2002年  4月
4月30日(火)

 ラスパイユ大通りとモンパルナス大通りとが交差する一角は、20世紀初めに芸術家たちが集ったカフェ文化の中心地である。交差する地点に通りを隔てて向かい合うル・ドームとラ・ロトンド。ル・ドームからモンパルナス大通りをしばらく行くとラ・クーポール。その通りを隔てた向かいにル・セレクト。近代日本の文学者でもパリ滞在中に訪れた人は多かっただろう。例えばル・ドームは横光利一『旅愁』に、ラ・クーポールは岡本かの子『母子叙情』に出てくる。

 今はいずれもやや高級なレストラン風になり、夜など簡単には入りにくい。それでも昼間よく、これらの店なり近くの別のカフェなりで時間をつぶしていた。特に水曜日の午前中、出たばかりのパリ・スコープの頁をめくりながら、その週の映画の予定を組み立てるのが何よりの愉しみだった。

 お昼前ならば人はまだ少ない。注文はコーヒーではなく、サラダとビール。サラダにはパンが付いてくるので、それだけで昼食には十分足りたのだ。サラダは国名や地名で種類が分かれていた。パリジャン、モンパルナス、ニソワーズ、シノワーズ、アメリカン、メキシカン、スカンジナヴィアン…。呪文のように唱えながら、その日のサラダをチョイスする。確かサラダ・ジャポネーズにはカニ棒がついてきたっけ。

 今日はサラダとビールではなく、初めてラ・ロトンドの2階で昼食をとる。いんげん豆のサラダとライム風味の鯛の料理。それでも昔食べたサラダの味が恋しくなってしまうのはなぜなのだろう。

4月29日(月)

 ラスパイユ大通り。いろいろ考えたが、少しでも勝手のわかる地区に行ってみようと思う。14年前、この通りの、語学校アリアンス・フランセーズ近くのペンション(賄い付下宿)に一月ほどいたことがある。横光利一『旅愁』の矢代が泊まったのもラスパイユ。ただし、作中に記されたその番地は現実には存在しない。

 エグロンという三ツ星ホテルに宿をとる。レセプションの脇に書棚をかたどった小さなロビー。すぐ裏手にはモンパルナスの墓地。たしか田村泰次郎がパリで泊まったのも、ここではなかったかと思う。昔一泊だけした、いや1泊しかできなかった記憶がある。今の自分にも決して安い宿ではないが、奮発する思いで3泊申し込む。


 部屋探し、大学の登録、滞在許可証、銀行口座の開設など、これからやらなければならないあれこれで、正直気が重くないと言えば嘘になる。特に住居を見つけるのは思いのほか大変そうだ。ミッテラン政権の借家人保護政策のせいで、パリは慢性的なアパルトマン不足にあるらしい。在仏日本人会、JUNKU(ジュンク堂パリ支店)、文化堂オペラ店とアノンスを見てまわるが、想像以上に物件は乏しい。

4月28日(日)

 パリで最初の晩は、ガールデュノールに宿をとる。それがあの頃の慣わしだった。あたかも儀式のように、旅で疲れた体を一度休めてからでないと、華やかな中心部へと入っていけない気持ちに駆られていたからだ。十数年ぶりのパリ。それでも、やはり初日は北駅近くの安宿に泊まる。北駅はずいぶんときれいになったが、喧噪さは変わらない。これから旅に出発する人々のせわしなさが、パリの生活に入ってゆく自分には心をそっと落ち着ける糧ともなる。

 パリへはプールコヴォ航空の旅客機で来た。サンクト・ペテルブルグのプールコヴォ空港14時50分、パリ到着15時50分のはずだった。もちろん時差が2時間あるから、わずか1時間で来られる訳ではない。しかし、航空機は予定時間を大幅に過ぎても動こうともしない。天候悪化で他の航空機の到着がおくれたのを待っていたのだろうか、定刻にはがらがらだった座席が埋まって漸く離陸したのが、16時30分。パリ到着が17時30分。フライト時間はちょうど3時間だった。

4月27日(土)

 エルミタージュ美術館。宮殿の建物自体が美術品に他ならないこの美の宝庫を短時間で観ることなど出来ようはずがない。館内で購入した日本語ガイドブックのおまけの地図を頼りに、小さな写真付きで場所が示されている代表作品だけでもと思ったが、時間は瞬く間に過ぎてゆく。
 結局、3階の印象派以降の近代美術は30分も観る時間がとれず。それでも、誰もいなくなった館内で、時計を気にしながらとはいえ、ゴッポ、ゴーギャン、マチス、ピカソの傑作と向き合えたことは長く心に残ると思う。

 エルミタージュを閉館時間に離れ、書店で買い物した後、地下鉄に乗ってアレクサンドル・ネフスキー大修道院へ。ちょうど夕刻の祈祷の時間らしく、修道院の内部は老若男女の信者であふれそうな状態。男性コーラスの流れるなか、ゆきやなぎを手にした信者たちは胸の前で十字を切る。こうした場に身をおいていると、信仰を持たない自分にもこみ上げてくるものがある。
 すぐ横のチフヴィン墓地も、すでに時計は19時をまわっていたが、観ることが出来る。『地球の歩き方』では17時までとなっていたのだが。ここにはドストエフスキーやチャイコフスキーなど芸術家の墓石が幾つもある。

 ロシア最後の夕餉は、デミヤーノヴァ・ウハー。店の名前にもなっている魚のスープ(ウハー)。サケや野菜がたっぷり入ったのを、ゆっくりと味わう。

4月26日(金)

 深夜23時55分モスクワ・レニングラード駅発の寝台特急「赤い矢」号に乗ってサンクト・ペテルブルグへ。朝、向かいのベッドの男性が小さな手帳に何か書いている。なんとロシア語で「俳句」をひねっていたのだ。詩の国ロシア。アルバート通りでも噂通りに、詩の朗読をする人をたくさんの聴衆が囲んでいたことを思い出す。

 サンクト・ペテルブルグは見所が多くて、とても短期間では回りきれない。せめてあと2日は滞在できたらよかったのにと思う。


 人類学・民俗学博物館。「北アメリカ」のネイティヴと「アフリカ」のとの間に挟まれて「日本」の展示がある。かなりスペースをとって、実物大の人形で風俗習慣を再現している。が、日本人としてはどうしても違和感を感じてしまうそのコーナー以上にここで驚かされたのは、いわゆるシャム双生児のような奇形の未出生児の標本が幾体も並んでいたことだ。課外授業で来ているらしい小中学生と一緒になって、ホルマリン漬けの胎児たちを見ていると、強い眩暈に襲われてしまう。

 ロシア美術館。モスクワのトレチャコフ美術館と並ぶロシア・ソビエト美術の宝庫。まるで迷路に迷い込んだみたいに見学順路がわかりにくかったが、例えばブリュロフ『ポンペイ最後の日』のある14号室、イヴァノフの作品などがある15号室など、しばらくその部屋から出たくなくなる。ヴェレシャーギンが1903年に日光を訪れて描いた小さな絵も4点。

 スパス・ナ・クラヴィー聖堂。タマネギが幾つも空に突き出たような、モスクワの聖ワシリー聖堂を思わせるユニークな外観の聖堂。中はイタリア産の大理石で作られたという鮮やかなモザイク画。青を背景にしたものが多く、清冽なイメージがある。

 文学喫茶。ドストエフスキーらペテルブルグの文学者の溜まり場だったカフェ。プーシキンは決闘にここから出掛け、二度と帰らぬ人となったという。カフェとは言うが、室内は緑色のクロスがかかったテーブルがゆったりと置かれ、瀟洒なレストランといったイメージ。ただ観光名所だけに騒がしいグループ客が入ってくることもあり、その場の雰囲気には当たりはずれがあるようだ。ピアノとヴァイオリンの演奏の流れるなか、ビール片手にネフスキー大通りを行き来する人を窓越しに眺めながら、カニサラダとペテルブルグ風の肉料理(マッシュルームとタマネギとを牛肉でくるんだもの)を食する。至福のひととき。

4月25日(木)
 午前中は昨日観ることのできなかった赤の広場のレーニン廟と聖ワシリー聖堂を見学。すぐ横のモスクワ最大のデパート、グム百貨店を散歩。午後はモスクワ文学散歩。しかし、アールヌボー様式のゴーリキーの家博物館はなぜか鍵がかかっていて入れず、チェーホフの家博物館は修理中のため休館(8月1日再開予定)。わざわざ来たのにと、がっかりはしない。むしろまた訪れる理由ができたと受け止めるようにしている。アルバート通りのプーシキンの家博物館からプレチースチェンスカヤ通りのトルストイ博物館へ。どちらも靴の上から履く巨大なスリッパもどき(?)をつけて見学するのだが、階段の昇り降りなどでこれがすぐ脱げてしまう。外に出た後もしばらくは普通に歩けない感触が残った。

 夕食は大ニキーツカヤ通り、チャイコフスキー記念モスクワ音楽院近くのお寿司屋へ。別に日本食が恋しくなった訳ではない。ロシアに来てから油っぽいものばかり食べていたから、少しさっぱりしたものが食べたくなったのだ。
4月24日(水)

 土産物の露店や似顔絵書きが並ぶ歩行者天国状態のアルバート通りを歩いて、市の中心部へ。クレムリンを見学。遅めの昼食はトゥヴェルスカヤ通りのグルジア料理店アラグヴィ。ガイドブックに有名な店とあったが、昼過ぎだとゆったりできるし、それに17時までは20%割引なのだ。そのあと、トレチャコフ美術館(旧館)を堪能。とても全部は観切れなかったけれど。

 グレアム・グリーン『ヒューマン・ファイター』(1978)のラスト、二重スパイを働いた主人公はイギリスを脱出し、モスクワで保護される。後から南アフリカ出身の黒人の妻と子も来ることを彼は切望するが、それは許されない。モスクワの夫とイギリスに残された妻との悲痛な電話で、物語は幕を閉じる。

 実は日本で途中まで読んだ段階では、こうした結末になろうとは想像もしていなかった。いま自分が向かおうとしている都市が、ほんの20数年前の小説では西側世界から完全に隔絶した別世界として描かれるのが通例であったことを今さらながらに確認させられ、少し複雑な気持ちにさえなった。ベルリンの壁は壊され、アパルトヘイト政策もなくなりはした。けれども、仮に作中人物の人生が本当だったとして、彼らはそれで無事再会を果たし幸せになれただろうか。そうは思わせないところに、この小説の古びない深さがあると思う。
 

4月23日(火)
 約1時間遅れでモスクワ・ヤロスラブリ駅到着。トランスファーの男性は、さんざん待たされたあげくに、駐車場から車が出せなくなっていたせいもあって、相当ぴりぴりしているのが分かる。案内もここはウクライナホテルの入り口まで。スターリン様式29階建ての一階受付でバウチャーを見せ自らチェックイン。

 夕方の街に散歩に出るが、大通りは車の行きかいが激しく、怖いくらいだ。ヨーロッパ最大の書店だというふれこみの「本の家」(ドーム・クニーギ)を覗いたりする。トゥヴェルスカヤ通りのタタール料理店ヨールキ・パールキで夕食。各自でボールに肉と野菜とを好きなように取り、自分で味付けをして調理人に渡すと、円形の熱い鉄板の上で焼いてくれるスタイル。この方式は台湾にもあった。ファーストフードよりも少し贅沢な感覚が受けているのだろうか、若い人を中心に結構繁盛していた。
4月22日(月)
 昼頃、ヨーロッパ/アジア・オベリスクを通過。ウラジオストクから7521キロ。いよいよヨーロッパに入る。
4月21日(日)

 車中、これまた仕事が終わらずやむなく持ってきた、芳賀書店版田中英光全集第2巻の「酔いどれ船」、及び川村湊『〈酔いどれ船〉の青春』を読む。主人公の「享吉は薬のように酒を飲む。少なくとも、酒に酔っている間は、彼には他の明るい世界が夢みられる」。

 だからと言う訳ではないが、こちらもついビールに手が伸びてしまう。ロシアのビールは安い。駅のキオスクや車内販売では日本円で50円前後、高いものでも100円もしない。ただし必ずしも冷えてはいない。それでも種類が豊富なので、気に入ったラベルのものを見つけては購入し、飲んでしまうのだ。

4月20日(土)

 午前中、小雪の吹き荒れる中、駆け足でイルクーツクの郷土誌博物館歴史部と州立美術館を見てまわる。ロシアの博物館は外国人料金というのが設定されていて、場合によっては10倍くらいの料金を払わないといけない。といっても、その料金でも日本に比べればなお安いなのだが。そしてチケットの代わりに、一般用のチケットにあたる紙切れを料金分だけ何枚分も切り抜いてくれることがある。あんまりたくさんの紙切れを渡されるものだから、最初は困惑してしまった。

 午後1時55分、シベリア鉄道バイカル号No.9モスクワ行き発車。車内では、結局日本にいるうちに書き上げられなかった論文の資料コピーを繙読。実は昨晩、日本から持参したフロッピーに原稿の一部分をコピーしていなかったことが判明し、心穏やかでない。研究室に元フロッピーを置いてきたはずなので、至急送ってくれるよう頼んでみるつもりだが、うまくいくかどうか…。

 という次第で、共同執筆者の研究会の方々、春風社の担当の内藤さん。ご迷惑ばかりおかけしてすいません。でもこれは、自分にとっても大事な文章です。なんとかがんばりますので、しばしご猶予を下さい。

4月19日(金)

 午前10時のイルクーツクホテルからバイカル湖へ出発。シベリア木造博物館、シャーマンの石、バイカル博物館、ニコリスカヤ教会と見てまわる。奮発して日本語ガイドを頼んでよかったと思う。説明なしでは、ただ見て終わったであろうから。好天に恵まれ、湖岸のどこから見てもバイカル湖は美しかった。17時過ぎにイルクーツクに戻り、デカブリストのトルベツコイ侯爵の家で車から降ろしてもらう。近くのもう一つのデカブリスト記念館、ヴォルコンスキーの家は見られず。近くの中央市場を人混みに紛れて散策する。

 驚いたことを二つ。まず、昼食の時シベリアサラダというのを注文したら、なんと日本の山菜漬けだった。それから、七夕の飾りのように木に布切れがたくさんぶら下がっているところに帰途立ち寄った。遊びに来た地元の人がまた戻ってこれますようにと祈って、木の枝に結んだものだという。駐車スペースがあるだけで他には何もなく、足下には空き缶、空き瓶が幾つも捨てられてうるのが残念。それでももちろん、しっかりと結わいつけてきた。

4月18日(木)

 シベリア鉄道は同じ風景が何日も続くというが本当なのか? 出発前に何人かから同じ質問を受けた。読書の目を休めて見る車窓の眺めは、実際にはかなりの変化を見せる。何より時速60キロほどだから、新幹線のように瞬く間に風景が流れてゆく単調さはないのだ。タイガだけでなく、広々と平原が広がっているかと思えば、人家が間近く見えることもある。ウラン・ウデを過ぎると雪原に変わり、やがて氷結したバイカル湖が視界に広がる。

 15時過ぎにイルクーツク到着。待っていたガイドは長身のたおやかな若い女性。しかも日本語を話す。「オクサーナと申します。オクサンと似ているでしょ」などと自己紹介されると、いささか当惑してしまう。こちらはウラジオストク同様、トラベル・イングリッシュをしゃべる青年が迎えに来ると思いこんでいたのだ。彼女はイルクーツクの国立言語大学で日本語を学んだのだという。という訳で明日は彼女のガイドでバイカル湖ツアーに行きます。また美人に目がくらんで、とか日本では言われたりするんだろうか。

4月17日(水)

 食べては寝て、起きては本を読む。出発前に読むつもりだった『地球の歩き方』3冊と新書のロシア語入門書とに目を通し、読みかけで持ってきたグレアム・グリーン『ヒューマン・ファイター』読了。

 シベリア鉄道に乗り込むにあたっての必携品は、大きめのコーヒーカップとティーパック(サモワールで常時お湯を沸かしているので好きな時に飲むことができる)、フォークか割り箸(カップ麺類が車内販売や停車駅のキオスクで売っているがフォークやスプーンがついていないことがある。コンビニでついてくるプラスチック製で十分)、ウエットティッシュ&ポケットティッシュを多めに(トイレにはトイレットペーパーがついているが、ざらざらの紙でしかも3日にはなくなっていた)、車内で履くためのサンダルかスリッパ、など。荷物は寝台下段の場合はベットの下に、寝台上段の場合は通路の上に作られたスペースに入れる。実はどれくらいの大きさの荷物まで大丈夫なのか、出発前に気になっていたが、ベットの下の箱は35センチ×80センチ×高さ35センチくらいで、相当大きなスーツケースでなければ大丈夫だろう。

 以上、私家版『地球の歩き方』でした(笑)。

4月16日(火)
 14年前、4ヶ月ほどヨーロッパにいたことがある。イギリスのコルチェスターという町に2ヶ月、ロンドンに1ヶ月、そしてパリに1ヶ月。イギリスでは語学学校に通いながらホームスティをし、パリでは賄い付きの下宿の一室にいた。様々な国からフランス語を学びに来ている学生が食事時になると食堂に集まる。言葉が通じない生活は辛い。だが、ほとんど言葉を発することさえないフランスでの日々、ある種の解放感を感じたこともまた確かなのだ。

 帰国してからの数年間、親しい友人とフランスの話になるたび、「早く帰りたい」と口癖のようにもらしていた。ずいぶんと時間がたってはしまったが、今の自分は帰郷の旅の途中なのだと思う。もちろん、待ち受けているのが暖かい「ふるさと」ではないこともわかっているけれども。
4月15日(月)

 ウラジオストク市内を散策。水族館、州立博物館、美術館、いずれも休館日で入れず、要塞博物館と潜水艦Cー56博物館を見学。港にも戦艦が逗留し、軍港であることを実感。

 15時37分発のシベリア鉄道ロシア号に乗車する。

4月14日(日)

 朝6時半に起き、ともかく研究室へ。幾つか急ぎのメールを出し、終わっていない仕事の資料を旅行ケースに詰め込む。だが、論文執筆に必要な「藪の中」関係のコピーを入れた袋がみつからない。時間切れで断念。それにしても、こんな辛い思いをしてまでゆく在外研究とは何なんだろう、とつい思ってしまう。

 11時20分頃に研究室を出て、新宿郵便局から手紙を差し出し、中央線で東京駅へ。日曜日で人が少ないのが、荷物を抱えた身にはありがたい。新幹線で新潟へ。午後3時40分新潟空港発の飛行機でウラジオストクへ。現地時間7時10分(時差2時間)、ウラジオストク空港着。空港出るまでにあれこれ約20分。旅行会社の手配によるトランスファーの青年の車で市内まで約40分。9時近くにロシア最初の宿であるホテル・ウラジオストク4階に到着する。

4月13日(土)

 亜細亜大学で日本近代文学会編集委員会の校正作業&引き継ぎ懇親会。懇親会の途中で抜け出し、一度研究室に戻る予定が、校正作業が延びたせいもあって結局一次会の最後まで参加。そのあと西荻窪で高橋修・久米依子夫妻と1時過ぎまで飲む。

4月8日(月)

 勤務先の大学も今日から本年度の授業開始。研究室にも行きにくくなる。が、未提出の書類や書きかけの原稿など仕事鬱積。出発まで通い詰めなければならない。

4月1日(月)
 在外研究に出るにあたり、実家から200メートルほど離れたところに借りていた部屋を引き払うことにした。契約は3月末日まで。つまり、前日いっぱいで部屋をからっぽにする約束だったのだが、実家への引越しが終わらず、久しぶりの完徹。ようやく運ぶだけは運んだが、今度は実家の方が、階段も含めほとんど足の踏む場所もない状態に。1年間のわがまま、申し訳ないが親に迷惑をかけることになる。

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