2002年  9月
9月30日(月)
 今日はルツェルンからレマン湖畔のモントルーまで鉄道で移動の予定。スイスでも屈指と言われるこのコースは、ゴールデンパス・パノラミックの名で統一され、3つの列車がロスなく接続できるようダイヤが組まれている。まずは、ルツェルン7時35分発の列車でインターラーケン・オフトへ。9時29分に着いたら、次に9時35分発でツヴァイジンメンへ。10時39分に着いたら、今度は10時50分発でモントレーへ。この最後の区間だけは1等車のパノラマシートを予約してある。

 監獄ホテルの朝食は7時から。7時35分発に乗り遅れる訳にはいかないので、朝7時少し過ぎには出発したいとフロントに頼んでおいたところ、6時半過ぎに食堂に出向くと、一番奥の席にリザベーションのカードが立てかけてあった。まだ清掃が終わったばかりの、他に誰もいなくてほの暗い食堂でパンやフレークを食べ始める。実は夜中の2時過ぎに目が覚めてしまい、その後は再び眠ることができず、ぽうっとした状態だった。しかし、若者たちの朝は早い。6時50分頃にやはり予約しておいたらしい2グループが現れたのを始め、7時前にはすでにほとんどの座席が埋まってしまった。

 監獄ホテルをチェックアウト。部屋内のドア近くに貼ってあった料金表を見て199スイスフランだと思い込んでいたのだが、請求されたのは99スイスフラン。オフシーズンで安いらしい。100スイスフラン得した気分になる。無事インターラーケン・オフト行きの2等車に乗車。朝靄に包まれたフィーアヴァルトシュテッテ湖や川辺から離れてゆくにつれ霧が晴れてゆくのがはっきりとわかる山間の村など、まるで幻想の世界を走っているかのようだ。座席は進行方向に向かって右側が正解。フィーアヴァルトシュテッテ湖こそ左の車窓からだが、マイリンゲンで進行方向が逆向きになるので、後の3つの湖は右の車窓から見ることができる。列車はブリエンツ湖のほとりを進み、インターラーケン・オスト駅に定刻に到着する。

 とここまでは順調に来ていたのだが、乗ってきた列車の隣りのホームにほどなく入線してきた列車をツヴァイジンメン行きだと勘違いして乗り込んでしまった。間違いに気づいたのは、ゴールデンパス・パノラミックと明示された列車が駅から離れていくのを目撃した瞬間。ツヴァイジンメンーモントレー間の1等券(19スイスフラン)&パノラマシート予約券(15スイスフラン)がおじゃんとなる。

 高原の駅で落ち込んでもしょうがないので、気持ちを入れ替え、予定を変更してベルンへ。駅から5分ほどのホテル・ナショナルにチェックイン。午後から市内を回ろうと思うが、月曜日なので、大聖堂も牢獄塔もベルン美術館も入れない。ヘルヴェティア広場近くに集まった六つの博物館も、自然史博物館とスイス山岳博物館が14:00〜17:00に開くだけなので、まずは19番のバスに乗り、デールホルツリ市立動物園へ。Tierparkで降りて、森の中の道を進んでゆくと、網がはられたその向こうにシカがいるのが見えてくる。ずっと道を下ってアーレ川まで出てみると、川沿いの池にペリカンが飼われていたりする。つまりここは、市民の散歩道沿いに作られた無料の動物園に包まれるようにして、有料の小さな動物園がある形なのだ。と言っても、有料だから珍しい動物がいるという訳でもない。トナカイ、ヒグマ、オオカミなど寒いところの動物がほとんどで、アフリカの大型獣などは何もいない。入口がそのままVivarium の入口ともなっていて、熱帯の鳥類、爬虫類、両生類、魚類が飼育されている。建物のすぐ前の池にはフラミンゴ。スイスではこうしたものを入場口近くに置くのが、定石なのだろうか。

 再びバスに乗って、自然史博物館へ。動物たちが自然で生活する様を剥製で再現したジオラマが200以上もあるのが、ここの特徴。生物の生態を興味深く紹介した展示も多数あり、ドイツ語の説明パネルがついている。もしスイスに留学していたら、月に一、二度はここに来てドイツ語の習得具合の確認がてらにパネルを読みすすめただろう、と思えるほどに自分には興味深いものがたくさんあった。著名なセントバーナード犬バリーの剥製もあるが、なぜか横文字の上にもっと大きな赤い文字で「バリー」とカタカナが記されていた。

 すぐ近くのスイス山岳博物館は、「ユングフラウ、メンヒ、アイガー」という特別展を開催中。ベルナー・オーバーランド三山のイメージの変遷を、絵画、映画、絵葉書、旅行パンフなどで追ったもの。特別展自体の図録は販売してなかったが、それぞれの山に関する多数の図版入りの結構厚い本が置いてある。思わず買いたくなったが、さすがにこれ以上3冊(!)も荷物を増やしてはと断念。それ以外の山に関する本もあって、アルプスの文化史的研究は相当進んでいるようだ。

 最後に旧市街に入り、カジノや大聖堂の横を抜けて、東端の熊公園へと向かう。ニューデック橋を渡ってすぐのところに楕円形と円形の二つの大きな穴が掘られ、クマがその中で飼われている。ところが、穴を覗き込んでもどこにもクマの姿が見えない。現在の終了時刻は17時30分で、少し前に壁の中の飼育室に引っ込んだところだったのだ。駄目な日はこんなもんだなと思い、まだ明るいのでバラ公園まで行って市を一望しようかとも考えたが、また足が痛くなってはと思いとどまる。時計塔の仕掛け人形が動くのを眺め、旧市街にある11個の色つきの石像彫刻の噴水を訪ね歩きながら、ホテルへと戻った(『地球の歩き方 スイス』02〜03年版286〜7頁の地図には、クラム通りのツェーリンガー噴水と、Aarbergergasse の噴水とが記載されていない)。

 夕食はホテルの地上階のレストランで。ギャルソンが勧めてくれたのは、今がシーズンだというシカの肉に赤ワインのソース。付け合わせに洋梨のウイスキー漬けなど。そもそも干しぶどう入りのライスからしてアルコール度が強く、「酔っぱらい天国」とでも命名したくなるプレートだった。やはり選んでもらったスイスの赤ワインがかなりきつく、どうしようかと思っていたくらいだったのだが、確かにこれぐらいのワインでなければ対抗できないかも知れない。一般的に言って日本人の口には合わないと思うのだが、逆にこれだけすごいと地元の人の味覚に触れたような気持ちにもなる。疲れのせいか、酔いのためか、日記の筆も進まず早めに床についた。
9月29日(日)
 10時35分チューリヒ駅発の列車に乗って、フィーアヴァルトシュテッテ湖畔の町ルツェルンへ。約50分で到着。旧市街まで歩き、レーベングラーベンにチェックイン。もと監獄だった建物を使用しているホテルで、廊下や扉などもほとんどそのままにしてある。もと独房の部屋にはトイレこそ壁で仕切ってあるが、バスもシャワーもテレビもコンセントさえもなく、ただベッドと木の机だけが狭い部屋の壁際に素っ気なく置かれ、窓も天井近くに一つあるだけ。それでも自分のように面白がって泊まる人間が多いのだろうか、一番安くてベッド1つの部屋が130スイスフラン、2段ベッドの部屋が199スイスフランと料金だけは結構高い。

 お昼からルツェルン市内をまわる。ここもやはりモーム『秘密諜報員アシュデン』の主人公が訪れた町で、少し長いがその部分を引用しておこう。

「八月初めの天気のよい日で、雲一つない空に太陽が輝いていた。彼はリュセルンへは子供のこと来たきりだったが、屋根の着いた橋、巨大な石のライオン、オルガンが鳴っているあいだ退屈しながらも何か感に打たれて坐っていた教会、などのことをおぼろげながらおぼえていた。しかし今、日陰になった岸壁を歩きながら(湖はまるで絵葉書の絵のようにけばけばしく、作り物のように見えた)、彼は半ば忘れかけた思い出の場所を求めていたのではなかった。人生(それもその頃の青春期のではなく、やがて来るべき成年期の人生だが)に対する豊富に燃えていた。内気だがひたむきだった少年の像を、心の中に組み立ててみようと努力していたのだ。ところが、彼の記憶にもっとも生きいきと甦って来たのは彼自身の思い出ではなくて、町の人ごみだった」(「10 売国奴」龍口直太郎訳)
 ルツェルン市内を流れるロイス川に架かった木造の「屋根の着いた橋」はカペル橋、シュプロイヤー橋と二つあるが、有名なのは八角形の水の塔が傍らに立つカペル橋の方で、ルツェルンを代表する景色となっている。「巨大な石のライオン」はデンマークの彫刻家トルバルセンによって石壁に彫られた像で、フランス革命でルイ16世一家を警護し全滅したスイス人傭兵を慰霊したもの。これもルツェルンを象徴するものだ。「オルガンが鳴っている(中略)教会」というのは、4950本のパイプを持つパイプオルガンのあるホーフ教会だろうか。アシェデンの記憶に「町の人ごみ」が甦ってきたというのは、ちょうど第一次大戦中で8月のハイシーズンでもほとんど観光客のいないルツェルンを彼が訪れたからである。「アシェンデンは静かなので嬉しくなり、湖に面しているベンチに腰をおろしてその喜びを心ゆくまで味わった」。そして「ともかくよい天気がつづくかぎり思いきり楽しんでやろうと」決心するのである。

 日曜日で旧市街の商店街もほとんど休みのせいか、それほど観光客が多いとは感じない。だが考えてみれば、9月末の日曜でもこれだけ見かけるということは、夏の盛りのは大変な人ごみにもなるのだろう。内部の装飾が壮麗なイエズス教会は現在正面を改修中。旧市庁舎横のピカソ美術館はダヴィット・ダグラス・ダンカンによる晩年のピカソの写真が階段両側や通路にずらっと貼られ、むしろそちらがメインかと思いたくなる。小林秀雄『近代絵画』のピカソの章は、ピカソが集めたものを整理もしなければ捨てもしないで、いつも部屋を散らかしっぱなしにしているというエピソードから始まっているが、晩年の住居も確かに散らかったままの感じだ。また、昨日ル・コルビュジェの絵を見た時には、これはピカソそのままではないかと思ったりもしたのだが、やはりピカソはピカソなのだと改めて強く思う。駅のすぐ脇のガラス張りのビルにあるルツェルン市立美術館は、「アナザー・ワールドー12の寝室物語」というベッドをモチーフとしたモダンアートを集めた企画展の最中。別にスイスの近代画家の風景画なども常設展示してある。入ってすぐ横の部屋に、Chiharu Shiota の幾台かの白いカバーをかけたベッドの上に黒く細いロープがまるでもやのようにはりめぐらされた作品。ジョン・レノン&オノ・ヨーコのベッドでの記者会見のビデオなども含まれていたが、デビット・リードの作品は映画『めまい』をモチーフにシーツと夜着が乱れたままのベッドをそのまま放り出したかのような作品で、にわかに今回のスイス旅行がはからずもヒッチコックに絡むものになってきたことを意識する。実は一昨日はホテルの部屋のテレビで『裏窓』のドイツ語吹替版を見たばかりだったのだ。

 またまた図録を買い込んでしまった後、バスに乗ってリヒャルト・ワーグナー博物館へと向かう。ルツェルンではトラムは走っていない。駅から7つ目のWartegg で降り、表示に従って湖畔へと向かう。途中で左折し芝生の丘を少し登ってから再び湖面の側へと右折すると、ワーグナーが1866年から72年まで住んだ建物がすぐ見えてくる。階段を上がった受付のある階がワーグナーに関する様々な資料の展示。ワーグナーとルツェルンとの関わりなどを解説した小冊子がドイツ語版以外になぜか日本語版だけ販売されており、そこに展示品についても説明がついている。もう一つ上の階は世界中の楽器が集められていた。

 博物館は小高い丘の上にあり、フィーアヴァルトシュテッテ湖がすぐそこに見える。「この湖は途方もなかった。水はあまりにも青かったし、山には雪が多すぎた。その美しさが真正面から飛びこんでくるので、胸が躍るというよりはむしろはら立たしいくらいだった。しかしやはりその景色には、メンデルスゾーンの『無言歌』のような、飾り気のない率直さがあって人の心を楽しませるので、アシェンデンも満足して微笑してしまうのだった。」とモームは書いている。アシェデンにとってルツェルンは「ガラスのケースに入った蝋細工の花とか、郭公時計とか、ベルリン毛糸の刺繍などを思い出させ」る町だったのだ。

 再びバスで旧市街に戻り、ホーフ教会に入ってパイプオルガンの流れるなか華やかな彫刻などを見た後、レーヴェン広場へ。その一角にある建物の2階がブルバキ・パノラマ。本物のパノラマ館に入ったのは、これが初めてだと思う。さらにライオン記念碑のすぐ脇の氷河公園へ。日本語パンフももらえるので、それを手に見始めるが、18時閉館で時間が足りず、鏡の迷宮もジオラマも展望台からの眺めも見られなかった。氷河公園のすぐ前には3ーDパノラマでアルプスの景観を映す博物館もあるのだが、やはり18時閉館で入れなかった。

 夕食はカペル広場近くのスタッドケラーで、ルツェルンの名物料理だというクューゲリパステーテの温野菜5種類添えというのを注文。角切り肉のクリームスープをパイでくるむと聞いていたのだが、パイの中は極小ソーセージみたいな肉の小塊とマッシュルーム。7時少し過ぎに入った時にはほとんど客もいなかったのだが、まもなく団体が二組相次いで予約席に入ってきて、にわかに騒がしくなる。店内にはステージが設けられていて、8時過ぎるとコーラスが始まった。フォークショーを見ていきたい気もしたが、追加料金らしいし、明日は朝6時起きなので、早々に勘定をしてホテルへと戻った。
9月28日(土)
 朝、ホテルのすぐ前の停留所からトラムの6番線に乗って、チューリヒ動物園(Zoo Zurich〔uにウムラウト〕)へ。トラムはチューリヒ大学の横を抜け、チューリヒベルクの高級住宅地沿いの坂道を登ってゆく。終点のZoo駅で降り、300メートル歩くと入口。入ってすぐのところに熱帯館(Exotrium)。熱帯植物が繁茂する温室に鳥が放し飼いにされていて、階段を上がると樹上にいる鳥たちをすぐ間近に見ることができる。爬虫類・両生類も飼育されている他、一番下の階は海水・淡水の熱帯魚を集めた水族館になっている。バーゼルの動物園もやはり爬虫類館・アクアリウムが入ってすぐにあり、案内地図の番号も同じく1番だった。何よりもバーゼル動物園よりさらに広大な森の中に飼育施設が点在している。舗装された道も広い。それぞれの自然放牧式の飼育スペースもかなり広く、様々な見学台から見られるように工夫がされている。人間への警戒心を与えないためか、山小屋のように組まれた木の間から覗き見るところもあった。隣接する子供のための家畜の動物園は丘の上に造られた趣きで、眼下には広々と農地が広がる。類人猿舎はバーゼルよりもさらに充実している感じで、よちよち歩きの赤ん坊も混じるゴリラ舎の前には人ごみができていた。

 トラムで中央駅前に戻り、駅横の城の形のスイス国立博物館へ。スイス史にまつわる常設展示を見るが、生活史にもかなり比重が置かれている。最上階とその下の階には18世紀から20世紀にかけての様々な衣装をまとったマネキンたちが幾体もあった。だが、見学途中から右足のひざが痛くなり、まいった。ショップでは、7月14日まで開催されていたヘルマン・ヘッセ展の大部の図録を購入。さらに荷物が重くなることとなった。

 そこから歩いて、チューリヒおもちゃ博物館へ。フランツ・カール・ヴェーバーおもちゃ店のプライベートコレクションを展示した、ビルの5階にあるとても小さな博物館。18世紀以降の人形や鉄道模型などが部屋中に置かれたショーケースいっぱいに常設展示されている他、階段を上った中2階みたいな場所で期間限定の小特別展が行われるらしい。現在はDINKY TOY、CORGI TOY、SPOT-On の自動車模型(CORGIの日本販売チキチキバンバンのケースもあった)、そして世界各国の消防車の模型が展示中だった。

 再びトラムに乗り、ル・コルビュジェ・センターことへイディ・ヴェーバー博物館へ。インテリア・デコレーションを仕事にしていたへイディ・ヴェーバー女史がル・コルビュジェにのめりこんだあげくに、彼の設計で彼の作品を展示する博物館を創設しようとし、チューリヒ市から湖畔の土地を50年間無償で借りて実現をはかったものだが、開館を待たずに1961年ル・コルビュジェは亡くなり、彼の最後の設計となった建築物である。開館は7月から9月の土日の午後14:00〜17:00だけ。館内にはル・コルビュジェのドローイング、リソグラフ、著作などが展示され、椅子に腰掛けて画集等をゆっくり見ることができる。新聞雑誌の切り抜き帳もあり、ここで書いたことは日本の雑誌の切り抜き記事を基にしている。すっかり嬉しくなって絵葉書を何枚も購入したら、解説ちらしを幾枚かおまけにくれた。

 ル・コルビュジェ・センターは湖畔の公園内にあるが、すぐ近くには中国園というのがあったので、そこも入ってみた。チューリヒの姉妹都市である中国の昆明市が友好のために庭師を送って造った中国庭園である。英語の解説パンフを眺め、門に刻まれた詩句の意味を把握したりしながら、ゆっくりと見学。晴れた空の下、チューリヒ湖には多くのヨットが浮かぶ。遠くグラルス・アルプスまで望めるはずなのだが、時刻が遅いせいかそこまでは見えなかった。

 夕食のために、パラーデ広場近くのツォイクハウスケラーというビアホールに入った。ドイツのビアホールと雰囲気は同じ感じだが、ここはかつて武器庫だったそうで、壁には剣や鎧や鉄砲などが架かっている。羊肉のゲシュネッツェルテスとブラートヴルスト(ソーセージ)を注文。どちらもチューリヒ風とメニューにあったもの。前者はマッシュルーム入りの茶色っぽいビーフストロガノフみたいな感じで、ジャガイモの短冊状の薄切りをパイみたいに固めて焼いたレシュティを付け合わせて食べる。後者のタマネギ入りのソースは少し甘すぎた。そして生ビールを小ジョッキで3種類。

 無理をしたせいで、右足の痛みはさらにひどくなった。明日も無事歩けるのだろうか。
9月27日(金)
 朝、トラムに乗って三国国境のモニュメントを見に行く。ライン川にせり出した埠頭の先に立つ尖塔に、スイス、フランス、ドイツそれぞれの方向が示されている。目の前のライン川の左岸がフランス、少し先の右岸がドイツになる。どうということもない風景だが、ここが国境の町であることを改めて思う。

 トラムで市内に折り返し、動物園(Zoologischer Garden)へ。ベルリン動物園ほどではないが、ここも樹木が多い。森の木立を散策するようにして動物舎をまわる。色づき始めた木々の葉が美しい。類人猿の飼育舎は結構充実していて、どれも天井から縄をたらし、運動するさまを観察しやすくしている。ちょうどゴリラの子供たちが追いかけっこの最中で、見学者に大受けだった。また、先生に引率された小学生たちだけでなく、説明者に従う高校生たちも何組か見かけた。高校生ともなると、皆が皆まじめに耳傾けてはいなかったが。教育装置としての動物園の役割が、それだけ生きているのだろうか。

 12時までにホテルのチェックアウトをしなければならないので、急いでトラムで戻り、時計を気にしながらちらっと大聖堂を見る。チェックアウトを時間ぎりぎりに済ませて駅へ。12時20分発の列車で、チューリヒへと向かう。チューリヒ中央駅に近づき列車が速度を落とし始めてから、遠くで何か叫ぶような声が聞こえると思っていたのだが、着くなり駅前でデモ行進に遭遇する。カメラを向けると、駆け寄ってきた男性からビラを手渡された。

 チューリヒ大学にほど近いレオネックという3つ星ホテルにチェックイン。『地球の歩き方 スイス』の読者投稿で「牛ホテル」と紹介されていたのだが、確かに牛づくしのホテルだ。地上階は「クレイジー・カウ」というレストラン、ホテルの入り口に金属製の牛の像があるのを始め、館内のあちこちに牛のあれこれ。ただ見せてもらった部屋の壁には、銀行の白いビル群や大聖堂と共に水辺に立つ、蚊取線香入れとちょうど同じ感じの、巨大なピンクのブタの貯金入れが描かれている。ツイン用の部屋とはいえ、1泊140スイスフランでは予算オーバーなので少し考えていたのだが、忘れがたいこの絵を見て連泊を決断した。

 市内に出ようと、ホテルの近くのトラム乗り場に出たが、ちょうどデモ隊が通るところで、しばらくトラムはやってこないらしい。ニーダードルフ通りをチューリヒ湖の方向へと歩く。バーゼルもそうだったが、ほとんど信号機を見かけない。さすがにチューリヒ駅近くの車通りの激しいところにはあったが、信号のないところでも路上に黄色の縞があるところを渡ろうとすると、歩行者優先が徹底しているのか、自然と車が止まってくれる。

 リマト川にせり出す旧市庁舎のところで川岸へ。少し下流のミュンスター橋を渡り、シャガールのステンドグラスのある聖母聖堂、ヨーロッパ最大の文字盤の時計塔がある聖ペーター教会を見、再び対岸へ戻って、ジャコメッティのステンドグラスのある大聖堂、ヴァッサー教会前の宗教改革で活躍したツヴィングリの銅像を見る。

 最後にチューリヒ美術館へ。ジャコメッティは地上階、ダダ発祥の地にふさわしいダダのコーナーや印象派、ポスト印象派、カンディンスキー、シャガール、マチス、ホドラーらの作品は日本で言う3階。間の階にはベックリン、フュースリ、セガンチーニなど。スイス出身の画家を中心にかなり個性的なコレクションだが、見応えがある。ここでは日本の女子高の修学旅行とおぼしき団体とぶつかる。正味1時間くらいしか時間が取れず、昨日に続けて今日も見切れなかった。チューリヒには実業家エミール・ビュールレの印象派を中心としたコレクションを展示する美術館もあるが、ハイシーズンが終わり開館時間は火金の午後と水の夜から日曜の14:00〜17:00だけに変更されていて、ここも訪れることが叶わなかった。

 夕食は、ツンフトハウス・ツア・ツィマーロイテンというレストラン。もとはギルド会館だった建物を、1708年に建て替えたものが現在の建物だという。階段横に裏面に日本語もある建物の解説のちらしが置いてあった。それによれば、2階のレストランの窓の間の柱の彫刻などが特に注目されるものらしい。しかし、入ったのは地上階の小さなレストランの方。ここも木の天井に中にも大きな木の柱があって、2階以上に近世的な雰囲気を感じさせる。魚のスープにチューリヒ風のマス料理。昨日はスイスの赤ワインだったが、今日はスイスの白ワインを飲む。隣国フランスにいてもスイス・ワインはほとんど見かけないのだが、種類は豊富だ。製造量の関係から輸出を控えているというので、スイスでしか飲めないものも多いらしい。

 帰りがけにチューリヒ中央駅に寄って、缶ビールを1本買ってからホテルに戻る。地下3階もある駅構内のショッピングセンターにはスーパーを始めとする様々な店が集まり、夜も人ごみが途切れることがない感じだった。
9月26日(木)
 朝7時28分パリ・東駅発の列車に乗って、バーゼルへ向かう。パリはこの時間だとまだ暗い。乗っているうちに外は明るくなるが、どんよりした曇天で気温も上がりそうにない。バーゼル・フランス国鉄駅到着13時11分。フランス、ドイツと国境を接するこの街には、他にスイス国鉄駅、ドイツ国鉄駅もある。すでにスイス領内だが、この駅だけはまだフランスだということだろうか、フランス国鉄駅から出る際にはパスポートの提示を求められた。隣接するスイス国鉄駅で国鉄、バス、主要都市のトラムなどが乗り放題となるスイスパスの8日間2等を340スイスフランで購入。併せて、ツヴァイジンメンーモントルー間のパノラマシートの予約をする。さすが観光国と言いたくなるほどに、窓口での対応もスムーズだった。

 駅の外に出ると、ぽつぽつと雨の水滴が落ち始めている。やはりかなり寒い。パリではまだ見かけなかった焼き栗が路上のあちこちで売られている。街のヘソにあたるマルクト広場へ向かう途中で、『地球の歩き方 スイス』に載っていたホテルにチェックイン。正確にはホテルではなくBTなので、星もない。建物の2階のレストランのレジがレセプションを兼ねている。1泊(朝食なし、シャワー・トイレ共用)で90スイスフラン。部屋はツイン用なので結構広かったが、やはりスイスの宿は相当高いようだ。荷物を置き、傘を持って出掛ける。

 バーデンはサマセット・モーム『秘密諜報員アシェンデン』で主人公が上官の命を受け、いつもあまりに有益な情報ばかりをもたらすスイス人商人の密偵グスターフを調査しに出掛けた街だ。「アシェンデンは、二、三日滞在してバーゼルを見物した。あまりおもしろい土地ではなかった。本屋で、もし命が千年もつづくものなら、読んでもよさそうな本をパラパラとめくりながら、長い時間を過ごした。」(龍口直太郎訳)と、モームのこの街に関する記述は素っ気ない。確かにこじんまりした街ではあるが、本当におもしろくもなんともないところなのだろうか。

 現在のバーゼルには大きな国際見本市会場があり、春の見本市シーズンには大変なにぎわいを見せるらしい。赤い砂岩で造られた印象的な市庁舎のあるマルクト広場から、ミットレン橋を渡り、クララ教会を横に見ながら、国際見本市会場まで歩いた。そこからトラムに乗って、左岸に戻り市立美術館前で下車。1662年創設、ヨーロッパで最初の公開美術館だという市立美術館は、ホルバイン、クラナッハ、印象派、ポスト印象派、ベックリンなどの豊かなコレクションを有している。のちに『月と六ペンス』の作者となるモームは、ここに収められたゴーギャンの作品を楽しまなかったのだろうか。それとも当時はまだコレクションに加わっていなかったのだろうか。300メートルほど離れた現代美術館と共通のチケットが8スイスフラン。しかし現代美術館はもとより、市立美術館の展示も見終わらないうちに閉館時間が来てしまった。

 美術館から外に出ると、雨も本降りになっている。三国国境のモニュメントを見に行く予定を中止し、マルクト広場近くのサフラン・ツンクトで夕食。ギルドホールの古い建物を使ったレストランで、重々しい扉を開けて中に入る。18時からだと言われるが、少し早い時間でも入れてもらえた。フォンデュ・バッカスがここの名物なのだが、2人前からでないと注文できない。代わりにシカのステーキ。ソースは完全にフランス料理で、付け合わせはパスタとマッシュポテト、そしてクリが2個。耳に届く会話はドイツ語もあればフランス語もある。少し寝不足なので、ミネラルウオーターだけ買い込んで、早めに部屋に戻った。

 バーゼル市内には小さな博物館が幾つもあり、スイスパスを見せるとミュージアムが無料になるパスが10%引きで購入できるそうだ。もう一泊して博物館巡りをしたい気もしたが、また来る機会もあるだろうと思い直した。今日の誤算(?)は、市立美術館でかなり大部の画集を購入してしまったこと。「パリの生の諸相」というミニ特別展もやっていたので、その薄い画集も購入。旅行早々に荷物が重くなってしまい、この先を思うと正直頭が痛い。
9月25日(水)
 旅行前に片づけておきたいことが結構あるのに気づくが、かえって気持ちは怠惰を決め込む側へと傾斜してゆく。何をするのもおっくうな感じで、なかなか動く気にもなれずにいるうちに、昨日借りてきた松浦理英子『優しい去勢のために』(ちくま文庫)を読み切ってしまった。日本から送付されてきたゲラの校正を済まして、郵便局へ。慌ただしく準備を整え、夕食は近所のイタリアン・レストランへ(『地球の歩き方 スイス』にパスタのゆで時間がイタリア8分に対し、スイスでは12分という読者投稿があったのだが、本当だろうか?)。明日は午前5時過ぎには起床の予定なので、早く熟睡できるようアルコールを口にしながら、日記をつけている。
9月24日(火)
 明後日から1週間ほどスイスに旅行に出る。エスパス・ジャポンに寄って本の返却・貸出手続きをした後、パリ・東駅にまわり、帰りのTGVだけ座席予約をしてきた。パリに戻るのは来月3日、それもかなり遅い時間となる。ノートパソコンは持ってゆくが、インターネットを使えるレベルのホテルに連日は宿泊できないかも知れない。できるだけ日記の更新だけはしたいとは考えているのだが、どうなるか分からないと思う。
9月23日(月)
 「巴里に於ては貧者も富者と同じ様に人生を味ふことができる」。和田博文他著『言語都市・パリ』(藤原書店)中に引かれた鶴見祐輔『三都物語』(1923)の一節だが、確かにパリにはこのようなイメージがあるし、かつての自分の経験に即して納得できる面もない訳ではない。「貧者にして人生を享楽できる都、という表現はいかにもパリの不可思議な魅力の一端を言い当てている。そこには町並みが美しければ一文無しで歩いていても心楽しい、というような単純に楽天的な姿勢を超えて、人生に対するある確かな叡智の働きが感じられよう。そこにパリだけが世界中の人々にとっての特別な「心の」都としての特権化を獲得できた秘密もあるだろう」と『言語都市・パリ』では言葉が継がれている(竹松良明「自由・平等・博愛」)。

 本当に「世界中の人々」がそう思っているのか、そこまで言い切る自信は自分にはない。例えば近年急速に増えているルーマニア出身のロムたち(地下鉄構内などで見かける身障者の物乞いはほとんど彼らで、背後にはマフィアがいると、ルモンド紙を踏まえて『OVNI』505号は伝えている)もまた、いずれパリを「心の」都としていくだろうとは、にわかには想像しにくい。貧しくても楽しめる「自由」は、フランス流の個人主義(それは時に「冷たさ」として感じられるものだ)と表裏の関係にあるものだから、決してパリが貧者に優しいユートピアである訳ではない。それでも、人を勝手に放っておいてくれる有り難さは確かにあり、要はパリでどう生きるかという「叡智」の問題なのだということも、一概には否定しきれないだろう。金銭さえ潤沢であれば、というさもしさがむき出しの昨日の日記を反省しながら、あくまでも自分一個の問題としてそんなことを考えた。
9月22日(日)
 一年間授業や公務を免除されている贅沢さを思うと、とても言いづらいことではあるのだが、異国での生活に少し飽き始めているのかも知れない。日本に帰れば大変なことがたくさん待っていることは分かりきっているし、ホームシックを感じている訳では断じてないのだが、「観光旅行」、つまりブルデュー『ディスタンクション』中の言い方を借りるならば「風景という地位に還元された世界の象徴的所有化」のためだけならば、半年もあれば十分と言うことなのだろうか。

 もちろん、人間の感情も下部構造に左右される面は極めて大きい。ここしばらく節約のためにほとんど外出していないことが大きく気持ちを左右していることは確かだし、経済的にもっと潤沢ならば感覚も違ってくることだろう。いや、大学なり語学校なりの授業に出席する通例の留学生活であれば、言葉が身に付いてきた手応えを得、新たな人間関係が生まれて楽しくなり始めるのが?ょうど今くらいの時期なのかも知れない。

 だが一方で、この暇を持て余すような退屈さを、もう何年も味わってこなかったことも確かなのだ。部屋で無為に時間をつぶせる今こそが、何より貴重なのだとも思い返している。


 夜、シャイヨー宮のシネマテークに行った。アパルトマンから歩いて約25分。現在はジャン・グレミヨンの特集。観たのは、21時からの回の“CentinellaAlerta!”(1935)。スペイン語音声のメキシコ版フィルムで、フランス語字幕付きの上映。ルイス・ブニュエルも制作に関わったという、何とも珍奇なミュージカル仕立ての作品だった。

 もっと早くシネマテークに来ればよかったという思いが七分に、いやいや今まで我慢してきて正解だったという思いが三分。この後は10月2日からロマン・ポランスキー、10月23日からジョン・フランケンハンマーの特集が予定されている。入場料は1回4・7ユーロ。30ユーロ払って会員になると、1回3ユーロ。しかし、会員になるには証明書用写真がいることをうっかり忘れたまま来てしまった。
9月21日(土)
 會津さんが送って下さった本4冊のうちの一つは、怪美堂で購入した泉清風の訳著『奇獣の襲撃』。

泉清風訳著 奇獣の襲撃
大正8年 盛陽堂書店 印あり
E. R. バローズ『類猿人ターザン』の半創作的翻訳。表紙の原題 (An Attaek of the Ape) がデタラメ。扉の原題 (The Tarzan of the Ape) もデタラメ。内容もデタラメで、前半はほぼ原作通りだが、途中からターザンが旅医者になって「南アフリカ諸島」の「猛虎の出没する山地」を歩き回り、最後はフォークランドに旅立ってしまう。その他、愛犬の名前が「ポチ」だったり。コアなバローズ・コレクター向け。普通の人が読んだら激怒まちがいなし。14.5×10.5の小型本。

(文:会津信吾)


 大正8年9月刊のターザンの翻訳(?)なのだが、前半のストーリーだけは一応原作を踏まえてはいるものの、その改変具合たるや凄まじい。関係者が早々に買ってしまうのはどうかと思ったのだが、どうしても読んでみたくて、「コアなバローズ・コレクター」の手に渡る前に特別に譲っていただいたのだ。表紙に記された原題(?)は「An Attaek of the Ape」。理由の第一は「奇獣」=「Ape」の訳語を確認したかったことにある。

 以前にも書いたが、バローズの原作では、幼いターザンを密林で育てたのはゴリラではなく、進化論的階梯でサルとヒトとの中間に位置する「Ape」という想像上の種族だということになっている。この日記のタイトル「Ape」はこの架空の存在を含意している。では『奇獣の襲撃』ではどういう訳語が「Ape」当てられていたかと言うと、なんと、人面魚ならぬ「人面猿」なのだ。以下、そのくだりを引用する。

「この森林地帯に群棲してゐる数十数百の人面猿がある。「エープ」と云う学名のつけてある人類猿である。
 この人類猿は、物こそ云はない、言葉こそ知らないが、人間と少しも異らない。
 成る程、体はゴリラのやうだ。見た処、恐ろしい形相をしてゐるけれども、子を思ふ心は、人間も猿も変りはないのであつた。」


 ついでに記せば『奇獣の襲撃』では、ターザンの実の母であるクレイトン伯爵夫人アリスは、大ゴリラに襲われたのが原因で亡くなってしまう。そしてターザン少年は、育ての母であるタラト猿が大ゴリラに今にも「喰ひ殺されやうと」していたのを、ナイフで大ゴリラを倒して救い、人面猿たちの尊敬を勝ち取るのだ。


 イランに行っていた夫が帰ってきたからと、部屋の家主一家がディナーに招待してくれた。一度エレベーターで偶然会ってはいたが、気さくで海外経験の豊富な旦那さんである。ディナーはサケに香味野菜入りのライス。サケのグリルは普通の調理法だったが、イラン風炊き込みご飯はほのかに独特の香りがしておいしかった。イランではメインの料理をライスと一緒に食べるのが普通なのだそうだ。デザートにスイカが出たので、塩をかけて食べたら、ジャパニーズスタイルだと言って真似をされた。次はお礼に、何か簡単な日本料理でも持ってゆくべきだろうか。
9月20日(金)
 いやな夢が続く。もう何年も会っていない人間と、懐かしさだけから会いたいとは思わない。その相手が嫌なのではなく、会うことで昔の自分を思い起こしてしまうのが嫌なだけなのだが、おそらくこういう言い方は不遜で傲慢にしか響かないだろう。ただ、十数年前に一時滞在したパリが懐かしくて、こうして在外研究先にまで選んでしまったのには、それが日本での人間関係を断ち切れた時間だったから、というのがやはりあるのだと思う。そうして今、日本語を発話することも、自分に向けられた日本語に耳をとめることもない日々を再びすごす中で、断ち切ってきたものから復讐されているのだろうか。夢の中で話しかけてくる言葉は、あざといまでに鮮明な日本語ばかりだ。


 今日、會津さんにお願いして探してもらった本が手元に届いた。日本から航空便を差し出したのは17日だそうだから、わずか4日で来たことになる。そう言えば、かつてパリに滞在していた時には郵便局が長いストライキに入ってしまい、郵便が一切使えなくなってしまった。それまでは知人に割と頻繁に出していた絵葉書が一通も届かなくなったものだから、どこかに連れ去られたのではないかという噂まで、冗談半分にしろ流れていたのだと、帰国後に聞いた。パリの滞在先宛に出したという郵便物は結局帰国前に一通も手元に届かず、そのまま行方知れずになった。もちろんインターネットなどまだなかった。そうした条件がより日本の現実から解き放ってもくれていたのだと、つい懐かしく思い返してしまう。今宵もまた昔の夢を見てしまうのだろうか。
9月19日(木)
 ほとんど部屋から出ず、日本語の本ばかり読んでいる。身体的な疲れが乏しいために眠りが浅くなっているのだろうか、夢を見ているうちに徐々に意識がその中で覚醒するようにして、夜中に目が覚めてしまう。ヨーロッパに来てから、特に旅に出るたびに、以前にもまして夢を見るようになった気がする。そう言えば、イタリアで見たのはあまりの生々しさに、目覚めてから自己嫌悪を感じてしまうような夢ばかりだった。 ここ数日の夢は違う。もう10年くらい、なかには20年以上も会ってさえいない人間のことが、幾人となく夢によって思い返される。ふだんは振り返りたいとさえも思わない過去のことばかりだ。そしてそれらはすべて、自分にとって心地よい夢ではない。


 昨日メールを送信した後で8月の日記を見返し、10日の日記も抜けていることに気づいた。何をしていたかだけは覚えているので、追加しておくことにする。今日のパリは午前中天気が崩れて雨が降っていたが、午後からはそれも上がった。散歩がてらにパリ日本文化会館の図書室へ行き、ここでも日本語の本を読んだ。
9月18日(水)
 8月4日から8日までの日記を追加・改訂した。別に抜けたままの日があってもいいとは思うのだが、自分自身の心覚えのために欠落を埋めておくことにしたのだ。といっても、イタリアへはノートパソコンを持参せず、後から記憶とガイドブックとを頼りに書いた文章だけに、もはや日記とは言い難い。実はすでに記憶が曖昧になってしまっている部分もかなりあった。

 パリはここのところ、日曜を除いては好天が続いていて、午後になると部屋に差し込む西日も強く眩しい。だがこれも、夏が完全に過ぎ去る兆しなのかも知れない。そう思うと、イタリアのまばゆい光が恋しくなって、また旅に出たくなる。
9月17日(火)
 アルジャントゥイユに行く。モネはこのパリ近郊セーヌ河畔の町に1871年暮から78年1月まで滞在し、印象主義の絶頂期を迎えた。モネにアルジャントゥイユ行きを勧めたのは対岸のジェヌヴィリエに広大な地所を持っていたマネだったらしく、1874年の夏をその家で過ごした折に、マネは『ボートのアトリエのモネ夫妻』という絵を制作している。島田紀夫『セーヌの印象派』(小学館)の表紙を飾っているのも、この絵だ。遠景に描かれたヨットと工場の煙突の煙とは、この時期の状況を端的に表していると言う。19世紀後半のアルジャントゥイユは、ブルジョア階級が余暇をすごすパリ近郊の行楽地として開けると共に、工業化の波に押し寄せられ、産業の中心地へと変わりつつあったのだ。

 しかし、今日の第一の目的は、モネを始めとする印象派の画家たちが描いた場所を訪れることではなく、故障したカメラの修理を頼むためにペンタックス・フランスS.A.に行くことだった。高速郊外鉄道RERのC3番線の終点がアルジャントゥイユ。駅舎の出口近くに貼ってあった地図で、ペンタックス・フランスS.A.がある通りの名前を探す。地図の上方に発見、今いる場所は地図の下の方らしい。ともかくも歩き出すが、サン・ラザール駅から出ている近郊電車でアルジャントゥイユの一つ先の駅まで行くべきだったのだと途中で気づく。結局、町の東端、セーヌ河畔に近いアルジャントゥイユ駅からほとんど西端まで歩ききり、ようやくペンタックス・フランスS.A.に到着。あたりには多くの企業の倉庫が並んでいた。

 修理は快く引き受けてくれたが、一ヶ月ほどかかるらしい。国際保証書がないので、修理費も幾らかかるか分からない。それでもしょうがない。当初はモネが描いたアルジャントゥイユの橋やシスレーが描いた教会を見にゆくつもりでいたが、直ったカメラを受け取りに来る日の方がいいかと考え、近郊電車でサン・ラザール駅へと帰ることにした。
9月16日(月)
  11月に研究報告をするパリ第7大学のシンポジウムのプログラムをセシル坂井さんがメールで送って下さったので、下に貼っておくことにした。まだ日数はあるが、坂井さんに通訳をお願いする関係で、今月中くらいには草稿をまとめなければならない。津島佑子の小説を『寵児』『歓びの島』『光の領分』と読了し、今は『葎の母』を読んでいる。『光の領分』は坂井さんが妹さんと共にフランス語訳を出されていて、お借りした本にはところどころに鉛筆の印や書き込みがある。いただいた書誌に拠れば、津島佑子の小説のフランス語訳はこの秋雑誌に掲載予定のものを含めて、全部で10点。うち単行本が7冊。せめてこの7冊くらいは日本語で読んでおきたいと思っているのだが、まだ手に取れない作品もある。


日本文学の現在ー時間、空間、言語の問題
パリ第7大学東洋言語文化学部日本語科主催シンポジュウム
 共催
ナント大学、ナント市リウユニック文化センター、フランス国立本センター、
国際交流基金、パリ日本文化会館、日本国外務省
2002年11月9日(土)、9:30ー17:30
 パリ第7大学JUSSIEU キャンパス、会議場24号
9:30 挨拶 P.FOREST (ナント大学)、C. SAKAI (パリ第7大学)
10:00 中島国彦(早稲田大学)
近代の時間と空間ー永井荷風、島崎藤村、横光利一の場合<仏語通訳>
10:45 長島裕子(早稲田大学)
漱石の現代性 <仏語通訳>
11:30 A. BAYARD-SAKAI (INALCO)
記憶について
休憩
14:00 吉田司雄(工学院大学)
現代日本における場と女性文学ー津島佑子、松浦理英子をめぐって<仏語通訳>
14:45  芳川泰久(早稲田大学)
言語のざわめき ー 古井由吉、中上健次、村上龍をめぐって
15:30  矢田部和彦(パリ第7大学)
村上春樹の現代性
16:15ー17:15  座談会 21世紀の文学
古井由吉、堀江敏幸、(司会)P. FOREST<仏語通訳>
*尚、当日19:00からパリ日本文化会館に於いて、古井由吉、堀江敏幸、P.FORESTの座談会, 及び朗読会が企画されている。


9月15日(日)
 今日は大人のための動物園へ。大人の動物園というのは、競馬好きが子供を連れて出掛ける時によく使われる口実なのだが、會津さんはご存じなかったようだ。実際JRA(日本中央競馬会)の競馬場に行くと、内馬場に子供のための遊び場が作られ、昼休みにはウルトラマン・ショーが行われていたりする。そのへんはフランスでも抜かりはないらしい。今日行ったロンシャン競馬場内にも子供が遊べる公園が設けられ、ポニーに乗ったりできるようになっている。

 最寄り駅のシャルル・ミッシェルから地下鉄10番線で4つ目のポルト・ドートゥイユで降りると、ロンシャン競馬場行きの無料の送迎バスが待っている。日本の土日の中央競馬は大体午前10時前後が第1レースなのだが、今日の第1レースは13時45分。1時過ぎに着いても、全然混んでなくてのんびりしている。日本だとGIレースの日などは特に開門直後から席取りがあって大変なのだが、全くそんなこともない。日本でよく見かける大学生とおぼしき騒がしいグループなど皆無だ。競馬場内でランチを食べながら、知人と話をしつつのんびり第1レースを待つというのが、こちらの習いなのかも知れない。きちんとした服装の人の比率が意外と高いように感じた。

 そして、異国の競馬場だというのに、結構日本人が多い。パドックにいると、否応なしに日本語が耳に飛び込んでくる。メインのヴェルメイユ賞に武豊が騎乗するからなのだろうか。今日は10月6日の凱旋門賞の日に戸惑わないよう下見のつもりで来たのだが、当日はもっともっと日本人が押しかけるのだろうか。

 日本では発走の少し前に馬券発売の締切ベルが鳴るのだが、こちらでは発走と同時に締切ベルが鳴る。それでも、馬がパドックを出てから返し馬をして発走するまでの時間が短いから、馬券購入は結構あわただしい。マークシートはなく、窓口で口頭で言うか、紙に書いて渡さなければならない。それから、日本では勝ち馬がスタンド前のウイナーズサークルへ行くことになっているが、こちらでは出走馬全部がパドックに戻って鞍をはずすのみならず、表彰式まで行われる。さらに日本ではメインレースは最終レースの一つ前に組まれるのだが、ヴェルメイユ賞は第5レースで15時55分出走。出走時間こそ15時台と日本と変わりないけれど、その後17時55分発走の最終第9レースまで4レースも組まれている。雪辱のチャンスが多いのはいいことのようだが、それだけ傷も深くなりかねない。

 さて、結果はと言うと…。ともかく10月6日まで節制に節制を重ねて、リベンジの資金を貯めなければ。
9月14日(土)
 パリの東に広がるヴァンセンヌの森の中にも、動物園(Parc Zoologique de Paris)がある。ここと、Jardin des Plantes 内のMenagerie〔最初のeに´〕、さらにEspace Aminalier de la Haute-Touche、Parc Zoologique de Cleres〔最初のeに`〕の4つが国立自然史博物館に所属する動物園で、Jardin des Plantes の方が上野動物園に相当するとすれば、ここは多摩動物園に当たる。飼育方法も多摩動物園と同じく、できるだけ檻を用いない自然放牧式を主としている。しかし、マドリッドのカサ・デ・カンポの動物園をすでに見てきているだけに、14ヘクタールの敷地でもこぢんまりと感じられ、柵の代わりに緑のテープを巻いた鉄線2本が飼育施設をぐるっと取り巻いている場所が多いことも含め、物足りなさは否めない。

 だが、パンダやコアラこそいないものの、オカピ、コビトカバが飼育されるなど、ここが世界有数の充実した動物園であることは動かないだろう。北にそびえたつ人工の岩山がここの象徴で、岩肌でカモシカが飼育されている。岩山や島を使った飼育施設が多く、ニホンザルの猿山もある。最寄り駅は地下鉄8番線のポルト・ドレで、森の芝生に水着で横になって日光浴している人たちを見やりながら、ドーメニル湖沿いに歩いて、シャラントン門に向かった。しかし、この門は水曜、週末、休日、無料入館日の午後だけらしく、開いていない。今日は週末なのにといぶかしく思いながら、300メートルほど壁沿いに歩いてサン・モーリス門から入場。園内で近くを通った時に見たら、1時半過ぎにようやく開ける準備をしていた。もっとポルト・ドレ駅に近いパリ門もあるし、1番線終点のシャトー・ド・ヴァンセンヌ駅に近いサン・マンデ門というのもある。

 二日続きの動物園散策でさすがに足が疲れ、途中園内のビストロで休憩。サラダ・コアラ(といってもユーカリの葉だけではなく、ベジタリアン向けの野菜サラダなのだが)を食べた。
9月13日(金)
 ここまでいろいろな国の動物園をまわってきたが、パリの動物園はまだだったので、今日明日と行ってみることにした。幸い快晴にも恵まれた。午後からパリ第7大学のすぐ隣りの植物園(Jardin des Plantes)内にある動物園(Menagerie〔最初のeにアクセント記号〕)へ。創設はフランス革命直後の1794年。世界最初の探偵小説「モルグ街の殺人」のオランウータンが売られていったのが、ここである。明治期の翻訳では「植物園(Jardin des Plantes)」は「動物園」と意訳されているが、森鴎外だけはドイツ語訳の原文通りに、「猩々は後に水夫の手に戻つて、水夫はそれをジヤルダン・デ・プラントヘ高い値段に売つた」と訳した(「病院横町の殺人犯」、『諸国物語』所収、初出「新小説」大正2年6月)。その意味については、勤務先の紀要(「工学院大学共通課程研究論叢」)に書いた文章で簡単に触れたことがある。

 かつてはここにもいたキリンもゾウも、現在は飼われていない。ライオンやサイやカバ、チンパンジーやゴリラも飼育されておらず、主のいないゲージも目立つ気がする。だが、オランウータンは今もいて、園内で生まれた子供を連れた姿がここの目玉となっている。ガイドの表紙も記念メダルの図柄もオランウータンだ。マイクロ動物園(Microzoo)という、地中のクモやムカデ、ダニなどが不気味にうごめく姿を拡大して見ることのできるコーナーもある。平日の午後のせいか、家族連れは見かけず、のんびりと散歩している感じの人が多い。

 植物園内には他に進化大陳列館、鉱物陳列館、古生物学館があって、これら全てで国立自然史博物館を構成しているのだが、今日は他までまわれなかった。帰りはモスクの横道からムフタール通りへと出て、通りを北上。マロニエの木が4本中央に植わったコントルスカルプ広場のすぐ近くの、ヘミングウェイがパリで最初に住んだアパートと、仕事場に利用していたホテルにあたる建物とを眺めてきた。後者はヴェルレーヌの死んだホテルとしても有名で、現在下はメゾン・ド・ヴェルレーヌというレストランになっている。メニューの値段は安かったが、開店まで時間がまだだいぶあったので、今日は入らずに帰ってきた。
9月12日(木)
  もしきみが幸運にも
  青年時代にパリに住んだとすれば
  きみが残りの人生をどこで過ごそうとも
  パリはきみについてまわる
  なぜならパリは
  移動祝祭日だからだ

 あまりに有名になりすぎてしまったヘミングウェイ『移動祝祭日』劈頭の一節だが(引用は福田陸太郎訳)、それでも自分には胸にぐっとくるものがある。かつてパリに一ヶ月ほど滞在した時には、寸暇を惜しむかのように映画ばかり観てきた。その前にいたロンドンでも、会員制のナショナル・フィルム・センターに連日通い、さらには郊外の名画座まで未見の作品を観に足を伸ばした。当時の日本もまたそうだったのだが、たいていはがらんとした観客席でスクリーンに眼を注ぎ続けた。けれども、パリはそうではなかった。映画館の前にはよく列ができていて、並んでいるだけでも胸がわくわくする思いだった。賄いつきのペンションにいたので食事の心配こそなかったが、お金もなく観光客らしいことは何もしなかった。それでも毎日が楽しかった。フランス語ができないにもかかわらず、在外研究先に迷わずパリを選んだのは、その頃の記憶が大きく働いていたからに他ならない。

 などと、昨日に続けて日記らしからぬ昔話を書いたのは、なんだか茫然としてしまって、何にも手につかないままに一日が過ぎてしまうからである。今日も夕食を食べに出た以外は、ずっと部屋にいて本ばかり読んでいた。


 競馬専門チャンネルのEquidia で、凱旋門賞に出走するマンハッタンカフェが、僚馬イーグルカフェと共にフランスの厩舎に入る様子を流していた。マンハッタンカフェは昨年の菊花賞、有馬記念、今春の天皇賞と長距離GIを3連勝中。菊花賞、有馬記念では2着に人気薄の馬が絡んで大変な馬連配当となったため、展開に恵まれただけではないかとフロック視する声もあったのだが、この春の天皇賞で昨年のダービー、ジャパンカップ馬ジャングルポケットを倒し、晴れて現役最強馬の称号を手にしての凱旋門賞挑戦となる。小島太調教師にとっては、挑戦直前にリタイアを余儀なくされたサクラローレルの雪辱戦でもあろう。

 『移動祝祭日』の「偽りの春」「内職を止める」の章は、まだ貧しかったヘミングウェイが妻のハドリーと夢中になって通った競馬の回想である。「最も不実で、最も美人で、最も刺激的で、邪悪で、しかも利益を与えてくれることもあるから、ものねだりする友人」が競馬だったと彼は書いている。やがて利益を得るには余りに時間がとられすぎるからと、ヘミングウェイはこの「内職」を止める。それでも競馬から完全に心が離れてしまった訳ではなかったことは、1953年のたった3日だけのパリ滞在中に訪れた場所の一つが、オートゥーユの競馬場であったことからも明らかだろう。

 今年の凱旋門賞は10月6日。その日は朝からロンシャン競馬場に行くつもりだ。
9月11日(水)
 工学院大学では「芸術学入門」「芸術学各論」という名称で、事実上「映画史」に相当する講義を担当してきた。そもそものきっかけは、教員応募の際の面接で、当時人文セクションのまとめ役であった鶴岡賀雄先生(現東京大学文学部教授、宗教学)から、履歴書の趣味の欄に「映画鑑賞」と記したことに関連して、最近のお勧め映画を問われたことにあった。「自分が主に観るのは1950年代までのクラシック映画で年間500本は下らないが、こと最近の映画のことはわからない。」というのが、その時の自分の回答で、いま思えば冷や汗ものなのだが、世の中は何が幸に転じるか分からない。それならばということで、「芸術学」の講義で「映画」を教えることになったのだ。実際、ちょうど教養科目のカリキュラム変更がなされた後で、「芸術学」というのは誰が担当することになっても支障が生じないようにと、フレキシブルに付けておいた科目名称であったそうだ。

 さらに工学院大学では「日本の伝統芸能」という科目を、先任者である宗像和重先生(現早稲田大学政経学部教授、日本近代文学)の後を引き継ぐ形で担当してきた。といっても、こちらは能や歌舞伎にそう精通している訳ではないから、それらを原作とする映画との比較が授業の一つの大きな柱となる。子供の頃から本好きだった自分はそれゆえに文学部の大学院に進み、研究者を生業として志したのだが、大学院の3年目くらいから憑かれるように映画を見始め、映画についての文章を書いて生計を立てようとまでは思わなかったにせよ、こうして映画を生活の糧にするところまで来てしまった。ところが、そうなると共に観る映画の本数は激減し始め、ついに昨年はスクリーンで観た本数は一桁まで落ち込んでしまった。

 パリを在外研究先に選んだ動機の一つには、このシネフィルのための街に身を置くことで、映画を観る感覚を取り戻したかったことがある。実際、ここまで映画を観なくなってしまうと、職業倫理的にもまずいのではという思いもないではない。しかしその一方で、もし一本でも映画を観てしまうとそのままズルズルと他のことは何もできなくなってしまいそうで、ここまであえて敬遠してきたのだ。

 だが、もうそろそろいいのではないかと思い、発売日である水曜日の今日、十数年ぶりに情報誌「pariscope」を買って手にとってみた。予期に反して、頁をめくっていっても、心はそう浮き立たない。これほどまでに自分の心は映画から離れてしまっていたのかと、愕然としない訳でもない。けれども、そう焦ることもないのだろう。少しずつ少しずつ、また映画に近づいていけばいいのだから。
9月10日(火)

 田中一郎『秘密諜報員サマセット・モーム』(河出書房新社)を読んでいる。モームがイギリス情報局の諜報員として第1次大戦中スイスを中心にスパイ活動に従事したことはよく知られているが、著者はモームの諜報員としての活動がその後も継続し、「ABCD対日包囲網構想」などとも深い関わりがあったとの推理を、豊富な現地調査を交えながら展開している。と同時に、モームのもう一つの「秘密」が話の軸となる。1877年のJ・A・シモンズの大学教授職剥奪、1895年のオスカー・ワイルドへの有罪判決と日増しに同性愛者への弾圧が強化されるイギリスから逃れてきたと思われる26歳の唯美的な青年ブルックスによって、ドイツのハイデルベルグ遊学中の17歳のモームは初めて同性愛を体験。以後生涯にわたって、作家という職業を同性愛者であることの隠れ蓑とし、また諜報員であることの隠れ蓑ともしてきたというのだ。

 英文学の専門家から見た時、その根拠がどれだけ説得的であるのかまでは判断できないが、下手な評伝よりはずっと面白い。と同時に、思わぬところで自分の関心とかぶる記述が現れ、わくわくしてしまう。例えば、上智大学・聖心女子大学などの建築を手がけた在日チェコ人の建築家ヤン・レツルをやはり諜報員だったのではないかと推測し、1918年のチェコスロバキア共和国独立に関わるモームとの因縁が語られている。カレル・チャペックの国、チェコスロバキアと日本との関わりは、いま最も心惹かれる関心事の一つだからだ。

 午後エスパス・ジャパンに赴き、ずっと借りっぱなしだった本を返却。代わりにサマセット・モーム、瀧口直太郎訳『秘密諜報部員』(創元推理文庫)などを借りてくる。セシル坂井さんから借りた中には含まれてなかった津島佑子の本も、『葎の母』『夜の光に追われて』と2冊。だがまだ、読んでおきたい本が全部揃った訳ではない。津島佑子の文庫本には在庫切れのものも多いようだが、ともかく入手可能なものを日本から取り寄せなければ。

9月9日(月)
 この夏休みは三年分くらいまとめて遊んでしまった気がする。当然出費も少なくはなかった。北欧ではホテルやレストランなどかなりの金額をクレジットカードで支払ったので、もしかしたらその引き落としで銀行口座の残金が一時的にマイナスになるかも知れないと伝えたら、多少まとまった金額を口座に振り込んでおいたという電話が今日あった。有り難いことだが、また両親に借りが増えてしまった。

 夏休みには複数の知り合いとヨーロッパで会うこともできたし、夏まではその打ち合わせで頻繁にメールのやりとりもあって、ずいぶんと気も紛れた。しかし、この先は知り合いが来る予定も特になく、メールの本数もぐっと少なくなることだろう。日本にホームシックを感じることはないが、人恋しさだけはつのってしまうかも知れない。

 だが、これからが本当の意味での在外研究生活なのだという思いもある。短期間だが過去にもフランスに滞在した経験があったので、夏までのあれこれはある程度想像もついたし、いろいろ大変なことはあったにせよ、自分の予想が大きく覆えることはなかった。これから先は、言わば未踏の領域に入る。フランスの冬は長く寒いとも聞く。そうしたなかでの「孤独」な時間をどれだけ自分の糧にできるだろうか。パリは再び初冬の感じへと戻りつつあるようだ。地下鉄の車中で、コートを着たりマフラーを巻いたりしている人も見かけた。

9月8日(日)

 今村楯夫『ヘミングウェイのパリ・ガイド』(小学館)を読んだ。「大人のための旅行ガイド・シリーズ」と銘打たれたショトル・トラベル中の1冊。書斎代わりに利用していたモンパルナスのクロズリー・デ・リラというカフェや、パリで初めて泊まったアングルテールというホテルなどが写真入りで紹介されている。ヘミングウェイにゆかりのあるパリのホテルとしては、他にリッツとクリヨン。言わずと知れた超高級ホテルだ。1944年8月25日、連合軍に先駆け従軍記者としてパリに一番乗りしたヘミングウェイが「解放」したと伝説的に語られているのが、ホテル・リッツ。『日はまた昇る』に出てくるのが、ホテル・クリヨン。

 その二つのホテルに、散歩がてらに寄ってみた。入口のドアをくぐってフロントの前くらいまでならば、別に宿泊客でなくても素知らぬ顔で入っていける。しかし、リッツはさすがにガードが固く、ほとんど中へと足を踏み込ませてもらえなかった。ここには、ヘミングウェイ・バーと名付けられた小さなバーがある。カンボン通り側の専用入口からなら宿泊客でなくても入れるらしいので、今度はバーの開いている時間に行ってみようと思う。ついでながら、パリに到着してまもないヘミングウェイが新妻のハドリーと食事をし、予想外の高い勘定に持ち合わせが足りず妻を残してホテルへお金を取りに戻ったという、オペラ座のすぐ横のカフェ・ド・ラ・ぺは、現在改装工事中だ。

 『ヘミングウェイのパリ・ガイド』の頁をめくっていると、横光利一の『旅愁』で描かれた場所を中心に、1920ー30年代のパリを訪れた日本文学者や画家たちの足跡を尋ねた、写真入りの瀟洒な本を自分でも造りたくなってくる。パリにいて改めて思うのだが、〈観光小説〉としての『旅愁』の耐久度はかなり高い。年配の方の中には、若い日に『旅愁』を愛読しパリへの憧れをかきたてられた人もかなりいるはずだと思うのだが、こういう企画は駄目だろうか。

9月7日(土)
  昨日パリに帰ると、郵便受けに横光利一文学会の「会報」第2号が届いていた。横光利一文学会は今年の3月30日に創立大会を行ったばかりの発足間もない小学会だが、準備委員の一人として創設に関わった経緯もあり、多少とも思い入れがある。といっても、2年以上も前に、土浦短期大学の玉村周さんから準備委員に加わるよう言われた段階では、とても自分がその任に適しているとは思えず、入会自体にさえ気乗りがしなかった。大学院の修士論文の対象が横光利一だったとはいえ、その後横光研究から興味が離れ、何の業績も積んでは来なかったからである。しかし、逡巡の果てに引き受けさせられてしまった以上は、あり得べき学会のかたちを模索しつつ、他の準備委員と共に、微力ながらも会の立ち上げまで力を注いできたつもりだ。

 「会報」最終頁の会員名簿の人数は99人。なんとか会員数が3桁に上がりそうなところまで来たのを見て、正直ほっとしている。巻頭言で会の代表の保昌正夫氏が言うように、会員が多ければよいというものではないのは確かだが、実際に裏方として運営実務のあれこれを試算してみると、会費納入がどの程度見込めるかで会の実質的な活動のかなりの部分が決まってしまうのだ。今は異国にいて何の助力も出来ない身でこう言うのも憚られるが、ともかくも会を立ち上げた以上は、一日も早く機関誌を、それも付け焼き刃なものでなく内容的に充実したものを刊行してほしい。それが会費を快く納めてくれた会員への義務だと思うし、パリにいて次は機関誌創刊号を手にできることを切望している。

 それから、できるだけ若い研究者が参加しやすい会であり続けてほしい。それも次代の横光研究を担う人たちだけでなく、横光を直接の研究対象としていなくても周辺作家や主題的に隣接する研究を志している人に一人でも多く入会してほしい。そんな思いもあって、横光利一文学会の会費は一般5000円、学生2000円に設定され、しかも学生の範疇を留学生やいわゆるオーバードクターの研究生なども含めたフレキシブルなものにしている。実際に会の発足以前から、所属する学校の異なる幾人もの大学院生たちが手弁当で参加協力してくれた。おそらく熱意ある若手研究者を何人も有していることが、これからの横光利一文学会の大きな財産の一つとなってゆくだろう。

 「会報」第2号には、創立大会にお招きしたご子息の横光佑典氏の講演の印象記や「横光利一ゆかりの地ネットワーク」として鶴岡、伊賀、宇佐、京都における研究活動の報告が掲載されている。それから、9月14日に日本近代文学会東海支部と共催で行われる第3回研究集会の案内が同封されていた。シンポジウムのテーマは「戦争とナショナリズム」。9・11からちょうど1年が過ぎるこの時期に、こうしたテーマで議論が闘われることには大きな意義があろう。さらに翌9月15日には横光ゆかりの地を尋ね歩く上野・柘植の文学散歩があるそうだ。最後に宣伝にもならないが、第3回研究集会のプログラムだけでも掲げておこう。



横光利一文学会 第3回研究集会
日本近代文学会東海支部共催
日時
 2002年9月14日(土)
場所
中京大学(名古屋キャンパス)大会議室
名古屋市営地下鉄鶴舞線八事〔やごと〕駅下車

研究発表
渡欧後の横光利一・その一側面ー『シルクハット』をめぐって 
宮口典之
シンポジウム「戦争とナショナリズムー横光利一を視座としてー」
いかがわしい『旅愁』の〈日本〉・再考 
田口律男
『旅愁』と〈近代の超克〉ー〈近代〉超克の〈原理〉ー  
木村友彦

第二次大戦前後における〈回教〉をめぐる言説ー横光文学の余白にー  

柳瀬善治
〈ディスカサント〉沖野厚太郎・黒田大河
〈司会〉石田仁志

9月6日(金)

 今日、パリに戻ってきた。世界最速を誇るフランス国鉄のTGVは、ニースとパリの間を5時間半ほどで駆け抜ける。ニース・ヴィレ駅13時45分発、パリ・リヨン駅19時21分着。長時間の旅だからと1等を予約。座席はゆったりしているが、車内販売も含め特に何のサービスもない(到着駅のタクシーの予約を車掌が取ってはいたが)。コートダジュールは昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていて、少し恨めしい気持ちでモナコを後にしたのだが、パリも予想外に温かかった。

9月5日(木)
 モナコは朝から薄曇り、昼過ぎからポツポツと雨が降り出し、夕方には雷鳴のとどろく土砂降りとなった。ホテルで遅めに朝食を取った後、まずはモナコ日本庭園を抜けて、国立人形博物館へ。機械仕掛けで動く自動人形のコレクションには、1890年代のパリで作られた「Bebe Phonographe」(Bebeのeには共にアクセント記号)などが含まれていて、ぐっと興味をひかれる。1870年代の着物姿の日本人女性を象った自動人形もある。そして、植民地主義的な眼差しによってエキゾチックな衣装と皮膚の色とを人形がまとうようになっていったその時代に、楽器を演奏したり煙草を吸ったりするサルの自動人形が作られる。展示されていたのは、1860年代のバイオリンを演奏するサル(ヴィシー作)や1910年代の煙草を吸うサル(デュシャン作)など数点。ヨーロッパに来て「人形」にはまった、などと言うと笑われそうだが、考えてみればこの数年の自分の関心は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』やカレル・チャペックの『ロボット(R.U.R.)』など、自動人形の主題系ばかりを経巡っていたかも知れないのだ。

 カジノ広場まで戻ってバスに乗り、モナコ・ヴィレへ。そこから歩いて大公宮殿へ。日本語のオーディオガイドがあり、その説明もわかりやすい。共通券を買ったので、宮殿横の歴史博物館でナポレオンに関するコレクションも見る。さらにグレース大公妃の墓所が中にあるモナコ大聖堂を見た後、矢印表示に従って、歩いて熱帯公園(ジャルダン・エキゾティック)へ行こうとする。しかし、とても遠く遠く、だんだんと雨が強くなるモナコの街を傘を差して淡々と歩くはめに。途中長い階段を2度も昇り、最後はエレベータで上へ上がったところが入場口だった。

 雨の熱帯公園はさすがに人も少なく、サボテンたちも心なしか寒そうにしている気がしてならない。しかし、ここから一望できる港や旧市街の景観は一見に値するだろう。熱帯植物の繁茂した崖を縫った、迷路のような小道を降りてゆくと、サボテンが高く高く空に向けてのびる様がいきなり視界に広がったりする。その下方に青い海が広がっているのだ。園内にある先史人類学博物館を覗いた後、やはり園内にある鍾乳洞の見学者入場口へ。大体1時間おきに組まれた見学ガイドの最終回、18時10分の回を待つ。時間が来ても他に誰も来ない。懐中電灯で足下を照らしながら洞内を誘導する係員の男性の後について、たった一人鍾乳洞の闇に包まれた神秘的な世界をまわる。約300段の石段を下りて40メートル下へ。そこにホールのような空間が広がっている。様々な表情を見せる鍾乳石を次々見ていると、まるで別の惑星の地表にでも降り立ったかのような気持ちになる。ここは先史人類が死者の骨を放った穴でもあり、入口近くにはその発掘跡もあった。

 南仏最後の晩だからと、夕食は少し贅沢してホテル内の一ツ星レストラン、ル・ヴィスタマールで。日替わりのディナー・コース55ユーロ。おいしかった。
9月4日(水)

 モナコ公国。南仏の旅も最後くらいは贅沢をしようと思い、ここだけは事前に4ツ星ホテルに予約を入れておいた。モンテカルロのカジノも所有するS.B.M.の4ツ星ホテルは4つ。このうち、最も豪華なホテル・ド・パリはさすがに気後れがし、全室海が見えるモンテカルロ・ビーチホテルは市街から離れているのでパス、一番リーズナブルな高層ビルのミラボーはビジネス客向けとあって、せっかくのモナコなのだからもう少しホテルらしいホテル(?)に泊まりたいと思い、結局ホテル・エルミタージュに2泊することにした。連泊なのは、2泊以上でないと旅行社を通じての予約ができなかったためだ。

 部屋の小さなバルコニーからホテルの庭を見ると、日本人カップルが結婚写真を撮ってもらっている。ホテル・エルミタージュは柔らかく女性的な魅力があるホテルとガイドにあったりするのだが、ああやっぱりこういう場所なんだなあ、と改めて納得。ニースで目覚めた時には雨が降っていたが、ここモナコも今日は薄曇りで少し肌寒い。ジャケットを着て、街を見てまわる。

 モナコの街は海岸通りから見ると、すぐ近くの山肌に何軒ものホテルが背比べをするように林立していて、まるで熱海あたりを連想させる。坂が多く、自動車やバイクがひっきりなしに動いている。坂の上り降りがわからないため、平面的な地図だとどう行ったらいいのか少し迷う。モナコ港沿いの道を通ってアルマ広場へと向かい、まずフォンヴィエンユ・ショッピング・センターへ。その上の階の、レニエ3世のプライベートコレクションが見られる切手とコインの博物館、レニエ大公クラシックカー・コレクション、船の博物館(世界中の船の模型の展示)を順次みてまわる。同じ階に動物園の入口。このとても小さな動物園は、大公宮殿のある山の岩肌を縫うようにして飼育施設が置かれている。カバやラクダ、そして白いトラくらいしか大型獣は飼育されておらず、ゆっくりまわっても30分くらいしかかからない。
 さらに岬の先端の岸壁に建つ海洋博物館&水族館へ。海洋学者でもあったアルベール1世によって1910年に造られたもの。入口の下の階が水族館。フランス語だけでなく、イタリア語、英語、ドイツ語が併記された、写真や図入りの詳しい説明パネルが水槽毎に付いている。網羅的に世界各地の魚を集めるのではなく、それぞれの特徴的な生態に注意を向けさせようという意図がよくわかる。ここには淡水の魚貝類もいなければ、両生類爬虫類も飼われていない。海洋博物館とセットであるにふさわしいアクアリウムだ。

 一方、入口の左右の階段を上った上の階のアルベール1世室には、クジラの骨格標本などが展示されている。入口を入ってすぐ右手が映像フロア、またその階では日本の魚拓の特別展示をやっていた。

 夕食後、カジノを覗きに行く。すでにハイシーズンを過ぎてしまったせいか、それとも9時では時間が早すぎるのか、思いのほか閑散としていた。ガイドにはジャケット、ネクタイ着用と書いてあったが、シャツ1枚のラフな格好の人も多い(ただし、最奥の部屋だけはノーネクタイでは入れない)。ヨーロッパ社交界の優雅な雰囲気を味わうといった感じではない。ただ、パリのオペラ座を造ったシャルル・ガルニエによるこのカジノにしてもそうなのだが、モナコには何とも言えない独特の優美さがある。夜のイルミネーションも人工の光が燦々と輝くといった感じではなく、穏やかで気持ちがやすらぐ。

 最後に、部屋に戻ってからテレビの衛星放送で、朝のNHKニュースを見た。日本語音声のテレビを見るのはずいぶんと久しぶりで、日本を離れてから初めてのことだ。巨人と西武にマジックが出ていることも知らなかった。なんだかここが日本のどこかのようで、極上のリゾート地にいながらそう思えるのが不思議な感覚だった。

9月3日(火)
 いまだから言える話ではあるが、在外研究の許可を勤務先の教室会議で取っ段階から、夏にはフランス南部に行こうと心密かに決めていた。せっかくの機会だから、フランス人と同じリゾート気分を少しでも味わってみたかったからだが、それ以上に、近代社会における「リゾート」の誕生に対する歴史的な興味があったからである。すでにアラン・コルバン『海辺の誕生』(藤原書店)や山田登世子『リゾート世紀末』(筑摩書房)などの仕事があるが、“忙しい”近代社会が一方では日常的時間感覚から逸脱した“まだるい”時間を必要としたことの意味の大きさは、夏の避暑地や海浜を舞台とした幾つもの小説や映画を思い浮かべるだけでもすぐに了解できるだろう。さすがにハイシーズンの8月ではホテルをとるだけでも大変だと思い、時期を後ろにずらしたのだが、まだまだ海辺には夏の光が溢れている。

 とはいえ、浜辺で日光浴をする趣味はないので、今日はニースからバスに乗ってサン・ポールとヴァンスへ行くことにした。サン・ポールはコートダジュールの「鷲の巣村」、つまり山頂に作られた城壁のある村の一つだが、日本ではここの教会で中村江里子が結婚式を挙げたことくらいしか知られていないかも知れない。サン・ポールは何よりもイヴ・モンタンが深く愛した町で、城壁の入口を抜けてすぐのツーリスト・インフォメーションの上の階が、ここを訪れた映画人たちの写真を並べた無料の小博物館となっている。シャガールの墓が村の南側の墓地にあり、また、村の北西にはマーグ財団美術館がある。ただ、インフォメーションでもらった小冊子の地図では矢印でただ800メートルと書いてあるだけなのだが、実際村から歩いてゆくとなると、かなり急な車道の坂道を登ってゆくことになり、大変だった。現在はヘンリー・ムーアの企画展。数は多くないが、現代美術の逸品が館内と庭とに常設展示されている。

 ニースからサン・ポールまではカーニュ(画家のルノワールゆかりの地)経由のバスで55分。ヴァンスまではそこからさらに5分。しかし、たった5分かと歩いていこうとしたら1時間でも着かないかも知れない距離と坂の上下とがある。ヴァンスはよくぞ山頂にこんな町をと一瞬思ってしまったほど、予想外に大きい町で、中世の町並が残る旧市街の塔の近くの広場にバスは到着する。その広場からミニトレインに乗って、ロザリオ礼拝堂へ行く。最晩年のマチスが最後になした作品がこの礼拝堂だった。そのきっかけはなかなかに感動的だとも思うので、知らない人は『地球の歩き方 南仏プロヴァンスとコート・ダジュール&モナコ』のコラムなどでも紹介されているので、読んでみてほしい。
9月2日(月)

 カンヌからニースへ。各駅停車の車両はとても高級リゾート地を結ぶ列車のものとは思えないくらいに古めかしい。実はニースには嫌な思い出がある。十数年前、ユーレイルパスを手にヨーロッパをまわっていた時、イタリアから鉄道でニースに入って後はここで1泊してパリに帰るだけだと思っていたその日に、盗難にあったのだ。コインロッカーに荷物を預けようと思い、その前で持ち歩くものだけを選び出そうとしようとしていた時、通りかかりの女性から時間を聞かれ、一瞬目を離したそのすきに、パスポートとトラベラーズチェックを入れた小さな袋を誰かに持ち去られてしまったのである。目の前が急に真っ暗になるような思いがし、それでも気を落ち着けて警察署へ向かった。ニースの警察では外国人観光客用に英語で書かれたチェックシートのような届出用紙が用意してあり、それに犯人の特徴などを記入し、盗難届受理証明書を発行してもらった。とてもニースの街を見てまわろうなどという気分にはなれず、幸いユーレイルパスは盗られなかったので、予定を変更してマルセイユに向かい、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂だけ見た後、夜行の寝台に乗ってパリに戻った。

 翌日、日本大使館で帰国のための渡航書申請、アメリカン・エクスプレスでトラベラーズチェックの再発行申請。ところが、大使館では日本行きの航空券を持参しないと渡航書の発行は出来ないと言われ、一方アメリカン・エクスプレスではパスポートのような身分証明がないと再発行はすぐ出来ないと言われてしまう。つまり、どちらか一方が完了しないことにはどちらも出来ないというダブル・バインド状態にはまりこんでしまったのだ。幸いアメリカン・エクスプレスの日本人コンサルタント(?)の女性がとても懇切に対応して下さって、なんとか特例的にトラベラーズチェックを再発行してもらい、一番安いアエロフロートの成田行き片道航空券を購入、大使館でも今度はすみやかに渡航書を作ってくれ、何とか予定の期日に日本に帰ることが出来た。その時お世話になった女性に帰国後礼状を送ろうと思ったのだが、名前を書いた紙が出て来ない。結局、無事帰国出来た旨の報告もできなかった…。

 昔話はさておき、カンヌやサン・ラファエルと比べ、ニースはリゾート地というには大きくなりすぎた印象で、特にメインストリートのジャン・メドサン通りを歩いていると、パリとさして変わらぬ都会の喧噪さを感じる。ここ数日見かけなかった日本人観光客も多い。駅前近くのホテルにチェックインした後、まずシミエ地区の入口にあるマルク・シャガール美術館へ。ちょうど日本人ガイドツアーと、それも複数と出くわし、日本語が響く空間でシャガールの『聖書』を描いた作品を眺める。次にシミエ大通りの坂道を20分ほど歩いて、マチス美術館へ。そこからバスで街中へ戻って、ニース近代・現代美術館へ。しかし、月曜休館。『地球の歩き方 南仏プロヴァンスとコート・ダジュール&モナコ』2001〜2002年版では火曜休館となっていたため、今日中に三館まわらなければとかなり急いだのだが。美術館前のカフェから、外に置かれた作品だけを眺める。

 夕食は旧市街で手頃なレストランを探すが、どこも観光客目当てになりすぎていてあまり食指が動かない。結局、安かろうまずかろうといった感じのドーブ・ド・ブッフ(牛肉の赤ワイン蒸し煮)のスパゲッティを食べた後、ソッカ(ひよこ豆の薄焼きせんべい?)を囓りながらホテルに戻った。

9月1日(日)
 今日から月が変わる。そのことに朝ようやく気づいた。旅行をしていると曜日の感覚がなくなりがちなのだが、暦の上ではもう秋なのかと、コートダジュールのまぶしい日差しを見上げながら、不思議な気持ちに囚われる。

 サン・ラファエルからカンヌまでの海岸線コルニッシュ・ド・レステイルは、別名コルニッシュ・ドール(黄金の断崖)とも呼ばれる景勝の地。最初は海岸線を走るバスでカンヌへ向かうつもりだったのだが、日曜日のため途中のトライヤでカンヌ行きに接続するバスの本数が少なく、うまく予定と合わない。しかたなく列車で行くことにするが、昨日に続けて切符をすぐ購入できず、わずかな時間差で1本乗り逃す。それでも、サン・ラファエルーカンヌ間は急行でわずか20分ほどだから、お昼過ぎにはカンヌに到着できた。

 フランスではたとえ観光地であっても、日曜はほとんどの店が閉まってしまう。ブッティクが何軒も並ぶアンティーブ通りは閑散としているし、海岸沿いの高級ホテルが並ぶクロワゼット大通りの西寄りの高級ブランド店街も外観だけ見ているとむなしい気分さえ感じさせる。それでもビーチに人は多い。

 カンヌ映画祭の会場となるパレ・デ・フェスティヴァル・エ・デ・コングレの赤い絨毯のひかれた階段を見やり、まわりの石畳に嵌め込まれた監督やスターの手形をしばらく眺めた後、市庁舎の裏手から旧市街へ。サン・アントニー通りという小さな坂道からしばらく道なりに登ってゆくと、カストル博物館に着く。観光地らしいとしか言いようのないような、小さな博物館。もちろん日本の温泉地によくある宝物殿的なものとは全然違うのだが、太平洋・アジア・アステカ・アフリカのあれこれやオリエンタリズムの絵画、古代の楽器などが展示されていて、どうして?という思いは禁じ得ない。建物の中庭にカストルの塔。上に登るとカンヌの町が一望できる。すぐ隣りがノートルダム・デスペランス教会。祭壇上のステンドグラスが美しく、ここからのカンヌの眺望もいい。パレ・デ・フェスティヴァル・エ・デ・コングレの近くからミニトレインも出ていて、教会前で7分間見学時間がある。

 サン・アントニー通りは別名ビストロ通りとでも名付けたくなるような小道で、坂の両側に何軒もレストランが軒を連ねている。海岸近くのいかにも観光客向けといったレストランと違い、庶民的で値段も安い。日曜日だからとお休みの店もほとんどない。夜9時ともなるとどこの店もテラス席を中心にほぼ満席状態で、食を楽しむ人々の熱気と哄笑にあふれている。坂の一番上の方のレストランで14・80ユーロのメニューを食べたのだが、最初に選んだ前菜の地中海風サラダだけでもう元が十分とれた気分になれた。メインはRouget(魚の一種)、Agneau(仔羊)などから選べ、もちろんデザートも付く。手元のガイドブックにはこの魅力的な食の坂道に関する記載などない。日本人観光客がカンヌに求める高級感とはあわないからかも知れないが、実のところ旧市街のカンヌはずいぶんと気さくで親しみやすい町のように思う。

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