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2002年  11月

11月30日(土)
 今日で11月も終わる。こちらの在外研究期間もあと3分の1弱になる。帰国が近づくにつれ、段々と日本の慌ただしい時間に同調させられるようになってゆくんだろうなあと思うと、少し鬱屈した気持ちにもなる。次年度絡みのことで最近は日本とのメールのやりとりも増えてきた。

 久しぶりに地下鉄ピラミッド駅近くのジュンク書店へ行くが、本の棚が変わっていて少しとまどった。実は4月からある大学でカルチュラル・スタディーズの入門的な演習を担当することになっていて、そのシラバス作成のために教科書として予定している本を見たいと思って来たのだが、やはり見あたらなかった。

 その前に、近くの来々軒で遅い昼食。ラーメンが急に食べたくなってしまったからだ。みそラーメンと水餃子を注文。水餃子はイメージと違って、醤油味のラビオリ入りスープみたいだったし、ラーメンの麺もこちらの中華料理店と同じタイプの細麺だったけれど、みそ味は日本で食べるのと同じ風で体も温まるし、何よりほっとする気分だった。
11月29日(金)
 エスパス・ジャポンに本の返却と借出に行く。用を済ませて外に出ると雨。サン・マルタン運河沿いのレストランで夕食を食べて帰ろうかと考えていたのだが、この雨ではと地下鉄駅にいそいそと戻る。ところが地下鉄でシャルル・ミッシェルまで戻ってくると、雨は降っていない。近くのベトナム料理店キム・アンに寄ってゆくことにした。ここには以前も来たことがあり、日記にもそのことを記した。ただ、書いているうちに脱線して長くなりすぎたので、アップしなかった。今回はそれも載せておこう。ちなみに今日注文したのは、その時食べられなかった生春巻(10ユーロ)とエビのカレー(28ユーロ)。シノン・ワインのハーフボトルと食後のジャスミン・ティーを入れて、全部で56ユーロ。結構贅沢な夕食となってしまった。以下、10月5日執筆の日記の未公開分である。

 食事といえば昨日の夕飯には、近所のベトナム料理店キム・アンに行った。「ミセス」「ヴァンサンカン」に紹介記事が載り、栗原はるみが推奨している店で、入口の外に切り抜きが貼ってあるだけでなく、日本語メニューにも切り抜きが挟んである。ただし、「ミセス」推薦の生春巻&鳥と生姜の炊き込みご飯は単品でも34ユーロのセットメニューでも組み合わせられない。鳥と生姜の炊き込みご飯は単品メニューには入っていないので、セットメニューでそこにない生春巻の代わりにサラダ風北京餃子をセレクトし、それに鳥と生姜の炊き込みご飯とデザートのパイナップルのフラッペを注文。最初にサイゴンというベトナムビール、次に白ワインを飲みながら食べるが、若干量的には物足りないというのが正直な感想。パイナップルにはラム酒がたっぷりかかっていて、最初に火をつけてくれる。さすがのアルコール党も、デザートにしてここまでという気持ちにならないでもなかった。

 パリのベトナム料理店と言えば、カルチェ・ラタンのキム・リエンが有名で、自分も特におこわの味が気に入っているのだが、それとはまた別の味付けが楽しめると思う。

 著名人が行き着けの店を紹介する記事がよく雑誌に載っているが、どうせ紹介するなら異国の方がいいのかも知れないと思った。それならスターの姿目当てに押しかけるファンもほとんどいないだろうから。ついでながら、もし自分が有名人だったとした時、紹介する店は決まっている(つい、こういうどうでもいいことを考えてしまう性癖があるのだ)。西武池袋線の大泉学園駅から歩いて数分のところにあって、日曜祭日以外は深夜までやっているとんこつラーメン屋なのだが、すごくおいしいととりたてて言いたいのではない。ただ、通い詰めるほどに癖になる味で、夜中に訪れる客もほとんどが常連だと思う。自分もその一人で、工学院大学は10時30分までなら届け出なしで研究室にいられるのだが、退出時間に大学を出て大泉学園まで帰りついた時に、まだ開いている店は飲み屋以外ほとんどない。勢いこのラーメン屋となる訳で、週に2、3度は深夜に食べに行っていたと思う。

 お勧めは野菜ラーメンで「緑」と「黄色」の2種類があり、前者はほうれん草に挽肉と薄切りの豚肉、後者はじゃがいもにトマトにとうもろこしに挽肉。水餃子を取り、ラーメンのできるまでつまみながら、ラーメンがきたら残りの餃子を中に入れて食べるのが自分流だった。野菜ラーメン&替え玉&水餃子&瓶ビール2本で1990円だったと思う。パリにいて、かなり不規則で肉中心の食生活をしながらさして太りもしないのは、出発前の食生活がいかにデタラメだったかの証なのかも知れない。
11月28日(木)
 パリ第7大学の坂井セシルさんのとこへ、アン・クレールさんの修士論文のコピーが届いているというので受け取りに行く。津島佑子の短編小説「鳥の涙」を分析したもので、坂井さんが傑出した出来だったと褒めていらっしゃったこともあり、ご本人にお願いしてコピー製本を1部作っていただいたのだ。

 フランス語の論文本文が103ページ。さらに参考文献、年譜、津島さんへのインタビュー(日本語)、小説原文のコピー、目次がついて全部で173ページ。パラパラと頁をめくり、参照文献等から推し量った範囲で言えば、前半は日比谷キルシュネライトやテッド・ファウラーの仕事の延長上に位置する私小説の「私」の分析。「鳥の涙」は短編集『「私」』(1999)に収められた作品なので、こうした研究視角をとるのはよくわかる。ロラン・バルト、ジュラール・ジュネットらが引かれ、カラーコピーで挿入された図版頁などからも構造主義的な方法がベースにあることは想像が付く。だが、津島さん自身は「4人称」と呼んでいるのだが、アイヌの『ユーカラ』を踏まえて書かれた「鳥の涙」の「私」は、私小説的な「私」とは本質的に異なるものだ。テクスト内の多層的な「私」の分析から、論考はインターテクスチュアリティの問題へと踏み込んでゆく。と、まだろくに読んでもいない論文の紹介はここまでに止めるが、この論文が津島佑子研究における現時点での最も重要な達成の一つであることはたぶん間違いないだろう。

 資料コピーを送ってもらって読んだ範囲で言えば、日本での津島佑子論は『寵児』(1978)や『夜の光に追われて』(1985)など80年代までの作品にほぼ限られており、表現論的な視座に立つ分析もほとんどない。だが、こちらに来てみて気づいたのだが、西洋語での津島佑子関係文献は想像していた以上に多い。もしかしたら、こと津島佑子研究に関しては西洋の方が遙かに先をいっている気さえするのだが、どうだろうか。

 帰りがけに、ムフタール通りのコントルスカルプ広場からちょっと入ったところのラ・トリュフィエールというレストランで食事。昼の16ユーロのメニューを注文。マッシュルームを使った前菜、ホロホロ鳥のロースト、そしてデザート。おいしかった。雰囲気もいいし、ここはお勧めのお店だと思う。ただ、これが夜のコースだとメイン2皿にチーズが付くとはいえ、64ユーロにはね上がる。パリに暮らしていると、どうしてこうも昼と夜とでレストランの値段が違うのかと思ってしまうことがよくある。逆に昼、夜共通のメニューのお店に昼入ってしまうと、なんだがそれだけで損した気分になってしまうことさえある。この季節だと昼の時間は結構空いているようだし、一人の客もよく目にする。せいぜいランチで贅沢しようと思うのだが、そのためにはまず起きる時間から直さなければならない。最近生活時間が乱れているので、それがちと辛い。
11月27日(水)
 グラン・ブールヴァールのシネマテークへ。ダグラス・サーク監督の『風と共に散る』(1955-6)、アラン・ドワン監督の『Slightly Scarlet』(1956)と50年代ハリウッド映画2本を観る。ビリー・ワイルダー『失われた週末』、ジョン・ヒューストン『火山のもとで』、渋谷実『酔っぱらい天国』など、酔っぱらい男性が主人公の映画は観ているだけでもう胸がつかえそうになってしまうのだが、なかでもこの『風と共に散る』の酔うほどに不安と猜疑心とに囚われてゆく石油長者の跡取り息子の胸中は、とても他人事とも思えない。鏡が幾たびも映る空間を繊細に、しかしまた酔っているかのようにキャメラが不安定に揺れる。題名からも明らかなように、これは『風と共に去りぬ』を踏まえた階段の映画でもある。ドロシー・マローンの激しい踊りとカットバックされる心臓発作を起こした父親の階段転落のシーンは、思わず溜息が出てしまうほどに印象深いものだ。
11月26日(火)
 坂井セシルさんを囲む昼食会。11月9日のシンポジウムでとてもお世話になったのでお礼申し上げようと、中島国彦先生と芳川泰久先生が計画されたもの。場所は芳川さんが予約を入れて下さった、サン・シュルピス教会にほど近いラ・タブル・デュ・ペリゴールという鴨料理のレストラン。長島裕子さんは体調を少し崩されたそうでお見えにならなかったが、堀江敏幸さんはちょっと遅れていらっしゃった。レストランの隣りがオテル・ド・ラベイ(Hotel de l'Abbaye)という修道院を改装したプチ・ホテル。坂井さんが10年ほど前通訳のアルバイトをしていた頃、このホテルに映画監督の吉田喜重が滞在しており、それで打ち合わせにこのレストランにも来たことがあったそうだ。

 昼食後、坂井さんはお帰りになられたが、残った男4人は近くのカフェで5時近くまで雑談。日本に帰れば(いや、本当はパリでもなのだろうが)とてもお忙しいお三方だから、こんな風にお話を聞く機会などそうはないだろう。パリの日本人社会、日本への引越しの方法、フランス現代文学の紹介翻訳の裏話などなど。

 地下鉄ストの示威行動なのだろうか、夕刻のセーブル・バビロン駅前の広場では真っ赤な炎が焚かれ、爆竹が時々鳴り響いていた。運転間隔も15分ほどに開いていたが、幸い行き帰りともすぐ電車が来た。当然いつも以上の満員ではあったが。
11月25日(月)

 ラッセル・ウォーレン・ハウ『マタ・ハリ』(ハヤカワ文庫)を読んでいる。実は4分の3くらいまで来てしばらく読むのを止めてしまったため、その先から読もうと思ってもなかなかうまく入りこめないでいる。軍事記録保管所の非公開ファイルの封印を解いて執筆された本書の大部分は、二重スパイ容疑で逮捕されたマタ・ハリの取り調べと裁判過程の検証に当てられている。その論証はかなり煩瑣な面にまで及んでいるため、一度途切れた思考力ではうまく論理が追い切れない。それに自分の興味はむしろ彼女の前半生と死後の神話とにあるのだが、本書の力点が後半にある以上、読みとばす訳にもいかない。ともあれ、もう一息がんばらなければ。

 夕食は近所のイタリア料理店へ。パリのイタメシ屋のパスタはゆですぎで出てくることが多いのだが、ここのは結構気に入っている。公園のすぐ横なので、夏はテラス席で公園で遊ぶ子供たちを眺めながら食事ができる。ミネストローネ(野菜スープ)とサーモンのパスタを注文。夏の間はまだやっていないと断られてきた念願のミネストローネだが、ちょっと豆が多すぎるかな。これは好みの問題だが、どちらも少し甘ったるい感じがした。

 実は最近、外で食べる食事があまりおいしいと感じられない。日本食でないと駄目などと言うことは全然なく、むしろ新しい味覚への適応力は強い方だが、最初は割と口に合うと思った近所のお店の味でも、幾度か通ううちに少し飽きが来てしまった感じなのだ。これが自炊生活ならまた違うのだろうが、外食中心の生活だと段々その土地の味覚への新鮮味が薄れ、もともとの嗜好とのズレを感じやすくなってしまうのかも知れない。そのくせ、安くておいしいワインと種類の豊富なビールに恵まれたアルコール方面では、すっかりこちらの環境に順応しきっているから厄介だ。グラスを口に運びながら、日本のあのお店のあれが食べたいなどと、しょうもないことをつい思ってしまうのである。

11月24日(日)
 グラン・ブールヴァールのシネマテークへ、デニス・ポッパー監督の『アウト・オブ・ブルー』(1980)とリチャード・フライシャー監督の『アシャンティ』(1979)を観に行く。個人的な好みだけから言えば、ニューシネマ以降のアメリカ映画には、繊細で個性的な幾人かの監督のものを除けば、さほどの興味もないのだが、さすがにこの2本となると食指が動く。『イージー・ライダー』(1969)の重要さは否定しないが、『アウト・オブ・ブルー』の突き抜け方もすごい。だが、本当に観たかったのは、『アシャンティ』の方だ。空き時間にすぐ近くのカフェ、ル・ジムナズでビールを飲んでしまったため、眠くなるのではと心配したが、全然そんなこともなく117分間楽しめた。

 奴隷商人に誘拐されたアフリカ出身の女医の妻を、白人男性の医師が追い求めて、ジャングルから砂漠、そして海へと舞台が移ってゆく『アシャンティ』は、もしもっとシリアスに撮ってしまったならば、そのエキゾチックで差別的な眼差しが耐えがたいものになった気がする。日本では『トラ・トラ・トラ!』(1970)の共同監督を始め、『ミクロの決死圏』(1966)や『ドリトル先生航海記』で知られるフライシャーは、一見何でも撮れる職人監督のように見えながら、その映像の軽妙でビザールなはずし方からは、いかなる題材でも彼独自のものに消化してしまう貪欲さを感じとれるかも知れない。だが、それでいて作家的個性を無理矢理押しつけられる圧迫感も不快さも全然ないのだ。傑作とも失敗作とも生涯無縁なこの映画監督のことが、ずっと気になっているのである。
11月23日(土)

 グラン・ブールヴァールのシネマテークで、『J'ai tue』(Roger Lion、1924〔tueのeに´〕)を観る。早川雪舟主演の無声映画で、これまで機会に恵まれず未見だった作品だ。どこか不安げでつかみどころのない感じさえする主人公ヒデオの表情は、これまで見知ってきた雪舟のそれとはまた別のものに思える。最初に財布を盗んだ濡れ衣を着せられ、最後には殺人の罪まで押しつけられる日本人男性の役だから、『チート』のような悪役とは違ってても当然と言えば当然なのだが。オートゥイユの競馬場、東洋風ダンス・パーフォーマンスのスローモーション、法廷場面の喧噪さ…。語りたいことは多いが、何よりもう一度観たい。構成面では決して成功作とは言えない作品だが、もうすでに次に観られる機会が待ち遠しくてたまらなくなっている。

 その後、ジョン・フォードの無声映画『アイアン・ホース』(1924)。幾度目かのこの作品は、逆に何にも言いたくない気分にいつもさせられてしまう。アメリカ大陸横断鉄道の建設を描いたこの映画は、どうなるかみんな分かっているのに、それでも観る者の胸を掻き立て、弾ませずにはいないからだ。

11月22日(金)
 横光利一文学会代表の保昌正夫先生がお亡くなりになったと、石田仁志さんからメールで知らせを受けた。保昌先生はその風貌さながらにいつもは優しく温和なお人柄で、書かれる文章から窺われるように厳密な実証手続きを取りながらも文学や書物への愛を満面にたたえていらっしゃった方だが、自分にとっては、こわい先生だったという印象が一番強い。

 数年前、昭和文学会の会務委員を務めていた時の代表も保昌先生だった。竹内清巳会務委員長に連れられ書記としてその場の隅にいた常任幹事会で、幾度となくお見受けしているのだが、議論の推移を注意深く見守りながら、ここぞというタイミングで会の方向が大きく誤らないよう発言するお姿からは、代表としての責任以上に、強い意志のようなものをいつも感じさせられた。時折こちらの耳元にだけそっと、一言二言言い残していかれることがあったのだが、会に対する注文や小言ということではなく、なんとかしっかりたのむよという祈りのような響きだった。そうした言葉を聞くたびに、身がひきしまる思いだった。横光利一文学会の立ち上げに際しても、生半可な気持ちでは駄目だと幾度も幾度もおっしゃっていた。文学研究者であることが、そのまま厳格で倫理的な生のかたちであるような先生だったと思う。あの厳しさにもう触れることができなくなってしまったのかと思うと、さびしい。心に大きな空洞があいてしまったような気がする。心からご冥福をお祈り申しております。
11月21日(木)
 ボージョレ・ヌーヴォー解禁日。行きつけのカフェに行ったら、飲み物を注文する前に「ボージョレ?」と聞かれる。近所のスーパー・モノポリでも入口そばにコーナーが設けられ、ずらっとワインボトルが並んでいる。2.45ユーロから4.2ユーロ。特設コーナーに並んだワインは、一律4ユーロ。と言っても日本のようにお祭り騒ぎをする訳でもなく、あくまで季節の味覚といった感じの受け止め方のようで、それだけワインが生活に溶け込んでいるということだと思ったのだが、どうだろうか。

 今年のボージョレは生産過剰が見込まれたため、収穫を3ヶ月後に控えた7月に1000万リットル分の葡萄を処分したはずなのだが、さて結果は吉と出たのかどうか。カフェで樽からついでもらって飲んだ印象で言えば、思ったより甘い感じがしたのだが、専門家の評価はどうなのだろう。

 しばらく日記更新がままならない状態が続いていたため、日本から複数の(暗に心配していることが伝わる)メールをいただいた。この場でお礼申し上げると共に、ワイン三昧できるくらいに元気だとお伝えしておきたい。だって、何種類もあるボージョレ・ヌーヴォーが1本あたり500円以下で楽しめるのだもの、何時までも寝てられますかと思う。
11月17日(日)〜20日(水)*12月7日追加
 いわゆる「ひきこもり」状態の数日間。体調を崩していて、ほとんど外出しなかったので、特に日記に書くこともなかった。
11月16日(土)*12月7日追加

 パリ文化会館の日本アニメーションの特集上映最終日。14時から一度目の上映には行けなかったプログラム6〔戦時体制下の作品〕。「海国太郎・新日本島万歳」(鈴木宏昌、1938)、「僕等の海兵団」(片岡芳太郎、1941)、「スパイ撃滅」(山本早苗、1942)、「闘球肉弾戦」(桑田良太郎、1943)、「ニッポンバンザイ」(前田一、荒井和五郎、1943)、「マー坊の落下傘部隊」(千葉洋路、1943)の6本。さらに16時から10月26日に一度観たプログラム7〔戦争直後の作品〕の6本を観る。

 「闘球肉弾戦」について、日本語の解説ちらしにはこう書かれていた。「アメリカを連想させる猿チームと日本の犬チームがラグビー試合を行う。日本チームは最初から劣勢だったが最後は逆転して勝つ。ラグビーはアメリカの国技のようなスポーツ。戦時中にこのようなスポーツをアニメ化した意図が不明な作品だ」。しかし、画面で確認したのだが、取り上げられているのはアメリカン・フットボールではなく明らかにラグビーだし、「アメリカの国技のようなスポーツ」を題材にしたとは言えないだろう。むしろなぜアメリカ側が猿で、日本側が犬なのか、その意図の方が不明な気がした。犬も猿も桃太郎のお供で鬼退治に出掛けた訳だし、「海国太郎・新日本島万歳」も太郎少年はうさぎと猿を船に乗せ航海に出るのだが、なぜ「闘球肉弾戦」では猿が敵役でなければならなかったのか。そう言えば、プログラム7〔戦争直後の作品〕で上映された「動物大野球戦」でも、乱暴なゴリ軍に対し、村の動物たちの連合軍が戦うという構図になっていた。

 実は2日前の14日も、18時からのプログラム5〔30、40年代の他の監督〕の7本も再見したのだが、その理由は何よりも解説ちらしに「アニメのテーマは前年の1933年に公開された「King Kong」のパロディ版時代劇」と書かれた「元禄恋模様・三吉とおさよ」をもう一度確認したかったからだ。よく観るとおさよを誘拐する侍ギャングの一味に図体の大きい侍がいて、キングコングのように胸を叩いたりするカットが数コマあった。パロディというよりは、引用に近い感じだったが、結局のところは何を観ても「猿」に関心がいくように頭が構造化されてしまっているのかも知れない。

 その後、シャイヨー宮のシネマテークへ。アストリュックの『Une vie』(1958)と『Les Mauvaises Rencontres』(1955)、すなわちモーパッサン原作の『女の一生』と長編第1作の『不運なめぐりあい』とを観る。発表前日の8日にも同じ2本がプログラムに組まれていたのだが、翌朝が早いので『不運なめぐりあい』だけ観て『女の一生』の方はパス。今日改めて観に来たのだ。

 フランソワ・トリュフォーは『不運なめぐりあい』について、(a)若いインテリたちの苦悩を根本的なテーマとして描いた初めての映画であること、(b)パリを観光的にby nightふうに描かずに真にバルザック的に描いた初めての映画であること、(c)社会的野心とか出世欲というものをまともにあつかった初めての映画であること、の3点を挙げたうえで、ヴェネチア映画祭に上映された際「たしかなことは、三十歳以下の観客で、この映画に感動しなかった者はいなかったことであり、わたしたちはみな、この映画のなかの人物のだれかに自分の姿を認めたということであった」とオマージュを捧げている(『わが人生わが映画』、たざわ書店)。ヌーヴェルヴァーグの先駆的な位置を占めるこの映画は、「堕胎」という「まさに今日的な、一九五五年的な」「むずかしい主題」を扱った女性映画でもある。アヌーク・エーメが演じるヒロインの心理を時に激しく音楽と同調させながら解析してゆくさまを、よりパッショネイトな『女の一生』に続けて観ながら、増村保三の映画と並べてみたい誘惑に囚われてならなかった。

11月15日(金)*12月4日追加
 もうすぐある研究会のメンバーたちと造った本がかたちになる。出版元である春風社の編集者の内藤さんから、ミルキィ・イソべさんにお願いした装丁のラフが上がってきたので、ぜひ見てほしいとのメール連絡が入る。ネット上にカバー見本と口絵の画像をアップしておいたというので、早速アクセス。う〜ん、たしかにすごい…。箱入3色+箔押しというほとんど反時代的と言っていい造本の上に、一目見たら絶対忘れられなくなるこのデザインであれば、書店で平積みになった時のインパクトは相当のものになるのではないか。今回の共著がまずは見栄えの点において、従来の研究書の常識をはるかに超えるものとなることは間違いないであろうと、まずは宣伝を一言。

 夜7時からの津島佑子、ナンシー・ヒューストン対談「同一性と差異:世界のなかの文学」を聴きにパリ日本文化会館へ。ナンシー・ヒューストンさんは1953年にカナダで生まれ、1973年からパリに在住している作家で、エッセイを3本くらい書いては長編を1冊くらいのペースで創作活動を続けてきたほか、フランス・クルチュールのために多くのラジオドラマを制作するなど、放送メディアで活躍してきた方でもある。日本での翻訳書には『天使の記憶』『愛と創造の日記』、とここまでは配布資料をもとに整理しただけだが、その語り方は小説だけでなく批評やマスメディアの世界にも関わってきた人に似つかわしく、いい意味で平明であり、かつクリティカルでもあった。まず自分と津島さんとが違うところは、とそれを述べたうえで、津島佑子の小説の魅力について見事に語られていた。

 質問はまず今回と同じテーマで13年前に社会調査をしたという黒人男性の社会学者から、アフリカにおいては西洋に同一化するとアイデンティティを失ってしまうという状況があることを述べた上で、同一性(アイデンティティ)も差異もグローバル化のわなになってしまうのではないか、作家としてグローバル化をどう思うかというもの。当然議論は全然噛み合わないのだが、津島さんは林芙美子の時代と違って今は西洋に来ても異質な存在とみられることはほとんどなく、そうしたグローバル化によって何かが失われたという気も特にしないと前置きした上で、たとえ日本という国がなくなっても、自分は日本語で作品を書いていると思うと、その作家としての覚悟を語る。さらに、最近の若い女性作家をどう思うかという問いが出され、『火の河のほとりで』の冒頭場面に触れて、暴力ということに関する問いが最後に出された。

11月14日(木)*12月4日追加
  朝9時ナント発のTGVでパリに戻る。いったん部屋に戻った後、パリ第7大学での津島佑子講演会「長篇と短篇ー「大いなる夢よ、光よ」と「鳥の涙」をめぐって」を聴きに行く。13時30分開始。津島さんも同じTGVでパリに戻られた訳で、強行スケジュールの上にお風邪をお召しになっておられるから相当大変なはずだが、印象としてはナントよりもリラックスした感じで、学生たちに語りかけるように講演を始められた。

 津島さんは息子さんの死という辛い体験を踏まえた『大いなる夢よ、光よ』(1991)を書き上げられた後、このパリに1年間滞在し、学生たちとアイヌの『ユーカラ』をフランス語に翻訳するという試みに取り組まれた。その延長上にアイヌの伝説をベースにした「鳥の涙」(1996)も書かれている。その意味で今回の2作品は、単に長篇/短篇という対比だけでなく、パリ滞在を挟んだ形での津島文学の変容を考える意味でも重要だと言える。津島さんは肉親の死という体験を経ることで、「夢」の意味をより深く考えさせられるようになったと同時に、夢殿の例を挙げながら、かつては生活と全然関係ない空間が必ずあったし、人間が豊かに生きるためにはそういう場所が必要なのではないかと語られた。そして、昔の人は夢に神のお告げをみたりしたということから、パリで『ユーカラ』に取り組んだりするなかで、ますますオラクルの意味を考えるようになったとして、アイヌの想像力を踏まえた「鳥の涙」の話へと繋いでゆかれた。さらに自ら「鳥の涙」の冒頭を朗読し、読み味わってほしい点を述べるなど、とてもわかりやすい学生向けの講演だったと思う。

 講演の後、やはり聴きに来られていた芳川泰久さんと大学近くのクレープ屋へ。クレープと一緒にシードルのボトルを注文。それが早々に空になったものだから、次はシードルをピシェで頼み、いつしか日本の居酒屋で昼間から呑んでいるのと変わらない雰囲気になってしまう。まず芳川さんが話されていたのは、先週のシンポジウムのこと。日本の文芸雑誌に書かれるのとまったく同じような感覚でフランス語の発表原稿をお作りになられたという芳川さんは、その後でフランス人の反応を聞いて、かなりの手応えを感じられたそうだ。つまり、われわれ(というのは、こちらの拙い発表も仲間に入れて下さっているのだが)の発表と、さらには古井由吉さんが川端、三島といったエキゾチズムと結びつく日本文学をどう超えたかという問い自体を無意味であると明確に退けたことで、フランス人聴衆の日本現代文学及びその批評研究に対するイメージを変えるきっかけになったのではないか、とおっしゃっておられた。

 芳川さんの感触では、フランスの日本学は理論的には自分たちの方が進んでいると無意識のうちに思いこんでいたのではないかという。確かに、日本近代文学研究業界だけを見ても、フーコー、デリダ、クリステヴァらの影響を受けた論文は近年でも多く見かけるし、フランスの理論から学ぶことで日本の文学研究が推進されてきた面が多々あることは歴史的に間違いない。だが、自分一個の感触を言えば、今回の発表をするにあたって、坂井セシルさんのサジェスチョンがあったとは言え、日本の方が理論的に遅れていると感じるようなことはなかった。坂井アンヌバヤールさんのような優れて理論的なお仕事をなさっている方がいることは承知していたが、それは日本でも理論的思考にたけた人がいる一方、全然理論には無関心の人もいるのと同じことで、別に日本の文学研究の理論的水準が大きく遅れているとは考えもしなかった。それは自分にとってはごく当たり前の感覚だったのだが、しかし過去の西洋と日本との関係を思い起こす時、こうした感覚で発表に臨めたこと自体が、もしかしたら画期的とは言わないにしても、相当新しいことだったのかも知れない。優れた翻訳でヨーロッパの理論にさほど時間差もなく接することができ、アメリカなどからの理論も入ってくる今の日本において、西洋にコンプレックスを感じる理由はほとんどなく、同じ理論的地平を共有して話すことが十分に可能になったのだと思う。

 だが、このことは一方で、もはや母国語文学だからというほとんど無根拠な理由で、日本人が日本文学研究で優位に立てた時代もまた終わったことを意味していよう。日本文学研究が西洋から学ぶことがもうなくなったとは思わない。ただ従来のような、西洋の理論を摂取し日本に応用するといった学び方とは全然異質の関わり方が、これからは必要になってくるのだと思う。

 芳川さんは機会があれば飛行機代を自費で払ってでもまたフランスに発表をしに来たいと思ったという。そういう気持ちはとてもよくわかる。学会発表にはいい思い出がなく、もう東京での発表の依頼は原則として受けないと決めているのだが、例えばここパリであれば、本当に自分から発表申込みをし、自腹を切ってでもまたやってみたいと思う。そして、語学に堪能な芳川さんのような方だけでなく、ほとんど片言の外国語しかしゃべれない自分のような人間が、それでも異国で発表することで何かを伝え何かを学ぼうとする努力を一から始めることには、別の意味があるようにも思う。あえて言ってしまうならば、芳川さんのような方が繰り返しこちらで発表をなさることによって、フランスの日本学は様々な刺激を受け、大きく変わってゆく可能性があるだろう。だがそれだけではおそらく、日本の学会の方は何も変わらない。自分のような人間までもそうしてゆくことで、ようやくお互いの関係を変えるきっかけが生まれてくるように思えるからだ。

 ところで、芳川さんはこの日記も覗いてみて下さったそうで、ミーハーは大事ですよとお褒め(?)下さる。芳川さんは本当に聞き上手という言葉がピタッと嵌るような方で、これがこの方の批評家としての美質だとも思われるのだが、ついつい調子にのって、後は競馬の話を延々としてしまったのだった。

11月13日(水)*12月4日追加
 朝ホテルを出て、トラムに乗り、ロワール川沿いの高台にあるジュール・ヴェルヌ博物館へと向かう。ナントへ来たもう一つの目的は、この博物館見学なのだ。開館時間が10〜12時、14〜17時。しかも火曜と祝日、つまり一昨日昨日とお休みだったので、今日の午前中しか行く時間がなかった。小さな建物で、こじんまりした感じの陳列室にヴェルヌにまつわるあれこれが展示されている。他に誰もいなくて、12時ギリギリまでゆっくりと見学。最後に受付で、ジュール・ヴェルヌの生涯を多数の図版入りで辿った大きな冊子、SFの歴史を辿ったやはり図版入りの冊子、展示品のスライドを購入。来年すぐ授業に使えるものばかりなので、わざわざ来た甲斐があったと大満足する。

 歩いて旧市街の方へと戻る。ナント出身の映画監督ジャック・ドゥミの名前をつけた広場を通り、パッサージュ・ポムレへと向かう。パリにも幾つかパッサージュが残ってはいるが、ここの豪華さは溜息が出そうになるほどだ。ガラス張りの天井の下、三層に分かれて古典主義的装飾に彩られたショッピング・アーケードがさほどの長さではないが続いている。

 簡単な昼食をとった後、トラムに乗ってナント大学へ。津島佑子さんの講演が行われるのは150人ほど入れそうな大教室で、学生がいっぱい。どうやらフォレストさんの比較文学の授業を兼ねているらしい。今回フランスを訪れた池澤夏樹、古井由吉、津島佑子、堀江敏幸の短編が1つずつ翻訳掲載された雑誌『Arsenal』7号を教科書にしているようで、どの机の上にもその本がある。時折フォレストさんがポイントになることを説明しようとすると、学生たちはいっせいにノートを開きメモをとろうとする。

 教室の前のテーブルに並んで腰掛けているのは、フォレストさん、坂井アンヌバヤールさん、津島さん、通訳の矢野さん、そして『Arsenal』7号に載った「鳥の涙」の翻訳者であるアンヌ・クレールさん。フォレストさんの話を津島さんの耳元で矢野さんが訳し、津島さんが話されることはアンヌバヤールさんが通訳して会場に伝える。内容は主に「鳥の涙」に関することで、日本では「私」ということで書くというと「私小説」ということになっているが、近代以前から語り物の形式が存在し、読者もそれを好んできたこと、「鳥の涙」の「私」は、アイヌの『ユーカラ』の「四人称」を意識して書いた物語であることをわかりやすく解説される。そして津島さん自身が「鳥の涙」の原文の一部を、翻訳者であるアンヌ・クレールさんがフランス語訳を朗読される。日本語では傍点が付された「私」をフランス語では「je」を太字にするなど、相当の工夫がみられる翻訳で、津島さんも翻訳は難しかったんではないかとおっしゃっていた。

 約1時間半のナント大学での講演を聴き終わった後は、再び町中に戻り、まずブルターニュ大公城をざっと散策。続いて美術館を閉館時間の6時までざっと見学。さらにサン・ピエール大聖堂の中をこれまた閉める直前にざっとまわらせてもらう。駅前のレストランで帆立貝のナント風とシェークルートの夕食を取り、今度は公営の文化施設であるリュー・ユニークに夜の講演会を聴きに行く。ところが開始時間を勘違いしていて、ちょうど間の休憩時間。聴けたのは後半だけとなってしまった。

 「自伝的小説」というのがテーマで、まず津島佑子さん、フィリップ・フォレストさんがそれぞれ用意されたペーパーを読み上げる。津島さんのものは坂井アンヌバヤールさんが通訳する。実は作家でもあるフォレストさんの小説『永遠の子供』が来年日本でも翻訳刊行されるのだが、それは自らの子供を失った痛切な体験を踏まえた作品だそうで、もしそんなことがなかったら彼は小説なんか書かなかったんじゃないかとも、坂井セシルさんなどはおっしゃっていた。フォレストさんは大江健三郎に関するフランス語の研究書も出されている。単に比較文学者だからということでなく、フォレストさんの津島さんや大江さんへの強い関心は自己のモチーフと深く関わっているのだ。それゆえここで「自伝的小説」というテーマが選ばれた訳で、いまの日本で流通している作者と作中の「私」との関係が曖昧な物語を批判し、けれども「私」は文学にとってますます重要な価値を持ちつつあるとして私小説とは異なる可能性を模索する津島さんと、本格小説の国に生まれキリスト教的な告白の伝統の中に育ち、そのうえでなお生の証言者としての「私」に拘ろうとするフォレストさんとは、一見話が食い違うように見えながら、その実とても大事な問題がここで提起されているのが分かる。議論は言葉で表現できないものを言葉で表現するとはどういうことなのかといった根源的な問題へと及び、予定時間を過ぎても会場から幾人も質問の手が挙がる。ただ、ちょうどその時間に自分の携帯電話が鳴り出し、あわてて外に出ようとして椅子に躓き、転けそうになったのはいただけなかったなあ。ついでながら、その電話は中島国彦先生からの、坂井セシルさんにお礼申し上げる食事会のお誘いであった。

 この夜の講演会場であるリュー・ユニークというのは、元クッキー工場だったものを改造したもので、70年代のアングラの小劇場を連想させる雰囲気の建物だ。全体は円形で壁には鉄管が剥き出しになっていたりする。講演会の後、入口横の書店で津島さんはしばしサイン会状態。今回来仏された作家の翻訳書が平積みされ、津島さんご自身も自著のフランス語訳を購入されていた。その後、入口を挟んで向かいのレストラン、というよりは照明も暗く飲み屋といった方がいい空間で簡単な食事会。これが深夜1時近くまでだから、ナントにいらした作家諸氏もなかなか大変だったんだなあと思う。

 そこで、こんな機会はめったにないだろうからと、パリ第7大学での発表の際に会場から出た質問に、津島さんご自身だったらどのようにお答えになるかを聞いてみることにした。津島さんは小説を書くにあたって、特に男性・女性といった読者の性は意識されないそうだが、ただその時の編集者を頭に思い浮かべて書かれるのだという。つまり、自分と親しい訳ではない一般読者の代表として編集者を念頭に置き、伝わりにくい箇所に手を入れたりし、作品を広い場所へと送り出そうとなさるのだそうだ。また、「真の女性性」みたいなものを追求するために作品を書いている訳ではないが、近代文学は男性の作ったものだったとは考えているし、それを超えるものを、例えばアイヌの『ユーカラ』など口承的なものを踏まえたりしながら、表現しようと思ってはいるとおっしゃっていた。近代文学の男性性の否定がすなわち女性性となるのではないが、男性性は超えなければならないということだろうか。だが、こうしたこと以上に何より自分にこたえたのは、普通に思われているのとは逆に「研究者の方が『自分は…』とおっしゃることが多い。作家はそうではないですよ。」とおっしゃられたことで、それを聞いた時にはもうしばらく何にも話したくない気分になって、深く落ちこむような状態にはまりこんでしまったのだった。

11月12日(火)*12月4日追加
 パリ・モンパルナス駅9時発のTGVに乗る。ナントに行く途中のアンジェで下車。アンジェ城にある『ヨハネの黙示録』のタペストリーが見たかったからだ。駅前からメーヌ川の方へ古い石畳の町中をふらふらと散策。サン・モーリス大聖堂はあいにく修復中で中に入れない。川岸のアンジェ城に着いた頃には雨がとても強くなり、ゆっくり城壁の上からの眺めを楽しむこともできない。あわててタペストリーのある地下の部屋へ。様々な怪物の表情を見ているだけでも飽きない壮麗な壁掛けを、照明を落とした近代的な部屋で眺める。外に出ると雨も上がっていたので、もう一度順路に従って城内を一巡した。

 夕方の急行でナントへ。すでに日が落ち、車通りも激しい。住所を手掛かりにオテル・ラ・デュシェス・アンヌを探す。ブルターニュ大公城のすぐ脇の、二ツ星だが結構大きいホテルだった。あいにく部屋は空いてないと言われるが、それならマダム・ツシマは泊まっているかと聞き、本を入れた封筒を渡してくれと頼む。アンヌさんは明日昼の到着なので、ホテルの受付を通して津島佑子さんに預けておいてくれと、セシルさんから言われたのだ。その封筒に入れる短い手紙をロビーで書いていると、いきなり受付から声がかかる。もし泊まるんだったら、部屋があると言う。ちょうどキャンセルがでたのか、それともリュー・ユニークの関係者がよく使うホテルなので、こちらも何か関係があると思って特別に部屋を用意してくれたのか。よくはわからないが、これから別のホテルを探すのもしんどいと思っていたし、ラッキー!とばかりに直ちにチェックイン。部屋も結構広く、1泊50ユーロなら文句なしだ。

 荷物を置いてから食事をしようと旧市街の方へ。ところが幾度も道に迷ってしまい、なかなかガイドブックに載っていたレストランに辿りつけない。もう半分やけでどこでもいいかと思っていたところで、ようやくグラスリン広場の一角にあるラ・シーガルに到着した。一九世紀末開店の古いお店で、タイル張りの壁には鮮やかな装飾がほどこされるなど、中にいるだけで気持ちが浮き立ってくるようなブラッスリーだ。席に腰を降ろし、海の幸の盛り合わせとここナントが本場のミュスカデのボトルを注文。ところがなんと、そこで「Yoshida さん!」と、フィリップ・フォレストさんが声をかけていらしたのだ。奇遇というか、すぐ近くのテーブルで津島さんを歓迎するディナーの最中だったのだ。フォレストさんは挨拶程度の日本語しかお話にならないが、とても気さくで何年も前からの友人であったかのような気持ちにさせてくれる方だ。そのフォレストさんに津島さんを紹介していただき(考えてみれば変な世界だ)、フォレストさんの連れ合いの方に挨拶をし、通訳役の矢野さんという若い男性からナント大学への行き方を教えてもらう。後は自分の席に戻って、のんびりとカニや貝をつまみながら、白ワインを飲む。浮き沈みの激しいような、不思議な一日だった。
11月11日(月)*12月4日追加
 津島佑子『大いなる夢よ、光よ』を読み始めるが、うまく頭に入ってこない。確か昨日か今日にはもう、津島さんもパリにいらしているんだな、などと考えているところへ、坂井セシルさんから電話。ナントで津島さんの講演のお相手をする坂井アンヌバヤールさんが、必要な本がみつからないとおっしゃっているのだと言う。セシルさんから借りている『光の領分』と日本から送ってもらった『黙市(だんまりいち)』を、お二人がお泊まりになるナントのホテルへ届ける約束をした。
11月10日(日)*12月4日追加
 さすがに疲れた気分で、昼過ぎまで寝ている。午後からシャイヨー宮のシネマテークへ、アストリュック特集を観に行く。『L'Education sentimentale〔Eに´〕』(1961)、『La Longue Marche』(1966)、『Flammers sur l'Adriatique』(1968)の3本。フローベルの『感情教育』を読んだばかりなので、それをアストリュックがどう撮ったかにも興味があったのだが、現代に舞台を移した映画の趣きは原作とはずいぶんと異なる。だが、ロケーションで撮られた冒頭の出会いの場面からして、その速度と感情の起伏とはいかにもアストリュックという風でとても気に入ってしまった。
11月9日(土)*12月4日追加

 朝から冷たい雨。こんな天気ではあまり人も集まらないのではと、半分不安、半分ほっとした気分で、パリ第7大学のシンポジウム会場へ。24号室というのは、この大学でも最も大きな教室の一つだそうで、200人は入ろうかという階段教室。すでに50人くらいの人が来ていた。入口で中島先生と長島さんが用意された資料コピーを渡され、ええっとまず驚愕。こちらはレジュメ1枚用意してなかったからだ。最前列の左端にお二人の姿をみつけたので、そのすぐ後の席に腰掛ける。
 定刻の9時30分から少し遅れて、いよいよシンポジウムが始まる。壇上に4名ほど腰掛けられる感じでテーブルとイスが並べられ、真ん中をあけてナント大学のフィリップ・フォレストさんと坂井セシルさんが座り、今回の主旨を簡単に説明される。名前を呼ばれると、中島国彦先生が舞台端から壇上に上がり、中央のイスに腰掛けられ発表を始められた。「近代の時間と空間ー永井荷風、島崎藤村、横光利一の場合ー」というタイトルで、頒布資料に基づき、島崎藤村『新生』、永井荷風「モーパサンの石像を拝す」「雲」、横光利一『旅愁』の引用箇所に即しながら、近代日本文学者のフランス体験における時間・空間意識の変容を「感興」という言葉と絡めながら説明されてゆく。が、今度はまた別の当惑に襲われてしまった。

 中島先生のお話はそれこそ学部の学生時代から幾度もお伺いしているし、決して難しい話し方をなさる方ではないのだが、なんだかうまく頭に入ってこないのだ。後から思えばそれだけこちらが動転していたというだけなのだが、一段落分ほどの分量の原稿を先生が読み上げられ、続けて坂井さんがフランス語で通訳なさる時、日本語の論理を追って頭の中で広がり始めた思考が、そこでいったん途切れてしまう感じになるのだ。そして再び日本語の発表に戻った時、すっと論理の流れに乗ることができない。フランス語の方を主に聴いている方たちは逆の感じ方をするのだろうかなどと、午後からの自分のあれこれを思い合わせ、すっかり落ち着かない気分になってしまった。

 続けて、長島裕子さんの発表「漱石の現代性ー「書く」と「読む」をめぐって」。お札の図柄の話を枕に、『三四郎』『こころ』『道草』『門』の一節をそれぞれ日本語原文とフランス語訳を並置した資料に即しながらの懇切な発表。漱石はフランスでもとても関心が高いと聞いていたが、会場からもすぐ質問の手が挙がる。手紙を引用したりする手法は、日本の古典文学の引用手法とどう重なりどう異なるのかといった問いなど、必ずしも発表とピッタリ重なってはいないにしても、日本近代文学という枠組を超えたところで漱石を捉えようとしている感じがよくわかった。

 そして午前中の最後が、坂井アンヌバヤールさんのフランス語発表「記憶について」。セシルさんと並ぶ形で壇上に座り、たたみかけるような速度で発表を始められる。後で伺ったのだが、姉妹で並ぶようなことは意識的にできるだけ避けているそうで、フランスにおける日本近現代文学の翻訳研究の最前線を支えてこられたお二人の姿をこうして拝見できること自体が貴重なことだったらしい。姉妹だから顔立ちが似ていらっしゃるのは当然なのだが、お姉さんのセシルさんが柔らかくふっくらとしたイメージの方であるのに対し、アンヌさんは知的な鋭さと強さとがすっと浮き出てくるような方で、またその発表の仕方がすごくかっこいいのだ。最良のディートリッヒを見ているような、などと言うと誤解を招くだけなのだろうが、もういっぺんで大ファンになってしまった。

 村上春樹の「蛍」と『ノルウェイの森』の該当箇所とを比較し、堀江敏幸「熊の敷石」の特質を『失われた時を求めて』を参照しつつ分析し、さらに大江健三郎『取り替え子』に及ぶ思索的な発表のあらましさえも自分の語学力では理解できなかったのだが、その言葉の響きに耳傾けながら、半年もパリにいてどうしてフランス語をろくすっぽ勉強してこなかったんだろうと深い後悔に襲われてならなかった。ついでながら、アンヌさんはパリ第七でのプログラムが終わった後で声をかけて下さり、今日のこちらの発表の枠組だと山田詠美はどんな位置になるのかと質問して下さったことがきっかけで、しばらく現代女性作家の評価について雑談したりした。小説の好みが重なることがわかり、なんだかそれも嬉しかった。

 午前中のプログラムが終わった後、会場に見えられていたジャン=ジャック・オリガス先生を紹介していただき、簡単に挨拶。オリガスさんは自分の指導教授である竹盛天雄先生とちょうど同じ頃に早稲田で学ばれた方で、その「舞姫」論や「倫敦塔」論を学生の頃に読み深く賛嘆した、いわば畏敬の大先生である。前田愛さんの都市空間論に先がける鮮やかな分析であり、今なお古びない見事なエッセイだとも思う。

 午後2時までの休憩時間は、近所のインド料理店で昼食会。中島先生と長島さんはすっかり晴れ晴れとした表情をなさっているけれども、こちらはどうにも落ち着かず、食事もあまり食べた気がしない。少し遅れて会場に戻り、壇上に上がってしばらくしてから、いよいよ発表を始めることとなった。

 大体一段落程度の分量を日本語で話し、続けて横の坂井セシルさんにフランス語に訳したものを読んでいただく。その間、会場の反応を壇上から見渡すことができる。が、それを十分確かめ切れないうちに自分が話す番が回ってくる感じで、思いのほかあわただしい。自分の実感だけでいえば、あっという間に発表の終わりまで来てしまった。実際にはかなり早口で喋ったにもかかわらず、時間を多少オーヴァしていたのだが。会場からは質問が二つ。今日取り上げた小説(松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』と津島佑子『寵児』)の「内包された読者」は男性なのか女性なのかという問いと、発表の言うように現代日本の女性文学が男性社会への対抗図式に囚われているとすれば、日本の女性文学はまだ「真の女性性」を発見できてないということになるのではないかという問いと。後者の問いは、フランスではジェンダー研究が必ずしも進んではいないからと言う坂井さんのサジェスチョンを受け、男性読者(研究者)としてどう現代女性文学を受け止めるかという方向へと草発表原稿を書き換えた結果として、当然出てきてしかるべき問いではある。ただ、答え方はへたくそだったなあ。ちょっと悔いが残る。

 自分の後は、芳川泰久さんがゆったりとしたフランス語で古井由吉、中上健次、村上龍に関してオノマトペの問題を中心に話され、矢田部和彦さんが自身の経験を交えながら村上春樹の変容についてフランス語で語りかけるようにして発表。その後、休憩時間も交えず、古井由吉さんと堀江敏幸さんの公開対談。と言っても、お二人が語り合うというのではなく、比較文学研究者で作家でもあるフォレストさんが質問を出し、それぞれが答えるというスタイル。発表が終わったばかりの矢田部さんが質問を日本語に訳し、壇上にいっぱなしの坂井さんがお二人の答えをフランス語に訳して会場に伝える。そして、ここから先がすごかったのだ。堀江さんも善戦していたと思うが、古井さんの存在感たるや、今日自分は何しにここに来たんだろうとこっちの存在自体がもうどこか消えていってしまったような気分だった。

 始めに今日のここまでの印象を尋ねられ、古井さんは開口一番、「すぐれた注釈者に注釈される作品と、そうでない作品と、どちらが幸福か」そんなことを考えながら聞いていたと答える。古井さんが芳川さんの発表を聴きに会場にいらっしゃったのはちょうど自分の発表の後半ぐらいで、もちろん古井さんはこちらの発表など全然相手にもしていらっしゃらないことはわかってはいるのだけれど、いきなり核心をつかれるようなことをおっしゃるものだから、心が動転してしまう。実は自分の発表には『ナチュラル・ウーマン』に関し「ともかく読んで下さい、としか言いようのない作品に関して語るのは苦痛でさえもある」との一句が入っていたのだが、そう言いつつも最良の注釈者でありたいというさもしい気持ちは拭えなかった。そこをズバリと言い当てられたような気分になり、もう深い絶望に似た感覚にはまりこんでゆくしかなかったのだ。

 さらに、エキゾチックなものとして受け止められてきたそれまでの日本文学との連続性と切断をめぐる問いに対して、「川端、三島の文学は評価していない。だから、そこと比べられても意味はない」と苛立たしささえ隠さずにはっっきりとお答えになられる。堀江さんは自分たちの世代にはもはや断絶という意識さえもなく「続き」しかなかったと、様々なものが空間的に並存するなかで本を読んできた経験を語られ、それはとても共感できる面が多いのだが、古井さんから自らの文学的営為に関する自信のようなものを仰ぎ見ると、ヨーロッパに対する日本文学の立ち位置自体が大きく変わってゆくような思いがした。

 お二人の対談は場所をパリ日本文化会館に移して、夜7時からも行われた。作家の方を知っていただくにはまず自作の朗読を聞いていただくのが一番だという主催者側の説明があって、まず古井さんが『聖(ひじり)』の一場面を、堀井さんが「おぱらばん」の最後の場面を、簡単な自作解説の後で朗読。フランス語訳のコピーが入場者には配られており、それを見ながら耳を傾ける。ここでも最初は「西洋か東洋か」という問い。ついでお二人とも作家でありエッセイストであり翻訳家でもあるという共通点が挙げられ、「翻訳」という経験をめぐる問いが出される。古井さんは、ドイツ文学の翻訳の過程で、日本語のシンタックスとドイツ語のシンタックスとの格闘が起こり、自分の中の日本語にひびが入った、そこから自分で日本語を書くことにのめりこんでしまったのだと語る。一方、堀江さんは自身の研究対象であったヴァレリー・ラルボーのことに触れながら、翻訳とは自分を消して作家の声を聞くという経験であり、そこからラルボーのように「日本語で」書いてみたいと思ったのだという。それゆえ堀江さんは、フランス語で作品を書くことがありうるかという問いに対し、最低でも生活をこちらに完全に移すことが条件で、なぜならいったん自分の根を切ってしまった亡命者作家たちのフランス語と、ちょっと書いてみようというので書いたフランス語とは全然違うからだと述べる。すると古井さんが、自分は今後一歩もフランスに足を踏み入れないと決めたら書く、と間髪入れずに答える。このへんの掛け合いは本当に見事で、強く印象に残った。

 プログラムが全部終了した後、パリ日本文化会館の一室でささやかな打ち上げの会。長島裕子さんに、すき焼きのできるような薄切り牛肉を売っているお店を教えていただくなどして、ようやく足が少し地についた思いだった。

11月8日(金)
 怪美堂が休業中ということで、こちらの日記もしばらく更新ストップとなった。連絡のタイミングが悪く、日記中にその旨を記すことができなかった。怪美堂トップページにはお休みの告知が出ていたが、気づかずこの間幾度かアクセスして下さった方がいるとすれば、お詫び申し上げます。

 そうこうしているうちに、いよいよ明日はパリ第7大学での研究発表の日となってしまった。怪美堂の休業中はその準備で明け暮れていたので、ちょうどよかった。というのは、真っ赤な嘘で、実はノルマンジーに小旅行に出掛けたり、シネマテークのジキルとハイド映画特集(?)を観たりと、2週間前に発表草稿が完成したのをいいことに、遊び呆けていたのだ。さきほど、発表練習だと思って久しぶりに取り出した草稿を音読してみて、唖然茫然愕然…。今日もパリは天気が悪く、今も外は嵐のような状態に近い。このまま大洪水にでもなってくれないものかと、つい不謹慎なことまで考えたくなってしまう。

 ともあれ、休業中の日記、および明日のシンポジウムの様子については、近日中にアップします。Bon Week-end!
11月7日(木)*12月7日追加
 『狩人の夜』(1955)。この映画のことをよく思い出す。特にこちらに来てようやく書き上げたある研究会の本のための文章のことを考えると、もし自分の文章にもあの『狩人の夜』のような力が少しでも宿っていたらと、祈るような気持ちになる。

 『狩人の夜』のような文章を書きたい。映画を多少とも知っている人であれば、これがどれほど倒錯的な願いであるかはわかるだろう。シェイクスピア役者として知られるチャールズ・ロートンが撮ったこのモノクロ映画は、ハリウッド的な映画叙法から言えば破綻だらけで、とても傑作とは言い難い作品だからだ。だが、その場面の一つ一つがまるで秩序正しく並べられるのを拒むかのような意志の力を持って、観る者の瞳を奪う。暴力と狂気、恐怖と純真、メルヘンの静謐、熱く胸を打つ強さ。少なくとも自分にとってそれは、何十何百という名作の類をもってしても代え難い強度をもって、記憶に深く刻み込まれたものなのだ。

 その『狩人の夜』がシャイヨー宮のシネマテークで15時30分からかかる。この映画を初めて観たのはロンドンのナショナル・フィルムシアターだった。すっかり虜になってしまって、六本木のシネ・ヴィヴァンで日本公開がようやく実現したときにも息切る思いで駆けつけ、その後も幾度か名画座のこわれかかった椅子に身をもたれかけてはみつめ続けてきた。

 それが優れているとか、誰から見ても魅力的だとかいう理由からではなく、人はある対象に絶対的なこだわりを抱いてしまうことがある。できうるならばその人、そのものになりたいと思い詰めてしまうことがある。『狩人の夜』のような文章を書きたいという思いは、抜き難い切迫感をもって今も自分の胸の中にある。

 シャイヨー宮のシネマテークでは、アストリュック特集も始まった。初日の今日は20時から『エヴァリスト・ガロワ』(1965)『恋ざんげ』(1952)『陥穽と振子』(1964)の短編3本立て。開演前にかくしゃくたる感じで登場したアストリュック本人の舞台挨拶。最初は21歳の若さで決闘で死んだ天才的な数学者ガロワの最期を描いた作品。次は言わずと知れた監督第一作で、アヌク・エーメの令嬢とジャン=クロード・パスカルの士官との運命的な出会いを描いたものすごく凝縮度の高い傑作。最後にエドガー・アラン・ポー原作の、縛られた体に巨大な振子が刻一刻と迫ってくる様が幾度観ても思わず目を背けたくなるほどに強烈な作品。これらはいずれもアテネ・フランセのアストリュック特集で観ているのだが、もう何度観てもいいものはいいのだと、詰めかけた人たちと一緒にそのつど大拍手を送る。

11月6日(水)*12月7日追加
 雨の降りしきるなか、シャンゼリゼ大通りからちょっと入ったところにある映画館エリゼ・リンカーンへ『Balzac et la Petite Tailleuse Chinoise』(ダイ・シージエ、2002)を観に行く。シャンゼリゼ大通りのはす向かいから入るバルザック通りにはその名もレ・バルザックという映画館があるから、どうせならそこでやってくれればいいのに、というのはこちらの勝手な感想。すでに原作小説『バルザックと小さな中国のお針子』が早川書房から翻訳刊行されているこの映画は日本でも間違いなく公開されるだろうが、待ちきれない気分で観に来てしまったのだ。何より中国山中の寒村の高台からの風景が美しい。また、文化革命の時期にバルザックや『ボヴァリー夫人』の中国語訳が音読されるのを耳で聴いた少女の妊娠中絶の物語は、「文化」とは何かを考えるのに様々な視点を与えてくれる。来年度、もしビデオが入手できたらカルチュラル・スタディーズの授業で取り上げてみようかともふと思った。

 せっかくだから、バルザックの家に寄っていこうと地下鉄をパッシー駅で下車。建物があるベルトン通りという細い小道には辿りついたが、入口がみつからない。おかげで雨の中あたりを一周するはめになる。入口は高台のレイヌアール通りにあり、そこから階段を降りて家に入る形になっていたのだ。もっともバルザック本人は、借金取りが来た時にはベルトン通りに面した秘密の入口から外へ逃げ出したというのだが。入館料は無料。ただし、収蔵するカリカチュアなどを時々展示換えするギャラリーだけは有料。雨が強くて庭には出られず、『人間喜劇』の人物系図なども買いそびれた。歩いて来られる近さだし、また来るつもりだ。
11月5日(火)*12月7日追加
 午前中、アパルトマンの部屋の大家から電話がかかってくる。天井の割れ目を見てもらうために業者を連れてゆくという。前回とは別の業者で、今度はフランス語でやりとりしている。前にも書いたが、借りている部屋のオーナーはイラン人で、夫婦揃って英語もフランス語もペラペラとしゃべる。う〜ん、これが異国で生きるということなんだろうと、いつも圧倒されてしまう。

 午後からは鈴木布美子『映画で歩くパリ』を手にパリ映画散歩へ。まず地下鉄6番線に乗ってラスパイユで下車。降りてすぐのカンパーニュ・プレミエール通りへ。ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)で、ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルが最後にこもる写真スタジオがこの通りの11番地なのだ。いま11番地にあるのは紳士服店とアンティーク店で、映画のような怪しげな写真スタジオは存在しないが、映画のラストシーンを思い起こしながらゆっくりとラスパイユ通りへ向かって歩いてみる。この通りのホテル・イストリアには5月に泊まったことがあるので、なんだか懐かしい気持ちだった。

 続いてラスパイユの駅からモンパルナス・タワーの方へ向かい、ユイジュンヌ通りを右折。アニエス・ヴァルダ『5時から7時までのクレオ』(1961)のヒロインが住んでいた建物は今も健在のようで、そこの部屋から出たクレオがラスパイユ通りに向かう時に映るボンヌ・サンテ薬局と金塔飯店も、現在ビルの工事中ではあったが実在する。せっかくだからと金塔飯店で昼食。羊肉の鉄板焼と金塔御飯というのを注文。しかし、金塔御飯は小さな中華風の卵焼きやエビの天ぷらなどがのっているし、一方の羊肉の鉄板焼きはカレー味で普通の御飯が欲しくなるしと、ちょっとミスマッチの選択だった。

 金塔飯店のすぐ先はル・ドームやラ・トランドのあるヴァヴァンの交差点。クレオはここからタクシーに乗るのだが、代わりに金塔飯店の目の前のバス停からバスに乗り、ラスパイユ大通りを南下。ライオンの像のあるダンフェール・ロシュロー広場で下車し、そこからルネ・コティ通りを歩いてモンスーリ公園へと向かう。クレオがアルジェリアからの帰還兵アントワーヌと出会ったモンスーリ公園をゆっくり散策した後、映画と同じ67番のバスに乗る。クレオが診察を受けたラ・サンペトリエール病院の近くで下車。さらに足を運びたいところもあったが、いまパリは午後5時台ですっかり暗くなってしまう。他はまたの機会とし、早々に部屋に戻ることにした。
11月4日(月)*12月7日追加
 タイ映画『Blissfully Yours』(2002)を観に、ポンピドーのすぐそばの映画館MK2ボーヴァーグへ。「OVNI」509号(2002・10・15)に「前代未聞の映画の出現」と絶賛する評が載っていたからだ。監督のアピチャッポン・ウィーラセタクンは実験映画の出身だそうだが、皮膚科の診断室で女医の診断を受けている若い男性と付き添いの中年女性と若い女性の姿をかなり長回しの固定キャメラで捉えたショットから始まる映画は、確かに誰の映画とも似ていないと言いたくなるほどに、個性的な文体を持っている。一見ドキュメンタリー映画風のタッチに見えるが、凡庸なそれのように対象に切迫してゆくのではなく、かと言って劇映画のように効率的に物語を進める訳でもなく、あたかも目的地へと(言い換えるならばクライマックス=射精へと)一気に到達しないことこそが倫理であるかのように映画は進行し、50分ほど過ぎてようやくクレジットタイトルが現れたりするくらいなのだ。だが、せっかちにさっさと席を立ってしまったならば、この映画が持つ触覚的な豊かさにはついに触れずじまいに終わることだろう。あの森の木漏れ日、あの透明な川の水の中の手、あの…。触れることの切なさを満面にたたえた、圧倒的にセクシュアルなこの映画は、誰もが退屈せずに観られる作品ではないのかも知れない。だからこそ、絶対的に擁護したい。そう思える映画作家に久しぶりに出会えた気がする。

 映画を観た後で簡単な食事を取り、地下鉄で帰る途中の乗換駅のオデオンでホームの壁の地下鉄路線図を見ていると、いきなり日本語で話しかけられ、驚いた。話しかけてこられたのは坂井セシルさんで、ちょうど今日パリにお着きになった古井由吉さんの歓迎の場に先程までいらしたのだと言う。坂井さんの自宅の最寄駅は同じ地下鉄10番線の一つ手前アベニュー・エミール・ゾラだからホームで偶然会ってもさほど不思議ではないのだけれど、まさかフランスで知り合いから声をかけられるとは…という感じで、結構動揺してしまった。
11月3日(日)*12月7日追加
 グラン・ブールヴァールのシネマテークではハロウィーン企画の一環として、昨日の『Le Testament du Docteur Cordelier』(ジャン・ルノワール、1959)、『The Two Faces of Doctor Jekyll』(テレンス・フィッシャー、1968)に続いて今日も、ジキルとハイド映画の上映がある。19時からの回にジョン・バリモア主演の『狂へる悪魔』(『Dr. Jekill and Mr. Hide』、ジェームス・S・ロビンソン、1920)が上映されるが、こちらのお目当ては併映の短編『Dr. Pickle and Mr. Pride』(ペルシー・ペムブロック、1926)。『狂へる悪魔』はスティーヴンソンの原作と比較する形で授業でも何度か、ビデオをみせながら弁士みたいにして解説を加えてきた作品だし、そもそも原作はジキル博士が自ら発明した薬によって、あたかも「Ape」に退化するかのようにハイド氏へと変身する物語だから、こうした連続上映を観る機会に恵まれただけでもパリに来た甲斐があったと思ってしまうのだ。

 19時からの回は、まずプログラムには載ってなかったアニメが2本。1本目はトムとジェリー・シリーズのカラーアニメで、薬を飲んで2匹の性格がガラッと変わってしまう。2本目は英語ナレーション付きの白黒アニメで、ジキル博士の家に入りこんだネズミたちに、薬を飲んだハイド・ネコが襲いかかるが、最後にマイティ・マウスが空から飛んできて救う話。『Dr. Pickle and Mr. Pride』はスタン・ローレル主演の『狂へる悪魔』のパロディで、子どものアイスクリームをとって食べたり、風船を耳元でつぶして女性を驚かせたりと、ハイド氏ならぬプライド氏のやることは可愛い。が、その場をみられてスラップスティック・コメディおきまりの追っかけとなる。

 昨日観たジャン・ルイ・バロー主演の『Le Testament du Docteur Cordelier』は監督のジャン・ルノワール本人がテレビ局で話をするシークエンスから始まっていたし、『The Two Faces of Doctor Jekyll』は始めに「1874年 ロンドン」と出ていた。後者には原作にないジキル博士の妻キティが登場し、しかも彼女には愛人がいるという設定で、ハンサムな青年紳士ハイドが二人への残忍な復讐を企てることになる。ショーウォルターの『性のアナーキー』によれば、原作の『ジキル博士とハイド氏』はほとんど男性しか登場しないところに大きな特徴があるのだが、映画の多くはハイドへの変身を、女性への抑圧された性的欲望やこらえきれない嫉妬として意味づけている。

 他に16時半からの『Le Gamin de Paris』(Gaston Roudes〔eに`〕、1932)も観た。軍人だった父も、母も亡くした姉弟妹の物語。将軍の息子とつき合っていた長女がふられたことに弟と妹が憤慨してゆくのだが、フランス語トーキーのせいもあって、最後はうとうととしてしまった。
11月2日(土)*12月7日追加
 朝から天気の悪い一日。ランドリーでたまった洗濯物を洗うが、太陽が全く顔を出しそうもない様子だと、なんだか張り合いも出ない。明日日曜はスーパーもお休みなので買い出しをすませ、雨のなかをグラン・ブールヴァールのシネマテークへ向かう。16時半からの回に、メアリー・ピックフォード主演の『Little Lord Fauntleroy』(アルフレッド・E・グリーン、ジャック・ピックフォード、1921)がかかるからだ。

 この映画の日本公開は大正12年3月29日、日本館にて封切。邦訳タイトルは言わずとしれた若松賤子の原作邦題にならって『小公子』。監督の一人ジャック・ピックフォード(1896年生)はメアリー(1893年生)の弟、とここまでは會津さんに調べてもらったことを並べただけなのだが、原作から考えて当然メアリー・ピックフォードが少年役を演じるのであろう。谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミは、ピックフォードに似ているからと河合譲治に見初められる。「アメリカン・スイートハート」と呼ばれたピックフォードの愛らしさは、日本でビデオ発売もされている『雀』(1930)だけでは最初ピンと来なかったのだが、D・W・グリフィスの初期短編中の出演作を観ることでだんだんわかってきた。上映時間135分の大作『小公子』は間違いなくピックフォードの代表作であろうが、そこで少年役を演じているというのだとすれば、自分の中のピックフォードのイメージはまた大きく揺らぐかも知れない。

 あれやこれやで到着が上映開始時間ギリギリとなり、急いで館内へ。ところが、何ということか、始まったのは『小公子』ではなく、全然別のフランスのトーキー映画だったのだ。もしかして日にちを間違えたのだろうか、いやそんなはずはないなどと思い返しながら、ともかく映画を見続ける。フランスの田舎町に赴任してきた若い女性教師。それを見初める地元のハンサムな青年。だが、子どもたちは大がかりな戦争ごっこを繰り返していて、青年は手を焼くばかりだ。捕虜になった少年は敵に服のボタンをとられる。それならばと服を脱いで裸で敵が来るのを待ち伏せにする。となれば、これはイブ・ロベールの『わんぱく戦争』(1961)とおんなじではないか。

 終映後、受付のところをよく見たら、『小公子』は上映できなくなったので、代わりに『Le Guerre des Gosses』(Jacques Daroy et Eugene Deslaw〔Eugeneの最初のeに`〕、1936)を代わりに上映すると、小さな紙が貼ってあった。『わんぱく戦争』(La Guerre des Boutons)とは原題が違うし、クレジットに原作者ルイ・ベルゴーの名前があったかどうかも覚えていない。が、おそらく『わんぱく戦争』はこの映画のリメイクなのだろう。100人も子どもが出てくる映画となればそれだけでも魅力満点なのだが、観客席からも頻繁に笑いが起こり、とても受けていた。まるでこの映画がお目当てで来ている人たちばかりの雰囲気だったから、こちらは余計悩んでしまってもいたのだが。

 その後、19時からの『Le Testament du Docteur Cordelier』(ジャン・ルノワール、1959)、21時30分からの『The Two Faces of Doctor Jekyll』(テレンス・フィッシャー、1968)も観た。
11月1日(金)*12月7日追加
 8時10分にオンフルールのバス停にとまるバスに乗るべく、朝早々に島田さんのお宅をおいとまする。ところが、時間が過ぎてもバスが来る気配さえない。他に待っている人もいない。どうしたことかと思い悩んで、ふと気づいた。今日11月1日は諸聖人の祝日、つまり休日だったのだ。日曜祝日のバス時刻を確かめ、もう一度旧港を見て来ようとふらりと散歩。ル・アーブル駅前のバスターミナルまでバスで戻り、今度は10時30分発のフェカン行きに乗ってエトルタへと向かう。

 エトルタはクールべやモネによって描かれ、今もよく写真で見かける有名な断崖のある海浜の町だ。しかし、断崖を見るのは後回しにして、まずはバス停から反対側に数分歩き、ルパンの家を見学する。かつて原作者モーリス・ルブランが住んでいた家だが、ここもサティの生家と同様オーディオ・ガイドを聴きながら中をまわる形になっている。まず入ってすぐがルブランの書斎。ルブラン自らが解説する格好で説明がされるうちに、トントンとドアをノックする音が聞こえ、なんとアルセーヌ・ルパン本人が登場(もちろん声だけだが)。後はルパンが自分が関わった事件の真相を語るのを耳で聴きながら、館内をまわることとなるのだ。説明にあわせて展示物がライトアップされたり、動いたりと非常にユニークだ。まだ出来てからそう年数がたっておらず、現在のオーディオ・ガイドはフランス語か英語。できれば日本語版も早く登場してほしいが、ラジオドラマさながらの声の演技だから、そう簡単にもいかないか…。

 ルパンの世界をすっかり堪能した後、海へ向かう途中のレストランで昼食。エトルタの海は水が冷たく泳ぐには適さないらしいが、その分魚介類がうまいとも言う。海の幸の盛り合わせを取り、白ワインを飲む。パリより安いし、おいしい。いい気分になって、いよいよビーチへ。左手の断崖は本当に印象深いかたちをしている。がんばって教会が上に建っている右手の断崖の上へも歩いて登った。風に吹かれながら眺める景色は絶景と言っていい。ただ、日本だったら必ず設けるであろう柵も何もない。もし転んで足を滑らせたら100メートル下の海か岩肌へ真っ逆さまだ。恐いというよりも、あまりの大胆さに爽快な気分にもなってしまう。

 しかし、この頃から小雨が風に混じるようになり、やがて結構な雨降りとなった。ル・アーブルへ戻るバスは17時32分までないから、時間を持て余してしまう。ル・アーブル駅着18時28分。エトルタを出た時にはまだ明るかったが、もうすっかり真っ暗だ。19時29分発の列車に乗り、21時48分無事パリのサン・ラザール駅に帰り着いた。

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