2002年  5月
スペイン旅行日記 23日〜30日
5月31日(金)
 今朝、パリに夜行列車で帰ってきた。この間の日記もいずれアップする予定だが、今はパリに帰ってきた理由の方を記すことにしたい。今日、明日とパリ第7大学LCAO日本セクション主催の国際シンポジウムが行われるので、それを覗きに戻ってきたのだ。

 テーマは「1920年代の日本の大衆文化」。会場は200人程入る大教室。発表と質疑はすべてフランス語か英語。早めに会場に着き、階段教室の上段隅の目立たなさそうな席を確保し、せめてポケット辞書を片手にレジュメの読解につとめようと身構える。しかし、報告者は皆、手元のハンドアウトをめくりながら話すスタイルで、資料等は何も配布されない。学会発表で何枚ものレジュメのコピーを配る慣習は、日本だけのものなのだろうか。

 それでも日本語の固有名詞と引用とははっきり聞き取れるから、退屈はしない。それぞれ個性的な口調で手振りを交えながらの報告だから、まるで朗読劇の舞台を観ているようだった。


 参考にプログラムを拙い訳で載せておく。〔英〕が英語の報告。不明の箇所はご本人に確認もしたのだが、うまく日本語に置き換えられなかった箇所もある。

2002年5月31日(金)
歴史的コンテクスト:社会における芸術家
10:30 開会の挨拶とシンポジウムの趣旨説明
10:45 スティーブン・ラージ(ケンブリッジ大学)
「1920年代の日本」〔英〕
11:30 ミカエル・リュッケン(フランス東洋語学校)
「労働者、僧侶、兵士ー1920年代の日本における芸術家の役割に対する三つの視点」
演劇と映画
14:30 ジョジアーヌ・ピノン(白百合女子大学)
「1920年代の映画女優」
15:15 J・J・チュディン(パリ第7大学)
「大衆観客を求めるオペラ」
16:15 ブライアン・パウエル(オックスフォード大学)
「新国劇ー半歩進んだ大衆演劇」〔英〕
2002年6月1日(土)
ビジネスと大衆文化
10:30 セプ・リンハルト(ウイーン大学)
「ラジオ、グラムフォン、レコード」〔英〕
11:15 クロード・ハモン(パリ第7大学)
「小林一三ー文化の請負業者・興行主」
大衆文学
14:30 セシル坂井(パリ第7大学)
「恋愛小説(Le Roman sentimental) ─ ジャンルと時代のパラドックス、菊池寛の人と作品」
15:15 クレール・ドダン(リヨン第3大学)
「文学と女性雑誌」
17:00 全体討議(進行=矢田部和彦)

 

 当初は「大衆文学」のパートの最後にもう一本、「「新青年」と探偵小説の革新」という題の報告が予定されていたのだが、発表者が病欠のためカットされた。


 現在、日本近代文学研究者の最大の学会である日本近代文学会の会員数は1800名弱だと思う。けれども、名簿の終わりの海外会員のページを見てもらえばわかるように、ヨーロッパ在住の会員はセシル坂井さんを含めて10人にも及ばない。しかし日本の学会とはほとんど無関係に、このような日本学の国際シンポジウムが毎年のように開かれ、研究が進められているという事実がある。

 坂井さんによれば、ヨーロッパの日本学の研究者はこうした西洋社会内部の学会への対応に追われ、なかなか日本の学会にまで目が向かないのだと言う。また、日本の雑誌に日本語で論文を発表しても、どういう雑誌があるのかも十分知られていないし、業績として評価されることもほとんどないらしい。それは日本の研究者がヨーロッパの研究事情をたまに仄聞する機会は持てても、その内実に関してはほとんど無関心で来たことと、鏡のような関係にあるだろう。

 外国語でなされる日本文学の研究など、所詮たかが知れていると思っている人は多いに違いない。だがそんなことを言うなら、昨今の日本の学会で真に聞くに値する発表が何本あったのかと自問すべきだとも思う。それぞれの学問的共同体の意味や役割が違うと言えば、確かにそういう面もあろうが、どちらも取り上げているのは同じ日本語のテクストであり、日本の文化事象なのだ。お互いの顔しか見ようとしない今の関係が、生産的であるとはとても思えない。

 部外者である自分が、よく知らないヨーロッパの日本学の状況についての批評めいた言葉をここで書くことはしない。ただ思う言葉はすべて、そのまま日本の学会の問題に当てはまる。そして、日本人研究者によるこれまでの海外の研究状況紹介のほとんどが、むしろ日本の学会の閉塞性を隠蔽し忘却させる機能を果たしてきたのではないかと暗澹たる気持ちに囚われ、なお言葉を失ってしまう。

5月30日(木)◆スペイン旅行日記◆*7月10日追加
 ホステルをチェックアウトし荷物を預けた後、ティッセン・ボルネミッサ美術館へ。3階にわたって、近現代西洋絵画が集められている。仮にプラドがなくてここだけでも、マドリッドは美の都であることを誇りうるだろう。そう考えればプラドは、本当に贅沢な存在なのだ。フロイトが夢分析した「グラディーヴァ」との関連をテーマにしたダリの企画展示が開催中だった。

 駅に向かうまでの残された時間、もう一度プラドへ行って絵画の森をさまよう。


 スペインに来てから、夜寝ると必ず夢を見た。それももう覚えていないような過去のことを。精神のたがのようなものが、どこかはずれてしまったのだろうか。
5月29日(水)◆スペイン旅行日記◆ *7月10日追加
 マドリッドの西に広がる広大な公園、カサ・デ・カンポの中にある動物園へ。コルドバでは日曜日(なのに…)閉園で動物園に入ることができず、マドリッドでは絶対に行こうと決心したからだ。ゆったりとした敷地に作られたここの動物園では、柵や檻を極力用いず、かつ見学者ができるだけ近くで動物に接することができるように工夫されている。日本の多摩動物園を含め、自然放牧式の展示をする動物園は幾つもあるが、これだけ見晴らしがききながら、動物との距離も感じさせないところは他にあるだろうか。


 入り口のタイムテーブルで時間を確認し、アシカとイルカのショーを見る。ラテンのリズムと手拍子にあわせて行われるショーは、日本とはまた全然違った雰囲気で、新鮮だ。しかしここの一番のアトラクションは、鳥たちのショー。中央にステージが設けられた池の上を様々な種類の猛禽類やインコが次々と飛んでゆく、つまり、池の一方や近くの飼育ゲージの屋上にいる飼育係から空へ放り投げられた鳥が、池の向こう側にいる別の飼育係めがけて飛び移ってゆくのだが、観客の本当に本当にすぐ目の前をタカやフクロウが飛びこえてゆくのだ。最後には様々な色をした何種類ものインコたちがいっせいに空に舞い上がり、池の上空を飛翔するさまは、幻想的でさえあった。


 それにしてもなぜ動物園なのか。若い頃、というのは文学研究者を志すよりもさらに前ということだが、その頃夢みたものの一つが、世界の動物園を主題とした本だった。それは単なる動物園巡りの本ではなく、植民地主義の記憶の問題から始まる精神史的な著作で、古い図版とカラーの写真とをふんだんに入れ、さらに植物園、水族館をテーマにした本と3部作をなすはずだった。
 今でも志を同じくする編集者と巡り会ったら、数年がかりで書き下ろしてみたいという野心くらいは残っているが、さすがに今回の在外研究の目的の一つがヨーロッパの動物園巡りだとは、出発前には誰にも言えなかった。


 動物園の前からタクシーでロープウェイの乗り場に向かい、そこからゆっくりと地上へと降りる。近くのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂、通称ゴヤのパンテオンへ。この礼拝堂の円天井にはゴヤのフレスコ画『聖アントニオの奇跡』が描かれている。

 夕食は聖堂のすぐそばのカサ・ミンゴで。1890年創業のローストチキンとシドラ(リンゴ酒)で有名な北部アストゥリアス風の居酒屋とガイドブックにはある。当然名物のその二つを頼むが、チキンは2羽丸ごと出てきてとても食べきれない。1羽は持って帰るかと聞かれるが、ともかくおいしいとこだけをつまみだすようにして、がんばって食べる。
5月28日(火)◆スペイン旅行日記◆ *7月10日追加
 エル・グレコの暮らした町トレドへ。マドリッド・アトーチャ駅から列車で1時間ちょっと。駅から前方へ歩き出すと、ほどなく丘の上に石造りのトレドの町が見えてくる。13世紀に造られたというアルカンタラ橋を渡り、城壁の石の門をくぐり、坂道を上って、町中へと入る。

 まず14時半までしか入れないアルカサルへ。11世紀から幾度となく破壊と再建とが繰り返されてきたという要塞で、現在は軍事博物館になっている。スペイン市民戦争の時にはモスカルド大佐率いるフランコ軍が72日間立て籠もった。その司令室が再現されている。壁や床はひび割れ、椅子もきしんで壊れかかり、最終的には建物はすべてこなごなにされたのだから、ここは再現されたものに過ぎないのだと思おうとしても、うまくそう受け止められない。誰が書いたものなのだろうか、籠城する大佐と囚われた息子とのやりとりを日本語に訳した手書きの紙が、壁に貼ってある。ここに限らずトレドでは写真撮影禁止の場所が多いのだが、少しみつけにくい端の部屋のせいか、たまたま誰もおらず、こっそり撮ろうかどうしようか逡巡しているうちに、他の観光客が次々やってきて機会を逸した。けれども考えようによれば、写真に収められなかったことは幸いなのかも知れない。その分だけより鮮明に、この部屋の記憶は残り続けることだろうだろうから。


 続いて尖塔のそびえるカテドラルへ。聖器室にグレコの『聖衣剥奪』などがある。サント・トメ教会。『オルガス伯爵の埋葬』はここにある。エル・グレコの家。小さな美術館ともなっており、『トレドの景観と地図』などが見られる。サン・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会。グレコはここに眠っている。

 セビーリャでもコルドバでも旧市街は迷路のようであったが、坂の上り下りも多いトレドに比べればまだ歩きやすかったと思う。どこを自分が歩いているのかだんだんわからなくなり、ともかく城壁にたどり着こうとして、ようやく石の門へと帰り着いた。


 昨日のランチは「秋」という日本料理屋で、プロレス巻きという店オリジナルの太巻きを食べたが、今日の夕食にはスペインで最初の回転寿司店だという「回転寿司銀座」に行ってみることにする。巻物を中心に日本ではあまり食べられないネタのお寿司を中心に取る。トロやサーモンでごはんのまわりを巻いたりしている。両隣りのスペイン人男性よりも、積み上げたお皿の高さが上なのがなんだか嬉しい。スペインに来てから、どれを取っても量が多すぎて食べ残すことが多かったからだ。

 その二人の男性が飲んでいたのが、どちらもサッポロビールだったので、不思議に思い、清算後にレジで聞いてみた。お店では、日本ビールを注文するお客さんに対して、ビールの好みをビターか、中間か、そうでないものかと3つに分けて尋ねるのだそうだ。ビターはアサヒのスーパードライ、中間はキリン、そしてそうでないのを好む人にサッポロを出すのだと言う。サッポロが抜群に人気がある訳ではないそうだが、なるほどそれで二人ともサッポロだったのかと納得できた。

 ただし、あくまでも自分の好みだが、スペインで食するお寿司に合うのは、やはり地元の Mahou というビールではないかと思う。口に残るお寿司の甘さとそれこそ魔法のようにうまく溶け合う気がするのだ。
5月27日(月)◆スペイン旅行日記◆ *7月10日追加
 朝コルドバを出てマドリッドに戻ってきた。月曜日なので、美術館は休みのところが多い。14時までなら開いている王立サン・フェルナンド美術アカデミーのスペイン絵画の展示を見た後、王宮を見学し、スペイン広場からグラン・ビアを通って、アルカラ門のある独立広場まで2キロほど歩く。車の通行量の多い大通りを歩いたせいで、喉ががらがらする。マドリッドには工事中の所も多い。都市が激しく動いている。
5月26日(日)◆スペイン旅行日記◆*7月10日追加
 再びAVEでコルドバへ。メスキータ(モスク)の近くに宿をとり、市内を散策。まず白壁の家に挟まれた狭い小道が入り組むユダヤ人街へ。シナエゴ(ユダヤ人教会)と12世紀のイスラム風の邸宅カサ・アンダルシに入った後、宮殿アルカサルへ。花が咲き誇る庭園が美しい。グアダルギビール川沿いに北上、途中でサーカスのパレードと遭遇する。子馬(ポトロ)の噴水があるポトロ広場へ。噴水正面に向かって左の家に、ここが『ドン・キホーテ』に登場する旅籠屋ポトロだとの表示。広場横のフリオ・ロメロ・デ・トーレス美術館と県立美術館とを見学。ずいぶんと歩いたが、日が長いのでまだまだ時間が余る。北上し、灯火のキリスト広場とコロン広場を抜け、簡単な食事をとった後、今度はビクトリア公園を南下、植物園を見学し、最後にメスキータに戻って中を見る。

 785年に建設が始められたこのモスクは、都合3回拡張が行われている。ここに限らずイスラム教、ユダヤ教、キリスト教が時に融和し、時に激しく排除し合いながら展開してきた歴史が、コルドバには層となって街に残っている。だがそのことを、西洋の石の文化のためだと考えるのはよそう。歴史はたとえ新たな支配者が過去を隠蔽し消去しようとしても、なお層となって残る部分がある。それを見抜く視力を持ちうるかどうかが大切なのだ。コルドバのまばゆい光はそのことを強く喚起する。


 ところで、スペインではビールをセルベッサと言う。ビールと言ったらビーノ(ワイン)と間違えられたので、この言葉だけはすぐ覚えた。カフェのカウンターで「ウノ セルベッサ」と言うと、1、2ユーロでビールがグラスで出てくる。すでに日中の日差しは夏のそれだから、すぐ喉が渇く。

 しかし実は、スペインで一番好んで口にしているのは、ビールではない。グラニサーダ・デ・リモンというレモンの氷水がとても気に入って、毎日飲んでいる。
5月25日(土)◆スペイン旅行日記◆ *7月10日追加
 スペインの誇る高速特急AVEに乗って、セビーリャへ。日程が許せば本当はもっと先のアンダルシア山中の白い村まで行ってしまいたかった。写真を通じておそらく日本に一番知られているのは、カサレス。言葉の響きに惹かれてきたのは、サハラ・デ・ラ・シェラ。ヨーロッパ南端の白い村への憧れは、卑小な自分など消尽させてしまいたいという願望とつながっている。

 セビーリャにはシェルペス通りという、名前そっくりにヘビにように曲がりくねった通りがあるが、細い道もほとんどが曲がりくねり、まるで迷路に迷い込んだような気分になる。ピラトの家(タリファ侯爵邸)、カテドラル(コロンブスの墓がある)、アルカサル(ムデハル様式の建物だけでなく庭園がまた美しい)、セビーリャ大学(元はカルメンが働いていたことになっているタバコ工場)、スペイン広場、黄金の塔、救済病院(ムリーリョとバルデス・レアルの絵がある)、そしてムリーリョやスルバランを豊富に収めた美術館を最後に見るが、これだけ駆け回ったにもかかわらず、あまりせわしく歩いた気がしない。南国の空気の中で、時間感覚までがとろけてしまったようだった。
5月24日(金)◆スペイン旅行日記◆*7月10日追加
 朝9時13分。マドリッド・チャマルティン駅に到着。ここから地下鉄でマドリッド・アトーチャ駅に移動する。スペイン国内の高速特急AVEの発着はアトーチャ駅の方だからだ。AVEは座席指定で予約なしには乗れないため、その手続き。それから駅近くの安いホステルにチェックインし、市内へ。

 アトーチャ駅から500メートルほど歩いたところにあるプラド美術館。そのまさに中央の部屋の、回廊から見て一番奥に掛かっているのがベラスケスの『ラス・メニーナス』。この絵を見ることが今回の旅の最大の目的だった。

 プラドは本当に「実に豊富」としか言いようのないような美術館で、裸と着衣の2枚の『マヤ』はワシントンに行っていて見られなかったが、さほど混んでもいない館内に世界美術史上の名品が幾つも掲げられている。

 プラドの後は、ソフィア王妃芸術センターへ。19時で閉まるプラドに対し、20世紀の現代美術を集めたここは21時まで開いている。そしてここには、ピカソの『ゲルニカ』がある。


 ソフィア王妃芸術センターでは8月末まで、イサム・ノグチの特別展も開かれている。細かい石を敷き詰めた入り口から中に入ると、足下も見えないような闇に包まれる。うっすらと光を浴びた幾つかのオブジェを見てから、次の部屋に進むと、奥に藁が積み上げられ、中央にあけられた窓からは冬のたんぼの風景が見える。その前に、行燈を思わせる紙で作られたランプが幾つもつり下げられている。さらに次の部屋では、石庭のような空間があり、鑑賞者は石の道を辿りながら作品を見る。かすかに琴の音が聞こえる。
 イサム・ノグチの作品は、必ずしもオリエンタリズムとは思わない。むしろその造形感覚は、このスペインのホアン・ミロに通じる気がする。今回の展示が日本を強調しすぎるように思えるのは、展示する側のわかりやすく伝えようとする意図からなのか、それとも観るこちら側の問題なのだろうか。
5月23日(木)◆スペイン旅行日記◆*7月10日追加
 日本大使館と在仏日本人会でお願いしておいた法定翻訳を受け取り、パリ第7大学のライヤさんへ日本語原本とセットで届ける。これで大学から滞在許可証を申請してもらうのに必要な書類は全部揃った。次はフランス移民局(OMI)の指定医による健康診断を受ける必要があり、その日時の通知が届くのを待つことになる。ビザの有効期限末日までそう多くの日数が残っている訳ではない。なんとか順調にいってほしいと願う。


 パリ・オステルリッツ駅19時43分発の国際夜行列車(ホテル・トレイン)フランシスコ・デ・ゴヤ号に乗って、スペインのマドリッドに向かう。
5月22日(水)
「JーApe 欧州日記」というタイトルの「J」は言うまでもなく「Japan」、つまり「JーApe」とは「ニホンザル」を意味する。とは言っても、日本の山野に生息するサルたちのことを英語でこう言う訳ではない。「Ape」は霊長類、つまりチンパンジーやゴリラやオランウータンといった類人猿を指す単語だからだ。

「JーApe」という語にはむしろこの西洋社会において、日本人がどう表象されてきたのか、あるいは今なおどう見られているのか、その記憶を呼び起こす面があると思う。

 西洋社会にとけこみ、日本人であることを忘れて生活することも可能なのかも知れない。けれども現実には、日本にいる時よりも自分が「日本人」であることを突きつけられる機会がずっと多いことも確かであろう。言葉のできない自分が異国に暮らす意味は、自分を「日本人」として眼差してくるものに対して、せいぜいこちら側から見返す視力を養うことくらいしかないのかも知れない。そのためにも、「JーApe」という言葉が喚起する記憶を忘れたくはないと思う。


 エドガー・ライス・バロウズ『類猿人ターザン』の原題も、「Tarzan, the Ape」。イギリス貴族の遺児であるターザンが育てられたのは、ゴリラでもチンパンジーでもなく「Ape」だと、原作にははっきり書いてある。Apeたちは原始的な言語を有し、ボスを中心に集団生活を営んでいる。作中には、白人(西洋人)ー黒人(原住民)ーApeーゴリラ、という進化論的な階梯がはっきり書き記されており、いわば人間とサルとの間のミッシング・リンクを埋めるような存在がApeということになる。

 私は、バロウズがアフリカに対するあまりの無知ゆえに捏造した、この「Ape」という想像上の生物が気になってならない。それは人間と動物とを、あるいは文明と野生とを切り分け、かつ繋ぐ存在だからである。


 もっとも「JーApe」という語が気に入らないという意見を寄せてくれた方もいた。いまの座標と立場からするとどうかということだから、招聘状をもらった在外研究先で、あるいは排他的な極右の民族主義が台頭するヨーロッパにいて、あえて日本人の蔑称のようなものを自ら名乗ることの是非を問われているのだろう。

 いま自分が想起するのは梁石日(ヤン・ソンギル)『夜を賭けて』の、西部劇における悪役に他ならないアパッチ族の名を蔑称として被せられながら、あえてその名を自ら戦いのために選び取ってゆく、あの感動的な物語の連なりである。もちろん負性を帯びた名前を自ら選ぶという行為は、、政治的な場はともかく、たった一人の戦いではナルシシズムにしかならないのかも知れない。あるいはそれを心理的なルサンチマンと重ねてしまったら、直ちに卑屈で尊大なナショナリズムへとなりはててしまう危険もあるだろう。

 いずれにしても、このタイトルにどこまでも執着しようとは思わないが、他の人の意見も聞いてみたいし、しばらくはこのままで続けたいと思う。


 ところで、明日からしばらくパリを離れます。ノートパソコンは置いてゆくため、少なくとも1週間ほどは音信不通の状態になります。この日記もしばらくお休みです。
5月21日(火)
 サンラザール駅の国際線切符売り場でユーロパスを購入する。ヨーロッパの鉄道が乗り放題になるユーレイルパスや、若干利用できる国は絞られるが利用日を選んで使えるユーロパスは、一般にヨーロッパでは購入できないと伝えられているが、パリではここサンラザール駅を含む3つの駅で購入できる。ただし入国後6ヶ月以内が条件で、パスポート提示を求められる。

 サンラザール駅の国際線切符売り場では、向かって一番右手の9番窓口がユーレイルパス&ユーロパスの専用窓口。購入したのは、ユーロパスの10日間1ヵ国追加(元々の5ヵ国にベネルクス3国を選んで追加)で740ユーロ。手元には昨年6月の料金表しかないが、それと見比べるとやはり日本で購入してきた方が安いようだ。ただ窓口の男性はとても懇切に英語で応対してくれるので、購入自体には何の不安もいらないと思う。
5月20日(月)
 フランスは昨日が聖霊降臨の祝日、そして今日が聖霊降誕の翌日、いわゆる振替休日にあたる。連休も旅行者には正直有り難くない。閉まってしまう店が多いからだ。それでもパリ中心部では空いているカフェやレストランが多い。

 オデオン座の正面にあるラ・メディテラネで遅い昼食。魚料理がメインの店で、伝統的地中海風スープを頼むと、カレーのような色をした液体が出てくる。魚はすべてすり身にして中に溶かし込んである。

 実は昨晩10時過ぎにこの店に来た時には満席で入れなかった。パリはいま午後9時をまわっても外は明るいが、10時を過ぎるとさすがに夜の世界になる。日本での感覚が抜けきれないのか、どうもあたりが暗くならないと夕飯を食べようという気になれない。それで10時過ぎに外出し12時過ぎに部屋に戻る。その分朝が遅くなる。昼食時だと多少高めのレストランでも手の届くコース・メニューがあるし、ピークから少しずらせば席もとりやすい。ただ、せっかくだからとワインも飲む。すっかり満腹になれば当然眠くなる。シエスタ(昼寝)と決め込みたくなる。そしてその分、夕食もまた遅くなることになるのだ。
5月19日(日)
 昨日の日記を読んで、會津さんが励ましのメールを下さった。別に反響のなさを嘆いてはいないのだが、宣伝もろくにせずに書いたのはまずかったかと反省し、これを期にいままで控えていた通知を出すことにした。

 ところが、研究室のメールソフトからエクスポートしてきたリストを見ると、何人もの方のお名前とメルアドが抜けている。常日頃アドレス帳をきちんと整理して来なかった報いらしい。

 それに、少しワインで酔っぱらってたせいで、冗漫で意を尽くさないメールを大量にばらまいてしまったのだとも、今朝になって気づいた。なんだか暴力的な振る舞いをしてしまったみたいで、その点でも気分が重い。6月末からの住所と電話番号、それに新メールアドレスの連絡は、入用な人だけに限った方がいいのかなと思う。


 ということですので、こちらからのメールではなく、人づてにここをお聞きになられた方へ。他意はありません。直接ご連絡を差し上げられず、申し訳ありませんでした。それから、住所等のご連絡は、何らかのメールを6月末までにいただいた方だけに限らせていただきます。臨時アドレスでも日本で使っていたアドレスでもどちらでもかまいません。ご返事をすぐにはお出しできませんが、いずれ住所その他をご連絡申し上げます。

 なお怪美堂では、この日記の著者の所在については、原則としてお応えいただけません。
5月18日(土)
 會津信吾さんのご厚意で、日記をここに掲載させていただいている。會津さんほど「畏友」という言葉が似つかわしい人は、自分のまわりには他にいない。古典SF評論・研究の領域で特に有名な方だが、その博識はとてもその範疇でなど収まらず、いろいろと話を伺っているだけで、溜息が出てしまう。

 その會津さんがこのたびインターネット古書店を開業することになったので、お言葉に甘えて、サイト(店舗)の片隅にコーナーを作っていただいたのだ。


 滞欧日記のネット上での公開は出発前から考えていて、当初は勤務先の大学の方でホームページを立ち上げ、そこのファイルに日々自分で書き込むつもりだった。けれども、技術的に可能だとは言われても、研究室のパソコンで打ち込むのとはやはり違うし、フランスからでも本当にうまく書き込めるのか自信が持てなかった。それに大学内の半ば公的なホームページだと、執筆内容に自ずと心理的な制約が働きそうなのも嫌だった。

 ここならば自由に書きたいことが書けるし、本当によかったと思っている。


 もっとも喜んでいるのは著者だけなのかも知れない。なぜなら、閲覧できるようになって1週間程になるはずなのだが、反応というのがまるでないからだ。こちらのネット環境が常時使える状態にないため、緊急の連絡方法を伝えておかないとまずい、ごく少数の人くらいにしかまだ伝えていないとは言え、目下のところ、誰からも何もかえってはこない。日本大学の金子明雄さんは、ネットで日記を公開するようになり、生まれて初めて読者を持つ喜びを知ったと今年の賀状に書いていたが、やはりそういう僥倖は誰にでも訪れるものではないらしい。

 カウンターもお便りの箱も設置していないし、こちらの状況を察してメール送信を遠慮して下さってる方もいるのかなとも思うが、その一方で、もしかしたらこのページにアクセスした人は、この地球上に誰一人として存在していないのではないか、という想像にもかられてしまう。


 でもそれも、いいのかも知れない。誰も読まない日記をパリから書き送り続ける人間と、それを律儀にホームページに載せてくれる人間と。このサイトのテーマである「風変わりな人生」そのものだろうから。

 會津さんもそんな気持ちでいてくれたら、とても嬉しいのだが。
5月17日(金)
 日本から送付してもらった書類が昨日やっと届く。通常は1週間以内で届くらしいが、5月は日本もフランスも連休があったりするから、郵便も遅れがちなのだろうか。

 フランス語の法定翻訳を作ってもらうために、パリ第7大学→日本大使館領事部→在仏日本人会→パリ第7大学→在仏日本人会と駆け回る。一度パリ7に戻らなければならなかったのは、疑問点が出てきてしまったため。セシル坂井さんに貴重な時間を割いてもらい、担当のライヤさんとお会いして確認をとっていただく。いろいろあったが、ともあれ来週木曜日の朝できあがる法定翻訳をライヤさんにお届けすれば、大学を通して警察へと滞在許可証の申請をしていただけるはずなのだ。


「それは何ですか?」
「村上龍という日本の小説家の書いた本です。『限りなく透明に近いブルー』や『69』を書いた人です。」

 ところでこれは、今日パリ7の図書室で耳にした日本語の会話。いや、本当のことを言うと、学生のヒアリング練習用のテープに若い教員の方たちが吹き込んでいた台詞の一部を、記憶を頼りに書き出してみたもの。

 ここで注目したいのは、日本の小説家の名前として「村上龍」が選ばれていることで、どうやら今フランスでは、春樹でもばななでもなく、村上龍こそが最もポピュラーな現代日本の作家らしいのだ。
 坂井さんによれば、パリの若者たちは龍の世界に強い同時代的な共感を抱いているという。確かにパリ日本文化会館の販売コーナーでも、村上龍の小説のフランス語訳のペーパーバックが何冊も平積みになっていた。
 

 と、こんなことを書いたのは、実は坂井さんから人に紹介していただくとき、「村上龍など日本現代文学の専門家」と言われていて、ちょっぴり困っていたのだ。それは學燈社の「國文學」誌に数本、村上龍に関する短い文章を書いているし、「昭和文学研究」の「研究動向」欄で村上龍を担当したこともある。だけど本格的な論文も批評も書いてはいないのだから…。

 もっとも「文化研究」とか言われてもよくわからないだろうし、まして「水道」だの「競馬」だの「猿」だのと言ったらますます困惑させてしまうだけだろうから、「村上龍」くらいしか使えるものがないのかも知れない。
 

 初めて「國文學」に村上龍のことを書いたのは、「音楽と文学」という特集号だった。依頼の電話では、村上龍でも春樹でも、どちらでも好きな方を選んでくれ、という話だった。送られてきた掲載誌の巻頭に、中上健次と村上龍との対談(「存在の耐えられないサルサ」)が載っているのを見て、背筋が寒くなった。
 あの時もし村上春樹を選択していたら、運命は変わったのだろうか。
5月16日(木)
 セシル坂井さんにお願いして、授業を聴講させていただく。MAITRISEだから訳語は「修士」だが、日本の大学でいうと学部4年生の授業。特に難しい箇所をフランス語で説明する以外はすべて日本語。坂井さんの話だと数年前まではフランス語でないと授業にならなかったのが、ずいぶんレベルアップしたのだそうだ。講義要項には芥川龍之介「或阿呆の一生」、中上健次「日論の翼」、村上春樹「象の消滅」の>名が挙がっていたが、今は半期の締めっくりの時期で現代の詩歌を取り上げている。

 とても気持ちよく晴れ上がった午後の1限目とあって、パンを囓りながら遅刻して入ってくる女子学生がいたり、ついうとうとしているところを横の友達につつかれている男子学生がいたり、ああこういうところはフランスも日本もおんなじなんだなあと、思わずほっとしてしまう。でも、20名ほどの学生たちはみなとても熱心に授業にのぞんでいた。


 教材は朝日歌壇のプリント。掲載作を1首ずつまず学生を指名して音読させ、それから単語の意味や表現の特徴を説明してゆく。自分も非常勤講師時代に何年か留学生のための「日本語」を担当していたから、こういう授業の感覚はとてもよくわかる。ただ、プラクティカルな日本語の習得をめざす語学校ならばともかく、四年生大学に学ぶ学生たちの場合は、自国語で相当高度で専門的な本も読んでいることもあるし、文化的社会的なものに対する興味や学習意欲も高い。一方で日本語の基礎をきちんとマスターさせながら、その一方で学生の知的関心にもどう応えてゆくのかが難しい。日本語レベルにだけ標準をあわせて訳述中心のマンネリ化した授業を行えば、学生たちの気持ちはたちまちのうちに遠のいてしまう。

 坂井さんは近藤芳美選の10首とその評の音読と説明とを一通り済ませた後、石井辰彦『現代詩としての短歌』の冒頭部分のプリントに即して、日本語では1行書きの短歌や俳句が、西洋語に訳される時には複数行の書き分けになってしまう不思議さに学生たちの目を向けさせる。1行縦書きの短歌が全部3行横書きになっている俵万智『サラダ記念日』の英訳『Salad Anniversary』や、このパリ第7大学出身で今は日本で小林一茶の研究をしているマブソン青眼の手書き印刷の句集『空青すぎて』や、右頁に日本語、左頁にフランス語で同じ詩がレイアウトも揃えて組まれている吉田加南子の『対訳版 底本 闇』を学生たちに回覧し、まずわかりやすい視覚の面から興味を喚起しようとする。そして最後に、やはり数年前パリ第7大学に来ていたという俳人の夏石番矢が編んだ『ちびまる子ちゃんの俳句教室』のプリントを配り、俳句の基本を説明して次週の現代俳句の話へとつなげたところで、ちょうど授業時間がいっぱいになった。

 和気あいあいとした授業の雰囲気まではうまく伝えられないが、こんな風にしてパリの学生たちは日本語を学び、短歌や俳句に親しんでいた。翻って自分は、いままでどれくらい日本語の面白さや不思議さを学生たちに伝えることができていたんだろうと、不安な気持ちで考えてしまう。
5月15日(水)
 昨日で日本を発ってちょうど一月経ったのだと、後から気づく。「まだ」と「もう」とで思いは半ばするが、どちらかと言えば、ようやく一ヶ月かという気持ちが強い。それだけ日本では時間の流れが早すぎたということなのだろう。

 メール送受信をするため、ホテルを移る。やはり三ツ星以上でないとインターネット接続は難しいようだ。しかし、サン・ミッシェル地区は客の棲み分けがはっきりしているのか、三ツ星と二つ星との宿泊料金の格差がモンパルナスに比べて大きい。いろいろ三ツ星を見てまわったが、結局手ごろな料金のホテルを探すのを断念し、オデオン広場近くのホテルに。1泊で昨日までのホテルの倍以上。モジュラージャックが壁についている部屋は代わりにバスが付いてない。パリで泊まった一番高い値段の部屋がシャワーだけだったというのは、ちょっとした笑い話ではないだろうか。

 通りの向かいは、HORSE’S TAVERNというビール・パブ。夜中の11時を過ぎてもテラスで飲んでいる人たちの姿が、ホテルの部屋からも見下ろせる。明かりに誘われた蛾のように、これから一杯だけビールを飲みに出る。
5月14日(火)
 パリの天気は変わりやすい。時々矢のような雨がふりつけるなか、銀行口座を開くためにオペラ大通りのクレディ・リヨネヘ。不動産屋から指定された銀行で、ここには日本人女性の顧客アドバイザーが二人もいる。しかし、常時ひっぱりだこで予約制。連休を挟んでとはいえ、1週間待った。確かにちょっと様子をみているだけで、これでは予約が途切れることもないだろうなと思う。


 雨のあがった午後はレピュブリック広場近くのエスパス・ジャポンと、エッフェル塔近くの日本文化会館へ。次の仕事のために、パリでどれだけの日本語文献が使えるか調べておきたかったのだ。

 エスパス・ジャポンは日本の貸本屋といったところで、年会費55ユーロ、保証金30ユーロを払うと、本を3週間5冊まで借りられる。一緒に漫画やCDを借りることもできる。体系的に揃えたという雰囲気はゼロ。古い文庫本を中心に、いろいろな本を集めるだけ集めたという感じがするが、その乱雑さが逆に嬉しい。古本屋の棚をみながら、何か掘り出し物を探しているような気分になれる。

 一方、日本文化会館3階の図書室は、いかにも図書館という感じで整然と書棚が並び、分類番号順に図書が整理されている。書棚のまわりの机では多くの学生たちが勉強していて、まるで日本の大学図書館に入ったような既視感に襲われる。ここにも作家の個人全集はかなりの種類揃っており、明治期の「朝日新聞」や「青鞜」の復刻まである。できたのが新しい分最近のものが中心で、さすがに研究書の類はほとんどないが、それでもこれだけあればずいぶんといろいろなことが考えられると思う。
5月13日(月)
 パリで一番ホテルの多いサン・ミッシェル地区の二つ星ホテルへ移動。午後、パリ第7大学へ。ここからは、歩いていける距離。芳川泰久さんをセシル坂井さんから紹介してもらい、日本文学関係の図書を見せてもらう。

 近代関係の日本語文献は、日本の大学によくある国文科の演習室みたいな感じの部屋に置かれていて、主要な作家の全集や最近の文芸雑誌などがところ狭しと書棚に詰め込まれている。専従の助手や副手がいるのではなく、授業と授業との間の一コマ分の時間(1時間30分)、教員がここで待機することになっているのだそうだ。図書を借りる場合は、所定の紙に名前と連絡先とを書き、本のあった場所にその紙を挟んでゆくだけでいい。

 欧文の図書は学生用図書室。英文も含め、日本関係の翻訳書や研究書が書棚が3つほど向かいあった形のコーナーに並べられている。近代文学のフランス語訳は大体書棚1つ分。セシルさんによれば、これでも今までに仏訳されたものの1/3くらいなのだそうだ。

 もちろん、日本語の研究書や理論書の日本語訳などはほとんどない。何もかも日本にいるのと同じとはいかないが、パリにいてこれだけの基本文献が自由に使えるのは有り難い。
5月12日(日)

『田中英光事典』の原稿を同志社大の田中励儀氏にメール送付する。ホテルのマダムがモジュラージャックケーブルを貸してくれたのだ。アトリエ・モンパルナスは小さなホテルで設備とかも豪華ではないが、バスルームの壁がパステル画だったり、部屋にも絵が掛かっていたりと、名前通りの造りで心地よい。ケーブルを貸してくれた女性もチェックインの対応から気持ちがよかった。このままパリの定宿にしたいくらいに。


『田中英光事典』は、没後五〇年を機として三弥井書店から刊行される予定だった。だった、と書くのはすでに英光の没後五〇年が過ぎてしまっているからで、もともとの依頼状の締切期日は「平成13年1月末日」となっていた。それがいまだに刊行されないのは、自分のように締切を過ぎても原稿を出せない人間がいたせいで、出版社や他の執筆者の方にはずいぶんと申し訳ないことをしてしまったと思う。

 実は、執筆者の核となっている無頼文学会では『田中英光事典』と同時並行の形で至文堂の「解釈と鑑賞別冊」としての『坂口安吾事典』、それも「作品編」「事項編」2冊の編纂作業が進められていて、その『安吾事典』の編集事務的な作業を、矢島道弘氏が病気で倒れられたこともあってほとんど中心となってする必要に迫られ、刊行まで特例的に原稿を猶予してもらっていたという事情がある。実際、時間が許す限りは至文堂まで出向いて校正ゲラの表記の統一やら確認やら、その他諸々の作業に追われていたから、とても田中英光まで手がまわらなかったのだ。

 しかし、11月になんとか『安吾事典』が片づいてから出発までの間にも脱稿できなかったのだから、やはり非はこちらにある。実際書き上げてみて、どうしてこの程度のものが日本にいるうちに書けなかったんだろうと不思議にさえ思う。


 近代文学研究業界では、ここ数年は事典ブーム(?)で、出版社側も図書館等である程度部数の見込みやすい事典ならばと考えたからなのか、自分のところにもずいぶんと項目執筆依頼が来ていた。事典の項目など誰が書いてもたいして変わらないと見る向きもあるだろうが、こうした断簡のようなものにこそ研究者の力量がはっきり出るという思いもある。自分の書いてきたものがそれだけの価値があるとは思わないが、勉強だと思ってそのつど誠実に原稿に取り組んではきた。しかしこの1,2年は完全にアップアップだったと思う。

 事典項目の執筆には勘どころのようなものがあって、資料をあたって一気に書いてしまえば、どうというほどでもないのだ。だけど中途で放り投げると、また作品や資料を一から読み直さなければならず、作業ロスもストレスも大きい。しばらくは事典原稿は書きたくないという気持ちが強い。


 と書きつつ、実はもうひとつ事典原稿が残っている。依頼状に記された締切は「平成13年9月末日」。他の用向きにも使えそうなので、東京から資料を至急送ってもらうつもりだが、はたして今から書くことがいいことなのかどうか、それもよくわからない。


 ところで、モンパルナス駅周辺にはクレープ屋がとても多い。クレープといってもガレット(そば粉のクレープ)はふつう日本で言うクレープとは色もボリュームも違い、チーズや卵やハムなどを入れて食事のメインの一皿として食される。どのガイドブックにも載っているクレープリー・ド・ジョスランを始め、日本語メニューのあるお店も多いようだ。そういえばこのあたりには「やきとり」の看板も目立つ。意外かも知れないが、クレープとやきとりは元々は庶民の食べ物として通じ合うものがある。

 モンパルナス駅周辺にクレープ屋が多いのは、昔ブルターニュ地方からの終着駅がここだったからだ。貧しい故郷のことを思い起こしながら、出稼ぎ労働者が口にしたのが故郷の味であるクレープだったという。そういう話を聞くとせつない。

 別に原稿脱稿の解放感があった訳ではなく、むしろ別件で気持ちがくさってさえいたのだが、クレープと合わせて飲まれるシードル(リンゴ酒)を少し飲み過ぎてしまった。


 明日はモンパルナスを離れようと思う。

5月11日(土)

 朝、三ツ星ホテルのアトリエ・モンパルナスへ。インターネットが使えるか確認したうえで、チェックイン。しかし、現実には使えず困窮する。パリのホテルでは壁に掛かった電話機器の上部にモジュラージャックの差し込み口があるタイプが多いようなのだが、今までの三ツ星ホテルでは電話機からモジュラージャックケーブルをはずすこともできたので、それをモデムセーバーを挟んでノートパソコンにつなげばよかった。しかし今回は電話機器のモジュラーの差し込み口につながないと接続ができない。要するに、日本からモジュラージャックケーブルの短いものを持ってきていればよかった、というだけの話なのだが、ないものはどうしょうもない。

 INNOにコンピューターのコーナーがあったので、そこに行けばモジュラージャックケーブルくらい購入できるだろうと踏んだのも甘かった。モジュラージャックケーブルに限らず、周辺機器的なものはほとんどなかった。明日は日曜日で、日本と違って、家電製品のお店は大型店も含めお休みだろう。また明日、新しいホテルに移動しなければならない。


 夕飯は近くの焼肉店コレアン・バーベキューヘ。名前からの連想とは違って実は日本人オーナーの店で、ウエイター&ウエイトレスもみな日本人のアルバイトのようだ。折しも他は皆フランス人の客だったのだが、小声で打ち合わせをする日本語が耳に入ってくる。セットメニューには焼肉と寿司とを組み合わせたものが幾つもあるが、焼肉にキムチやご飯が付いてくる一番シンプルなものを注文。カルビをいっても赤身が多くヘルシーな感じで、モルゴンという赤ワインが信じられないくらいにそれとよく合う。最後は立ち待ちの人が出てきたのでいそいそと退却してしまったが、焼肉とご飯を食べ、少し元気がでた。

5月10日(金)

 パリに来てから時の流れが速まり、無為の時間があっという間に過ぎ去ってしまったように感じる。所用と食事以外はほとんどホテルから出ず、観光客らしいことはほとんど何もしていない。ただ、ホテル代がかさんでゆくのが辛い。それにこうして安いホテルばかりを泊まり歩いていると、このままどこまでも墜ちてゆくたいような気分に囚われてしまう。

 朝から雨。どんよりと曇った空の下、ジャンバーを着てもまだ寒い。二日前までの快晴が嘘のようだ。

5月9日(木)

 ホテルのすぐ近くのエドガー・キネの市場は毎日様変わりをする。昨日は野菜やチーズや肉といった食品の市だったが、今日は蚤の市でアンティークや古本や絵葉書などの店が並ぶ。1925年パリ万博の日本館の絵葉書と能面を意識したと思える薬の宣伝ちらしとがささやかな収穫。

 モンパルナス駅近くのスーパINNOには、入ってすぐ左横にお寿司のテイクアウトのコーナー entre les roseaux がある。壁と柱には日本語で「葦の間」とも。日本のスーパーによくあるのと同じで、詰め合わせでもビニールに包んだ単品でも購入できる。値段は日本のスーパーの倍くらいか。12.20ユーロの詰め合わせをホテルに持ち帰って夕食に食べた。醤油とガリは付いていたが、さすがに割り箸までは付いていない。

 日本にホームシックを感じている訳ではない。こんな風に、パリには「日本」が至るところに偏在しているのだから。ただ、しばらくパリを離れて他のところへ行きたいという思いはある。なかなか片づいてはくれない諸々の用が済むまではパリにいなければならない。その焦燥感がそう思わせるのだろう。

5月8日(水)

 昨日、9割方書き上げた原稿を日本にメール送信し、着いたことも確認できた。残りの1割の分は日本から研究室に忘れたフロッピーが届くことと、パリ第7大学の図書館で引用文献のチェックが必須なので、すぐには着手できない。次の仕事に移ることとして、一つ星ホテルのセルティックに移る。シャワー付の部屋で52ユーロ。これで宿泊代は半分以下になる。シャワーなしだと39ユーロだが、荷物移動で汗をかいたせいもあって、さすがにそこまでする気持ちにはなれなかった。部屋は4階(日本だと5階)。エレベーターがなく、荷物を持って上がるだけでも大変。

 フランスは今日明日と連休。金曜日もお休みにして5連休にする人も多いらしい。天気がいいこともあって、カフェのテラス席でのんびりとしている人が目立つ。

5月7日(火)
 朝、ホテル・イストリアを出て、それほど遠くない三ツ星ホテルのサント・ブーヴへ。部屋を見せてもらい、インターネットが可能かどうか確かめたうえでチェック・イン。高名な批評家の名前を取ってホテル名が付けられている訳ではなく、サント・ブーヴ通りにあるからホテル・サント・ブーヴ。パリには文学者の名前をとった通りが幾つもある。そういえばサント・ブーヴの墓もモンパルナス墓地にあった。


 午前11時、不動産屋で家主と会い、契約書にサインをし、敷金二ヶ月分をキャッシュで手渡す。家主が帰った後、今度は契約書の裏面に書かれた取り決めに沿って、細かい説明を受ける。説明は日仏の生活習慣の相違から法に対する考え方の違いにまで及んだ。

 トラブルで一番多いのは水回りの問題で、7月15日、8月1日、12月25日が危険日なのだそうだ。特に前二つは夏のバカンス出発日で、上の階の人がブレーカーをバタンを切って出掛けてしまったりすると、冷蔵庫の氷が溶け、天井から水が漏れてくるらしい。もちろんすぐ天井が崩れたりする訳ではないが、5日以内に発見しないと保険会社の保険金がおりない。細心の注意を怠らず、もし異変があれば相談すればいいという。

 パリでの日本人相手の不動産の仕事は、実は半分くらいが入居後のトラブルに対する対処だそうだ。きちんと敷金を返してもらって帰国していただくまでが私たちの仕事だと聞くと、安心する気持ちと、自分は大丈夫だろうかという不安とで半々になる。
5月6日(月)

 午前中、不動産屋を訪れ、家主に連絡をとってもらう。ところが、いろいろあってなかなか連絡がとれない。結局、1時間ほど待つことになるが、その間契約者台帳をあれこれと探すさまなり、次々かかってくる電話とのやりとりなり、見ていて面白かった。不動産屋といっても、フランス語のできない自分がお願いしたのは日本人の不動産屋。「パリの日本人不動産」という題の寸劇でも書いてみたい気持ちになった。

5月5日(日)

 気分を変えたいこともあって、ホテル・エグロンから100メートルも離れていないホテル・イストリアに移る。二つ星だが、宿泊料はそんなに大きくは変わらない。前金制で92ユーロをチェックインの時に支払う。
 ここは詩人のマヤコフスキーがパリでしばしば泊まったホテル。吹き抜けの小さな空間を囲むように1階と2階に部屋がある。雰囲気はとても気に入ったが、電話機からモジュラーケーブルがはずせずインターネットが使えない。これでは原稿を書き上げても日本に送信できない。またどこかに移らないといけない。


 パリは冬が舞い戻ってきたかのように寒い。ラスパイユの市場で、クレープを歩きながらほおばり、干しぶどう入りのパンを買ってくる。食べたいものは他にもあるが、贅沢は許されない。

 午後ずっと、ノートパソコンと向き合う。

5月4日(土)

 外食チェーン店イポポタム、日本語になおせばカバの店で食事。料理1皿+デザート+飲み物で12.90ユーロのセットがある。グリルのメニューは日本のファミレスのように写真入りだし、なんだかパリで食事をしているという気がしない。

5月3日(金)

 夕方、不動産屋に案内され、部屋を見にゆく。物件自体は気に入ったが、問題は現在入居中で6月末でないと空かないこと。それならばそれまでの間に、これを期に訪れたかったヨーロッパのあちこちを旅行してみようかと思う。在外研究の在り方としては異例だろうが、大学もまもなく試験期間に入るというし、許されないことでもないだろう。

5月2日(木)
 朝10時、パリ第7大学のセシル坂井さんを尋ねる。研究員として受け入れてもらうための手続きのために担当の女性と面談。お二人ともとても丁寧に対応して下さった。

 本年度、坂井さんのところでは早稲田大の中島国彦氏、早稲田大で文芸評論家の芳川泰久氏、明治大で芥川賞作家の堀江敏幸氏がすでにポスドクの登録を完了し、住居も見つけパリでの生活を始めている。いずれもフランス滞在経験がある方々だし、準備も万全だったのだろう。他の方はこういうのをお持ちでしたが…などと問われると、取るものも取りあえず来てしまった我が身のいいかげんさを恥じ入り、申し訳なくなってしまう。不足している書類を確認。また日本の両親に迷惑をかけなければならない。


 地下鉄ジュシュー駅を降りてすぐのパリ弟6、第7大学の校舎は、モダンで空間的にもゆとりがあって好印象だったが、ひとたび建物に足を踏み入れると壁一面にアピールが落書きされ、帰りには門で学生からストのビラを手渡された。キャンパスはにわかに政治の季節に舞い戻ったかのような雰囲気なのだ。

 4月21日のフランス大統領選挙で社会党のジョスパン首相が3位となって落選。5月5日の決選投票は右派のシラク現大統領と極右の国民戦線党党首ルペンとで争われる。選挙後、外国人排斥や死刑制度復活を公然と主張するルペンの躍進にファシズムへの危機感を抱いた若者たちが、各地でデモや抗議集会を行っている。

 日本人旅行者としてパリを歩いている限りでは、排他的なナショナリズムもそれに抗する者たちの声も、まだ肌身にまでは迫ってこない。だが、この数年世界は確実に大きく変わりつつある。「外国人」としてフランスに暮らそうとする以上、このことから無関係でいることはできない。
5月1日(水)
 メーデーの休日。休みの店も多く、どことなく街全体がのんびりとしている。

 悩んだがもう3泊、いまのホテルに逗留することにした。急ぎでかきあげねばならない原稿があるのだが、宿が変わって書けるかどうか少し自信がない。いまのホテルなら書ける。部屋の中央にどんと居座ったダブルベッドの上一面に資料コピーを広げ、枕元の小さな机でノートパソコンを叩ける。

 金銭的には辛い。ホテル代がかさむ分、食費を切りつめないとしんどい。できれば一日20ユーロ以下におさえたい。幸いモンパルナス駅近くにはINNOというスーパーもあり、テイクアウトのサンドイッチ類なら2,3ユーロから、缶ジュースや缶ビールも1ユーロ以下で買うことができる。


 しばらく贅沢はできないと思って、昼食はサントゥスタッシュ教会近くのオ・ピエ・ド・コションで。店の名前の通り、仔豚の足が一本まるごと出てくる。

▲このページのトップへ

Copyright © 怪美堂 All Rights Reserved.