日本語学、日本史、都市論、美術史、経営学など多領域にわたる発表が全部で29本。さらに元東京大学史料編纂所長の石上英一氏の講演。近代文学関係では谷崎潤一郎、佐藤春夫、まどみちおに関する発表が含まれている。



 さて、実は今日が冬のボーナス支給日で(といっても銀行の残高照会ができないから本当に出たのかいささか不安ではあるのだが)経済的に一息つけたこともあり、明日から数日チェコのプラハ方面へ旅行に出掛ける。カフカとチャペックの町プラハは、どうしても今回行っておきたかったところだからだ。これから1週間弱は、日記更新はもとよりメール連絡も取れなくなることを、この場でお断りしておきたい。

 プラハへ何度もいらしている坂井さんによれば、すでにむこうは零下の寒さらしい。手袋と帽子は必需品と言われたので早速モノポリで購入したが、防寒面では不安も大きい。いざとなったら、現地でごついコートでも購入するつもりなのだが…。

12月9日(月)
 朝目覚めると雪が白く深々と降り積もっていたと、東京からのメールで知らされた。ここパリでは、今年はまだ雪が降り積もるようなことはない。それでも寒さがだんだん厳しくなってきていることは確かだ。坂井アンヌバヤールさんからは、そんな格好では冬を越せないと言われた。芳川さんや堀江さんは防寒に強そうな皮ジャンをいつも着ておられて、これがフランス文学者流の冬への備えなのかと感心していた。そこで自分も冬用の皮のジャケットでも購入しようと、クリニャンクールの蚤の市に行く。

 まずは朝食兼昼食に、ムール&フリット(ムール貝の白ワイン煮&フライドポテト)を食べようと店を探す。映画『地下鉄のザジ』(ルイ・マル、1960)の少女ザジが、クリニャンクールとサン・トゥアンの市に来てそこのレストランで食べたのがムール&フリットだったことを、鈴木布美子『映画で歩くパリ』で思いだしたからだ。しかしイメージ通りの店はなかなかみつからない。クリニャンクールの地下鉄駅出口を出てすぐのところで食べてくればよかったと後悔し始めた時、横に入ったアンティーク店の並ぶ通りに日本語メニューのある店を発見した。入口横の外側には日本のガイドの掲載ページが切り抜いて貼ってあり、リーズナブルで気やすく食べられると書いてあったが、観光地の値段と味といったところか。さて、大体イメージ通りの皮ジャンは購入できたが、もう少し値切れたかなとちょっと悔いる気持ちもある。それに日が暮れてからの寒さはきついし、さらなる防寒対策を考えないと、この冬をもちこたえるのはとてもとても無理そうだ。
12月8日(日)
 仮眠をとったせいなのか巧く寝付けず、明るくなりかかった午前8時過ぎまで目がまんじりともしなかった。おかげで目が覚めたのも12時を遙かにまわる時間。グルネルの市場に行くが、午後2時となるとどこも店じまいの最中だった。地下鉄6番線高架線下の市場を歩く途中で、つまりデュプレックス駅とラ・モット・ピケ・グルネル駅の中間あたりで、レ・ロワ・デュ・クスクスというお店を見かけたので、そこで昼食を食べて帰ることにする。

 「OVNI」の記事にフランス人が外食で頼むのは、一にステーキ、二にクスクスとあったのだが、本当だろうか。確かに日本人が外食で食べるのも日本料理は割合的に少ないだろうし、頷けなくはない。パリでは少し探せば大体クスクスのお店をみつけることができる。付きだしみたいにサービスで出てくるマグレブ風の漬け物ケミアをつまみながら、肉とメルゲーズ(辛い腸詰め)の盛り合わせがつくクスクス・ローヤルとアルジェリア産ワインのロゼを注文。クスクス粒にヒヨコ豆をちらし、ブロシェットの肉などをのせ、野菜のたっぷり入ったスープをかけて食べる。ここのお店は外からガラス越しに見ただけで、休日のランチを楽しみに来ているフランス人夫婦や家族が多いことがわかった。もっと近所にもクスクスのお店があるのだが、バーも兼ねた感じのそことは客層が違う。店内が明るく異国風でないタイプのお店の方が、スープも上品な家庭料理風で値段も若干高めのことが多いようだ。

 日本に帰ると、食べたい時にすぐクスクスとはいかなくなる。高田馬場にもクスクスのお店があるが、中華料理店に入るように簡単に入れる感じではなく、そこにしようと言ってもなかなか人の賛同を得られない。クスクスが苦手という人もいるが、お米と違って噛めないクスクス粒の食感になじめないのか、スープの冷めたドロドロのクスクスに最初に当たってしまったのか、それとも羊のあばら肉やメルゲーズが駄目なのか…。新宿や渋谷にはアフリカ料理店もあるが、中央アフリカの料理が中心で、確かクスクスはメニューになかったはずだ。日本人のアフリカ・イメージを考えれば当然という気もするが、別の意味でそれも正しいのではないかと思う。クスクスは北アフリカ料理と言うよりも、地中海料理の一つと考えた方がいいように思えるからだ。イタリア料理やスペイン料理だけが地中海の食文化を代表するものでなく、クスクスもまたそうだということが、ギリシア料理を間に置いてみるとよくわかる。それゆえ、いくらブローデルの大著『地中海』が日本で読まれようとも、クスクスさえ簡単に食べることができないようでは所詮日本人の地中海に対する関心など西洋中心主義の偏頗なものでたかが知れてると、ワインに酔った勢いでつい悪態をつきたくなってしまうのだった。
12月7日(土)
 中世美術館(旧クリュニー美術館)からちょっぴり行った先の裏通りにあたるシャンピリオン通りには映画館が3館並んでいる。カルチェ・ラタンはエコール通りから入って一番奥。15時30分からのジョン・ヒューストン監督『007/カジノ・ロワイヤル』(1967)を観に行く。目下007シリーズを読んでいる最中で、エスパス・ジャポンから借り出した創元推理文庫版、井上一夫訳で『カジノ・ロワイヤル』『ムーンレイカー』『ダイヤモンドは永遠に』まで読了。第2作目の『死ぬのは奴らだ』は創元推理文庫には入っていないのでとばさざるを得なかった。ジョン・ヒューストンのこの映画は、タイトルこそシリーズ第1作と同じだが、原作の雰囲気とは全然異なる、やりたい放題のパロディ映画といった感じだ。

 ラッセル・ウォーレン・ハウ『マタ・ハリ』(ハヤカワ文庫)の訳者による解説には、マタ・ハリの名前とは意外なところで出会うとして、イアン・フレミング『カジノ・ロワイヤル』の冒頭でジェームズ・ボンドは愛人のマタ・ハリが殺されたことが原因でスパイから足を洗ったと書かれていると記していた。しかし、原作小説のどこにもそんな記述はない。これは映画『007/カジノ・ロワイヤル』の方の話なのだ。そして、この映画が昨日観た『禁じられた情事の森』と同じ年の作品だという事実は、当時のハリウッド映画におけるジェンダーや人種の表象を考える意味で、とても興味深い。「1967年のジョン・ヒューストン」という大論文(笑)を思わず書きたくなってしまうくらいに。

 ギリシア料理店で夕食。クレタ島産の赤ワインを飲み、ブロシェット(串焼き)を食べて帰る。しばらく仮眠。抜けていた分の日記の整理が終わったので、10月28日から11月7日、及び11月16日〜20日の日記を追加した。
12月6日(金)
 エコール通りの映画館アクション・エコールへ、ジョン・ヒューストン監督作品『禁じられた情事の森』(1967)を観に行く。ここは古いアメリカ映画を随時ニュープリント上映していて、先日まではプレストン・スタージェスの『サリヴァンの旅』(1941)がかかっていた。ミスシアター風の観客室ではあるが、どうして日本にはこんな映画館がないのだろうとつい哀しくなってしまう。『禁じられた情事の森』はエリザベス・テイラーとマーロン・ブランドの夫婦を中心としたジョージア州の陸軍兵舎が舞台の不倫&同性愛映画で、時代的な制約もあろうが男性同性愛者役のブランドの演技はその精神的葛藤に比重がかかっている。が、今日から見れば類型的で問題ありの人物表象が錯綜し重なり合っている感じで、うまく構図が捉えきれない。おまけに観客席でずっと高いびきをかいている人がいて、いまいち集中できなかった。

 映画の前の昼食は、カルチェ・ラタンのレストラン円。パリでうどんが國虎屋なら、そばはこの円と言うことになろう。『OVNI』にも「新そば入荷」の広告が出ていたので、食べたくなってしまったのだ。鴨せいろを注文。日本酒の熱燗を1合とっくりで取り、ちびりちびりとやる。ここはそば粉も水も日本から輸入しているそうなので、日本で食べるのと変わらない手打ちを堪能できる。

 ついでながら、昨晩の夕食はデュプレックス駅近くの瀧。寿司屋のようなカウンターがあり、日本人の板前さんがいるから、ここの刺身も日本で食べるのと何ら変わりない。天ぷらのコースを注文。お造り、シメサバやタコなど酢の物の盛り合わせ、エビと野菜の天ぷらがずらっと目の前に並ぶ。天ぷらはズッキーニなどこちらの食材を使っていて、日本で食べるのとはひと味違う。久しぶりの天ぷらにすっかり嬉しくなってしまったのだが、さすがに二日続けてはとランチの天ぷらコースにも未練を残しつつ、今日は鴨せいろにしたのだった。
12月5日(木)
 今日でまた歳を一つ重ねた。いまさら一喜一憂する年齢でもないけれど、なんだか改まって何か書くのも嫌なので、今日の日記はお休みとさせていただく。
12月4日(水)
 日本文学協会近代部会の機関誌「葦の葉」メルマガ版が送られてきた。巻頭に6枚の短いエッセイを書いている。編集担当の奥山文幸さんから許可をいただいたので、掲載号の一部をネット上で見られるようにさせていただいた。

 エッセイ中で触れた11月9日のシンポジウム当日とその後6日分の日記も遅ればせながらアップした。今回の在外研究のいわばピークと言える一週間の記録である。また、この「葦の葉」のエッセイは、ある意味で岩波の「文学」に書かせていただいたものと対になるものでもある。併せてお読みいただければ、何よりだと思う。


「葦の葉」第226号はここをクリック

12月3日(火)
 岩波書店の「文学」11、12月号「特集=映画 明滅するテクスト」が届いた。10枚の短いエッセイを書かせていただいたのだが、目次を見てまず驚いたのは、巻頭の座談会「映画/テクスト/他者」(中山昭彦、松浦寿輝、高橋世織、司会=紅野謙介)、高名なギリシア文学者である中務哲郎氏のエッセイに続いて、3番目に自分の文章が組まれていたことだ。当然こちらは特集のおまけのように、後の方にひっそり載るものと思いこんでいた。もちろん目次の配列など、たまたまということもあろうし、岩波の「文学」の場合はむしろ表紙に名前が載ることの方が大事だとも思うのだが、それでも感じ入ってしまったのは、自分の後に並ぶ3人の名前が名前だったからである。

 すなわち、溝口健二『瀧の白糸』最長版作成に関するレポートを寄せておられるのがフィルムセンターの佐伯知紀氏であり、こちらに来てから『近代絵画』論を書くにあたって唯一この本だけを意識したと言ってもいい『小林秀雄』の前田英樹氏であり、出発前にある研究会で時間さえ許せばレポーターをやりたいと言い張った『台湾、ポストコロニアルの身体』の丸川哲史氏であったからだ。さらにその次に来るのが、日本語版が出る以前から羨望し続けた『天皇と接吻』の平野共余子氏へのインタビューと来ては、もうどうやって身を隠していいのか分からないという気分にもなろうというものだ。

 近代文学研究者では山岸郁子さん、十重田裕一さん、佐藤泉さんが論考を寄せている。佐藤さんのは17ページにも及ぶ力作。これと巻頭の座談会とを読めば、文学研究者が映画を論じる際の陥穽と意味とがくっきりと見えてこよう。どうやら今回の特集号は、従来ありがちな文学研究者が脱領域的に映画を論じたものでも、文学と映画との交渉状況をメインとしたものでもなく、文学研究に関わる人間が映画作品を対象として取り上げ、あるいは大学で映画(映像文化)の授業を担当することが増えている状況を踏まえて、その方法と倫理とを問おうというのが大きな企図だったらしい。とするならば、もう少し硬派に書いた方がよかったかな。ともあれ、こちらのエッセイはさておき、なかなか充実した特集号なので、ぜひお読みいただければとお勧めしておきたい。
12月2日(月)
 ヨーロッパに出発する以前から、帰国してからが大変だといろいろな方に言われ続けている。半信半疑で帰国後のことを想像してみる。すでに帰朝報告会的なものはすべて辞退したいと決めている。勤め先の教室会議でごく短い挨拶をするに止め、後はこの日記をお読み下さいと言うつもりだ。今どきヨーロッパにしばらく行っていたくらいで、特に改めて言うべきこともないだろうから。ゴールデンウィークまでは、本来なら春休み中にある程度済ませておくべき授業の準備で手一杯だろう。5月後半からは6月にかけては、例年通りの学会ラッシュで週末のほとんどがつぶれてしまうに違いない。すでに、日本に帰らないと資料が見られないのでと待ってもらっている単行本の書き下ろしが、長・短・編序と3つある。ワルシャワで3年に一度の欧州日本学会の大会があるので、夏にはこちらに戻ってくるつもりなのだが、それまでの日本での4ヶ月間は相当タイトなものになるのが確実な情勢だ。う〜ん、マジでこのまま逃亡をはかりたくなってきた…。

 雨の降りしきるなか、アルマ橋のたもとの下水道見学へ。これも数年前から書く約束になっている本の下調べである。
12月1日(日)
 レバノン料理店で遅い昼食。レバノン・ワインの赤で少しほろ酔い気分になりながら、ギメ美術館をぶらぶらと見てまわる。第一日曜日なので、入館無料。雨が降っているせいかも知れないが、思った以上に混んでいた。

 実業家エミール・ギメの東洋美術コレクションを収めたここは、マタ・ハリがヒンズー寺院の聖なる踊り子と称して、エキゾティシズムとエロティシズムに溢れた東洋風のダンスを舞い、一躍時の人となった場所だ。昨年1月にリニューアル・オープンして館内が明るくなり、展示も以前のごちゃごちゃした感じとは様変わりしたらしい。当時の面影を偲ぶことはもうできないのかも知れないが、様々な肢体のインドの彫像を見ながら、しばし1905年の公演の日へと思いを馳せた。

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